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第六十九話 『奈落』
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【酒呑童子】
奈落の底に立つ、わしの法衣の袖を風が叩く。
わしは力を抑え込むのに苦労していた。
今にも暴走しそうだった。
足元に転がっていた、いくつかの小石が三寸ばかり宙に浮いていた。
目の前には、わしと死合う相手、牛鬼が立っている。
やつの顔は、緊張でこわばっていた。
奈落の底からは、青い空と周りを囲む目にもまぶしい白い岩しか目に入らない。
そこは異郷を思わせた。
すり鉢状の白い岩の上段から長と十二大師が奈落を見下ろしていた。
そこで、誰もが驚愕する出来事が起こった。
長が錫杖の石突き金具を足元にたたきつけ、死合の開始を告げようとした、その時。
牛鬼が宙に舞ったのである。
吹き飛ばされたと言った方が的確だろう。
後方の岩に叩きつけられたのだ。
手も脚も不自然な曲がり方をしていた。
おそらく生きてはいないだろう。
たとえ命は取り留めたとしても、もはや二度と動き回ることなどできまい。
――何が起こったかわからなかった。
わしは手をくだしていない。
誰もが唖然とするなか、遊環の音を響かせ、
錫杖を手に、ゆっくりと白い岩の石段を下りてきたのは、わが師だった。
そして、わしの前に立った。
「どちらが、この国一の法師か決めようではないか」
と、不敵に笑った。
師から挑まれたのである。
戯言でないことは状況を見ればわかる。
加えて肌を焼かれるような気迫に押され、わしはもとより、その場にいた誰一人として声をあげることができなかった。
前例のないことであった。
しかも、わが師の言葉とはとうてい思えなかった。
人前で、おのれの力を誇示するような師ではなかったからだ。
*
――師は、一思いに殺してはくれなかった。
なぶるように、じりじりと痛めつけられた。
見習い修験者ごときに護符などいらぬ、と用意などしていなかった。
まさかという思いから身を護る呪も遅れた。
あらゆる苦痛が押し寄せた。
なぜだ。なぜだ。
わしが、何をしたというのだ。
なぜ、鬼として生まれてきたというだけで、これほどまでに理不尽な目に遭わねばならないのだ。
奈落の底で、身をよじり、涙とよだれを垂れ流しながら、わしは今生を呪った。
聞かせてやろうとばかりに、師が呪を緩めた。
それまで一度もわしの母の事を口にしなかった師が、
他の人間とは違い、一度もわしを蔑んだことの無かった師が、
「鬼に生まれたことを恨め、おまえを売った母を恨め」と、口にした。
――母は、わしを売ったのか?
そんなはずはない。
死んだ方がましだという苦痛の中でも、その言葉は一言も欠けることなく頭に届いた。
聞き違えではないかと思った。
思いたかった。
だが、師は繰り返した――そして笑った。
許せなかった。
母を貶めた師を許せなかった。
怒りに震えた。
――血がたぎった。
痛みが霧散し、
頭の中が熱くしびれ始めた。
膨れ上がった怒りが頭の中を満たし、
限界まで達すると視界が暗転した。
――そして、何かが弾けた。
大気を裂くような高い音が耳朶をうった。
火にくべた木がはぜる、あの音を幾千倍にもしたような、あたりを圧する音が地をも震わせた。
目の前が赤く染まった。
ぬるぬるとした生暖かいものが顔を叩いた。
しぶきとなって降りかかって来た。
頭から滴り落ちた。
*
奈落の底に立つ、わしの法衣の袖を風が叩く。
わしは力を抑え込むのに苦労していた。
今にも暴走しそうだった。
足元に転がっていた、いくつかの小石が三寸ばかり宙に浮いていた。
目の前には、わしと死合う相手、牛鬼が立っている。
やつの顔は、緊張でこわばっていた。
奈落の底からは、青い空と周りを囲む目にもまぶしい白い岩しか目に入らない。
そこは異郷を思わせた。
すり鉢状の白い岩の上段から長と十二大師が奈落を見下ろしていた。
そこで、誰もが驚愕する出来事が起こった。
長が錫杖の石突き金具を足元にたたきつけ、死合の開始を告げようとした、その時。
牛鬼が宙に舞ったのである。
吹き飛ばされたと言った方が的確だろう。
後方の岩に叩きつけられたのだ。
手も脚も不自然な曲がり方をしていた。
おそらく生きてはいないだろう。
たとえ命は取り留めたとしても、もはや二度と動き回ることなどできまい。
――何が起こったかわからなかった。
わしは手をくだしていない。
誰もが唖然とするなか、遊環の音を響かせ、
錫杖を手に、ゆっくりと白い岩の石段を下りてきたのは、わが師だった。
そして、わしの前に立った。
「どちらが、この国一の法師か決めようではないか」
と、不敵に笑った。
師から挑まれたのである。
戯言でないことは状況を見ればわかる。
加えて肌を焼かれるような気迫に押され、わしはもとより、その場にいた誰一人として声をあげることができなかった。
前例のないことであった。
しかも、わが師の言葉とはとうてい思えなかった。
人前で、おのれの力を誇示するような師ではなかったからだ。
*
――師は、一思いに殺してはくれなかった。
なぶるように、じりじりと痛めつけられた。
見習い修験者ごときに護符などいらぬ、と用意などしていなかった。
まさかという思いから身を護る呪も遅れた。
あらゆる苦痛が押し寄せた。
なぜだ。なぜだ。
わしが、何をしたというのだ。
なぜ、鬼として生まれてきたというだけで、これほどまでに理不尽な目に遭わねばならないのだ。
奈落の底で、身をよじり、涙とよだれを垂れ流しながら、わしは今生を呪った。
聞かせてやろうとばかりに、師が呪を緩めた。
それまで一度もわしの母の事を口にしなかった師が、
他の人間とは違い、一度もわしを蔑んだことの無かった師が、
「鬼に生まれたことを恨め、おまえを売った母を恨め」と、口にした。
――母は、わしを売ったのか?
そんなはずはない。
死んだ方がましだという苦痛の中でも、その言葉は一言も欠けることなく頭に届いた。
聞き違えではないかと思った。
思いたかった。
だが、師は繰り返した――そして笑った。
許せなかった。
母を貶めた師を許せなかった。
怒りに震えた。
――血がたぎった。
痛みが霧散し、
頭の中が熱くしびれ始めた。
膨れ上がった怒りが頭の中を満たし、
限界まで達すると視界が暗転した。
――そして、何かが弾けた。
大気を裂くような高い音が耳朶をうった。
火にくべた木がはぜる、あの音を幾千倍にもしたような、あたりを圧する音が地をも震わせた。
目の前が赤く染まった。
ぬるぬるとした生暖かいものが顔を叩いた。
しぶきとなって降りかかって来た。
頭から滴り落ちた。
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