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第三十九話 わたしはしらゆきじゃない
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「ゆき、の……メールも電話も返さないで、今までどこにいたんだよ!」
乱暴な物言いとは裏腹に、男の眼にはありありと心配の色が見え隠れしている。少しだけよれている濃紺のスーツを着ているこの人のテーブルの脇には銀色の大きなキャリーバッグが置いてあり、もしかしたら出張かなにかでコチラに来ているのかもしれない。まだ少しだけしか減っていないコーヒーを見ると彼もまだこの店に入ったばかりだということが分かる。そしてわたしの存在を確かめるように抱きしめられても不思議と嫌悪感は湧かない。だけど、一つだけ疑問がある。それは――
「あなたは?」
だれ、と聞く前に店主のわざとらしい咳払いが遮る。勢いよく振り返れば、銀縁の奥から睨まれた。
「お客さん、店で騒がないでくれないか?」
険のある物言いにわたし達は謝り、慌てて離れる。彼はお勘定を払い、ここを出て落ち着いた所で話そうと提案する。
(頷いてしまいたい)
自分のことを知っている人の話を純粋に聞きたかった。けれど、鷹夜のことを動くことはできない。渋るわたしを不審に思った目の前の人は顎に手を当てて眉間の皺を深める。
「なぁ。もしかしてだけど……お前、またあの男に捕らわれているのか?」
また、とはどういう意味だろう。首を傾げるわたしに彼は息を呑んだ。
「とりあえずこの店から離れよう。ここは危険だ。あの男は近くにいるんだろ?」
彼の眼は真剣だった。わたしが答えるよりも早く、腕を掴んで裏口から出ようとした時、背後から声が掛かった。
「どこに行くつもりなの?」
冷ややかな声は彼の怒りを表している。ただ一言の質問なのに、首筋にナイフを突きつけられているようないいようのない緊張感が店に蔓延している。その証拠にだれも動くことは出来ない。さきほど注意した店主も、鷹夜から逃げようと言った男も、いつも彼と一緒にいるわたしですら振り向くことも出来ずにただ鷹夜を恐れるばかりだ。この異様な空気が苦しくてなにかに縋りたい。そんな思いから名前も知らない人の裾を引っ張っていた。
――けれど、それがいけなかった。
「雪乃はいけない子だなぁ。どうして私がいるのに、こんな男なんかにくっ付くの?」
(……あぁ。わたしは失敗した)
ただでさえ鷹夜は怒っているのに火に油をそそぐような真似をしてしまって本当にわたしは愚かだ。少し考えれば分かることだった。『婚約者』であるわたしが目の前で他の男に頼る素振りをするなんて、いくら彼でもいい気はしないことくらい。すぐに手を離してゆっくりと鷹夜の方を見やる。
「ほら、こっちにきて」
両手を広げて彼はわたしが近づくのを待つ。狭い店内では今のわたしと鷹夜の距離は五歩といったところだろうか。震えている足の訴えを無視してゆっくりと進ませる。一歩、二歩、三歩。それだけで鷹夜の元まであと少しだ。
「雪乃、行ったらダメだっ! またお前が苦しむ所なんか見たくねぇんだよ」
喉の奥から絞り出した痛切な声が後ろから聞こえてきて、進んでいた足を止める。
「ど、ういう、こと……?」
「どういうことって、お前が一番分かっているだろ。三年前なにがあったのかくらい」
男は口にするのも忌々しいとばかりに言葉を濁す。だけど、そんなことではわたしに分かるわけがない。
「そんな説明で分からないよ、リツ」
(あれ……どうして目の前の人が『リツ』だって思ったのかしら)
口から滑り落ちたことが自分でも不思議だった。けれど、なぜだろう……? わたしには確信がある。彼はリツだ。立花リツ。それが彼の名前。だけど、名前を呼んだのは今日二度目の失敗だった。
「……なんで雪乃は記憶がなくなったというのに彼の名前を知っているの。まさか――」
(駄目だ。今の鷹夜は危険だ)
もしかしたらリツにも降りかかるかもしれない危害に慌てて彼の背中を押して裏口へと誘導する、だけど、そんなことですら鷹夜は許さなかった。
「また私から逃げようなんて悪い子だ。帰ってお仕置きしないといけないね」
どうやら彼の眼にはわたしが逃げるように見えたらしい。いつのまにか近くに来ていた鷹夜がわたしの腕を力の加減なく掴み、入口まで引きずっていく。容赦のない力に腕の骨がギリギリと悲鳴を上げるけれど、彼はそんなことはおかまいなしにわたしとリツを引き離そうとする。リツは堪らずに彼を止めようとするけれど、そんなことは逆効果だ。わたしは緩く首を横に振って制した。しかし、そのやり取りすらも鷹夜を苛立たせる原因となる。
「なにそんな男と見つめ合っているの? だめだよ。きみは私のなんだから。私のしらゆきだ」
しらゆき。鷹夜がわたしをそう呼ぶ時はいつも自分自身に言い聞かせているようで嫌だった。まるで魔法の言葉のように言っているけれど、実際はそんなに良いものではない。
――鷹夜は信じ込みたいだけだ。
わたしが彼にとっての唯一の人であると。
乱暴な物言いとは裏腹に、男の眼にはありありと心配の色が見え隠れしている。少しだけよれている濃紺のスーツを着ているこの人のテーブルの脇には銀色の大きなキャリーバッグが置いてあり、もしかしたら出張かなにかでコチラに来ているのかもしれない。まだ少しだけしか減っていないコーヒーを見ると彼もまだこの店に入ったばかりだということが分かる。そしてわたしの存在を確かめるように抱きしめられても不思議と嫌悪感は湧かない。だけど、一つだけ疑問がある。それは――
「あなたは?」
だれ、と聞く前に店主のわざとらしい咳払いが遮る。勢いよく振り返れば、銀縁の奥から睨まれた。
「お客さん、店で騒がないでくれないか?」
険のある物言いにわたし達は謝り、慌てて離れる。彼はお勘定を払い、ここを出て落ち着いた所で話そうと提案する。
(頷いてしまいたい)
自分のことを知っている人の話を純粋に聞きたかった。けれど、鷹夜のことを動くことはできない。渋るわたしを不審に思った目の前の人は顎に手を当てて眉間の皺を深める。
「なぁ。もしかしてだけど……お前、またあの男に捕らわれているのか?」
また、とはどういう意味だろう。首を傾げるわたしに彼は息を呑んだ。
「とりあえずこの店から離れよう。ここは危険だ。あの男は近くにいるんだろ?」
彼の眼は真剣だった。わたしが答えるよりも早く、腕を掴んで裏口から出ようとした時、背後から声が掛かった。
「どこに行くつもりなの?」
冷ややかな声は彼の怒りを表している。ただ一言の質問なのに、首筋にナイフを突きつけられているようないいようのない緊張感が店に蔓延している。その証拠にだれも動くことは出来ない。さきほど注意した店主も、鷹夜から逃げようと言った男も、いつも彼と一緒にいるわたしですら振り向くことも出来ずにただ鷹夜を恐れるばかりだ。この異様な空気が苦しくてなにかに縋りたい。そんな思いから名前も知らない人の裾を引っ張っていた。
――けれど、それがいけなかった。
「雪乃はいけない子だなぁ。どうして私がいるのに、こんな男なんかにくっ付くの?」
(……あぁ。わたしは失敗した)
ただでさえ鷹夜は怒っているのに火に油をそそぐような真似をしてしまって本当にわたしは愚かだ。少し考えれば分かることだった。『婚約者』であるわたしが目の前で他の男に頼る素振りをするなんて、いくら彼でもいい気はしないことくらい。すぐに手を離してゆっくりと鷹夜の方を見やる。
「ほら、こっちにきて」
両手を広げて彼はわたしが近づくのを待つ。狭い店内では今のわたしと鷹夜の距離は五歩といったところだろうか。震えている足の訴えを無視してゆっくりと進ませる。一歩、二歩、三歩。それだけで鷹夜の元まであと少しだ。
「雪乃、行ったらダメだっ! またお前が苦しむ所なんか見たくねぇんだよ」
喉の奥から絞り出した痛切な声が後ろから聞こえてきて、進んでいた足を止める。
「ど、ういう、こと……?」
「どういうことって、お前が一番分かっているだろ。三年前なにがあったのかくらい」
男は口にするのも忌々しいとばかりに言葉を濁す。だけど、そんなことではわたしに分かるわけがない。
「そんな説明で分からないよ、リツ」
(あれ……どうして目の前の人が『リツ』だって思ったのかしら)
口から滑り落ちたことが自分でも不思議だった。けれど、なぜだろう……? わたしには確信がある。彼はリツだ。立花リツ。それが彼の名前。だけど、名前を呼んだのは今日二度目の失敗だった。
「……なんで雪乃は記憶がなくなったというのに彼の名前を知っているの。まさか――」
(駄目だ。今の鷹夜は危険だ)
もしかしたらリツにも降りかかるかもしれない危害に慌てて彼の背中を押して裏口へと誘導する、だけど、そんなことですら鷹夜は許さなかった。
「また私から逃げようなんて悪い子だ。帰ってお仕置きしないといけないね」
どうやら彼の眼にはわたしが逃げるように見えたらしい。いつのまにか近くに来ていた鷹夜がわたしの腕を力の加減なく掴み、入口まで引きずっていく。容赦のない力に腕の骨がギリギリと悲鳴を上げるけれど、彼はそんなことはおかまいなしにわたしとリツを引き離そうとする。リツは堪らずに彼を止めようとするけれど、そんなことは逆効果だ。わたしは緩く首を横に振って制した。しかし、そのやり取りすらも鷹夜を苛立たせる原因となる。
「なにそんな男と見つめ合っているの? だめだよ。きみは私のなんだから。私のしらゆきだ」
しらゆき。鷹夜がわたしをそう呼ぶ時はいつも自分自身に言い聞かせているようで嫌だった。まるで魔法の言葉のように言っているけれど、実際はそんなに良いものではない。
――鷹夜は信じ込みたいだけだ。
わたしが彼にとっての唯一の人であると。
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