ちはやぶる

八神真哉

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第六話  郭の中

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ヨシは、邸の夕餉の支度があるからと出かけていった。
夕餉には早すぎる気がするが、材料の調達や下拵えもあるのだろう。
三郎は、蓑と笠をつけ、ミコを連れて畑に出ていった。

確かに武士とは名ばかりの暮らしぶりのようだ。
兄者が、という話も出ていたから家族は、ほかにもいるのだろう。
一緒に住んでいる様子がないところを見ると家を出たのだろうが。

静かにはなったものの、どうにも落ち着かなかった。
人の家に、あがりこんだことなど一度もない。
正しく言えば、あげてくれるものなどいなかったのだ。

とはいえ、しばらくは、ここで世話になるしかあるまい。
体を動かすと筋や節々が悲鳴を上げる。頭も疼く。
自分の家までたどり着くどころか、この街を出ることさえできそうになかった。

しかし、二日間もこのような場所で寝込んでいたのかと思うと、ぞっとする。
よくぞ、寝首をかかれなかったものだ。それどころか怪我の治療と看病まで行うとは。

なぜだ、と問うたところで正直には答えまい。
わかっているのは、目的もなくこのようなことをする人間はいないということだ。
あえて探る必要はないだろう。
いずれ向こうから切り出してくるはずだ。

体を横にすると、わずかに痛みが軽くなった。
熱を帯びた体がだるい。
屋根の板をたたく雨音が眠気を誘う。
気を抜いてはならない、状況を把握しなければならないと思いながらも、うつらうつらと眠りにおちた。

目を覚ましたのは半刻も過ぎた頃だろうか。
かゆはすっかり冷めていた。

椀を手に取り、痛む体に鞭打って家を出る。
雨あがりの澄んだ空気が頬をなでた。

鳥のさえずりに目をやると、雨に洗われた、つややかな椿の葉が目に入った。
蕾もふくらみ始めている。
霞が、陽を浴びた吹晴山を登っていくのが見えた。

左右に長屋と塀が続いていた。薪小屋や納屋らしいものもある。
運よく人の姿はない。
確かに、阿岐権守の使用人たちが住んでいる郭のようだ。
ただし、イダテンが寝ていた長屋の左右に人が住んでいる様子はない。

長屋後方の空堀土手の斜面で雀たちが何かをついばんでいた。
軒下に立てかけてあった板を見つけ道に置く。
その上に、椀の縁にこびりついていた米粒をのせ、痛めた左足を引きずるようにして進む。
頭が疼き、脇腹に痛みが走る。息をするのもつらい。

懐には端布でくるんだ包丁を忍ばせている。
手斧が見当たらなかったのだ。
鬼の子に武器を持たせると危険だと判断したのだろう。

長屋後方の空堀には水汲み場があった。
足元が崩れぬよう大きな岩を敷きつめ、大雨で泥が流れ込まぬよう井桁を備えている。
竹を組んだふたを開けると、澄んだ水が湧いていた。
水が染み出る場所を、さらに掘り進めたのだろう。湧き水は足元より四尺ほど下にある。

釣瓶を下ろし、麻縄をたぐりながら水を汲み上げる。
たった、それだけのことで、腕も脇腹も悲鳴をあげた。
三郎や、それより幼い童がこれを繰り返すのはさぞかし辛かろう。

桶の水に映る自分の顔を見る。
頬には腫れが残り、あちこちが変色していた。
水を口に含むと傷に凍みた。
喉も腫れているのだろう。飲み込もうとしてむせた。

その音に驚いたかのように先ほど置いた板の上から雀が飛び立っていった。
戻ってみると米粒はきれいになくなっていた。

どうやら毒は入っていないようだ。

椀を傾け、冷めたかゆを口に含む。
むせないよう、ゆっくりと咀嚼する――驚いた。
米とはこのように甘くうまいものなのか。
だが、「うまい」と思ったことに、後ろめたさを感じた――おばばは、一度でも、白い米の飯を口にしたことがあっただろうか。

     *

枝が板葺の屋根を叩いている。
土手に生えていた木が風に揺られているのだろう。

夜ごとに寒さがつのる。
暗闇の中、板の間の筵の上で、痛みと、熱からくる不調に耐えながら、あたえられた夜着、二重をかけて寝る。
イダテンはこれまで通り、一番奥に寝かされていた。
部屋の造りからすると、イダテンが来るまでは三郎たちが、ここで寝ていたのだろう。

ミコが、すうすうと寝息をたてている。
隣の三郎は、寝返りをうつと歯ぎしりをはじめた。
ヨシは、時折目を覚まし、二人の夜着を掛け直してやっている。

ヨシも三郎も、そして幼いミコでさえ、イダテンを恐れるでもなく迎え入れているように見える。
だが、鬼の子を助けてなんになろう。
ヨシが仕えている国司の阿岐権守と、この地の実質上の支配者である郡司の宗我部国親がうまくいっていないことはイダテンでさえ知っている。
たまにしか街に出ず、他人と話をするのが苦手な、おばばの耳に入ってくるほどに有名な話なのだ。

イダテン自身も聞いたことがある。
むろん話してくれる者はいない。
山菜を取りに来た者が近くにいるイダテンに気づかず話題にしていたのだ。
ならば、イダテンを手なずけて宗我部兄弟の首を獲ろうと考えているのか。

     *

ミコが、おぼつかない手つきで箸と椀を握りしめ、粟と稗の飯をかきこんでいた。
イダテンは手をつけていない。
毒見を済ませていないからだ。

さっさと朝餉を終わらせた三郎は独楽の紐かけの工夫に余念がない。
母親のヨシが出がけに三郎に声をかけた。
「イダテンの相手もするんだよ」

「鬼なんかと遊べるかよ……あっっ、いてっ! 何すんだよー!」
振り返りもせず返事をした三郎が悲鳴を上げた。
ヨシが三郎の耳を引っ張っていた。

「夕餉を抜くよ」
「どうせまた、粟や稗だろ」
涙を浮かべながらも三郎は憎まれ口をたたいた。

「何て言い草だい。それさえ食べられない者がいるというのに」
ヨシは、妙に抑揚をつけて続けた。
「そうかい、そうかい。姫様に、なんていえばいいかねえ。今日だって聞かれるかもしれないよ。三郎はイダテンと仲良くやっていますかって」
その言葉に、三郎は、ばつが悪そうな表情をうかべた。

「足の腫れはまだ引いてないからね。遊びに連れて出るのは、もう少し先でいいんだよ」
 三郎はヨシの言葉に、しぶしぶうなずいた。

ヨシが出かけると、三郎はことさら大きな声で話しかけてきた。
「おお、ということだ。イダテン。わしも柴刈りと畑のあと独楽の勝負があるでな。飯はそこにある。食ったら椀に甕の水を入れておけ。ミコ、おまえもだ。すんだらついて来い」

「兄上、待って」
急いで残りの飯をかきこんだ、その頬には稗の粒がついている。
そのミコが三郎を追う前に、イダテンのかたわらに籠の形に折った紙を置いていった。

歌が書き込まれた反古紙をていねいに折ってある。
誰かに貰ったのだろう。紙を使って習い事ができるような内所には見えない。

    *


ヨシは、邸の夕餉の支度があるからと出かけていった。
夕餉には早すぎる気がするが、材料の調達や下拵えもあるのだろう。
三郎は、蓑と笠をつけ、ミコを連れて畑に出ていった。

確かに武士とは名ばかりの暮らしぶりのようだ。
兄者が、という話も出ていたから家族は、ほかにもいるのだろう。
一緒に住んでいる様子がないところを見ると家を出たのだろうが。

静かにはなったものの、どうにも落ち着かなかった。
人の家に、あがりこんだことなど一度もない。
正しく言えば、あげてくれるものなどいなかったのだ。

とはいえ、しばらくは、ここで世話になるしかあるまい。
体を動かすと筋や節々が悲鳴を上げる。頭も疼く。
自分の家までたどり着くどころか、この街を出ることさえできそうになかった。

しかし、二日間もこのような場所で寝込んでいたのかと思うと、ぞっとする。
よくぞ、寝首をかかれなかったものだ。それどころか怪我の治療と看病まで行うとは。

なぜだ、と問うたところで正直には答えまい。
わかっているのは、目的もなくこのようなことをする人間はいないということだ。
あえて探る必要はないだろう。
いずれ向こうから切り出してくるはずだ。

体を横にすると、わずかに痛みが軽くなった。
熱を帯びた体がだるい。
屋根の板をたたく雨音が眠気を誘う。
気を抜いてはならない、状況を把握しなければならないと思いながらも、うつらうつらと眠りにおちた。

目を覚ましたのは半刻も過ぎた頃だろうか。
かゆはすっかり冷めていた。

椀を手に取り、痛む体に鞭打って家を出る。
雨あがりの澄んだ空気が頬をなでた。

鳥のさえずりに目をやると、雨に洗われた、つややかな椿の葉が目に入った。
蕾もふくらみ始めている。
霞が、陽を浴びた吹晴山を登っていくのが見えた。

左右に長屋と塀が続いていた。薪小屋や納屋らしいものもある。
運よく人の姿はない。
確かに、阿岐権守の使用人たちが住んでいる郭のようだ。
ただし、イダテンが寝ていた長屋の左右に人が住んでいる様子はない。

長屋後方の空堀土手の斜面で雀たちが何かをついばんでいた。
軒下に立てかけてあった板を見つけ道に置く。
その上に、椀の縁にこびりついていた米粒をのせ、痛めた左足を引きずるようにして進む。
頭が疼き、脇腹に痛みが走る。息をするのもつらい。

懐には端布でくるんだ包丁を忍ばせている。
手斧が見当たらなかったのだ。
鬼の子に武器を持たせると危険だと判断したのだろう。

長屋後方の空堀には水汲み場があった。
足元が崩れぬよう大きな岩を敷きつめ、大雨で泥が流れ込まぬよう井桁を備えている。
竹を組んだふたを開けると、澄んだ水が湧いていた。
水が染み出る場所を、さらに掘り進めたのだろう。湧き水は足元より四尺ほど下にある。

釣瓶を下ろし、麻縄をたぐりながら水を汲み上げる。
たった、それだけのことで、腕も脇腹も悲鳴をあげた。
三郎や、それより幼い童がこれを繰り返すのはさぞかし辛かろう。

桶の水に映る自分の顔を見る。
頬には腫れが残り、あちこちが変色していた。
水を口に含むと傷に凍みた。
喉も腫れているのだろう。飲み込もうとしてむせた。

その音に驚いたかのように先ほど置いた板の上から雀が飛び立っていった。
戻ってみると米粒はきれいになくなっていた。

どうやら毒は入っていないようだ。

椀を傾け、冷めたかゆを口に含む。
むせないよう、ゆっくりと咀嚼する――驚いた。
米とはこのように甘くうまいものなのか。
だが、「うまい」と思ったことに、後ろめたさを感じた――おばばは、一度でも、白い米の飯を口にしたことがあっただろうか。

     *

枝が板葺の屋根を叩いている。
土手に生えていた木が風に揺られているのだろう。

夜ごとに寒さがつのる。
暗闇の中、板の間の筵の上で、痛みと、熱からくる不調に耐えながら、あたえられた夜着、二重をかけて寝る。
イダテンはこれまで通り、一番奥に寝かされていた。
部屋の造りからすると、イダテンが来るまでは三郎たちが、ここで寝ていたのだろう。

ミコが、すうすうと寝息をたてている。
隣の三郎は、寝返りをうつと歯ぎしりをはじめた。
ヨシは、時折目を覚まし、二人の夜着を掛け直してやっている。

ヨシも三郎も、そして幼いミコでさえ、イダテンを恐れるでもなく迎え入れているように見える。
だが、鬼の子を助けてなんになろう。
ヨシが仕えている国司の阿岐権守と、この地の実質上の支配者である郡司の宗我部国親がうまくいっていないことはイダテンでさえ知っている。
たまにしか街に出ず、他人と話をするのが苦手な、おばばの耳に入ってくるほどに有名な話なのだ。

イダテン自身も聞いたことがある。
むろん話してくれる者はいない。
山菜を取りに来た者が近くにいるイダテンに気づかず話題にしていたのだ。
ならば、イダテンを手なずけて宗我部兄弟の首を獲ろうと考えているのか。

     *

ミコが、おぼつかない手つきで箸と椀を握りしめ、粟と稗の飯をかきこんでいた。
イダテンは手をつけていない。
毒見を済ませていないからだ。

さっさと朝餉を終わらせた三郎は独楽の紐かけの工夫に余念がない。
母親のヨシが出がけに三郎に声をかけた。
「イダテンの相手もするんだよ」

「鬼なんかと遊べるかよ……あっっ、いてっ! 何すんだよー!」
振り返りもせず返事をした三郎が悲鳴を上げた。
ヨシが三郎の耳を引っ張っていた。

「夕餉を抜くよ」
「どうせまた、粟や稗だろ」
涙を浮かべながらも三郎は憎まれ口をたたいた。

「何て言い草だい。それさえ食べられない者がいるというのに」
ヨシは、妙に抑揚をつけて続けた。
「そうかい、そうかい。姫様に、なんていえばいいかねえ。今日だって聞かれるかもしれないよ。三郎はイダテンと仲良くやっていますかって」
その言葉に、三郎は、ばつが悪そうな表情をうかべた。

「足の腫れはまだ引いてないからね。遊びに連れて出るのは、もう少し先でいいんだよ」
 三郎はヨシの言葉に、しぶしぶうなずいた。

ヨシが出かけると、三郎はことさら大きな声で話しかけてきた。
「おお、ということだ。イダテン。わしも柴刈りと畑のあと独楽の勝負があるでな。飯はそこにある。食ったら椀に甕の水を入れておけ。ミコ、おまえもだ。すんだらついて来い」

「兄上、待って」
急いで残りの飯をかきこんだ、その頬には稗の粒がついている。
そのミコが三郎を追う前に、イダテンのかたわらに籠の形に折った紙を置いていった。

歌が書き込まれた反古紙をていねいに折ってある。
誰かに貰ったのだろう。紙を使って習い事ができるような内所には見えない。

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