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第五十話 鬼の力
しおりを挟む東対に姫はいなかった。
続いて北対に乗り込んだ。
襖障子や几帳が散乱し、おなごたちが倒れていた。
大人ばかりで姫の姿はない。
足元には二人の男も倒れている。
返り血を浴びた男が、その真ん中で血の滴る太刀を手に立っていた。
こやつが国親側の間諜だろう。
姫と対面したときにイダテンを東対に案内した男だ。
イダテンに気づき、太刀を振り上げてきた。
腹を蹴りあげ、孫廂まで飛ばした。
兵は乗り込んできていないが、火矢が廂や簀子に到達し始めたようだ。
曹司に流れこんできた煙が、床に倒れた者たちの姿をも覆い隠そうとする。
首に巻いていた布で鼻と口を塞ぎ、血だまりの床をかまわず進んだ。
邸の外に出ると、開けた視界の先に、裏山を登ろうとする老臣と姫の姿が見えた。
背負子を担いだ供の姿も見える。
姫は、鴇色の壺装束、市女笠に身を包んでいた。
邸の後方は大岩を幾重にも積み上げたような崖が尾根近くまで続いている。
イダテンは急いで後を追った。
だが、続いて邸の庭まで乗りこんできた宗我部の兵たちも姫の姿に気がついた。
姫には届かぬまでもと、後方からイダテンに矢を射掛けてきた。
息を止め、岩場を一気に駆け上がる。
その速さに敵は的を絞れなかった。
後方の騒ぎに気付いた姫と老臣が振り返る。
老臣たちが唖然とするほどの速さで、あっという間に距離を詰める。
「待っておったぞ」
老臣が、口もとを緩め、太刀の柄から手を放してイダテンを迎えた。
しかし、すぐさま厳しい表情に変わった。
老臣たちの前に立ちふさがる五尺(※約150cm)ほどの岩に跳びあがり、姫の手をとって岩の上まで引きあげる。
続けて老臣と供を急ぎ引きあげた。
わかってはいても訊かずにはいられなかったのだろう。
老臣は息を切らしながらも、イダテンだけに聞こえるように低い声で尋ねてきた。
「間におうたか?」
イダテンは小さく首を振った。
姫も、置かれている状況から予想はついたのだろう。
気丈にも唇を震わせながらほかの者の安否を尋ねてきた。
「お母様や三郎たちは、逃れることができたのでしょうか」
老臣が答えた。
「心配にはおよびませぬぞ。目立たぬよう二手に分かれたまで。惟規たちに守られ無事、厩の裏の抜け道を使われ脱出されておりましょう」
すでに間諜によって始末された、とは言えなかった。
そもそも抜け道などあるはずがない。
国親が建てたときにはあったかもしれないが、国司に提供する時点でつぶしてしまっただろう。
不安げに口を開いた姫を、飛んできた矢が黙らせた。
供の胸に突き刺さったのだ。
イダテンは、声もなく立ちつくす姫の頭を下げさせると、斃れた供に代わって背負子を手にした。
背負子には葛籠が括りつけてあった。
老臣は、懐から重たげな掛け守袋を取り出し、姫の肩に掛けた。
そして、太刀を抜くと、イダテンに向かって叫んだ。
「葛籠など、捨ておけ! 姫様を背負い、馬木まで走るのじゃ! 隆家様に助けを求めよ」
「じい! ……じいはどうするのです?」
姫の問いかけに、老臣は、笑って背を向けた。
「目にもの見せてやりますわ。鷲尾小次郎忠信が、まだまだ老いてはおらぬということを」
「ですが……」
老臣は、姫の言葉にも振り返らなかった。
姫の逃げる時を稼ぐために、ここに踏み留まろうというのだ。
飛んできた矢を太刀で払いのけ、大声で相手を挑発する。
しかし、降り注ぐ矢と、矛や太刀を手に岩場を登ってくる兵は増えるばかりだ。
イダテンは、左手で姫を、右手で葛籠を括りつけた背負子を肩に担ぐと、矢の届かぬところまで一気に駆け登った。
人間離れした力を目の当たりにした姫は言葉もない。
それにはかまわず、眼下の兵と飛んでくる矢に目を向けながら背負っていた革袋を前に回し、背負子に積んであった葛籠を捨て、そこに姫を背中合わせに座らせた。
さらに姫が落ちないように、葛籠を縛っていた縄を回す。
「たのんだぞ、イダテン!」
声が終わると同時に、再び人の体に矢が突き刺さる音がした。
姫の、
「じい!」
と、いう悲鳴が背中越しに響いた。
イダテンは振り返らなかった。
姫を背負い、鬼の力を開放し、死にものぐるいで岩壁を駆け登った。
その速さは敵の度肝をぬいた。
ころげ落ちるという言葉があるが、それは、ころげ上がるという言葉でもなければ表現できないほどの速さだった。
尾根にたどり着いて、姫の様子を確かめる。
気を失っているようだ。
騒がれぬだけ都合がよい。
暴れる心臓と悲鳴を上げる胸をなだめ、息を整え、足を休ませ、振り返って追手の様子を確かめる。
遠目の利くイダテンには見えた。
ついて来ることのできる者は誰一人いなかった。
それどころか、ほとんどの兵が、唖然として足を止めている。
目の前で起こったことが信じられないのだ。
*
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