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第5章 この腕に帰るまで
番外編 異世界・母、川端里奈
しおりを挟むその日、警察からの連絡に何が起こったのか理解できなかった。
崩壊した廃墟のビルから、あなたの息子、川端里来が所持していた鞄が見つかったと。
遺体は発見されていない。
ここ一週間ほど学校にも登校していないが、自宅にいるのかと。
学校からは何度も電話は入っていたけれど、ずっと無視していた。
何を話せばいいか分からないし、里来は賢いからあたしがいなくても何でも出来る。バカな親が横から口なんか出さない方がいい。先生や、ちゃんとした大人があの子にはいるから、別にあたしなんか要らない。
そう思っていたから、行方が分からなくなっていたなんて知らなかった。
里来の父親は、わりと有名な企業の御曹司だった。
そうと知って知り合ったわけじゃない。
中学の頃から不仲な両親のいる家にいるのが嫌で、男の家を渡り歩いていた。ある日喧嘩したか捨てられて追い出されたか……そのあたりのことは忘れてしまったけど、行き場が無くて、深夜の繁華街の道端でうずくまっていたところに声を掛けられた。
大学生だったその人は、夜空みたいにきれいな瞳と黒髪で、育ちのよさそうな美人だった。
男に美人なんて変な気がするけれど、イケメン、っていうより、美人の言葉が似合うような人。だからうっかり気を許してしまった。
家はどこかとか、こんな所にいては危ないとか。
薄汚い娘によく声をかけたものだと感心しながら、適当に言葉を合わせた。まともな大人なら警察に知らせる。身体狙いならきっと、ご飯と眠る場所をくれる。
こいつはどっちだろう……なんて思いながら。
家には帰れない。今夜泊まる場所も無い。
警察では散々嫌な思いをしているから通報するなら逃げるよ。
そんなことを話した気がする。誰にも言えなかったような、心の中で溜めていた物がするすると出て来て、気が付けばお兄さんは自分の家にもホテルにも連れ込まずに、朝まで付き添っていた。
バカなの? って感じ。
いや、バカなのはあたしかな。
それから何度となく顔を合わせることがあって、やがて彼が一人暮らしをしていた部屋にも招かれるようになり、気が付けば本気の恋になっていた。
相手はしっかりした家柄のご子息。
こっちは社会の最底辺のバカ娘。本気になろうがどうしようが、結ばれる未来なんかない。
それでも優しくされたのが嬉しくて。
この人のためならちゃんとした人間になろうかな……なんて思い始めていた矢先に妊娠した。お兄さんは「両親を説得するから一緒になろう」と言ってくれたけれど、それが彼を見た最後になった。
分かったいた。
どこの誰とも知らない女の子供なんか、認められるわけが無い。
分かっていながら、彼の両親の代理人という人がとんでもない話を持ちかけて来た時に動揺した。
「生まれた子が男子なら、養子として引き取る。女子なら、それ相応の養育費を一括で渡すので、二度と連絡はしないように」
認知、じゃないんだ。
既に堕せる時期を過ぎていて、産むしかない状態だった。
病院も用意されて独りきりで呆然と暮らす中、子は……あっという間に生まれてしまった。親になる実感も何も持てないでいる間に。
ただ生まれた子が男の子だったと知った時、あぁ……この子も私の所から居なくなるんだ……なんて思った。
思って嘘をついた。
子供は女の子だったと。
そんなの、調べればすぐに分かることだ。
今まであたしを放っていたのに、孫ができたとたんに世話を焼き始めた母親が、勝手に出生届けを出してしまったのだから。性別を偽ることなく。
だから里来と名付けられた子供を奪いに来るだろうと思っていた。
もしかしたら、その時に父親となった彼に会えるかもしれないと、バカなあたしは思っていた。結果は、代理人から小切手を渡されて終わった。
本当に、生まれた子か欲しかったわけじゃなかったんだ。
里来には、「一夜かぎりの、顔も名前も知らない男との間に生まれた子だ」と言った。
好きになって去っていたいった男に、そっくりに育っていく子。
甲斐甲斐しく孫の世話をする母親にも腹が立った。あたしのことは散々放っていたのに、なんで里来の世話はするの? バカなあたしは赤ん坊の息子にすら嫉妬した。
可愛いなんて思えなかった。
捨てちゃおう、誰かにあげてしまおう。
何度もそう思ったのに、できなかった。
理由は分からない。
ただ小さな手をのばして「おかあさん」と夜空みたいな瞳で言われると、胸の奥が重く、気持ち悪くなった。
どう扱っていいのか分からない。
どうせいつかこの子もあたしを捨てていくのだろうから、下手に関わらない方がいい。
そんなふうに毎日が過ぎていった里来が小学生になる前に、あたしの母親が亡くなった。二年ほど前から体調を崩して、孫の世話もできなくなっていたのだと後で知った。
気が付けば里来は自分で何でもできる子になっていた。
賢くて。優しくて。
あたしは何もしないのに、喉が渇いたと言えば水を運んで来た。新しい男に殴られて帰れば、たどたどしい手で手当てもした。
それでもあたしは優しい言葉のひとつもかけなかった。
子供が子供を産んだのだと自覚している。
好きになっても、いつかはあたしを置いて行く。
どこかにきっと消えてしまう。
だったらさっさと愛想をつかして出ていけばいい。
あたしが親のところから逃げ出したように。
そんなふうに自分の心を偽って、放置して、試していた。
いつだったか、「大人になったらウリをさせる」と言ったこともある。
最低の母親なんだからさっさと逃げなよ。自分を大切にしくれる人のところに行っちゃいな。そんなつもりだったけど、里来は言葉の意味をよく分かっていないようだった。
ただ、いつの頃からかあたしに笑顔を見せなくなった。
冷めた視線で、学校と家を往復する里来。
貰った小切手は、あたしが付き合った何人目かの男に盗まれて無くなっていた。どうにか家賃は払っていても、電気やガスや水道が止められることはしょっちゅうだった。
里来が同年代の子供より痩せて小さいことは知っていた。それでも食事なんかまともに作ったことはないし、今更作った物を食べてくれるとは思えなかった。
生まれて初めて自分から好きになった人の子。
そんな里来を放置して寂しい思いをさせて、あたしは何がしたかったのだろう。
母親が生前に言っていた「里来は、里奈の所に来てくれた子だから」だから里来なのだと言われたけれど、意味は理解できなかった。
ただ漠然と、里来が中学を卒業してもあたしのそばに居たら、あたしは変わろうと思っていた。
親にはなれなくても、バカな姉か同居人としてなら一緒に居られるかもしれない。目玉焼きすら満足に作れないあたしに、「下手くそだなぁ」って笑って言うかもしれない。
そんなあり得ないようなことを思い描くようになった頃、里来は行方不明になった。
学校の友人にも誰にも知らせず。
まるでこの世に、最初から存在していなかったように……。
里来の同級生は、SNSなどを使って必死に探していたらしい。
まともな友人すらいないあたしと違って、里来は友達にも好かれていたんだ。三年生の十一月になって初めて会ったクラス担任は、学力の高い里来に進学するよう熱心に勧めていたことも知った。
何でも一人でやっていた里来の、テストの答案用紙やレポートを初めて見た。
きれいな字は、一度も会ったことの無い彼の父親と、そっくりの筆跡だった。
里来の鞄が発見されたという廃ビルの跡地を訪れた時、曇天の下で、育ちの良さそうな少年が佇んでいた。
クラスメイトだろうか。
そう思っても声はかけられなかった。放置して何もしなかったあたしに、母親だと名乗る資格は無い。少年はあたしを見つけて、苦々しいものでも見るように視線を反らすと立ち去って行った。
里来が消えてはじめて、大切な子だったと気が付いた。
あれだけ酷いことをしたのに、里来は一度もあたしを殴ったり罵ったりしなかった。そして毎日、誰もいないあの部屋に帰ってきていた。
「あたし……バカだ……」
立派な親じゃなくても良かったのに。
ただ、「里奈のところに来てくれてありがとう」と……それだけを言えばよかった。
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