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第2章 届かない背中と指の距離
42 胸騒ぎ
しおりを挟むマークと食べた鶏の包みパンは、なんだか久々の食事っていう感じで、とても美味しかった。肉の味や、一緒に挟んだ野菜のうま味とか……。
同時に、ここ最近食べた物の味を思い出せないことに気が付いた。そんなこと、今まで無かったのにな。
差し入れを持って来てくれたジャスパーの奥方、シャーロットさんは俺のことが気になっていたみたいで、ヴァンが戻るまでの間、お屋敷に泊まってはどうかと声をかけてくれた。娘のシェリーもきっと喜ぶと。
けれど、俺は……ヴァンと約束している。
夜はあの家にちゃんと帰って来るように、と。
ヴァンがそう言ったのなら、そうした方がいい理由があるのだと思う。それにジャスパーの屋敷では、ヴァンの匂いを感じられない。おかしな話だと思うけど、ヴァンが暮らしていた空間にいることだけが、今の俺の気持ちの拠りどころのようになっていた。
「それじゃあ、また明後日、よろしくね」
夕方、ザックとマークの二人に見送られて、俺は店の入り口で声をかけた。
明日の練習は休み。かわりに家政婦のローサさんが来る日だから、久々にしっかり掃除とかしようかな。
そう思いながらドアを開けた背中で、マークが遠慮がちに声をかけた。
「リク様」
「ん……なに?」
「その、明日はお迎え……ではないけど、俺たち顔を出しましょうか?」
妙にかしこまって言う。
意図がよくわからなくて首を傾げると、マークはしどろもどろになりながら続けた。
「いや、だからその、一人で家にいるのヒマだろうなー……とか」
「俺たちで手伝えることありませんか?」
兄のザックが助け舟を出した。
「掃除でも洗濯でも、家の修繕でもいいし……自主練の相手とか。一人でいたら時間を持て余す思うんです。俺たちにできることはありませんか?」
「ザック……マークも……」
本当は行き帰りの護衛としての役目でしかない筈なのに、俺のためにいろいろ時間を割いてくれている。その心遣いが嬉しい。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。掃除は通いの家政婦さんが全部やってくれるんだ。俺の出る幕も無いぐらい。それより俺にずっと付き合っていたら、二人の訓練が滞ってしまうだろ?」
「それは……」
「だから気にしなくて大丈夫だよ」
笑顔をつくって返す。
彼等には彼等のやらなきゃいけないことがあるはずだ。それをこれ以上、邪魔してしまってはいけない。
「何か手伝って欲しいことがあったら、その時は声をかけるよ」
「そう……ですか……」
ザックが答え、マークはうつむいた。
「今日も、ありがとうね」
俺の言葉で兄弟は頷いて、一礼してから来た道を戻っていく。俺は二人の背中が見えなくなるまで見送り、家に入るとドアを閉めた。
一階の店の品々は、今日も棚の上で息をひそめている。
魔法石たちも、ずっとヴァンの帰りを待っているんじゃないかな……という気がしている。
ヴァンに愛でられ、手入れをされて、人々の役に立つ時を待つ。こんなに長い時間、主の帰りがないなんて、寂しくてしかたがないんじゃないかな……と。
「そんなふうに思ってるの、俺だけ、かもしれない……けど」
二階のキッチンに貰って来た鶏の包みパンを置く。
今夜の食事にしたらいいよ、と渡してもらったものだ。けれど、食欲は無い。昼間は美味しく食べられたのにな。やっぱり明日、二人に遊びに来てもらえばよかっただろうか……。
「いや、そんなワガママ、だめだろ……」
乾いた笑いで、一人呟く。
そのまま明かりもつけないキッチンで、棚を背にずるずると座り込んで膝を抱えた。
「ヴァン……」
痛いほどに強く、自分で自分の腕を掴む。
ちゃんと、ヴァンは帰ってくる。
そう自分に何度言い聞かせても、溢れてくる涙を止めることができない。
俺は、おかしくなってしまったんじゃないだろうか。こんなにもたくさん見守られて、気遣ってくれる人がいるのに……。
「う……うぅ、ヴァン……ん……」
会いたい。
何度、会いたいと呟いたか分からない。
暗い部屋の中で一人、永遠に続くような夜を過ごす。気が、狂ってしまうんじゃないかという気がして、怖い……。
「……ヴァン……た、すけて……」
たくさん泣いたら、気を失うように眠ることができるだろうか。
魔法のように、俺の声が届いたりしないだろうか。突然、帰った来たり――。
ふと、胸騒ぎがして顔を上げた。
何だろうとあたりを見渡しても、誰もいない。
ウィセルも姿を見せないでいる家の中は、しん、と静まり返っている。でもなぜか、ひどく、胸がどきどきしている。
と、その時かすかに馬の嘶きが聞こえた。
「まさか……」
跳ねるように立ち上がって、リビングの方の窓に駆け寄る。
この家は大通りから脇道に入った細い道の途中で、道の先が大きな通りに繋がっているわけじゃない。馬や馬車が入れないほど狭い道ではなくても、この辺りの家に用が無い限り、馬は入ってきたりはしない。
窓から身を乗り出すようにして大通りの方を見ると、丁度屋根付き二頭立ての馬車が、角を曲がって入ってきた所だった。
まさか、まさかと思いながらも、俺は階段を駆け下りる。
店に明かりをつけて、ドアを開ける。
馬車は――ゆっくりと店の前に止まったところだった。
「ヴァン!」
御者が下りて馬車のドアを開けた。
先に下りたのはジャスパーだった。続いて、ジャスパーの手を借りて下りたのは――。
「リク」
「ヴァァン!!」
馬車を下りると同時に飛びついた。
しがみつくように、抱きつく。胸に顔をうずめる。
何が起こったのか分からない。
分からないけれど、ヴァンだ。本物だ。この匂いに間違いない。奇跡だ。魔法みたいだ。
ヴァンが帰って来た!
「リク……ただいま」
ヴァンがやさしく耳元で囁き、俺の頭を撫でて髪を梳く。
胸が、嬉しさで張り裂けそうになる。
目尻に涙が浮かんでいく。
それを、親指の腹でぬぐうヴァン。
俺は見下ろす人に顔を向けて、声を上げた。
「どうしたの? どうして!? まだずっと先だったよね⁉」
「リクに……会いたくて、急いで帰って来たんだ」
「無理を押してな」
ため息をつきつつ、横に立つジャスパーが続けた。
御者は一礼をして空の馬車に戻る。俺は言われた言葉を飲み込んでから、目の前の人を見上げた。
ヴァンの微笑みは変わらない。
けど……その顔は青くやつれていた。
「ヴァ、ン……」
「説明するから、ひとまず家に入ろう。リク、ベッドの用意をしてくれ」
ジャスパーが落ち着いた声で言った。
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