悪役令嬢はバッドエンドを回避したい

秋月朔夕

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1巻

1-1

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  プロローグ


 彼の愛は遅効性の猛毒に似ている。
 最初は気付くことなく甘やかされ、少しの違和感を抱く頃にはあっという間に包囲網を敷かれ、最終的にはドロドロに煮詰めた愛という名の猛毒にわたしは殺されるのだ。


      ◇ ◆ ◇


 グチュリグチュリとみだらな水の音が自分の中心からこぼれ出る。
 鏡に映る自分は一糸まとわぬ姿。はしたなく足を広げ、背後で貫く男のモノを美味しそうにくわえ込んでいる。度重なる男との情交により、身体は快楽にとろけ、今や陥落寸前といったところ――それをなけなしの矜持でなんとかこらえようと唇を強く噛もうとしたのに、わたしのその僅かな抵抗すら男は許さなかった。

「シルヴィア。噛むのであれば私の指にしておきなさい」

 言葉通りに彼はわたしの口内に長い指を割り入れる。けれど侵入した彼の指は柔らかく上顎をなぞり、次いで短い爪で舌を引っ掻く。それは明らかにわたしの官能を誘発させようとしているに違いなかった。

「ふっ……んんっ」

 れる声はどうにも甘く、息苦しさから頬が上気する。しかしそれが男の劣情を煽ったようで、ゴクリと唾を呑み込む音が聞こえた。
 自分をなぶる男にこれ以上好き勝手はさせたくはない。せめてもの反抗で口内を犯す彼の指を噛もうとしたのに、すっかり力の抜けた身体では子猫がじゃれる程度の甘噛みとなってしまったことが悔しい。

「……まだ私に反発する余力があるのかい?」

 言葉とは裏腹に彼の声は愉悦を含んでいる。わたしのうなじを舌で舐めながら、時折吸い付いては赤い所有印を刻んでいく。ただでさえ皮膚が薄く、敏感な場所だ。その上、幾度と重ねられた行為によって、すっかり鋭敏になり、少し触れられただけで背筋に甘い痺れが走る。
 自分の意思とは裏腹にみだらに反応するわたしが面白いのか男は執拗に首筋を舌で責め立てる。男の好きなようにもてあそんで甚振いたぶられるわたしはすっかり玩具に成り下がった。だというのに、身体は男の与える快楽によろこんでしまう。
 そうしてクタリと力が抜けたところで、男は反発した罰だといわんばかりに甚振いたぶられて赤く色付いた乳頭を引っ掻く。痛いことをされているはずなのに、一際甘い声を上げた自分のはしたなさが恥ずかしくて仕方がない。うつむいて眼を閉じると背後から自分を貫く彼の大きさがより鮮明に感じて、どこにも逃げ場がないように思える。

(今夜だけで何度抱かれたのかしら?)

 朦朧とする意識の中で考えたところで、正しい数なんか数えられようもない。

「……シルヴィア、ほら目を開けて。鏡に映る自分の姿を見てごらん」

 自分を呼ぶ男の声がやけに甘く、情欲を孕んでいる。恐々とした気持ちで命令に従ったのは、支配者である男の機嫌をこれ以上低下させない為。そもそも男の機嫌が悪いのは今宵、わたしが逃走を決行しようとしたからだ。綿密に算段を立て、男が王城に招集される時間を見計らって計画を実行したというのに、最初から全て筒抜けだったらしく、あっさりと捕まえられ、そのまま男の寝室に連れ込まれてしまったのだ。
 部屋に入れられてすぐに、服は全て脱がされ、ベッドに腰を降ろした男の膝に抱えられる。無遠慮に足を開かれたことに対する羞恥は何度経験したところで慣れるものではない。屈辱に顔を歪めるが、それ以上にわたしを辱めたのは普段設置されていないベッドの脇に用意された大きな姿見の存在だ。

(……なんで、こんなモノが!)

 鏡越しに男の眼と視線が合わさる。理知的で鋭いとび色の瞳を細め、困惑するわたしの様子を楽しんでいるように見え、悪趣味だと思った。
 それは明らかにわたしの痴態を見せつけることを目的として置かれており、視線を外そうとすれば、その度に意地悪く甚振いたぶり、快楽の淵に追い詰めようとする。
 だから仕方ない気持ちで命令通りにまぶたを持ち上げると鏡に映るみだらな姿の自分と目が合った。燃えるような紅い髪は甘美な陶酔を表すかのように乱れ、キツい印象を抱かせるやや釣り上がったアーモンド型の瞳は与えられた悦楽に媚びるようにとろけさせている。
 わたしを抱く男はいくつもの勲章が付いた豪奢な軍服をきちんと着込んでいるというのに、わたしだけが裸で抱え込まれていることが羞恥を増長させてならない。

「叔父様。お願いですから、もう止めて下さい……」

 弱々しく首を横に振って、懇願しても、彼がこの行為を終わらせてくれないことくらいもう分かっている。
 だからこそせめてもの反抗として、鏡越しに叔父を涙目で睨みつければ、男は凶悪な笑みを浮かべた。

「嗚呼。きみは本当に男の情欲というものが分かっていないね。そんなに快楽でとろけた瞳で熱く私を見やっては、それこそ逆効果というものだよ」

 ねっとりとした視線とは裏腹に彼はわたしの腰を浮かせ、容赦なく弱い場所を突き上げる。
 既に限界だと思うくらいに深く貫かれ、潤沢に濡れそぼったソコは細かく痙攣けいれんしながら、男根を搾り取ろうかとするかのように締め付ける。無意識の内にみだらに彼の剛直をくわえ込む自分の姿を鏡で見ると恥ずかしさから肌が赤らむ。開いた足を閉じようと力を込めようとしても、男はいとも容易くそれを阻み、仕置だとして、わたしの秘豆を容赦なく扱き上げた。

「ひっ、ああっ!」

 強過ぎる刺激に身も世もなく喘ぐことしかできず、簡単に絶頂させられ、身体を戦慄わななかせる。真っ白になった思考の片隅で、どうしてこんなことになったのかとわたしは密かに嘆いた……。

(もしも、もしも、この世界が乙女ゲームの世界だと思い出さなければ、レオンが異常者だということを思い出さなければ、こんなことにならなかったのかしら?)


 ――その問いに答える者は残念ながら誰も居なかった。




  第一章 受け入れたくない現実


 記憶さえ戻らなければ、その日はシルヴィア・スカーレットの人生の中で間違いなく最高の一日になるはずだった。
 穏やかな午後の日差しに、王宮ご自慢の薔薇園でのお茶会。庭の角で王宮お抱えの音楽隊が奏でているのはこの国では有名な春の訪れを喜ぶ曲。初めての婚約者との顔合わせにはこれ以上ないほどのシチュエーションが整えられている。
 だからこそ失敗してはいけないと、隣に立つ母の横で背筋をしゃんと伸ばす。緊張を悟られないように笑みを浮かべながら挨拶の口上を述べれば、王妃からも合格だといわんばかりに微笑み返され、内心ほっとした。
 ――社交において笑顔は最大の武装であり、鎧でもあるといっていたのは教育係のニーナだったか。
 今日の顔合わせの為に朝早くから新調した赤いドレスに身を包み、燃えるように紅い髪は緩く巻き、薄くメイクを施された後に鏡で何度も出来栄えを母によってチェックさせられていた。そのお陰でどの角度がより自分が魅力的に見えるかきちんと頭に叩き込めている。
 人は美しいものが好きだ。
 シルヴィアは十歳にして周囲の大人達によってそのことをよく教え込まれていた。人よりも見た目が優れている分、注目や期待がされやすいことも自覚している。
 教養や礼儀等のエチケットをしっかりと守らなければ、人からの反感も受けやすく、ひいては家名に傷を付ける可能性すらあるだろう。
 格式高い公爵家に生まれたからには、まだ子供だからということを理由に人前で粗相そそうをすることは許されない――まして自分の家よりも身分が高い相手なら尚更。
 注目されることは慣れているし、それに対応する為の社交術だって習ってきた。王家の人間が集まる場に参加することは初めてだけれど、お茶会だって何度も経験している。
 恐らくそれらも全て、今日の為の前座に過ぎなかったのだろう。
 両親は、回数を重ねてわたしが王族の前でも失敗なんかしないと踏んだからこそ、アルベルト殿下との顔合わせを計画したのだ。けれど……

「……うそでしょ?」

 粗相そそうをしないように気を張っていたつもりだった。しかし、王妃の背に隠されていた第一王子のアルベルト様と目を合わせた途端。頭の中でカチリとパズルのピースをめ込むような音が聞こえた気がして、その瞬間、礼儀作法をすっかり忘れたように、立ち尽くしてしまった。

「どうしたの?」

 真っ先に声を掛けたのはアルベルト様本人だった。
 彼の挨拶を受ける前に、ぽかんと口を開け、まじまじと殿下を見つめるわたしは社交界においては無礼極まりない。
 だというのにわたしの態度を咎めることもなく、形の良い眉を下げてわたしの顔を覗き込む姿は、確かに噂で聞いていた心優しい王子そのものに見える。
 本来であれば相手に安心感を与える態度のはずなのに、今のわたしにはどこか作り物のように思えて鳥肌が立つ。

(……どうして、彼が!)

 きっと記憶さえ取り戻さなければ、わたしだって周囲の人間同様に王子の態度に感銘を受けたはずだった。
 けれど、わたしは彼が『誰』であるかを正確・・に認識したがゆえに、本能的な恐怖から足を震わせていた。


 だってわたしは彼を思い出したのだ。
 彼の本性も。
『悪役令嬢シルヴィア』に対する仕打ちも。
 何もかも全て。
 彼と目を合わせたことで思い出してしまった。


 絶対にこの婚約を成立させてはならない。もしもそんなことをしてしまえば、わたしに待っているのは身の破滅だ。
 その前に、王族の前で場を乱したことへの謝罪は口にしなければと思った。
 しかし幼い身体が膨大な知識量に耐えられなかったのか、ひゅうひゅうと息を吸い込むことすら難しく、呼吸が乱れる。目には生理的な涙が溜まり、視界がどんどんとぼやけていく。

「シルヴィアっ!」

 胸を押さえながら倒れるわたしが最後に聞いたのは、切迫したお母様の声だった。
 この日、シルヴィア・スカーレットは人生で最高になるはずだった日に人生最大の失態を犯すことになった。


       ◇ ◆ ◇


(嘘でしょ。嘘でしょ! どうしてわたしがよりにもよって『最愛の果てに』の悪役令嬢になっているのっ⁉)

 まだ戻らぬ意識の中でわたしがこんなにも怯えているのは先程思い出したばかりの、前世の記憶のせいだ。
『最愛の果てに』は熱烈なファンに支えられていた乙女ゲームである。
 その内容は乙女ゲームとしては王道中の王道で、美麗なキャラクターの甘い台詞に綺麗なスチル。元は十八禁だったけれど、後に全年齢版も発売され、普段乙女ゲームをしないライト層にもヒットし、社会現象にもなった。
 そしてかくいうわたしも、その全年齢版にどハマりした一人だ。
 バイト代もキャラクター達のグッズにつぎ込んだし、ネットパトロールをして二次創作のイラストや小説を深夜まで読み漁るくらいにゲームに傾倒していた。


 全年齢版『最愛の果てに』の大まかなストーリーの流れはこうだ。
 ヒロインのアンジュは母と二人、貧しくとも慎ましくお互いを支え合いながらも生活していた。
 しかし、アンジュが十四歳になった年に最愛の母が流行り病に倒れ、そのまま息を引き取ってしまう。
 途方に暮れるアンジュの前に現れたのは身なりが整った貴族の男だった。
 父親を名乗るその男により伯爵家に引き取られたアンジュだったが、屋敷でも通いはじめた貴族の名門校でも、出自のせいで遠巻きにされる。
 そして、自分に向けられる悪意に耐えきれなくなったアンジュは、学園の角にある東屋で王子であるアルベルト・ウィンフリーと出会う。
 自分のことを知らないアンジュに興味を抱いた王子は、身分を隠したまま彼女と親しくなっていくが、その状況を面白いと思わなかったのが幼い頃から王子の婚約者であったシルヴィアだった。
 公爵家の令嬢であるシルヴィアは我儘わがままで傲慢な性格をしており、気に入らない者は徹底的に叩き潰してきた。彼女の標的となったことでアンジュの学園生活は波乱に満ちていく――
 というのが、大まかなストーリーだ。
 有名な絵師さんが作画したキャラのスチルはとても綺麗だったし、卒業パーティーでのシルヴィアの断罪シーンは声優さんの演技も熱が入っていて迫力があった。
 それになんといってもシナリオがとても秀逸で、王道なのに飽きがこないというか、王道だからこそ素晴らしいというか、わたしはすっかりこのゲームの全年齢版にまり込み、グッズ代で諭吉が何枚も飛んでいった。
 だからこそ十八歳の誕生日を迎えた時に、十八禁版にも手を出してしまったのだ――それがライト層向けの全年齢版とは全くの別物であることは知らずに。
 全年齢版『最愛の果てに』が胸キュン・ときめき・スクール甘ラブなら、十八禁版『最愛の果てに』は昼ドラもビックリのドロドロ・エロ・グロの愛憎モノである。
 驚いたのは元々の十八禁版では登場人物のトラウマが全年齢版よりも強く描かれていた為に、彼らの性格まで歪であったことだ。
 メインヒーローの心優しい王子は主人公が泣く姿に興奮する腹黒サディストだし、頼れる騎士団長は、外は危ないから仕舞っちゃおうねと軽率に監禁しようとしてくるし、ちょっと生意気な弟キャラだった公爵子息は依存度増し増しで僕が居ないと生きられないでしょと隙あらば洗脳してくる。宰相家の息子に至っては乙女ゲームの癖にバッドエンドしかない。
 愛の重いキャラをそのまま受け入れることができれば、ハッピーエンドという名のメリバ。拒否すればヤンデレと化した攻略キャラ達の手で強制的にバッドエンドに叩き堕とされていく。
 ちなみに悪役令嬢のシルヴィアは全年齢版であれば悪事が露呈した後に国外追放で済んでいたが、十八禁版では当然そんな甘っちょろいことにはなっていない。
 悪役令嬢らしく高慢ちきで我儘わがままで傍若無人なシルヴィアは誰にも好かれていない上に、十八禁版ではさらに過激な方法で主人公を虐め抜き、攻略キャラ達の地雷をぶち抜く。その結果、シルヴィアの悪事が露呈されてしまえば、これ幸いに攻略キャラ達の手によって地獄に叩き堕とされる。
 王宮で密かに飼っている触手達に責められたり、変態貴族の愛玩奴隷にされたり、最底辺の娼婦に成り下がって輪姦プレイをされる日々を送ったりとシルヴィアの精神が壊れても尚、酷い制裁は終わることはない。しかもゲーム中ではその描写がばっちりとあるのだ。

(乙女ゲームで悪役令嬢の濡れ場……しかもモブ姦メインだなんて一体誰に需要があるのよ)

 ざまぁ展開にしたって酷過ぎる。
 何より、シルヴィアが幸せなルートは全年齢版でも十八禁版でも一つも存在しないのだから救いようがない。
 あまりに禄でもない展開しかないことで、口コミサイトでは悪役令嬢シルヴィアに対しての同情の声が多数寄せられているほどだ。


『シルヴィアのエロは男性向けで不憫』
『胸糞過ぎてシルヴィアのざまぁシーンはスキップした』
『シナリオライターはシルヴィアになんか恨みでもあるの?』
『どのルートも地獄過ぎるんだが……』
『約束された地獄』
『……シルヴィア不憫過ぎてハッピーエンドの二次創作小説書いてみたんだけど、需要ある?』
『あなたが神か』


 口コミがヒートアップしたせいかシルヴィアの二次創作物は多く、なんなら主人公アンジュよりも二次創作では人気を博していたが、そんなこと、わたし自身がシルヴィアになった今、なんの救いにもならない。嬉しくない。
 ふつふつと胸に込み上げてくるのは不安と絶望。その二つだけだ。

(嫌だ、嫌だ。シルヴィアなんて絶対に嫌! なんでわたしがシルヴィアになっているのよ)

 たとえシルヴィアが二次創作でどれだけ幸せになっていたとしても、ゲームの世界には全く関係ない。
 今のところ、全年齢版と十八禁版どちらの世界か分からないけれど、シルヴィアに待つ未来は程度の差はあれど、どちらも破滅だけだ。

(……こんなことならもう目覚めたくなんかない!)

 心の底からそう願っていたのに、その願いは虚しく、ある人物の善意によって阻まれることになる。


       ◇ ◆ ◇


「っ……シルヴィア。シルヴィアっ!」
「……ん」
「起きた?」

 まだ夢の世界に逃げ込んでいたかったのに肩を揺すられて、強引に現実へ呼び戻される。

(嗚呼、目を覚ましたくない。お願いだから今はそっとしておいて……)

 嫌な夢を見ていた時のような脱力感で妙に身体がだるく重い。目蓋を開けることすら億劫だ。このまま現実を直視せずに、ただ眠っていられたらどんなに楽なことか。
 けれど一度反応した手前、王子である彼の声を無視し続けることも難しい。渋々ながら目を開ければ視界いっぱいにアルベルトの顔が映り込む。
 ベッドから上体を起こして部屋を見渡しても母達の姿はなく、王子と二人きりになっている。その理由を考える前に、アルベルトがわたしに話し掛けた。

「むりやり起こしちゃってごめんね。その、少しうなされていたから心配で……」

 言葉通りに心配そうにこちらを見つめる王子の姿は、記憶さえ戻っていなければ純粋にときめくことができただろう。だが、今となっては彼の存在そのものが恐怖の対象でしかない。

(触手は嫌だ。触手は嫌だ。触手は絶対に、嫌だ!)

 とはいえ王子がわたしを看ていてくれたのは善意からの行動だろうから、ひとまずお礼を言おうとした――が、その気持ちとは正反対にポロポロと勝手に涙がこぼれ出た。

(あれ。なんで……?)

 おかしい。笑みを浮かべることくらい空気を吸うようなものなのに。瞬きよりも簡単なことなのに、どうして涙が流れるのか。
 目まぐるしい情報の多さに幼子の身体に耐えきれなかったのか、それとも王子に対する本能的な恐怖心からなのか、感情が制御できない。

「ごめっ、ごめんなさい」
「どうしたの? まだ身体が辛いの?」

 幼い子供のようなひどい謝罪に自分でも慌ててしまう。けれどわたしよりも更に慌てたのは王子の方だった。
 婚約の顔合わせでいきなり倒れられて、うなされているから起こしてやったというのに、急に泣かれても彼からしたら訳が分からないことだろう。
 だというのに、彼はぎょっと目を丸くしながらも優しく背中をさすり、わたしを落ち着かせようしてくれている。
 今のわたしと同じ、十歳の小さな掌は子供特有の温もりがある。誰かを慰めることに慣れていないのか、少しぎこちないその動きに何故だか少し安心する。

「殿下っ、申し訳ございません」

 ひっくひっくとえずきながら、ぼやける視界の端で彼を見れば困ったように頬を掻いていた。

「ううん。僕は大丈夫だよ。ただ少し君は今日体調が悪かっただけでしょう? だから気にしないで」

 彼の言葉はわたしに言い訳の機会までも与えてくれた。それは遠回しな優しさだと思う。
 その言葉通りに体調が悪かったことにすれば、せいぜい父に苦言を呈されるくらいで済むのだろう。だけどこれは婚約破棄をしてもらえる絶好のチャンスでもあった。
 未来の王妃が軟弱であったり、プレッシャーに弱かったりすれば国の沽券に関わる。だからこそわたしが倒れたことでお母様はあんなにも慌てた声を出したのだ。

「……いいえ。未来の国母を務める者がこのように軟弱ではこの先体裁を保つことができませんわ。ですから殿下、この婚約は止めておきましょう?」

 ――涙を乱雑に拭って願望を口にすれば、何故か王子はストンと感情を削ぎ落とした顔でこちらを見ていた。


       ◇ ◆ ◇


(疲れた……)

 自分の部屋に戻ってきた気安さからベッドにだらりと寝転がる。
 今日はもう誰とも話したくない。
 帰ってからすぐに人払いは済ませておいたので人目を気にする必要もない。今だけは、心置きなく休むことができる。
 目をつむって、ふと脳裏によぎるのは最後に見たアルベルトの顔。
 感情を削ぎ落としたような顔を思い出すだけで本能的にぶるりと身体が震える。
 彼が言葉を発する前にタイミング良くお母様達がやってきたから、あの場はお開きになったけれど、もしもお母様達が来ていなかったとしたらアルベルトは何を口にしたのだろう?

(……きっと知らない方が幸せよね)

 穏やかな笑みを浮かべている人が真顔になるだけでどうしてあんなに恐ろしいのか。
 ゲームでアルベルトが真顔になるのはヒロインに本性をさらけ出す後半部分からだというのに、何故わたしは初対面からあの表情を引き出すことに成功してしまったのか……特大の地雷を踏んだ気分だ。

(わたしから婚約破棄の話をしたのが嫌だったのかな?)

 アルベルトは王族だ。
 人に傅かれるのは慣れているというよりも、それが彼にとっての『普通』なのだろう。
 だからこそ公爵家の令嬢とはいえ、自分よりも身分の低い女がでしゃばった発言をしたことに苛立った、というのならば合点がいく。

(そうよ。考えてみれば王子だってまだ十歳の子供じゃない)

 わたしが知っているのは所詮ゲームの情報だ。
 現段階のアルベルトはまだ幼く、ゲームの彼と比べると当たり前だけど経験値が違ってくる。その分の余裕もないのは当然のことだ。
 それにわたしだって、精神年齢では子供とはいえないくせに、記憶が戻ったからとはいえ、王族の前でありえない失態を犯してしまったばかりだ。苛立ちから本性をさらけ出してしまったアルベルトのことは言えない。

(何が、『格式高い公爵家に生まれたからには、まだ子供だからということを理由に人前で粗相そそうをすることは許されない』よ。しっかりやらかしちゃったじゃない!)

 澄ました顔で格好付けようとした分だけ羞恥が更に募り、顔が赤くなる。それを誤魔化すようにして枕を抱きしめると手に馴染む柔らかい感触に少しだけ安心する。

(……屋敷に帰る時の馬車の中、お母様と二人きりだからすごい気まずかったものね)

 帰りの馬車ではお母様は難しい顔をして黙り込んでいたし、わたしも失態を自覚しているからこそ喋り掛ける勇気が持てずにいた。
 そのせいか、屋敷に到着するまでの時間がとてつもなく長く感じたのだ。
 母の口からことの顛末を父に報告されるのだろうと思うと憂鬱で仕方がない。父の冷ややかな眼差しを思い出すだけで、背筋がぶるりと震える。

(……だけど今は王子のこともそうだけど他の攻略キャラのことも考えなきゃいけないわね)

 決して後回しにしていい問題ではないけれど、事態は急を要する。
 だって恐ろしいことにこの屋敷には『最愛の果てに』の攻略対象者が二人も居るのだから。


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