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第1章 廃ビルの向こうは異世界でした
11 拾われた猫みたいに
しおりを挟む俺は……誰かと風呂に入った記憶が無い。
四歳くらいまで、祖母が時々世話をしていたと近所の人から聞いたことがあるけれど、俺自身はおぼろげにしか覚えていない。その祖母は、俺が小学生になる前に亡くなった。
だから生活習慣をふくめて、風呂自体、正しい入り方というのは教えてもらったわけじゃない。人がやっているのを見て覚えたとか、あとはテレビや動画――捨て猫を拾って洗っているシーンを見て知った……というレベル。
そう……今の俺って、まさに拾われた猫みたいなものだ。
まぁ、「洗う」というだけなら、茶わん洗いや洗濯と大差ないよね。
シャンプーは頭につけて石鹸で身体をこすればいい。後はお湯や水で流す。はい、終わり。でもそれって……日本の風呂場での入り方。
このどうやってお湯を入れるのかもよく分からない、洗い場も無い風呂となると、ただの「洗う」の難易度が急に高くなる。
泡は飛ばさないように。いや、そもそも湯船に浸かったまま洗っていいの?
それじゃ一人ずつ湯を取り換えるとか? うわぁ……お湯がもったいない。って……そういう問題じゃない……か?
更にもうひとつ、困ったことがあった。
「うん、ちょうどいいね」
お湯に手を入れて温度を確かめたヴァンさんが、俺の方に振り向く。
俺は……服を、脱ぐのをためらい、シャツのボタンに指をかけたまま固まっていた。
「リク?」
「あ……は、はい……」
ゆっくりとボタンを外す。
たぶん、倒れている間に、見られたりもしているはずで。しかも同性だから、今更気にする必要なんかないと分かっているはずなんだけれど。裸を見られるのが、すごく恥ずかしい。
自分が、痩せぎみで生白い肌の貧相な子供、というのは、頭で分かっている。でもこうして、情けない姿を直視するのは辛い。
俺が気にしすぎるだけで、ヴァンさんは何も思わないだろうけど。
「うまくボタンが外せない?」
シャツの袖を肘までまくり上げたヴァンさんが、手を貸してくれる。
最初、ヴァンさんも裸になって一緒に入るのかと焦ったが、俺の様子を察してか「大丈夫だよ」と頭を撫でられた。なんか変に誤解されていなければいいんだけど。
「着ていた服は、洗濯に出しておくからね」
「あ……そのくらい、俺が……」
「家のことは、この世界に慣れてから少しずつでいい」
「は……い……」
素直に頷いて……というか、恥ずかしさで頭がいっぱいになって、反論も何もできない。バスタブにどうぞ、というヴァンさんの合図に合わせて、俺はゆっくりと足を上げ、中に入った。
温かい湯が胸の高さまである。半身浴ぐらいの感覚だ。
無意識に胸を抱えるようにちぢこまり、体育座りをする。その背の方のバスタブの縁に座ったヴァンさんは、手桶で俺の首とか肩にやさしくお湯をかけていった。
「熱くない?」
「あ、たたかい……です」
「思った以上に冷えていたね。ちゃんと温めないと風邪をひく」
髪を濡らしてから、体温を確かめるように、大きな手が肩に置かれる。
大人の、男の人の手だ。
たったそれだけで心臓が跳ね、その後で、じわぁ……とあたたかくなる。そっと触れるだけの優しい指が背中を洗い流して、ほぅ……っと息をつく。
「リクの世界では、お湯に浸かる習慣は無かったのかな?」
「……あります。というか……俺の国の人たちは風呂とか好きで、そっちの文化は他の国より発展していたというか……」
温泉地で見る大浴場。ヒノキ風呂や露天風呂でくつろぐ姿。
俺にとってテレビの向こうは、届くことのない異世界だった。
「ただ……こことは風呂の造りが少し違うので、その作法とか……分からなく、て……」
しどろもどろになりながら答えると、笑い声が返ってきた。
驚いて振り向き仰ぐ。ヴァンさんは、手が届く場所の台に置いてあった小瓶をいくつか取ってから、手のひらにジェル状の物を出していた。
シャンプー……かな?
「僕しかいないんだ。作法など気にしなくてもいいのに」
「いや、でも……汚したり、間違った使い方して壊したりしたら……」
「だったら洗えばいいし直せばいい。うん……そうだね、ひとつ注意するとしたら」
「したら?」
「走り回って転ばないように。怪我をする」
にこっ、と笑って言う。
こんな場所で走らないよ! という言葉が喉まで出かかったけれど、気恥ずかしさが上に来て声にならなかった。
ヴァンさんの、ジェルをつけた指が俺の髪の中に入ってきて、ゆっくり、優しく地肌を撫でていく。
強すぎず、早すぎず、ゆっくり頭全体をマッサージするみたいに、指の腹で撫でられていく感覚が、みょうにくすぐったい。
というか、気持ちいい。
耳の後ろとか、頭の後ろや首筋とか。丹念に、丁寧に撫でる、大きく無骨そうに見える指がすごく繊細な動きをしていて、不思議な感じだ。
「気持ちいいかい?」
「うん……」
それに、すごく、いい匂いがする……。
あったかいお湯に浸かりながら……魔法石を使った時とは違う感覚で、身体の強張りがとけていく。ヴァンさんになら、全部まかせておけばいい……という感覚。
きもちいい……。
「少し後ろによりかかってごらん」
いつの間にか斜め前の方に移動してきたヴァンさんが、前の方から抱えるようにして俺の肩を支えた。そのまま、のけ反るような体勢で、泡の立った髪を洗い流していく。
うっとりとした心地で見上げると、ヴァンさんも瞳を細めて俺を見下ろしていた。
「リクの髪は……ほんとうにきれいだね」
「そう、かな……」
手入れなんてまともにしていない。ごわごわで、ぱさぱさで、とても艶があるようには思えない。
「瞳と同じ、とても綺麗な黒髪だよ。香油をつければもっと輝く」
「そういうの……つけたこと……ないな」
「そうか……じゃあ一つずつ、いろいろ、試してみようね」
何だか楽しそうだ。
ヴァンさんが楽しそうだと、嬉しいな。
うん、嬉しい。
こんな気持ちは初めてだ。
ふわふわした気持ちになる。
今までできるだけ他人とは距離を取って、迷惑にならないように、目をつけられて余計なトラブルにならないようにと警戒しながら生きてきた。だから……こんなふうに、簡単に自分の近くまで許してしまっているのが、すごく不思議で、同時に怖い。
ヴァンさんが怖いんじゃなくて、自分が。
思いがけないことをやってしまいそうで、自制が利かない。
そう……思うのに、気持ちいい。
嬉しい。
ヴァンさんの微笑む姿を見ると、くすぐったい気持ちになる。
この感覚は……何だろう……。
夢みたいな心地は。
髪を流すと、今度は「身体を洗おうね」と言って、ヴァンさんは次の小瓶を手に取った。
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