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 ゴブリン。ヨーロッパの民間伝承に頻出する妖精の一種である彼らは、地域によって仔細は異なるものの、邪悪な小人の姿で描かれる共通点がある。現代の創作物では、弱い雑魚モンスターとして、あるいは繁殖力に長けた厄介なモンスターとして語られている。
 目の前のゴブリンはどれほどの強さだろうか。

「それで? 俺をどうやって導いてくれるんだ」
『私が指示しますから、レンマはそのとおりに動いてみてください』
「了解。運動は得意なほうだからバンバン指示してくれ!」

 錬磨は屈伸しながら意気軒昂に答える。

『……わかりました。では、接敵前にゴブリンの基本情報を伝えます』

 ゴブリンはまだ離れた位置にいる。準備運動をしながら、ウリエルの説明に耳を傾けた。

『ゴブリンの身体能力は人間の七歳児ほどです。ゆえに、殴られたところで大したダメージにはならないでしょう。しかし、噛みつかれることだけは避けてください。咬合力だけなら、成人にも匹敵しますから。肉を食われるかもしれませんよ』
「え、こわっ」

 脳裏に過った恐ろしさに身震いする。
 とんだスプラッター映画である。4DXよりもリアルなグロテスク体験など絶対にしたくない。脅かすつもりはないのだろうが、ウリエルの至極真面目な喋り方が真実味を増させる。錬磨は細心の注意を払うことを心に誓う。

 彼我の距離が二十メートルほどとなった瞬間、ゴブリンの動きに変化があった。
 それまでのゆったりとした歩調が急に小走りに変わった。自分は獲物として明確に認識されたのだ、と感じさせる迫力があった。

『──来ますよ。最初は必ず回避に専念してください』

 思考に生まれた空白地帯。しかし、かえって錬磨は敵の動きに集中できた。
 野生の勘と言えばいいのか。不思議なことに、ゴブリンが攻撃を仕掛けてくるタイミングが錬磨にはなんとなく予想できた。

『───けて!』

 ウリエルの声を解するより先に体が動いていた。
 ゴブリンが地を蹴った瞬間、踏み込んだ左足を軸にして体を回転させる。それだけでゴブリンの飛びかかりは失敗に終わる。肩に触れかけたゴブリンの右手は、同じく右手を外に回すようにして払いのけてみせた。

「ギギャッ!?」
「うおっ! あぶねえッ!」

 数舜を経て、ようやく錬磨はゴブリンをいなしたことを理解する。

「え、なにこれウリエルが操作したの?」
『何もしていませんよ。堂に入った動きでしたね』

 錬磨は指でトントンとこめかみをつつく。
 なぜ自分はあんな動きができたのだろうか。格闘技を習った経験もなければ、こんな危機的状況に直面したこともない。
 結局思い出せず、錬磨は疑念を心の片隅に追いやった。

「ま、なんか知らんが上手くいったってことで! 次の指示くれよ!」
『ここからは指示と言うより情報を提供するくらいですが……こほん』

 咳払いをしてウリエルが喉を整える。

『ゴブリンに限らず、ダンジョンに現れるモンスターには共通の弱点があります』
「ここダンジョンなのか!? あ、どうぞ続けて」
『その弱点とは、モンスターの生命維持装置であるコアユニットです。ゴブリンの胸の中央に赤い玉が見えますね? それを破壊すれば、ゴブリンの体は崩壊します』
「めちゃくちゃ物騒じゃん。なによ崩壊って」

 ゴブリンが現れたときのようにポリゴンとなって崩れていくのか。それとも皮膚が剝がれていくとかそういう崩壊なのか。できれば前者であってほしい。刺激が強すぎるとR15指定を食らってしまうので。
 雑多な思考を端に寄せ、錬磨は次の目標を見定める。

「とりあえず、あの赤い丸石をぶっ壊せばいいんだな?」
『そのとおりです』
「つってもなあ……」

 問題はそこに至るまでの筋道だ。
 字面だけ見れば簡単そうだが、ゴブリンだって「はいどうぞ」と無抵抗にやられてくれるわけがないし、拘束具を持ち歩くほどSMに精通していない。
 倒れたままのゴブリンを観察していた錬磨は、あることに気づいて片眉を持ち上げた。

「なあ。アイツ、倒れたままだけど……もしかして、ちゃんと体力みたいなのがあって、ダメージ食らったらその分動きが鈍くなるのか?」
『よく気づかれましたね。おっしゃるとおりですよ』
「やっぱりか。道理で『必ず避けろ』って言うわけだ。飛びかかりさえ避けちまえば、勝手に自滅してくれるんだからな」

 得心がいったが、それでも問題解決に至ったわけではない。
 動きが鈍くなるといっても、こちらから接近しなければならない以上、脅威度は変わらないからだ。飛びかかり失敗直後が一番のろいのだろうが、胸のコアユニットを破壊するにはゴブリンを表にひっくり返さなければならない。

 もしじっとしているのが罠だったら? 
 手を差し出した瞬間、ゴブリンに組みつかれて喉笛を食い破られるかもしれない。正直言って、危険極まりない行為である。

「言ってしまえば、裏返ったセミを自分からつつくようなもの……っ! 悪魔的恐怖……っ! わざわざ危険を冒しにいく馬鹿はいないっ……!」

 そんな例えをしている時点で錬磨はバカである。
 しかし実際、自然界においても待ち伏せをするハンターはいくらでもいる。たとえばホッキョクグマは、狩りの際に氷上でアザラシを待ち続けるし、海洋生物で言えばチョウチンアンコウの疑似餌を使った狩りは有名だろう。

 矮躯とはいえ、ゴブリンは錬磨と違って敵を殺すことに迷いがない。一瞬の隙を衝かれれば、あっけなく死んでしまうのがオチである。
 錬磨の脳裏には二つの選択肢があった。

「復帰狩りじゃっ。ゴブリンが起き上がってきたとこをズドンじゃー!」
『こんなに口調が入り乱れているのに、メンタルサインは正常なのはなぜ……?』
「乱心したわけじゃないやい! 気分で口調を変えんのは日本人の特権なんだい!」

 懐疑的な声を受け、錬磨がやいのやいのと抗議する。
 あらかた抗弁し終えたところで、錬磨は思考を切り替える。これだけふざけている間もゴブリンは寝転がっているのだ。さすがにわかる。

 アレはあからさまな罠だ。
 そもそも、自重だけで起き上がれなくなるほどのダメージを受けるわけがない。ダメージの蓄積による動作の鈍化が事実だとすれば、むしろうつ伏せに倒れているのはゴブリンにとって好都合だ。弱点のコアユニットを守れるうえに、のこのこやってきた獲物に組みつけるチャンスなのだから。

「しっかし、マジで復帰狩りしかないよな。真正面からぶつかるのは組みつかれるリスクが高いし、そんな馬鹿正直な戦法で得するわけもない。起き上がる瞬間を狙ってぶん殴るしかないよなー」

 間延びした声でぼやきつつ、錬磨はまだ口の空いていないコーヒー缶を拾い上げた。
『レンマ?』

 ウリエルをあえて無視し、ようやく立ち上がったゴブリンと相対する。
 馬鹿の一つ覚えとばかりにゴブリンはよたよたと歩き始め、次第にスピードを上げて駆け寄ってくる。その勢いは先ほどと同程度だ。

「……さすがに人語を解してはいないか」

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