72 / 89
ホイップたっぷり、さくら待ちラテはいかがでしょうか。
10
しおりを挟む
三枝のカップの底には、やや形が歪んだリーフのラテアートだけが残っている。砂糖を混ぜると綺麗な模様が壊れてしまうが、何もせず静かに飲めばそのまま残る。
食べ物はどれほど綺麗に作っても、それは一瞬の美だ。
どんなに悲惨なことがあっても、太陽は西から登らないし、雨はいつか上がる。
だからどんな日であっても、今日も昨日と変わらぬ日常に他ならない。
紗川はそう言うが、悲惨なことがあった日は、失われる美を楽しむことはできないだろう。
河西がすっかり目をぬぐい終えた後だった。
「お待たせいたしました」
紗川が帰ってきた。
まずは爾志に声をかけてカップを置いている。
低い位置にあるテーブルブルにカップを置こうとすると、姿勢を低くしなければならない。
スーツを着ていてもしっかりした筋肉がついていることがわかる肩から、サラサラと長い髪が流れた。
「注文を聞いておいて悪いが、全員、ホイップ増加のアイリッシュラテになった」
「おまえ~! 俺がさっき甘いの飲んでたの知ってるだろ」
「知らないな」
「何言ってんだ、作った本人!」
河西の苦情を軽くいなしなす紗川の手によって、各自の前にラテが配られた。紙カップに山盛りのホイップが乗っている。そのうちの一杯だけはホイップが乗っておらず、それは紗川の分のようだった。
「途中まで作っているときにキャンセルされたドリンクがありまして。好みを伺ったのに申し訳ありません」
最初に爾志の前にカップを置きながら紗川がわびた。
「あ、全然大丈夫です! っていうか、こんな高いのもらってしまっていいんでしょうか」
「お気になさらず。先ほど申し上げた通り、本来であれば廃棄されてしまうものですから」
その言葉が気になってカウンター席を見ると、先ほど店長と言われていた女性が申し訳なさそうに頭を下げてきた。
釣られて三枝も頭を下げる。
三枝の仕草から、紗川も気づいたらしい。カウンター席に視線を送って気にするなと合図していた。
(ひょっとすると、先生は向こうからヘルプを受けて席を立ったのかな)
依頼を受けている最中とは言え、ここは紗川のもう一つの職場でもある。オープンしたばかりということは、スタッフも仕事に慣れていない可能性が高い。部下から助けを求められて、紗川が助けに行くのは自然の流れだ。
席を立って行ってみたら、突然のキャンセルにスタッフが慌てていたということなのだろう。
レジではペーパーバックをいくつも抱えた女性が帰ろうとしているところだった。あちらは客側が頭を下げている。
(あの人がたくさん注文して、途中で変更したことを謝ったってところかな)
注文数が多い時は間違いが生じやすいが、用意する方は準備に時間がかかるため、いつもは最後まで確認を取るところを途中の段階で始めてしまう。
三枝製菓でもよくある光景だ。
(まあ、うちの場合は違うのにしたいって言われても、もとにもどせばいいけど。ここはそういうわけにいかないから大変だなあ)
商人の家の長男としては、思うところがある。
三枝は一人頷きながら、席に座る紗川を見て気持ちが軽くなるのを感じていた。
(そうだよな。先生は……やっぱり先生だ)
悲しみにとらわれてはならないと言ったのは、他の誰でもない、紗川だ。
「三枝君、そんなに飲みたかったのか」
「え?」
「すまなかったな。いつもがダブルトールラテだから、先程もそちらにしてしまったんだが……甘いラテがそんなに好きだとは知らなかった。次はそちらにしよう」
「えっ」
甘いドリンクは好きだが、紗川が作った甘くないラテも美味しかった。
安心感のせいで無意識に笑ってしまっていたらしい。それを、誤解されたのだと気づいて三枝は慌てて身を乗り出した。
「違います違います。これはこれで美味しいと思いますけど。さっきのラテはすごかったし美味しかったです。あれよりこっちが好きとか、そういうのじゃないんです」
河西の言葉で落ち込んでしまっていたから、その反動が大きかっただけなのだ。
助けを求めて河西に視線を送る。
河西は心得たとばかりに頷いた。
(あれ……一瞬、すごく苦い顔、していたような……)
気のせいだったかと思っていると、満面の笑みを浮かべた河西が、紗川の肩に手をかけた。
食べ物はどれほど綺麗に作っても、それは一瞬の美だ。
どんなに悲惨なことがあっても、太陽は西から登らないし、雨はいつか上がる。
だからどんな日であっても、今日も昨日と変わらぬ日常に他ならない。
紗川はそう言うが、悲惨なことがあった日は、失われる美を楽しむことはできないだろう。
河西がすっかり目をぬぐい終えた後だった。
「お待たせいたしました」
紗川が帰ってきた。
まずは爾志に声をかけてカップを置いている。
低い位置にあるテーブルブルにカップを置こうとすると、姿勢を低くしなければならない。
スーツを着ていてもしっかりした筋肉がついていることがわかる肩から、サラサラと長い髪が流れた。
「注文を聞いておいて悪いが、全員、ホイップ増加のアイリッシュラテになった」
「おまえ~! 俺がさっき甘いの飲んでたの知ってるだろ」
「知らないな」
「何言ってんだ、作った本人!」
河西の苦情を軽くいなしなす紗川の手によって、各自の前にラテが配られた。紙カップに山盛りのホイップが乗っている。そのうちの一杯だけはホイップが乗っておらず、それは紗川の分のようだった。
「途中まで作っているときにキャンセルされたドリンクがありまして。好みを伺ったのに申し訳ありません」
最初に爾志の前にカップを置きながら紗川がわびた。
「あ、全然大丈夫です! っていうか、こんな高いのもらってしまっていいんでしょうか」
「お気になさらず。先ほど申し上げた通り、本来であれば廃棄されてしまうものですから」
その言葉が気になってカウンター席を見ると、先ほど店長と言われていた女性が申し訳なさそうに頭を下げてきた。
釣られて三枝も頭を下げる。
三枝の仕草から、紗川も気づいたらしい。カウンター席に視線を送って気にするなと合図していた。
(ひょっとすると、先生は向こうからヘルプを受けて席を立ったのかな)
依頼を受けている最中とは言え、ここは紗川のもう一つの職場でもある。オープンしたばかりということは、スタッフも仕事に慣れていない可能性が高い。部下から助けを求められて、紗川が助けに行くのは自然の流れだ。
席を立って行ってみたら、突然のキャンセルにスタッフが慌てていたということなのだろう。
レジではペーパーバックをいくつも抱えた女性が帰ろうとしているところだった。あちらは客側が頭を下げている。
(あの人がたくさん注文して、途中で変更したことを謝ったってところかな)
注文数が多い時は間違いが生じやすいが、用意する方は準備に時間がかかるため、いつもは最後まで確認を取るところを途中の段階で始めてしまう。
三枝製菓でもよくある光景だ。
(まあ、うちの場合は違うのにしたいって言われても、もとにもどせばいいけど。ここはそういうわけにいかないから大変だなあ)
商人の家の長男としては、思うところがある。
三枝は一人頷きながら、席に座る紗川を見て気持ちが軽くなるのを感じていた。
(そうだよな。先生は……やっぱり先生だ)
悲しみにとらわれてはならないと言ったのは、他の誰でもない、紗川だ。
「三枝君、そんなに飲みたかったのか」
「え?」
「すまなかったな。いつもがダブルトールラテだから、先程もそちらにしてしまったんだが……甘いラテがそんなに好きだとは知らなかった。次はそちらにしよう」
「えっ」
甘いドリンクは好きだが、紗川が作った甘くないラテも美味しかった。
安心感のせいで無意識に笑ってしまっていたらしい。それを、誤解されたのだと気づいて三枝は慌てて身を乗り出した。
「違います違います。これはこれで美味しいと思いますけど。さっきのラテはすごかったし美味しかったです。あれよりこっちが好きとか、そういうのじゃないんです」
河西の言葉で落ち込んでしまっていたから、その反動が大きかっただけなのだ。
助けを求めて河西に視線を送る。
河西は心得たとばかりに頷いた。
(あれ……一瞬、すごく苦い顔、していたような……)
気のせいだったかと思っていると、満面の笑みを浮かべた河西が、紗川の肩に手をかけた。
0
あなたにおすすめの小説
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる