家出したとある辺境夫人の話

あゆみノワ@書籍『完全別居の契約婚〜』

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「し……しかしなぜこんなことを君が知っているんだ? 辺境にきて半年にしかならない君が、ここの内情ついてこれほどまで知っているはずが……」

 荒涼とした辺境地にそびえたつ、長い長い防壁。長年の雨風や隣国との小競り合いで増えていく一方の修繕費。そして国を護る兵士たちに支給される、食事や衣類などの日用品代。
 一昨年に起きた土砂崩れで荒れた道の整備も、いまだ完了していない。

 トリシアは結婚が決まった際、それらを事前に調べ上げていた。いざという時に役に立つと考えて。
  
「そのくらいの情報、少しの時間と労力をかければ調べられますわ。私の試算では、その慰謝料でそれらを充分まかなえるはずですが?」
「……」

 ガイジアはまたも声にならない声でうめいた。

「実のところ、私の両親はとても妹贔屓で、地味でぱっとしない私のことは家政や領地経営にずっと利用してきたんです。そのおかげで、父がこれまで色々としてきた後ろ暗い数々に気がつきましたの。それをネタにちょっぴり脅したのですわ」
「お、脅しただと……!?」

 トリシアの口元に、黒い笑みがふわりと浮かんだ。

「それらを公にされたくなければ私の言い値を用立てろと言ったら、すぐに納得してくれましたわ。もしバレたら、間違いなくかわいい妹もろとも全員路頭に迷うことになりますもの。それどころか、牢屋に引っ越す羽目になるかもしれませんし。ですのでまぁ、これはいわば離縁を強引に進めた迷惑料みたいなものですわね」
「迷惑料……」

 ごくり、とガイジアの喉が鳴ったのは、気のせいだったろうか。気がつけばジールも他の使用人たちも、恐ろしいものを見るような顔で呆然と凍りついていた。
 もはやガイジアの口からは、言葉ひとつ出てこなかった。

 そして――。

「さて、ではこの場をもって悩ましい問題はすべて片づきましたわね。私たちの不毛な結婚も、お金の問題も。……ですわね? ガイジア様」
「……あ、あぁ」

 口元にゾッとするような美しい笑みを浮かべたトリシアを、ガイジアがはじめて見るかのような目で見つめていた。

 ガイジアにとってみれば、トリシアは地味でおもしろみのない女性に見えた。こんな者が自分の伴侶となるのか、と失望するくらいに。
 が、今目の前にいるトリシアはその時の印象とはまったく違って見えた。

 内面からにじみでる美しさとでも言うのだろうか。
 凛と真っ直ぐに伸びた背筋。隠しきれない賢さがにじみ出た面立ちも、よく見れば化粧が控えめであるだけでそれなりに整っている。
 何より、揺るぎない強さを秘めた眼差しはなんとも言えず美しかった。

 見惚れたガイジアは、思わぬ言葉を口にしていた。

「もう一度……もう一度だけ、君と私の関係を一からやり直すわけには……?」

 その瞬間、トリシアが噴き出した。

「ぷっ……! 嫌ですわ。今になってそんなことをおっしゃるなんて……。もちろんご冗談ですわよね?」

 言葉ににじむあからさまな拒絶の色に、ガイジアははっと表情を変えた。

「あ、……いや。も、もちろんだ……。そのようなこと無理に決まっている……な」

 もごもごと何かをつぶやくガイジアを、トリシアは興味なさそうに見やると。

「世間には、私は署名を済ませた離縁届だけ残して行方をくらましたと広めてくださって結構ですわ。それきり行方がわからないのだと」
「しかし、君の家族は……? いくらなんでも娘の行方がわからないとなれば……」

 ガイジアの言葉に、トリシアはもう一度小さく噴き出した。

「ふふっ。私に、身を案じてくれるような家族はひとりもおりませんわ。それに、私もううんざりですの。この国にも、つまらないしがらみにも」
「うんざり……??」

 ガイジアはきょとんとした顔をしていた。
 なら君はどうやってこの先の人生を生きていくつもりなんだ、とでも言いたげな。

 貴族として生まれ、これからも国の駒として生きていくつもりのガイジアには想像もつかないのだろう。貴族ではない自分の人生など。
 王命という名の気まぐれで、こんなに理不尽な目にあったというのに――。

「ふふっ。私は自由に生きますわ。国からもあの家族からも解き放たれて、つまらぬ肩書なんて捨てて、自由に」
「自由……?」
「えぇ。この頭と思いひとつあれば人生などどうとでもできますわ。少なくとも私にはその力が十分にあると自負しておりますもの」
「ひとりで……か?」

 その瞬間、トリシアの顔にやわらかな笑みが広がった。

「……私には、信頼に足る者がおりますので、どこへでもついてきてくれる頼もしい者の助けが、ね。それさえあれば、不安なんてこれっぽっちも感じませんわ」
「……」

 呆然としたまま、立ち尽くすガイジアと使用人たち。

「さて、と。では私はこの辺で失礼いたしますわ。ガイジア様、皆様。この地と皆様の平穏とお幸せを、遠くからお祈りしておりますわ。では、ごきげんよう」

 そしてトリシアは、艶やかな微笑みを浮かべ立ち上がったのだった。

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