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第1章 廃ビルの向こうは異世界でした
33 すべてを引き換えにしてでも
しおりを挟むだめだ……。
……俺は。
元の世界には行けない。戻れない。
この人のそばを離れられない。
離れたく……ない。
「リク……」
震える手で背中を押してくれている。なのに、俺の足は動かない。
俺の身体と心――魂の全てが嫌だと言っている。この人と離れたくないと。離れ離れになるのが嫌だといっている。
視界が歪む。
目の奥が熱くなって、想いが溢れて、頬を伝う。
「リク」
「嫌だ」
「リク?」
振り返り見上げた。
昇り始めた朝日が、崩れた地下道の天井から射し込んでいく。
その光を背に、強張った顔のヴァンさんが……ヴァンが、俺を見下ろしている。
「嫌だ……」
「……リク」
「ヴァンのそばを離れるのは、嫌だ」
「もう、時間がない……」
涙が伝い落ちる。
視界が歪む。
「嫌だ。あの世界には、帰りたくない……」
首を横に振って、ヴァンを見上げる。
「帰りたくない」
「リク……」
「ヴァンの、そばにいたい」
ヴァンが俺の頭を撫でる。髪を梳く。
それはダメだよとでも言うように、息をついて見せる。
「このチャンスを逃したら、もう二度と元の世界には戻れない」
「戻れなくてもいい」
「今日まで生きてきた世界を、捨てることになるんだよ」
「それでもいい!」
叫んで、ヴァンの腕を掴んだ。
「捨てていい!」
「リク」
「捨てても、いい……」
「簡単に生まれた世界を捨ててはいけない」
奥歯を噛みしめる。
溢れる想いは洪水のように止めることができない。悲鳴のような声で、繰り返す。
「簡単じゃない……ヴァンのそばに、いたいんだ」
「リク……」
「俺の全てを捨ててもいいから」
冷たい人も酷い人も優しい人もいた。
その全て、今日まで生きてきた世界の全てを捨ててしまってもかまわない。
「俺のすべてを引き換えにしてでも……ヴァンのそばに、いたい」
息が苦しい。喉が痛い。涙で視界がきかない。
目の前にヴァンはいるはずだ。
どんな顔で俺を見下ろしているのか分からない。
ダメだと言われる恐怖で、身体が粉々になりそうだ。
……でも、どうしても言わずにはいられない。
「そばに、いさせて……」
腕を伸ばして、胸にしがみ付く。
「お願い……お願いだから……ヴァンのそばに、いさせて……」
大きくて、厚い背中に腕を回して力いっぱい抱きしめる。
声を上げて泣く。小さな子供みたいに。
「ヴァンの……そばに、いたいよぉ……」
「リク……」
「他には、何も要らない……だから、お願いだから……」
「……リク……」
ヴァンの腕が、俺の背中にまわる。そのまま強く、強く、抱きしめた。
声も……震えている。
「うん、リク……」
「……おねがいだから……」
耳元で声を絞り出す。
きつく俺を抱きしめたまま、ヴァンは囁いた。
「もう……離さない……」
この人が好きだ。
好きなんだ。
俺の全てを引き換えにしてもいいほど、大好きなんだ。
ヴァンのために何ができるかとか、迷惑をかけるとか、自分の価値だとか……そんなものは全部どうでもよくて、ただ、好きだという気持ちが溢れてくる。
ヴァンの熱を感じられる場所で、生きていたい。
「……リク、顔を上げて」
「ヴァン……」
涙でぐしゃぐしゃの顔を上げる。
優しい顔が、見下ろしている。
そして背中に回していた俺の手を取ると、そのまま、目の前で片膝をついた。ヴァンが俺を見上げるかたちになる。
朝日が昇り、崩れた地下道に光の筋が浮かび上がっていく。
俺の両手を両手で取り、真っ直ぐに見つめる。
静かで、厳かな声が響く。
「私、アーヴァイン・ヘンリー・ホールは、生涯をかけてリクを守ると、誓う」
とても綺麗な、緑の瞳が見つめている。
ことばの意味を追って、俺は、呆然とヴァンを見下ろす。今のは……。
ヴァンが静かに笑った。
「受けると、言ってくれないか」
俺が全てを引き換えにしていいと言ったように、ヴァンも、全てを引き換えにしようとしている。それだけは、わかった。
「……受ける。受けるよ、ヴァン……」
ヴァンが微笑む。
「この胸の魔法石はあなたのものだ」
そう言って瞼を閉じ、俺の両手に口づけをした。
この世界の作法は分からない。儀式も知らない。でも、今のはとても大切で、簡単に口にでるような言葉では無いのだということは、分かった。
ヴァンが俺の気持ちに応えてくれたということも。
「ヴァン……」
また涙が溢れてくる。涙腺が壊れてしまったみたいに、次から次へと、涙はあふれてくる。
立ち上がったヴァンが俺をやさしく抱きしめた。
「俺に出来ることなら何でもする。どんな人間にでもなってみせるから。だからお願い、そばにいさせて……そばに、いて」
「リクは、リクのままでいていいんだよ」
見上げると、指先で涙を拭う。
髪を梳いて額に口付ける。
「……今のリクも、これから変っていくだろうリクも、どちらも私の大切な人だから。生涯をかけて、守るよ」
「うん……」
ヴァンの胸に顔をうずめる。
「嬉しい、よぉ……」
「ふふっ……」
笑い声が降って、もう震えていない、温かな手のひらが俺の背中を押す。
けれどそれは元の世界の方じゃない。地下道の出口、俺たちの家の方だ。
ふと、異世界と繋がっていた場所を振り返り見た。そこにはわずかなゆらめきが残っていたが、やがて射し込む日の光の中で陽炎のように消えていった。
「さようなら……」
呟いて、ヴァンに寄り添う。
歩き始める。
俺の肩を抱くヴァンが、前を向きながら呟いた。
「お願いがひとつある。いいかな?」
「えっ? なに? 俺に出来ることなら何でも言って!」
「僕のことは、このまま、ヴァン、と呼んでほしい」
「えっ?」
一瞬何を言われたのか分からなくて、俺は、俺が繰り返し口にしていた言葉を思い起こしてみた。
「あ、あぁっ、ごめん! 俺、ヴァンさんのこと呼び捨てにしていた!」
「ヴァン……だよ」
「うっ……」
顔が熱くなる。
改めて言われると、なんか、すごく恥ずかしい。
いや、でも今更だ。夢中になって、もっと恥ずかしいことを俺は言いまくっていた……。
「……う、うん、わかった。……ヴァン……」
あぁあ……ど、どうしよう。改めて意識すると恥ずかしい。恥ずかしいよぉお……。
「ふふっ、真っ赤になって、リクは可愛いね」
「カワイイ言うな。俺は男だぞ!」
「それでも可愛いものは仕方がない」
「だからぁ!」
言い返す。地下道の出口近くまで来た時、ちょうど馬に乗って到着したジャスパーさんとゲイブさんが声を上げて駆け寄って来た。ナイスタイミングだ。
「リク! 間に合わなかったのか⁉」
慌てた顔で俺を見て、それからヴァンを見て、次の言葉を出せないでいる。だから俺は「違うよ」と明るい声で答えた。
「間に合ったけど俺が選んだんだ。この世界で緒にいるって。それでヴァンは……」
「誓いをたてた」
「は、あぁあ⁉」
ジャスパーさんの口が大きく開く。
すぐ横で、ゲイブさんがニヤニヤ笑っている。
「ほら、こうなるって言ったでしょう?」
「あぁあああ‼」
頭を抱えた。
さっきのあれは、やっぱり、なんか、とんでもなくとんでもないことだったんじゃないだろうか。だ……大丈夫なの?
心配になってヴァンを見上げると、清々しいほどの笑顔でいる。
……当の本人が笑っているのなら、まぁ、いいか。
ジャスパーさんが頭を抱えながら、投げやりな声で呟いた。
「あぁぁ……もう、知らないぞ。お前ら好きにしろ!」
「もとより、そのつもりだよ」
そう言って、朝日の眩しい街を行く。
俺たちの後に続くジャスパーさんとゲイブさんは、馬の手綱を引きつつ笑っている。
「寂しがりやで怖がりで、そのくせ甘え方を知らなくて、純粋で……負けず嫌いで」
「似た者同士かよ」
「全くよね」
遠くから、この街に暮らす人たちの、美味しい朝の匂いが流れてきた。
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