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救急外来の日常5

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 救急外来は当センターの時間外の外来だが、その奥にある救命センターは違う。
 受付が同じ救急外来受付だから紛らわしいが、うちの場合、救命センターは救急車の受け入れを行い、自力でやってきた患者の受け入れはしない。
 これは、組織を分けることで、救急車で運ばれてきた重症重篤患者の対応を迅速に行うためだ。もちろん救命の医師がすべての症状に対応できるわけではない。実際、救命センター長の絹井先生は脳神経外科のドクターだ。
 救命センターの医師は運ばれてきた患者の容体から最も適した処置ができる医師がだれかを判断して、外来に応援を依頼したり、または外来での受診に回す。
 だから、救命センターが混み合えば、外来もストップする。
 私たちがパスタを食べていた時はまだ落ち着いていた。
 忙しくなるのはこれからだ。
 外来にいる患者の負担が大きくなる。
 私は医師でも看護師でも、また技師でもないから、症状に対しては何もできない。
 だが、それ以外のこと――今回は特に、患者の家族に対しては対応が可能だ。
 入院手続き、支払い、他院を紹介する場合の対応。患者によってはこれまでの通院履歴などが必要になるから、その場合の情報提供依頼。
 不安に駆られた家族から、情報を求められることもある。
 それらの対応を看護師にさせるわけにはいかない。
 看護師には一人でも多くの患者の回復のために尽力してもらいたいからだ。
 普段は看護師がやっている説明や、担当事務がやっている業務ではあるが、手が足りないことは分かっている。
 各部署の委託職員を統括している桐生さんは全体の仕事を把握しているから、どこに行ってもすぐに手伝えるだろうが、私はそうもいかない。
 私にできる事と言えば、検査の部屋を案内したり、家族の話を聞くくらいだろう。
 いや、今考えても仕方がない。
 現場に行って、看護師長の指示を仰ぐ方がいい。
 やって欲しいと思っていることをやろう。それが一番だ。ぱっと思いつくだけでも、事務員ができる業務がこれだけあるのだから、手が足りないところを指示してくれるはずだ。自分の勝手な判断で動いて、看護師や担当事務員の仕事の邪魔になっては本末転倒だからな。
 関係者しか通れない通路なのをいいことに階段に向かって走りながら、そんなふうに自分の方向性を確認していた。
 救命センター受付に一番近いのは中央階段だ。

「えっ……」

 だが、私は階段に向かうドアの前で気づいた。

「なんで……北階段にいるんだ」

 開けようとしているドアは北階段のドアだ。
 この非常時に、普段とは逆のことが起きている。
 いつも私一人で階段を利用するときは、北階段を使おうとするのに、なぜか中央階段にいる。
 桐生さんがいるとそれはない。
 今は私一人だ。
 中央階段を使おうとしたのに、何故……
 戻るか。
 戻って中央階段から行くほうが近い。
 そう思っている私の横で、クロネコが静かに北階段のドアをすり抜けた。
 閉じたままの、思い金属製のドアに吸い込まれるように、クロネコの姿が消え、長いしっぽの先だけが残る。
 尻尾の先端は、クイッと呼びかけるように動くと、やはりドアに消えた。

「来いって事か」

 クロネコがおかしな奴だということはわかっていたが、これはこれまでの中で群を抜いたオカルト現象だ。
 ゴクリと唾を飲む。
 何をビビってるんだ。
 あいつが真っ当な猫じゃないことくらい、分かっていたことだろう。
 今更、明らかにユーレイっぽいことしたところでーー本当に今更じゃないか。
 ドアノブに手をかけ、回す。引く。
 重い扉なのに何故か軽く感じた。

「っ!」

 ビリビリと、電気が走ったような衝撃が走る。
 いや、何か攻撃を受けたとか、漏電してたとか、そう言う事ではない。
 よく古い漫画なんかで驚いた時の表現で人が飛び上がるシーンがあるが、今の私がまさにそれだった。
 ドアを開け、直立不動の姿勢で飛び上がってしまった。

「ゆう、き……じむきょ、く……ちょう……」

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