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第七十四話 『未練』
しおりを挟む【媼】
わが子が泣いている。
いくらあやしても、どうしたわけか泣きやまない。
ああ、この寒さのせいかとようやく思いあたり、目が覚めた。
夏とは思えぬ寒さがあたりを覆っていた。
上体を起こし、夜着としてかけていた穴の開いた衣の袖に手を通す。
「寝入れ 寝入れ 小法師 縁の 縁の下に むく犬の候ぞ……」
胸の前で赤子を抱えるように子守唄を口ずさんだ。
あの子を手放してから幾度繰り返したことだろう。
*
【酒呑童子】
子守唄が聞こえた。
わしは母に抱かれている、
姫君の酌に与るという思いがけない報酬に心地よく酔ったわしもいつしか眠りに落ちていた。
迂闊だった。
首筋に泡立つような悪寒を感じ、目を覚ました。
尋常ならざる霊気が山を覆っていた。
悪霊だ。
しかも呪を唱えるだけで調伏できるような小物ではなかった。
桁違いの力だ。
肌を刺すようなひりひりとした痛み。
地べたに押さえつけられるような圧力。
そして憎悪。
雲に覆われた空が赤く染まり始めた。
眼下に目を転じると、洛中のあちこちから火の手が上がっていた。
渦を巻いた炎も見える。
風も起きているようだ。
失火ではない。
四鬼の手下どもが動き出したのだ。
徒党を組んで火を放ったのだ。
都の住人の安否よりも、姫君がここにいることに安堵した。
内裏を襲うのは明日の未明と聞いていた。
その言葉は疑っていなかった。
壱支国が滅びたのが二年前の、明日だからである。
このわしをも騙したのだ――裏切りを恐れ。
雲に覆われ、月が陰った。
岩の上に敷いた畳の上で姫君が目を覚ました。
朝方の冷え込みに備え結界内を温かくしていたが、怨霊の霊気は、それをも上回るほどの寒気をもたらした
都からあがる火の手に気づいた姫君が、小さく声を上げた。
そして腐臭が漂ってきた。
闇の中、何かが近づいてくる。
またも結界を突破されたのだ。
だが、こたびは義守ではない。
呪の色はわしと同じだ。
近づいてくるのは人の気配だ。
しかも、数えきれない。
いや、正確には人ではあるまい。
しかし、何者であろうが、こうもやすやすと結界を破られたのでは、
「その法力、この世に敵うもの無し」
と謳われた酒呑童子の名が泣こうというものだ。
腐臭をまき散らしながら、ゆるりゆるりと何者かが岩場を登ってきた。
月を覆っていた雲が流れ、押し寄せる者たちの姿が見えた。
百や二百ではない。
境内にも、その姿が見える。
崖の岩にまでしがみついて、雲霞のごとく押し寄せてくる。
衣を身に着けていない者もいる。
先頭は、下帯ひとつになりながらも、くたびれた烏帽子を律儀にかぶっている男だった。
百姓だったに違いない。
どこで、見つけたのか鎌を握りしめていた。
男の目玉は腐り落ち、眼窩から幾匹もの蛆(うじ)がわき出ていた。
腐った足が岩を踏みしめ、ぐちゅぐちゅと音をたてる。
骨がむき出しになっている者もいる。
とうに成仏していなければならないはずの屍たちが動き回っていた。
両手を前に突きだしている者もいる。
その手首から腐った皮膚が、だらりと垂れさがっている。
腕を下ろすと、その皮膚が地面につくからだろう。
死してなお、そのようなことが気になるというのか。
目玉が腐り落ちた者も、暗黒の眼窩をこちらに向けて登ってくる。
目玉など、無くとも、われらのいる場所を察知できるようだ。
姫君の様子が気になった。
見ると眉を寄せている。
鬼のように夜目は利かずとも、異変が起きていることは、あたりを漂う腐臭ひとつとっても明らかだ。
「目を塞いでおりなされ」
姫君に声をかけると、ためらうことなく抱き上げ、磐座の下にある祭祀場の手前の岩に上がった。
義守と力比べをした力岩だ。
岩下の四方に御柱が立っている。
磐座の崖を背に、印を結び呪を唱えた。
義守の袂の中に忍ばせた式札に向け。
――騙されたのだ。
道摩は、神宝を発動させたのだ。
十種神宝を発動させれば、都はおろか、この国が亡ぶと道摩に諫言した。
民に罪はありませんぞ、同じ過ちを繰り返してはなりませんぞ、と。
道摩は、わしと約定を交わした。
我が国に攻め込む決定をした朝廷と帝に復讐するだけだ。
罪なき民には手を出さぬ。
十種神宝は使わぬ、と。
幼き頃より、お前は騙されやすいと言われてきた。
皆が、そう口をそろえた。
――そうではない。
騙されたふりをして来たのだ。
逆らうことが出来ぬのなら、そのほうが楽だったのだ。
道摩の約定は詭弁だとわかっていた。
だが、怨霊を呼び出したところで、式札一枚操れなかった道摩に、何ができよう。
十種神宝を発動させることなど出来るはずがない、と高をくくっていた。
しかし、阿岐国で非業の死を遂げた男の怨霊を呼び出すことができるなら話は別である。
思いつくであろうことは予想ができた。
その暴走を止めるには道摩の命を奪うほかない、とわかっていた。
にもかかわらず、小心者のわしにはできなかった。
全ては、わしがひき起こしたのだ。
わしの罪なのだ。
師が命を賭してまで残そうとした、その天分を磨こうともせず。
自ら命を断つこともできず。
ただただ、無為に生きてきた。
四鬼や、その手下どもが罪なき民の命を奪っていることを知りながら、止めようともせず傍観してきた。
なにより許されぬ罪は、わが法力を道摩に与えたことだ。
自在に使えるという約定を交わしたことだ。
神剣に、我が名と道摩の名を。さらには、その約定を刻んだことだ。
都を破壊しつくすのに二刻とかからないであろう、この国一の法力を。
罪なき民が、命を落とす。
罪深きわしに、共に暮らそうと声をかけてくれた男が、命を落とす。
鬼のわしに微笑みながら酌をしてくれた、やさしき姫君が命を落とす。
自死こそできなかったが、命など惜しくないと思っていた。
期待してくれる師も、愛してくれる者もいない、この世に未練などないのだ、と。
だが、共に暮らせずとも、この二人と同じ空の下で生きていくことが出来たら、と夢を見た。
わしには、そのような資格などありもせぬのに。
*
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