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一章 鬼に繞乱(じょうらん)されしは
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俺は生まれてからずっと母上の屋敷に住んでいる。ここは先の帝のお気に入りだった屋敷で、目の前には華裳川の流れが、背後には山桜や紅葉の美しい山々が見える風光明媚な場所だ。母上が降嫁するときに祖父だった先の帝が新たな住まいとして贈ったもので、父上が存命のときからの俺の住まいでもある。
そんな屋敷の一角にいま、俺と金花が住んでいる。もともとこの一角は俺の居住区ではあるものの、そこに金花が、鬼が住むというのはおかしな話だ。しかし奥方として連れて来たのだから仕方ない。
金花を住まわせるにあたって、部屋近くに出入りできる者たちを制限することにした。以前は親しくしていた武士たちの出入りを自由にさせていたが、いまは女房たち以外固く禁じている。
「カラギは本当に嫉妬深い」
「そういうことじゃない。兄上のように、おまえの力に惑わされる武士が出ては困るのだ。彼らには母上を守る役目を担ってもらっている。それが腑抜けになってはたまらない」
「母上様は帝の御妹君、そうそう脅かされることはないのでは?」
「何も狙うのは盗っ人だけじゃない」
「あぁ、なるほど」
鬼である金花の手前、はっきりと言葉にするのは控えたのだが俺の表情から察したのだろう。「鬼対策ですか」と事も無げに口にした。
都では五代前の侘千帝のときから鬼の被害が続いている。大鬼の腕を斬り落とした後に一旦は静かになったものの、いまでも人々は鬼に怯え、貴族や御所も悩まされ続けていた。陰陽寮では様々な対策を行っているようだが、成果はあまりかんばしくない。
それもそのはずで、鬼が狙うものの数が多すぎた。あれでは守る側が圧倒的に不利だ。鬼が狙うのは金銀財宝……ではなく女たちで、一緒に着物や扇などを奪うこともあるがほとんどは女だけを攫っていく。しかも貴族の姫だけでなく庶民の女たちも狙われた。それでは見張っておくべき対象が多すぎて検非違使たちだけでは手に負えない。
そこで鬼や化け物の類いなら陰陽師だろうと陰陽寮に鬼退治の命令が下ったのだが、捕縛したり退けたりできたのは貴族の屋敷に入り込んだわずかな数の鬼たちだけだった。それでは心許ないということで、最近では武士たちの護衛団を雇う貴族たちが増えている。
そうして警備が強固になってきたからか、鬼を退けたという話がちらほらと聞こえるようになってきた。大抵は鴉丸や鬼切のような退魔の刀を持つ腕自慢の武士たちの手柄だ。
そのせいか、最近は陰陽寮と鬼退治を担う武士たちとの折り合いがよくない。本来は手を取り合って鬼に立ち向かうべきなのだが、陰陽寮は自尊心を傷つけられたと思っているのか協力的ではなかった。武士と一緒に鴉丸を振るう俺もよく思われていないようで、鬼の腕を献上しに行ったときも陰陽寮の者たちに嫌味を言われたくらいだ。
(関白家の者が武士のようなことをしているのだ、それだけでも不快なのだろうな)
陰陽寮にどう思われてもかまわないが、あの眼差しや物言いが貴族社会における俺への評価だということはよくわかっている。こんな弟では兄上たちに煙たがられても仕方がない。
「今朝方、女房たちがヒソヒソと話していたのは鬼のことでしたか。たしか四条河原のあたりで討ち取られたとか。別に隠さずともいいのですけれどねぇ」
「その、なんだ、おまえは鬼なのだから、そういう話は聞きたくないだろう?」
「ふふっ、そこまで気遣ってくださるなんて、あなたもわたしを好いてくださっているということでしょうか?」
「うるさい。一応、おまえは仮初めでも俺の奥方だ。それなりに気を遣うのは当然だろう。それが責任を取るということだ」
「ふふ、相変わらず真面目だこと」
金花がにこりと微笑みながら「別にかまいませんよ」と言葉を続けた。
「どこの鬼が討ち取られようと気になどしません。そもそもわたしは鬼たちにとって異質なもの。わたしも鬼たちに同族意識など持っていませんし」
「そういうものなのか?」
「えぇ。それに都の鬼に知り合いなどいませんしね」
「鬼とは人と随分違うのだな」
「そうですねぇ。そのせいでしょうかね、鬼と人が相入れず刃を向けあうのは」
「それは、わけもなく鬼が人を害したり女を攫ったりするからだろう」
俺の言葉に、金花が「なるほど」と声を上げた。
「都の人たちは鬼が女を攫う理由を知らないのですね」
「理由? それはあれだろう……鬼は人を食うと聞いている」
昔から鬼は人を攫って食らうと言われてきた。だから人を害し女を攫うのだと誰もが考えている。俺だけでなく朝廷もそう考えていた。
「まぁ、食らう場合もあるでしょうが、都の鬼たちは子を生ませるために女を攫っているのですよ」
「……なんだと?」
「そもそも鬼には男しかいません。鬼だけでは子を成すことができないのです。だから鬼は女を攫い、己の子を生ませる。ただし、鬼との交わりに耐えられる女は少ない。だから何人もの女を攫うのでしょうね」
「子を、生ませるためだと……?」
「はい」
なんでもないことのように金花は話しているが、そんな話は聞いたことがない。もしそれが真実なら広く知れ渡っていてもおかしくないはずだ。
「いや、それはおかしな話だ。それにたしか……そうだ、たしか鬼女と呼ばれる女の鬼がいたはずだ。それに東のほうには若い鬼女が出ると聞いたこともある」
「それも元は人の女でしょうね。鬼と交わると、稀に鬼に転ずることがあると聞いたことがあります。もしくは鬼に転じてしまうほどの怨念を抱いたか」
「……鬼と交わると、鬼になるのか?」
身に覚えがありすぎて、わずかに声が震えてしまった。俺は金花と出会って以来、数えきれないほど体を重ねている。普通ではあり得ないほどの回数に呆れを通り越してしまうくらいだ。もし鬼と交わることで鬼になるのであれば、俺は真っ先に鬼になるのではないだろうか。
「ふふっ、そう怯えなくても大丈夫ですよ。あなたは鬼の精を受け入れてはいないでしょう? いくら鬼に注ぎ込んでも鬼にはなりません。それにわたしは半鬼、そういう力は元からないでしょうし」
「そ、そうなのか」
「そんなことで怯えるなんて、かわいい方」
「う、うるさい! 誰だって鬼になるのではと思えば怯えもするだろう!」
思わず叫んでしまった俺に金花の表情は変わらない。しかし微笑みはいつもより少しだけ儚く、その表情に小さな違和感を覚えた。
「どうかしたのか?」
思わず尋ねた俺に「いいえ」と首を横に振る。
「それより母上様は都一美しい姫君と言われる方、たしかに気をつけたほうがよいかもしれませんね。なにせ鬼は美しいものが大好きですから」
「そうなのか?」
「えぇ。美しく柔らかい肌を好みますから、都の姫君は狙われやすいでしょう。もっとも小鬼程度であれば民の女でも十分だと思いますが」
「それで何人もの女が攫われているというのか……」
これは早々に朝廷へ伝えたほうがいいだろう。それで少しでも被害が減るのならいいが、武士たちだけでは人手が足りないかもしれない。それなら鴉丸を持つ俺も出張ったほうがいいだろうか。
そんなことをつらつらと考えていると、遠くのほうから甲高い悲鳴が聞こえてきた。方向からして東の棟のほうだ。
「母上の住まいか!」
俺はすぐさま鴉丸を手に部屋を飛び出した。悲鳴に驚いて廊下に集まる女房たちを押し退け、途中で武士たちに声をかけながら母上の元へと走る。そうしてたどり着いた部屋の周りは、嵐でも来たのかと言わんばかりの様子になっていた。
母上がいつも過ごしている部屋の前には、祖父が帝になる前から愛でていた雅な庭がある。奥には大きな池があり、美しく整えられた松や梅の木などが植えられているが、その半分ほどが無惨に折られ散らされていた。手前の小さな花が咲いていたところなど土が抉れてしまい花があったことすらわからない有り様だ。
「母上!」
「あぁ、唐多千の、そこに、そこに鬼が、」
母上の指さす先を見ると、俺よりわずかに上背のある大きな鬼が立っていた。狩衣に流れるような黒髪をしたその姿は、一見するとただの人のように見える。しかし額には二本の角がにょきりと生え、二つの目は爛々と赤く光っていた。
「よくぞ母上を守った」
「若君、ここは危のうございます! あの鬼はいつもの鬼とは何かが違います!」
母上の前で体を盾にしている顔馴染みの武士に声をかければ、そんな答えが返ってきた。屋敷にいる武士たちは腕もさることながら胆力に優れ、これまで何人もの鬼と対峙してきた強者ばかりだ。その武士が「何かが違う」と言うことはよほどの鬼かと思い、腹の底にグッと力を入れる。
「ほぅ、なかなかの使い手のようだな」
鬼の声がした。涼やかにも聞こえるが底知れぬ恐ろしさも含んでいる。たしかにこれまで対峙してきた鬼とは何かが違う、そう感じた。
「だが、我の相手ではない」
鬼がニィと笑った。それは金花と似た笑みだが、美しさよりも恐ろしさが上回る表情だった。
金花と初めて対峙したとき、敵う相手ではないと背筋を冷たいものが流れ落ちたのを思い出した。しかし今回は何も感じない。……いや、そうじゃない。鬼との力量の差が測れないのだ。そのせいで体は動かず、少しずつ血が滞っていくような感覚さえした。
(駄目だ、この鬼には絶対に敵わない)
力量さえわからないということは、そういうことだ。昔、太刀の師匠から何度もそう教えられたことを思い出す。力量の差が測れない相手に立ち向かうのは無謀でしかなく、武士として一番やってはいけないことだときつく教えられた。
せめて一太刀でも、と願うことすらできなかった。その証拠に、鴉丸の柄に右手を伸ばすことさえできない。
鬼には俺の状態がわかっているのだろう。再びニィと笑みを浮かべると、すぃと右手を伸ばした。美しい指先には鋭く尖った爪が並び、まるで刀身のように光っている。それに目を奪われた瞬間、鬼の指先から何かが飛び出すのが見えた。いや、見えたのではない。何かが動いたと感じた。
その何かがヒュンと短くも軽い音を立てて俺の頬をかすめた。衝撃で頬が切れたのを感じながらも、音が向かった場所を振り返った。そこには……母上がいる! 俺は咄嗟に地面を蹴った。自分では空を翔るほどの勢いだったが、当然ただの人にそんなことができるはずもない。駆け出す俺の目に、光る何かが母上の着物に伸びるのが見えた。
(母上が攫われてしまう!)
全身が凍りついた。金花の話では、攫われた女は鬼の子を生ませられるのだという。つまり母上がそんな目に遭うということだ。
(させてなるものか……!)
大きく一歩を踏み出しながら鴉丸の柄に右手を伸ばした。しかしそれでは間に合わない。絶望しかかったとき、何かが宙に広がるのが見えた。
ばさり。
舞ったのは美しい小袿だった。同時に低くも艶のある声が聞こえてくる。
「母上様、大丈夫ですか?」
床に落ちた小袿の向こうには、母上を腕に抱く金花の姿があった。
そんな屋敷の一角にいま、俺と金花が住んでいる。もともとこの一角は俺の居住区ではあるものの、そこに金花が、鬼が住むというのはおかしな話だ。しかし奥方として連れて来たのだから仕方ない。
金花を住まわせるにあたって、部屋近くに出入りできる者たちを制限することにした。以前は親しくしていた武士たちの出入りを自由にさせていたが、いまは女房たち以外固く禁じている。
「カラギは本当に嫉妬深い」
「そういうことじゃない。兄上のように、おまえの力に惑わされる武士が出ては困るのだ。彼らには母上を守る役目を担ってもらっている。それが腑抜けになってはたまらない」
「母上様は帝の御妹君、そうそう脅かされることはないのでは?」
「何も狙うのは盗っ人だけじゃない」
「あぁ、なるほど」
鬼である金花の手前、はっきりと言葉にするのは控えたのだが俺の表情から察したのだろう。「鬼対策ですか」と事も無げに口にした。
都では五代前の侘千帝のときから鬼の被害が続いている。大鬼の腕を斬り落とした後に一旦は静かになったものの、いまでも人々は鬼に怯え、貴族や御所も悩まされ続けていた。陰陽寮では様々な対策を行っているようだが、成果はあまりかんばしくない。
それもそのはずで、鬼が狙うものの数が多すぎた。あれでは守る側が圧倒的に不利だ。鬼が狙うのは金銀財宝……ではなく女たちで、一緒に着物や扇などを奪うこともあるがほとんどは女だけを攫っていく。しかも貴族の姫だけでなく庶民の女たちも狙われた。それでは見張っておくべき対象が多すぎて検非違使たちだけでは手に負えない。
そこで鬼や化け物の類いなら陰陽師だろうと陰陽寮に鬼退治の命令が下ったのだが、捕縛したり退けたりできたのは貴族の屋敷に入り込んだわずかな数の鬼たちだけだった。それでは心許ないということで、最近では武士たちの護衛団を雇う貴族たちが増えている。
そうして警備が強固になってきたからか、鬼を退けたという話がちらほらと聞こえるようになってきた。大抵は鴉丸や鬼切のような退魔の刀を持つ腕自慢の武士たちの手柄だ。
そのせいか、最近は陰陽寮と鬼退治を担う武士たちとの折り合いがよくない。本来は手を取り合って鬼に立ち向かうべきなのだが、陰陽寮は自尊心を傷つけられたと思っているのか協力的ではなかった。武士と一緒に鴉丸を振るう俺もよく思われていないようで、鬼の腕を献上しに行ったときも陰陽寮の者たちに嫌味を言われたくらいだ。
(関白家の者が武士のようなことをしているのだ、それだけでも不快なのだろうな)
陰陽寮にどう思われてもかまわないが、あの眼差しや物言いが貴族社会における俺への評価だということはよくわかっている。こんな弟では兄上たちに煙たがられても仕方がない。
「今朝方、女房たちがヒソヒソと話していたのは鬼のことでしたか。たしか四条河原のあたりで討ち取られたとか。別に隠さずともいいのですけれどねぇ」
「その、なんだ、おまえは鬼なのだから、そういう話は聞きたくないだろう?」
「ふふっ、そこまで気遣ってくださるなんて、あなたもわたしを好いてくださっているということでしょうか?」
「うるさい。一応、おまえは仮初めでも俺の奥方だ。それなりに気を遣うのは当然だろう。それが責任を取るということだ」
「ふふ、相変わらず真面目だこと」
金花がにこりと微笑みながら「別にかまいませんよ」と言葉を続けた。
「どこの鬼が討ち取られようと気になどしません。そもそもわたしは鬼たちにとって異質なもの。わたしも鬼たちに同族意識など持っていませんし」
「そういうものなのか?」
「えぇ。それに都の鬼に知り合いなどいませんしね」
「鬼とは人と随分違うのだな」
「そうですねぇ。そのせいでしょうかね、鬼と人が相入れず刃を向けあうのは」
「それは、わけもなく鬼が人を害したり女を攫ったりするからだろう」
俺の言葉に、金花が「なるほど」と声を上げた。
「都の人たちは鬼が女を攫う理由を知らないのですね」
「理由? それはあれだろう……鬼は人を食うと聞いている」
昔から鬼は人を攫って食らうと言われてきた。だから人を害し女を攫うのだと誰もが考えている。俺だけでなく朝廷もそう考えていた。
「まぁ、食らう場合もあるでしょうが、都の鬼たちは子を生ませるために女を攫っているのですよ」
「……なんだと?」
「そもそも鬼には男しかいません。鬼だけでは子を成すことができないのです。だから鬼は女を攫い、己の子を生ませる。ただし、鬼との交わりに耐えられる女は少ない。だから何人もの女を攫うのでしょうね」
「子を、生ませるためだと……?」
「はい」
なんでもないことのように金花は話しているが、そんな話は聞いたことがない。もしそれが真実なら広く知れ渡っていてもおかしくないはずだ。
「いや、それはおかしな話だ。それにたしか……そうだ、たしか鬼女と呼ばれる女の鬼がいたはずだ。それに東のほうには若い鬼女が出ると聞いたこともある」
「それも元は人の女でしょうね。鬼と交わると、稀に鬼に転ずることがあると聞いたことがあります。もしくは鬼に転じてしまうほどの怨念を抱いたか」
「……鬼と交わると、鬼になるのか?」
身に覚えがありすぎて、わずかに声が震えてしまった。俺は金花と出会って以来、数えきれないほど体を重ねている。普通ではあり得ないほどの回数に呆れを通り越してしまうくらいだ。もし鬼と交わることで鬼になるのであれば、俺は真っ先に鬼になるのではないだろうか。
「ふふっ、そう怯えなくても大丈夫ですよ。あなたは鬼の精を受け入れてはいないでしょう? いくら鬼に注ぎ込んでも鬼にはなりません。それにわたしは半鬼、そういう力は元からないでしょうし」
「そ、そうなのか」
「そんなことで怯えるなんて、かわいい方」
「う、うるさい! 誰だって鬼になるのではと思えば怯えもするだろう!」
思わず叫んでしまった俺に金花の表情は変わらない。しかし微笑みはいつもより少しだけ儚く、その表情に小さな違和感を覚えた。
「どうかしたのか?」
思わず尋ねた俺に「いいえ」と首を横に振る。
「それより母上様は都一美しい姫君と言われる方、たしかに気をつけたほうがよいかもしれませんね。なにせ鬼は美しいものが大好きですから」
「そうなのか?」
「えぇ。美しく柔らかい肌を好みますから、都の姫君は狙われやすいでしょう。もっとも小鬼程度であれば民の女でも十分だと思いますが」
「それで何人もの女が攫われているというのか……」
これは早々に朝廷へ伝えたほうがいいだろう。それで少しでも被害が減るのならいいが、武士たちだけでは人手が足りないかもしれない。それなら鴉丸を持つ俺も出張ったほうがいいだろうか。
そんなことをつらつらと考えていると、遠くのほうから甲高い悲鳴が聞こえてきた。方向からして東の棟のほうだ。
「母上の住まいか!」
俺はすぐさま鴉丸を手に部屋を飛び出した。悲鳴に驚いて廊下に集まる女房たちを押し退け、途中で武士たちに声をかけながら母上の元へと走る。そうしてたどり着いた部屋の周りは、嵐でも来たのかと言わんばかりの様子になっていた。
母上がいつも過ごしている部屋の前には、祖父が帝になる前から愛でていた雅な庭がある。奥には大きな池があり、美しく整えられた松や梅の木などが植えられているが、その半分ほどが無惨に折られ散らされていた。手前の小さな花が咲いていたところなど土が抉れてしまい花があったことすらわからない有り様だ。
「母上!」
「あぁ、唐多千の、そこに、そこに鬼が、」
母上の指さす先を見ると、俺よりわずかに上背のある大きな鬼が立っていた。狩衣に流れるような黒髪をしたその姿は、一見するとただの人のように見える。しかし額には二本の角がにょきりと生え、二つの目は爛々と赤く光っていた。
「よくぞ母上を守った」
「若君、ここは危のうございます! あの鬼はいつもの鬼とは何かが違います!」
母上の前で体を盾にしている顔馴染みの武士に声をかければ、そんな答えが返ってきた。屋敷にいる武士たちは腕もさることながら胆力に優れ、これまで何人もの鬼と対峙してきた強者ばかりだ。その武士が「何かが違う」と言うことはよほどの鬼かと思い、腹の底にグッと力を入れる。
「ほぅ、なかなかの使い手のようだな」
鬼の声がした。涼やかにも聞こえるが底知れぬ恐ろしさも含んでいる。たしかにこれまで対峙してきた鬼とは何かが違う、そう感じた。
「だが、我の相手ではない」
鬼がニィと笑った。それは金花と似た笑みだが、美しさよりも恐ろしさが上回る表情だった。
金花と初めて対峙したとき、敵う相手ではないと背筋を冷たいものが流れ落ちたのを思い出した。しかし今回は何も感じない。……いや、そうじゃない。鬼との力量の差が測れないのだ。そのせいで体は動かず、少しずつ血が滞っていくような感覚さえした。
(駄目だ、この鬼には絶対に敵わない)
力量さえわからないということは、そういうことだ。昔、太刀の師匠から何度もそう教えられたことを思い出す。力量の差が測れない相手に立ち向かうのは無謀でしかなく、武士として一番やってはいけないことだときつく教えられた。
せめて一太刀でも、と願うことすらできなかった。その証拠に、鴉丸の柄に右手を伸ばすことさえできない。
鬼には俺の状態がわかっているのだろう。再びニィと笑みを浮かべると、すぃと右手を伸ばした。美しい指先には鋭く尖った爪が並び、まるで刀身のように光っている。それに目を奪われた瞬間、鬼の指先から何かが飛び出すのが見えた。いや、見えたのではない。何かが動いたと感じた。
その何かがヒュンと短くも軽い音を立てて俺の頬をかすめた。衝撃で頬が切れたのを感じながらも、音が向かった場所を振り返った。そこには……母上がいる! 俺は咄嗟に地面を蹴った。自分では空を翔るほどの勢いだったが、当然ただの人にそんなことができるはずもない。駆け出す俺の目に、光る何かが母上の着物に伸びるのが見えた。
(母上が攫われてしまう!)
全身が凍りついた。金花の話では、攫われた女は鬼の子を生ませられるのだという。つまり母上がそんな目に遭うということだ。
(させてなるものか……!)
大きく一歩を踏み出しながら鴉丸の柄に右手を伸ばした。しかしそれでは間に合わない。絶望しかかったとき、何かが宙に広がるのが見えた。
ばさり。
舞ったのは美しい小袿だった。同時に低くも艶のある声が聞こえてくる。
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