燕ヶ原レジデンス205号室

風見雛菊

文字の大きさ
16 / 64

灰色の箱の中身1

しおりを挟む

 秋の麗かな日差しが部屋に差し込む。今日は小春日和だ。

 土曜日なので学校がない僕は休日だけど、あーさんは締め切りがまずいみたい。

 朝ご飯の時から、どこと無くイライラが隠し切れてなかった。トーストにバターを塗る時だって、いつもより雑だったし、コーヒー飲む時もマグカップからこぼしたりし舌打ちをしたり、何かがおかしかった。

 そんな時に「機嫌悪い?」って指摘すると「あ?」とドスの聞いた言葉が返ってきてしまうため、僕はにっこり笑顔でスルーする。

 長年一緒に暮らしてきた僕にとっての暮らしの知恵だ。

 朝食の皿が洗い終わり、ソファで本を読みながら一息ついていると、あーさんは僕に向かって仁王立ちで宣言した。

「良いか、今日は締め切り前だから、何がなんでも俺の部屋の扉を開けるなよ? 開けたら、外に放り投げるからな」
「わかってるよ。ってか、放り投げるって、小学校の時とおんなじ罰じゃん。もう僕あーさんより十センチくらい身長高いんだから、体格的に、あーさん放り投げられないでしょ。あーさんひょろいし」
「ニュアンスを汲み取れ」

 仏頂面でそう言い捨てたあーさんはそのまま、ずるずると猫背な歩き方で自室に篭ろうとする。

「あ、あーさん。これ。持っていって」

 僕はキッチンに小走りで向かい、あらかじめ握ってあったおにぎりとステンレスのポットいっぱいに入れたコーヒーとマグカップが乗ったお盆ををあーさんに手渡す。ちなみにおにぎりの具はあーさんが大好きな明太子だ。

「ん、サンキュ」
「がんばってね」

 僕はそうしてバタンとしまった扉に向かって、ひらひらと小さく手を振った。これで僕の朝の任務は完璧である。

 ——さて、何をしよう。

 本当は掃除機でもかけてしまいたいけれど、あーさんは執筆中だし、大きな音を立てると殺されてしまう。
 ウエスでも作るか。
 僕は浴室に重ねてあるタオルの中から糸が伸びたりしてボロボロになったものを引っ張り出しリビングに戻る。

 キッチンの下に置いてあった木製の裁縫箱の中から、裁ち鋏を取り出して、ジョキジョキと切り始める。
 ハンカチほどの大きさに切ったものをキッチンに置いてある、米びつほどの大きな瓶の中に入れておけば、汚れを見つけた時にいつでも拭き取れて便利だ。

 うん。完璧。めちゃくちゃ丁寧な暮らし。

 僕はあーさんと暮らすまで、バスタオルをウエスにするなんて文化、知らなかった。それまでの僕の家では必要になったものは買ってしまえば良いという考え方で動いていたからだ。

 多分、そういう暮らしが許されるうちは裕福だったのだろう。文字通り父は朝から晩まで働いていたし、母はいつも綺麗な格好をしていることが許されていた。
 そういえばお母さんはお嬢様育ちだったような気がするなあ。

 僕は母が料理をしている姿を見たことがなかった。いつでも出来合いのものを買ったりして、適当に済ませていた。母は僕を愛していたというより、餌を与える飼育員のように、僕を殺さないように、管理している、というニュアンスを感じさせる人だった。

 反対に、あーさんはほとんど出来合いのものを買わない。

「誰がどう作ったかわからんものをあんまり口に入れさせたくない」

 なんて言って、なんでも自分で作っちゃうんだよなあ。
 あーさんが初めて僕を自分の家に連れてきた時の料理、感動して今でも覚えている。
 ほうれん草のお味噌汁と出汁巻き卵、鮭を焼いたやつに白ごはん。これぞ、ザ・日本の食卓っていうメニューで感動した。

 その日僕はこの人がどんな人でも従わなくちゃいけないんだってすごく緊張して、心の奥から爪の先まで、冷たくして怯えていた。
 そんな時に食べた、あの味は僕の心をホロホロと溶かした。

 その後、あんまりにもそのメニューが美味しかったので、それを再現しようと練習した。
 自分で料理を作って初めて気が付いたのは、簡単なメニューでもとんでもなく、手がかかっているということだ。

 例えば、ほうれん草のお味噌汁はそのまま切って入れちゃうと、灰汁で苦くなっちゃうから、一度ゆがかなくちゃいけない。

 あーさんは出汁も、顆粒だしを使わない。きちんと煮干しから、とるのだ。

 煮干しは頭とはらわたをとって、前日から水に浸してだしをとる。火にかけてからも、沸騰する前に鍋からあげないとえぐみが出てしまうから、慣れないうちは火加減に苦労した。

 当たり前の食事にはとんでもない手間と労力がかかっているのだ。
 そんな小さな気遣いをあーさんは僕に惜しむことなく施してくれる。それは僕にとって、何にも替えがたい救いだった。

 思いを練り混んだ生活は温かくて心地がいい。
 あーさんも僕との生活を心地いいって感じてほしいな。そんな気持ちから、自分のことは自分でできる年齢になった僕は、家仕事へ熱心に取り込んでいるのだ。
 大切な人のために家事をすることはちっとも苦じゃない。
 最近僕は、あーさんが昔言っていた、人を大切にすることは自分大切にすることなんだってことが、体感としてわかるようになっていた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

エリート上司に完全に落とされるまで

琴音
BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。 彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。 そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。 社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。

同居人の距離感がなんかおかしい

さくら優
BL
ひょんなことから会社の同期の家に居候することになった昂輝。でも待って!こいつなんか、距離感がおかしい!

宵にまぎれて兎は回る

宇土為名
BL
高校3年の春、同級生の名取に告白した冬だったが名取にはあっさりと冗談だったことにされてしまう。それを否定することもなく卒業し手以来、冬は親友だった名取とは距離を置こうと一度も連絡を取らなかった。そして8年後、勤めている会社の取引先で転勤してきた名取と8年ぶりに再会を果たす。再会してすぐ名取は自身の結婚式に出席してくれと冬に頼んできた。はじめは断るつもりだった冬だが、名取の願いには弱く結局引き受けてしまう。そして式当日、幸せに溢れた雰囲気に疲れてしまった冬は式場の中庭で避難するように休憩した。いまだに思いを断ち切れていない自分の情けなさを反省していると、そこで別の式に出席している男と出会い…

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

男の娘と暮らす

守 秀斗
BL
ある日、会社から帰ると男の娘がアパートの前に寝てた。そして、そのまま、一緒に暮らすことになってしまう。でも、俺はその趣味はないし、あっても関係ないんだよなあ。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

fall~獣のような男がぼくに歓びを教える

乃木のき
BL
お前は俺だけのものだ__結婚し穏やかな家庭を気づいてきた瑞生だが、元恋人の禄朗と再会してしまう。ダメなのに逢いたい。逢ってしまえばあなたに狂ってしまうだけなのに。 強く結ばれていたはずなのに小さなほころびが2人を引き離し、抗うように惹きつけ合う。 濃厚な情愛の行く先は地獄なのか天国なのか。 ※エブリスタで連載していた作品です

処理中です...