燕ヶ原レジデンス205号室

風見雛菊

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キッチンの3番目の引き出しは宝箱5

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「僕、今日ね。普通になりたいのに、普通じゃないことに気がついちゃったんです……あ、気がついて……」

 僕はぽつりぽつりと言葉をこぼす。あーさんなら、こういうことを聞いてくれるような気がしたからだ。

「ヒトは、普通になりたいんだな?」

 真剣な眼差しのあーさんの言葉に僕は静かに頷く。微かに考え込むような表情をしたあーさん。

「ヒトの普通の基準ってなんだ?」

 その言葉に、何も答えられなくなる。

「なんだろう……人に迷惑をかけない人で、趣向が人とずれてないことです……かな……」
「趣向なんて難しい言葉、よく知ってるなあ。俺が小学生の頃は絶対知らない言葉だけど」

 そう言ったあーさんは三番目の引き出しから紅茶を取り出して、マグカップを二人分用意した。

「まあ、難しいこと考える時はあったかいもんでも飲もう」

 湯気がふんわりと漂う、白に青色のストライプの柄が入ったマグカップを受け取る。カップの縁は思ったより熱い。きっと僕の指が冷え切っていたのだろう。
 マグカップを両手で握って、指先を温めた。

「でも、その基準で言うと、ヒトは普通だな」
「え? 僕、今、あーさんに迷惑、たくさんかけてますよ?」

 そういうと、あーさんは敬語、と言って怒った表情を作った。慌てて僕は敬語を治す。

「迷惑、かけてるでしょ?」
「……迷惑っているのは、誰かの生き方をわざと損なうような振る舞いのことを言うのであって、ヒトみたいにちゃんと生きようと努力することはささねーよ」

 そう言ってあーさんはカラリと笑う。夕日が差し込んであーさんの顔をオレンジ色に染めていた。僕はその時、この世で一番綺麗なものを見た気がした。

 ドキリと心臓がはずむ。この高鳴りはなんなのだ。本当は気がついているけれど自分の切り替えの速さに気が付きたくなくて、感情を押し込もうとする。

「でも、僕……多分みんなと趣味趣向が違うんだよ?」

 何の、とは言わなかった。それが原因で気持ち悪がられて、この家を追い出されてしまったら、僕は行き先がないからだ。

「ふうん? それが?」
「え?」

 あーさんはそれが特に問題でもなさそうに、コーヒーを飲み続ける。

「別に趣意趣向だって、人によってだろ。俺は自分の書く小説の中で、人を残虐に殺せると、めちゃくちゃテンションが上がる人間だけど、それに対して、ヒトは何も言わんだろ?」

 あーさんが言う通り、あーさんの書く小説の中では、たくさんの人が、無残の死を遂げる。最初に見た時は、こんな穏やか(口調は荒いけど)そうな人が、こんなものを書くんだ……とびっくりしてしまったけれど、その表現方法で、あーさんは多くの人の心を虜にしているわけだから、それはきっとすごいことなのだ。

「それは……。ちょっと違う気が……」
「違くねえよ。誰も、誰かの趣味趣向に口を出す権利はないってことが言いてえわけ。大体、人の趣味趣向に対して口出して、あなたは普通じゃないですね。なんて言ってくるやつにまともなやつはいねえんだから、無視だ。無視」

 っけ! と馬鹿にするように声を出したあーさんはびっくりするほど強い。
 涼やかにコーヒーを飲み続けるあーさんに羨望の眼差しを向ける。

「いいなあ……。僕もそんな風に、強くなりたいな」
「強いよ。お前は強い。両親がなくなっても、涙ひとつ流さずに、あの式場でシャンとしていたお前は強い。……そんでもって弱い。あの状態で誰にも頼ろうとしなかったからな」
「そうかな……」
「お前の父親も誰にも頼れずに、溜め込むタイプだった。きっと……お前も似たようなタイプなんだろうな」

 目を細めるあーさんはきっと今、僕のお父さんのことを思い出しているんだろう。お父さんは、あーさんにとって大切な人だったのかもしれない。

「だから、俺はお前が放って置けないんだ」

 そう言ってニッと笑ったあーさん。僕はその表情から全く目を離せなかった。
 胸がドキンと高鳴る。同級生の彼に感じたのと同じか、それ以上の高鳴りに、僕は一瞬呼吸を忘れてしまうくらい、惑う。

 ああ、無理だ。この感情が何か、僕は知っている。
 恋に落ちてしまったのだ。

 移り気もいいところだと今でも思う。

 人生で初めての失恋をした日にあーさんに恋をしてしまったのだから。

 ——でもそれは僕の人生の中で一番大きな恋だった。
 それからと言うものの、どんな人に出会っても、あの高鳴り以上の感覚をあーさん意外に味わうことはなかった。

 あーさんに対しては、記録を更新し続けている。

 舌が大人になって、コーヒーを飲めるようになった今でもキッチンの引き出し三番目には、多種多様な飲み物がたっぷり詰まっている。

 それはあーさんが僕を大切にしている証みたいだなと思って、開けるたびに嬉しくなって顔がにやけてしまう。
 元気がないときはここを開けると、一気に自己肯定感が上がる、僕だけの魔法の場所だ。

 同時に、心の底から怖くもなる。この恋心がバレてしまったら、あーさんは僕を軽蔑するだろう。いくらあーさんが酔狂で優しい人だとしても、僕を恐ると思う。そうしたらきっとあーさんは三段目に飲み物をぎゅうぎゅうに詰めてくれることはなくなる。

 ここは世界で一番優しい地獄だと、僕は思う。一番のときめきと、不安を混ぜ合わせた、曖昧な場所。
 この地獄で心穏やかに暮らすコツは、自分の感情に鈍くなることだ。好きだ、溢れそうになる気持ちを、心の奥に布団を圧縮するように押し込んで、何も知らない無垢な人間のふりをするのだ。

 ゆりかごの中で揺られる赤子のように、優しいまどろみの中で、現実から目を逸らしながら、僕はひとときの間だけ存在する天国の味を噛み締める。

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