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第3章 成人の儀
105 探り
しおりを挟む「二年……いえ、二年半ぶりですね。覚えていますか?」
忘れもしない。
この世界に迷い込んでいろいろあった俺は、迂闊なことに誘拐された。子供でも信じないような嘘にあっさり騙された。聖獣の手を借りて最悪の事態になる前に逃げ出すことはできたけれど、火傷や魔法酔いで身体はボロボロの上に、ヴァンに嫌われたと思いつめた。
そんな時、俺を引き取るために現れたのが、魔法院の、このストルアン・バリー・ダウセットという人だ。
細面の三十代半ばぐらいの神経質そうな人は、ヴァンと名を並べるこの国の三大魔法使いの一人なのだという。青白い肌と、灰色に近いブラウンの髪。どこか濁った色に見える、昏い緑の瞳。
骨ばった指はピンセットみたいに、せわしなく胸元を動いている。
俺のことを「異世界から来た貴重な標本」と言った人。
思わず、肩に力が入る。
「覚えています」
「そう、あなたは見違えましたね。あのみすぼらしかった子供と同一人物だとは、思えないほどに」
瞳は冷ややかなまま、唇の端だけ上げて笑う。
俺のことを嫌っているのか見下げているのか、それともこれがこの人の普段の顔つきなのか分からない。
そのどれだろうと構わない。俺は気を引き締めて真っ直ぐに向き合った。
「確かにあの頃の俺は貧弱な子供でした。それをアーヴァイン様がここまで磨きあげて下さったのです」
いつものヴァンではなく、あえてアーヴァインの名で言う。
ストルアンは、ふ……と瞳を細めた。
「彼は、原石を磨く才能にも恵まれていた事実は認めてあげましょう。そういうことは気の長い人間にしかできないことですから」
褒めているのか侮蔑しているのか、分からないような言い方をする。
そんな俺の戸惑いが顔に出たのか「評価しているのですよ」と、付け加えられた。
「そのような者のそばにいて息苦しくなったりはしませんかね」
「どういう意味ですか?」
「彼は才がある分、人にも厳しいと聞いていますからね。そこまで魔法のコントロールを会得するには、なかなか大変でしたでしょう」
俺のことを労っているのだろうか。
それとも、俺程度の者がヴァンのそばにいることに対して、分不相応だとでも言いたいのだろうか。身分、という意味では確かにその通りだけれど……。
「厳しくしてほしいと言ったのは俺です」
魅了の力で不用意に人を傷つけることの無いようにと、徹底的にコントロールを教えて欲しいと俺が願ったし、ヴァンもその為にあらゆることを教えてくれた。時には倒れるんじゃないか、というぐらいキツイこともあったけれど、だからこそ今俺はここに立つことができている。
「なるほど、なかなか芯はあったということですね」
眉を上げる。唇を笑みの形にする。
讃嘆しているのだろうけれど、何故か心の奥底では別のことを考えているように見えて仕方がない。緊張で、喉が渇いてくる。
「まぁ……いいでしょう。近々またお会いできるでしょうから、次の機会にゆっくりお話でもしたいものですね」
そう言って、そばに控えていた従者に合図する。
恭しく頭を下げた従者は、小さなトレイにのせた飲み物を差し出した。
「これだけの来賓者を相手にしながら、飲み物一つ口にできないとはお辛いでしょう。夜は長いのですから、ゆっくりされるのがいいですよ」
そう言うストルアンの横から、ずい、と目の前に出される。
嫌とも言えず思わず受け取ったグラスの飲み物は琥珀色で、甘い匂いがした。
「マージナル王国から取り寄せた美酒です。お口に合うと思いますよ」
促される。
とたんに喉の渇きが耐えられなくなって、俺はグラスに口を――つける直前で横から手が伸びた。
護衛のザックがグラスをそっと取り上げる。ストルアンの瞳が細められた。
「リク様はお酒を嗜まれません」
「横から手を出すとは失礼な従者ですね。成人の儀を経た者が、美酒の一つも口にできないのですか?」
「ダウセット卿、リクは異世界人だから我々とは体質も違う。無理強いは控えて頂こうかな」
ザックに続いて、様子を眺めていたクリフォードまでもが優雅に微笑みながら言った。
さすがにヴァンの甥っ子でもある貴族に口を挟まれてはストルアンも強く言えないのか、「さようでございますね」と引き下がった。
「では次は、酒ではないお飲み物をご用意しましょう」
そう言って軽く頭を下げると、従者を引き連れて来賓者の波に消えていった。
一体、今のは何だったのだろう。
というか……毎日のように酒を飲むわけじゃないが、まったく飲めないというわけでもない。匂いを嗅いだかぎり強いアルコールの感じはなかったのに。
「ザック、俺、少しぐらいなら平気だよ」
「リク様。このような場所では、アーヴァイン様から直接手渡された物以外、口をつけないでください」
「そうだね」
クリフォードまでもが頷く。
「え……っと?」
「護衛君、そのグラスを貰えるかな」
ザックがクリフォードにグラスを渡す。
軽く匂いを嗅いだクリフォードは「うん」と頷くと、軽く指を鳴らして中身を消してしまった。魔法で蒸発させた、と言った方がいいのだろうか。使用人が空のグラスを片づける。
「護衛君は魔法も使えるのかい?」
「いいえ、俺に魔力は無いので魔法は使えません」
「ではなぜ気づいた?」
「あの者の態度と、勘です」
「ふぅん」
二人にしか分からない会話に、俺とマークは顔を見合わせた。一歩離れた場所で、ゲイブはニヤニヤしながら見守っている。
「今のは一体……」
「ちょっと悪戯されたみたいだね。たいした毒じゃない、軽く痺れる程度の」
「ど……」
「それとも護衛たちの能力でも探ったかな? よくあることだよ。気にしないで」
クリフォードはそう言って、爽やかに笑った。
◇◇◇
なるほど……と、こみ上げてくる嗤いを堪えきれず、唇の端を上げながら会場を後にする。従者のようについて回るエイムズ卿が、「ダウセット卿」と私の名を呼んだ。
「いかがでございましたでしょうか、あのリクという者は」
「面白く育ちましたね」
その都度、あのアーヴァインが異世界の少年に手を掛けている情報は入っていた。だが正直、あそこまで見事に磨き上げているとは思わなかった。その点に関する賛辞に嘘偽りはない。
犬のようにへりくだる男が、私の顔を見上げた。
「では……」
「ええ、手土産には申し分ありません」
足を止め、馬車の前で輝く宮殿を振り返る。
「アーヴァイン・ヘンリー・ホール……魔力と魔法技術は国随一でありながら、やはり経験浅い若造ですね。完璧なように見える守りにも穴はありました。準備さえ整えば、あの子を奪うのは実に容易い」
更に篭絡させたうえで調教を施せば、極上の素材となるでしょう。
淫らに喘ぐあの黒髪の青年の痴態を想像するだけで、久しく忘れていた劣情が鎌首をもたげる思いがする。
本当に……愉快でたまらない。
「人が大切に育てあげたものを横から頂くほど、愉しいものはありませんからね」
本当に奪われたくなければ、意思を奪い閉じ込めておけばいいものを。それをわざわざ人前に晒すなど、アーヴァインという男の愚かさがたまらなく愉快でならない。
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