89 / 89
キリマンジャロAAキボの香りでおはよう
2.夢からの目覚め
しおりを挟む
「起こそうと思っていたが……疲れているなら、休んでも良かったんだぞ?」
夢を、見ていたらしい。
目の前にいるのは、上司の紗川だ。
嫌味なほどに、ハイブランドのスーツが似合っている。
こちらを見下ろしている紗川がわずかに首をかしげると、長い髪がさらりと肩から落ちた。
適当に手近にあった紐で結うものだから、まとめきっていない髪がひと房、おかしなところに残っていた。
(無造作にしていることがカッコイイのだと言いさえしなければ、かっこいいのに。ほんんと、残念な人だよなあ……)
ぼんやりとそんなことを思っていると、湯気の立つカップが目の前に現れた。
「あ……えっと……だいじょうぶ、です」
カップの中では深い琥珀色のコーヒーが小さく波打っている。
三枝はコーヒーを両手で受け取った。
自分のデスクに目をもどせば、モニター画面は、作業途中のままだった。
スリープになっていないところを見ると、眠ってしまったのは本当に一瞬だったらしい。
「眠そうにしていたから、いれてきたんだが、ない方が良かったか?」
「いえ、ありがとうございます」
夢の中の子供は、明るく、幸せそうに笑っていた。
しかしその夢は、後の悲劇を鮮烈に思い出させる。
男の臭い。
吐瀉物の臭い。
錆びた鉄の臭い。
アンモニアの臭い。
圧倒的な、死の臭い。
「三枝君」
低い声が鼓膜を振動させ、臭いの記憶を払しょくした。
「はい」
「今日のコーヒーはキリマンジャロKIBOだ。ゆっくり香りを楽しんでから飲むといい」
差し出されたカップからは、甘く華やかな香りが漂ってきた。
この香りを、『甘い』と表現すると教えてくれたのは紗川だ。
「淹れたてではないから多少、香りは飛んでしまっているが……」
三枝はゆっくりと首を振った。
いい匂いだと思う。
記憶の中の苦しい臭いを一瞬で拭い去ってくれた。
「先生」
「何だ?」
「他と比べたら確かにキリマンジャロの香りは甘いと思うんですが……なんで甘い香りがするんでしょうか」
「甘さにも種類がある。これは果物の甘さに近い」
言われてからなるほどと思った。
砂糖の甘さではない。
「コーヒー豆と言われるが、もともとはグミのような赤い果実なんだ。多くの動物が好んで食べる。浅煎りのコーヒーの酸味はフルーティと表現されることが多いがそれは当然だ。もともとは果物なんだからな」
なるほど、と思いながらカップに口をつける。
やけどしないように静かにゆっくりと口に含み、舌の上でキリマンジャロの酸味を味わいながら飲み込むと、華やかな香りが鼻から抜けていった。
ふわりと温かさが喉から体内に落ちていく。
眼を閉じると、体にコーヒーがしみわたっていくのが分かった。
「うまいか?」
「……はい」
「そうか」
見上げると、紗川がほほ笑んでいた。
ふと、視界がぼやけているのに気付いた。
(やべぇ……俺、泣いてたのか)
夢を見ていた。
懐かしい夢だった。
あの子はもう、いない。
それがひどく三枝の胸をえぐった。
おそらく、ほんのわずか眠っていた間に寝言か何かを言っていたのだろう。
それでコーヒーを持ってきてくれたに違いない。
紗川は三枝を慰めはしない。
それが嬉しかった。
(たぶん……俺が自分の力でなんとかできるって信じてくれてるんだよな、これは)
泣いていたことにも触れてこない。
この上司は時々、意地悪なほどに優しい。
涙がこぼれてしまった。
「すみません」
せっかく気付かないふりをしてくれていたのに、礼を言ってしまった。
「違うだろう?」
いきなりタオルを頭から被せられた。
あくまでも、こちらが泣いていることには気づかないふりをしようという事らしい。
「コーヒーをいれていただき、ありがとうございました、だ」
「はい」
あくまでも、本質には礼を言わせるつもりもないのだ。
(ほんっと、ヤなやつだよな、先生ってさ)
あの子はもういない。
あの子供は死んでしまった。
自分のせいで。
三枝はゴシゴシと涙をぬぐうと、タオルから顔を出した。
「ありがとうございました」
あの時、声をかけてくれて。
――自殺するなら別の方法にしてくれないか?
最悪だと思った一言が、まさか救いの一言になるとは思ってもみなかった。
だが、あの時のことをきちんと感謝するにはまだ時間がかかりそうだ。
「コーヒー、まだあります?」
「あと一杯くらいならあるぞ」
「じゃ、それもいただきます」
熱いコーヒーを無理やり飲み下す。
舌がやけどしても構わない。
「あと一杯頂いて、残った仕事、終わらせちゃいますね」
空になってもまだ熱いカップを片手に立ち上がる。
時々は、まだ思い出すことがある。
悲しみに囚われていた日々に、また捕まってしまいそうになることがある。
それでももう、大丈夫だ。
三枝はニッと笑って見せると「新しいの、落としておきますね」とキッチンに向かった。
夢を、見ていたらしい。
目の前にいるのは、上司の紗川だ。
嫌味なほどに、ハイブランドのスーツが似合っている。
こちらを見下ろしている紗川がわずかに首をかしげると、長い髪がさらりと肩から落ちた。
適当に手近にあった紐で結うものだから、まとめきっていない髪がひと房、おかしなところに残っていた。
(無造作にしていることがカッコイイのだと言いさえしなければ、かっこいいのに。ほんんと、残念な人だよなあ……)
ぼんやりとそんなことを思っていると、湯気の立つカップが目の前に現れた。
「あ……えっと……だいじょうぶ、です」
カップの中では深い琥珀色のコーヒーが小さく波打っている。
三枝はコーヒーを両手で受け取った。
自分のデスクに目をもどせば、モニター画面は、作業途中のままだった。
スリープになっていないところを見ると、眠ってしまったのは本当に一瞬だったらしい。
「眠そうにしていたから、いれてきたんだが、ない方が良かったか?」
「いえ、ありがとうございます」
夢の中の子供は、明るく、幸せそうに笑っていた。
しかしその夢は、後の悲劇を鮮烈に思い出させる。
男の臭い。
吐瀉物の臭い。
錆びた鉄の臭い。
アンモニアの臭い。
圧倒的な、死の臭い。
「三枝君」
低い声が鼓膜を振動させ、臭いの記憶を払しょくした。
「はい」
「今日のコーヒーはキリマンジャロKIBOだ。ゆっくり香りを楽しんでから飲むといい」
差し出されたカップからは、甘く華やかな香りが漂ってきた。
この香りを、『甘い』と表現すると教えてくれたのは紗川だ。
「淹れたてではないから多少、香りは飛んでしまっているが……」
三枝はゆっくりと首を振った。
いい匂いだと思う。
記憶の中の苦しい臭いを一瞬で拭い去ってくれた。
「先生」
「何だ?」
「他と比べたら確かにキリマンジャロの香りは甘いと思うんですが……なんで甘い香りがするんでしょうか」
「甘さにも種類がある。これは果物の甘さに近い」
言われてからなるほどと思った。
砂糖の甘さではない。
「コーヒー豆と言われるが、もともとはグミのような赤い果実なんだ。多くの動物が好んで食べる。浅煎りのコーヒーの酸味はフルーティと表現されることが多いがそれは当然だ。もともとは果物なんだからな」
なるほど、と思いながらカップに口をつける。
やけどしないように静かにゆっくりと口に含み、舌の上でキリマンジャロの酸味を味わいながら飲み込むと、華やかな香りが鼻から抜けていった。
ふわりと温かさが喉から体内に落ちていく。
眼を閉じると、体にコーヒーがしみわたっていくのが分かった。
「うまいか?」
「……はい」
「そうか」
見上げると、紗川がほほ笑んでいた。
ふと、視界がぼやけているのに気付いた。
(やべぇ……俺、泣いてたのか)
夢を見ていた。
懐かしい夢だった。
あの子はもう、いない。
それがひどく三枝の胸をえぐった。
おそらく、ほんのわずか眠っていた間に寝言か何かを言っていたのだろう。
それでコーヒーを持ってきてくれたに違いない。
紗川は三枝を慰めはしない。
それが嬉しかった。
(たぶん……俺が自分の力でなんとかできるって信じてくれてるんだよな、これは)
泣いていたことにも触れてこない。
この上司は時々、意地悪なほどに優しい。
涙がこぼれてしまった。
「すみません」
せっかく気付かないふりをしてくれていたのに、礼を言ってしまった。
「違うだろう?」
いきなりタオルを頭から被せられた。
あくまでも、こちらが泣いていることには気づかないふりをしようという事らしい。
「コーヒーをいれていただき、ありがとうございました、だ」
「はい」
あくまでも、本質には礼を言わせるつもりもないのだ。
(ほんっと、ヤなやつだよな、先生ってさ)
あの子はもういない。
あの子供は死んでしまった。
自分のせいで。
三枝はゴシゴシと涙をぬぐうと、タオルから顔を出した。
「ありがとうございました」
あの時、声をかけてくれて。
――自殺するなら別の方法にしてくれないか?
最悪だと思った一言が、まさか救いの一言になるとは思ってもみなかった。
だが、あの時のことをきちんと感謝するにはまだ時間がかかりそうだ。
「コーヒー、まだあります?」
「あと一杯くらいならあるぞ」
「じゃ、それもいただきます」
熱いコーヒーを無理やり飲み下す。
舌がやけどしても構わない。
「あと一杯頂いて、残った仕事、終わらせちゃいますね」
空になってもまだ熱いカップを片手に立ち上がる。
時々は、まだ思い出すことがある。
悲しみに囚われていた日々に、また捕まってしまいそうになることがある。
それでももう、大丈夫だ。
三枝はニッと笑って見せると「新しいの、落としておきますね」とキッチンに向かった。
0
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(6件)
あなたにおすすめの小説
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
友よ、お前は何故死んだのか?
河内三比呂
ミステリー
「僕は、近いうちに死ぬかもしれない」
幼い頃からの悪友であり親友である久川洋壱(くがわよういち)から突如告げられた不穏な言葉に、私立探偵を営む進藤識(しんどうしき)は困惑し嫌な予感を覚えつつもつい流してしまう。
だが……しばらく経った頃、仕事終わりの識のもとへ連絡が入る。
それは洋壱の死の報せであった。
朝倉康平(あさくらこうへい)刑事から事情を訊かれた識はそこで洋壱の死が不可解である事、そして自分宛の手紙が発見された事を伝えられる。
悲しみの最中、朝倉から提案をされる。
──それは、捜査協力の要請。
ただの民間人である自分に何ができるのか?悩みながらも承諾した識は、朝倉とともに洋壱の死の真相を探る事になる。
──果たして、洋壱の死の真相とは一体……?
ある辺境伯の後悔
だましだまし
恋愛
妻セディナを愛する辺境伯ルブラン・レイナーラ。
父親似だが目元が妻によく似た長女と
目元は自分譲りだが母親似の長男。
愛する妻と妻の容姿を受け継いだ可愛い子供たちに囲まれ彼は誰よりも幸せだと思っていた。
愛しい妻が次女を産んで亡くなるまでは…。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
退会済ユーザのコメントです
けいたんさん、丁寧に読んでいただいて嬉しいです。
ありがとうございます。
エコカーが出てくる前の時代の車が特に好きなので
ついつい、描写にも力が入ります……
素敵と言っていただけて安心致しました。
これからもお付き合いいだけたら幸いです。
退会済ユーザのコメントです
けいたんさん、
こちらでもご覧いただき、ありがとうございます。
再読していただけて、とても光栄です。
探偵と助手、いいコンビと言っていただけて嬉しいです。
今後ともよろしくお願い致します。
退会済ユーザのコメントです
白鳥武美さん、ご感想をありがとうございます!!
過分なお言葉で恐縮です。
キャラクターと読みやすさはこだわっているので、そこをお褒めいただいてとても嬉しいです。
ミステリとしては
まだまだひねりが足りないところがあるように思っておりますが、
楽しんでいただけて何よりです。
これからも自らに厳しく課題を与え続けて努力して参りますので、
どうぞよろしくお願い致します。