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一章 鬼に繞乱(じょうらん)されしは
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あの鬼が現れるのは同じ場所に違いない。そう目星をつけた俺と師匠は、鬼が荒らした庭を見渡せる場所に陣取った。普段なら大勢の女房たちが行き交うだろう廊下に高灯台で火を灯し、暗闇に包まれた庭をじっと見る。師匠は髭切を抱え、柱に背を預けて目を瞑ったままだ。まさか寝てはいないだろうが……いや、師匠なら寝ているかもしれない。不意に昔のことを思い出した。
俺がまだ半人前だったとき、大鬼退治に連れて行かれたことがあった。あのときも直前まで呑気に屯食を食べていた。師匠は鬼退治だといっても普段と何も変わらない。それが羨ましくもあり敵わないなと思うところでもあった。
「お師匠は胆力の強い人ですねぇ」
気配もなく近づいた金花が、俺の耳元でそう囁いた。耳にかかる熱い吐息に胸がどくりと鳴る。そんな自分を悟られまいと息を詰めながらこくりと頷いた。
「俺もいつかは師匠のようになりたいと思っている」
「カラギも同じくらい胆力が強いですよ?」
「師匠に比べればまだまだだ」
「そうですか?」
問いかけるように小さく吐き出された息に耳をくすぐられ背筋がぞわりとした。いつもの姫君らしい装束ではないというのに、金花の吐息を感じるだけで体がじんわりと熱を持つ。
(いまのほうが初対面のときを思い出して、どうにもよくない)
あのとき初めて鬼と、男と肌を重ねた。その衝撃と快感は未だに忘れられない。あれから何度も金花と肌を重ねているが、こうして初めてのときのことを思い出すだけで体の芯が疼いた。鬼を待ち構えている大事なときだというのに心も体も淫らな熱に侵されてしまう。我ながらなんと情けなくなったんだとため息が漏れた。
「ふふっ、カラギがかわいすぎて困ってしまいます」
「……っ」
俺の変化に気づいた金花が思わせぶりに二の腕を撫でる。
「御所では駄目だと言っただろう!」
「わかっていますよ。けれどカラギがかわいいから、つい」
ふふっと小声で笑う金花をぎろりと睨んだところで、金花が庭を見ていることに気がついた。俺も視線を向けるがそこには真っ暗闇しかない。高灯台の灯りでぼんやりと見えている場所にも変わったところはなかった。
「金花?」
なおもじっと庭の奥を見つめる金花に声をかけるのと、「ようやくお出ましか」と師匠が口にしたのはほぼ同時だった。
「師匠、……ッ!?」
師匠の言葉を確認するため振り返ろうとしたが、庭の奥に異様な気配を感じて振り返ることができなかった。咄嗟に鴉丸を掴んだ右の手のひらにじわりと汗が滲む。構えた体はそれ以上動かず、つつつと首筋を嫌な汗が流れた。
「ほう。おもしろい気配がすると来てみれば、あのときの武士ではないか」
「……ッ」
暗闇からぬっと出てきた赤い目に背筋がぞくりとした。気がつけば二、三歩後ずさりしていたようで、金花の腕に鴉丸を握り締めた右腕がこつりとぶつかる。
「ほう! こりゃまた大層な鬼が出たもんだ。なるほどなァ、弟子が手こずるのも納得がいく」
俺とは違い、師匠はいつもどおりの口振りだ。暗闇に浮かぶ赤い目が師匠に向いた。気のせいでなければ睨むように細くなっている。
「……その太刀は、髭切か?」
「ほほう。鬼の連中にも有名とはありがたいことだ」
「その太刀、都を去ったと聞いていたが」
「東でのんびりしていたって言うのに、どこぞの鬼が御所で暴れたりするから呼び戻されちまってなァ」
「なるほど」
鬼の赤い目がぎらりと光った。暗闇からゆっくりと二本の角が現れる。あたりは真っ暗だというのにぼんやりと光る角はそれだけで恐ろしく、より一層不気味さを増していた。
「これは興味深い。いやはや、鬼を脅かす太刀が二揃えもあるとはな。それに下賤な輩まで揃っているときた」
暗闇から完全に姿を現した鬼がニィと笑った。その目は明らかに金花を見ている。屋敷で見たときとは違う男の格好をしていても鬼には金花の正体がわかるのだろう。
「なるほど、この前の羽根はおまえの仕業だったか。くっくっ、下賤な者が考えそうなことだ。しかし、あのお方の耳に入ればただでは済まぬぞ?」
鬼の言葉は金花に向けられたものだろうが、俺も金花も返事をすることはない。下手に返事をして師匠に金花が鬼であると勘づかれるわけにはいかないからだ。
くっくっと笑っていた鬼がニィと張りついたような笑みを浮かべた。そうしてゆっくりと右手を前に突き出す。
(何か来る!)
咄嗟に金花を右へと突き飛ばし、自分は逆のほうへと大きく飛び退いた。後ろにいた師匠は俺より早く勘づいたようで、ひょいと身軽く飛び退いたのを視界の端で確認する。
飛び退きながらも鬼の姿を捉えていた俺の目にほんの一瞬、鬼の爪がぎゅんと伸びたように見えた。「あっ」と思ったときには鬼の指先から何かが飛んだが、あまりの速さに目で追うことができない。代わりにヒュンと空気を裂くような音が聞こえ、少し離れたところでガキンと何かにぶつかるような音がした。
「師匠!」
振り返ると師匠が髭切で何かを切り捨てている。加勢しなくてはと思ったが「来るな!」という叫び声ににグッと踏み止まった。
「ほう、斬れ味は落ちていないようだな」
「当たり前だ。代々手入れは欠かさなかったし、八幡大菩薩にご挨拶もしてきたからな」
「なるほど。しかし担い手のほうは昔のままとはいかないはずだ。人は我らより命が短い。あのとき髭切を振るっていた者は相当な強者であったと聞くが、すでにこの世にはおるまい」
「あー、そりゃ俺のご先祖様だな。なんだおまえ、棘希が都にいたときにもいたのか?」
「噂に聞いただけだ。なるほど、あの棘希の腕を落とした者の子孫か」
いつの間にか元の長さに戻っていた爪を真っ赤な舌がぺろりと舐めている。そんな鬼と師匠の会話から、俺はようやく棘希という鬼のことを思い出した。
(そうだ、棘希は嗣名が腕を斬り落とした大鬼の名じゃないか!)
師匠は貴族の身ではあるが高明な武士の血を受け継いでいる。有名な退魔の太刀である髭切を受け継いでいるのはそのためで、当時髭切を携えていた嗣名と呼ばれる鬼討伐隊の隊長こそ師匠の先祖だった。
貴族からは煙たがれるだろうが、鬼退治をしてきた武士の血に誇りを持っている――そう話す師匠はとても眩しく、俺にも武士の血が流れていればよかったのにと何度も思った。
「ご先祖様も大したもんだなァ。鬼にまで名が知られているとは、子孫として鼻が高い」
「さて、子孫が同じだけの腕前を持っているかはわからんがな」
ニィと笑ったままの鬼が、今度は俺を目掛けて手を突き出した。長く伸ばした爪で襲うのだろうと予想した俺は、鴉丸を抜きながら後ろへと飛び退く。間合いを十分に取れば避けられない攻撃ではないと考えたからだ。しかし俺に向かってきたのは鋭い爪ではなく無数の黒いものだった。
「な……ッ!?」
鳥か? 一瞬小さな鳥の群れかと思った。しかし鳥にしては一つ一つがやけに小さい。それに羽ばたく音はなく、代わりに何かが擦れるような音が迫ってくるのがわかった。
「これは……蜂か!?」
擦れる音は蜂の羽音だ。まさかこんな夜更けに蜂が飛んでいるとは思わず呆気にとられる。
黒々とした塊は思ったよりも大きく、相当な数でこちらに向かってきていることがわかった。あんな小さい蜂を一匹ずつ刀で斬って捨てることなどできるはずがない。構えた鴉丸はそのままに、どうすべきか迷いながら黒い塊を見据えた。
ぶわり、ざざざざざーー!
真っ黒な塊が大きく広がったかと思えば、次の瞬間にはまた塊となって俺へと向かってくる。その羽音は凄まじいもので、音を聞くだけで首がぞわぞわと総毛立つほどだった。
これまで多くの鬼と対峙してきたが、蜂と向かい合ったことは一度もない。どう対処すべきか悩みながら抜いた刀身をぐぃと引いたところで「身を低くして袖で頭を覆って」という声が聞こえた。
考える前に体が動いた。咄嗟に地面に額が触れるほど身を屈め左の袖で頭を覆う。すると少し離れたところでびちゃりと何かが潰れる音がした。その音に誘われるようにざざざと羽音を響かせながら黒い塊が音がしたほうへと向かっていく。
(いったい何が……?)
袖の下から羽音が向かうほうを見れば、行き先が金花のほうだということに気がついた。それなのに金花は平然と立っている。慌てて「逃げろ!」と叫んだが、少し離れた地面に何かが落ちていることに気がついた。しばらくすると、かすかに甘い香りがし始める。誰かが焚きしめた香ではなく……これは枇杷の実だ。
「……枇杷とは、用意がいいな」
鬼の声がした。気のせいでなければ少しばかり苛立っているように聞こえる。
「御所へ来る前に、どなたかの屋敷の庭先に熟れた枇杷がありましてね。カラギと食べようともいできたのですが、意外なところで役に立ったようですね」
赤い目の鬼が金花を見据えたような気がした。口元はニィと笑んだままだが、不穏な気配は先ほどより強くなっている。
「蜂に枇杷ってのは、まるでどこぞの公卿様だなァ」
師匠のところへ迫っていた蜂も枇杷の甘い香りに引き寄せられたのか周囲には一匹も飛んでいない。髭切をぶんと一振りした師匠は、蜂を見ながら顎を撫で感心したように「なるほど、あの話は本当だったか」と口にした。
「そういえば蜂を大層愛でられていた公卿がいましたね。そうそう、蜂飼大臣でしたか」
「おー、そうだそうだ。御所で蜂の群れに出くわしたとき、枇杷でおとなしくさせたって話は有名だなァ」
「おやまぁ、そんなことが。その話は知りませんでしたが、枇杷をもいでおいてよかったということですね」
二人が話している間に枇杷で満足したのか、黒い塊だった蜂が今度は蜘蛛の子を散らすようにあちこちに飛んで行った。それらをじっと見ていた鬼が金花に視線を向ける。
「小賢しい真似を。我が虫を操ると知っていたのだろう?」
「さて、下賤なわたしには高貴な鬼のことなどわからぬこと。けれど、あなたが人の苦しむ様を好物にしていることはわかりました。とくに虫の毒でもがき苦しむのを眺めるのがお好きなのでしょう? 爪に虫の毒を仕込むくらいですからね」
「……不愉快な奴だ」
爪と聞いてドキッとした。爪に傷をつけられたとき、手当をしながら毒があることに気づいたに違いない。
鬼の赤い目は完全に金花を捉えている。このままでは金花までも襲われかねない。同じ鬼だとしても金花の鬼の部分は半分、おそらく赤い目の鬼には勝てないだろう。体を起こした俺は、震える足に力を入れながら金花に近づいた。もし赤い目の鬼が何かしようとしても俺が鴉丸をもって防いでみせる。心の中でそう誓いながら柄をぎゅうと握り締めた。
そんな俺の動きに気づいたのか金花の横顔が少しだけ笑った。しかしすぐさま緩めた口をきゅぅと結ぶ。
(金花も緊張しているのか)
金花のこんな表情は初めて見た。いつもニィと笑みを浮かべ、母上が攫われかけたときも平然としていた。それなのにいまはひどく緊張しているような顔をしている。
(やはり金花を守るのは俺の役目だ)
ざざっと音を立て金花を庇うように立ち塞がった。金花を背後に鴉丸を構え直した俺は、嫌な汗を背中に感じながらも赤い目の鬼を見据えた。
俺がまだ半人前だったとき、大鬼退治に連れて行かれたことがあった。あのときも直前まで呑気に屯食を食べていた。師匠は鬼退治だといっても普段と何も変わらない。それが羨ましくもあり敵わないなと思うところでもあった。
「お師匠は胆力の強い人ですねぇ」
気配もなく近づいた金花が、俺の耳元でそう囁いた。耳にかかる熱い吐息に胸がどくりと鳴る。そんな自分を悟られまいと息を詰めながらこくりと頷いた。
「俺もいつかは師匠のようになりたいと思っている」
「カラギも同じくらい胆力が強いですよ?」
「師匠に比べればまだまだだ」
「そうですか?」
問いかけるように小さく吐き出された息に耳をくすぐられ背筋がぞわりとした。いつもの姫君らしい装束ではないというのに、金花の吐息を感じるだけで体がじんわりと熱を持つ。
(いまのほうが初対面のときを思い出して、どうにもよくない)
あのとき初めて鬼と、男と肌を重ねた。その衝撃と快感は未だに忘れられない。あれから何度も金花と肌を重ねているが、こうして初めてのときのことを思い出すだけで体の芯が疼いた。鬼を待ち構えている大事なときだというのに心も体も淫らな熱に侵されてしまう。我ながらなんと情けなくなったんだとため息が漏れた。
「ふふっ、カラギがかわいすぎて困ってしまいます」
「……っ」
俺の変化に気づいた金花が思わせぶりに二の腕を撫でる。
「御所では駄目だと言っただろう!」
「わかっていますよ。けれどカラギがかわいいから、つい」
ふふっと小声で笑う金花をぎろりと睨んだところで、金花が庭を見ていることに気がついた。俺も視線を向けるがそこには真っ暗闇しかない。高灯台の灯りでぼんやりと見えている場所にも変わったところはなかった。
「金花?」
なおもじっと庭の奥を見つめる金花に声をかけるのと、「ようやくお出ましか」と師匠が口にしたのはほぼ同時だった。
「師匠、……ッ!?」
師匠の言葉を確認するため振り返ろうとしたが、庭の奥に異様な気配を感じて振り返ることができなかった。咄嗟に鴉丸を掴んだ右の手のひらにじわりと汗が滲む。構えた体はそれ以上動かず、つつつと首筋を嫌な汗が流れた。
「ほう。おもしろい気配がすると来てみれば、あのときの武士ではないか」
「……ッ」
暗闇からぬっと出てきた赤い目に背筋がぞくりとした。気がつけば二、三歩後ずさりしていたようで、金花の腕に鴉丸を握り締めた右腕がこつりとぶつかる。
「ほう! こりゃまた大層な鬼が出たもんだ。なるほどなァ、弟子が手こずるのも納得がいく」
俺とは違い、師匠はいつもどおりの口振りだ。暗闇に浮かぶ赤い目が師匠に向いた。気のせいでなければ睨むように細くなっている。
「……その太刀は、髭切か?」
「ほほう。鬼の連中にも有名とはありがたいことだ」
「その太刀、都を去ったと聞いていたが」
「東でのんびりしていたって言うのに、どこぞの鬼が御所で暴れたりするから呼び戻されちまってなァ」
「なるほど」
鬼の赤い目がぎらりと光った。暗闇からゆっくりと二本の角が現れる。あたりは真っ暗だというのにぼんやりと光る角はそれだけで恐ろしく、より一層不気味さを増していた。
「これは興味深い。いやはや、鬼を脅かす太刀が二揃えもあるとはな。それに下賤な輩まで揃っているときた」
暗闇から完全に姿を現した鬼がニィと笑った。その目は明らかに金花を見ている。屋敷で見たときとは違う男の格好をしていても鬼には金花の正体がわかるのだろう。
「なるほど、この前の羽根はおまえの仕業だったか。くっくっ、下賤な者が考えそうなことだ。しかし、あのお方の耳に入ればただでは済まぬぞ?」
鬼の言葉は金花に向けられたものだろうが、俺も金花も返事をすることはない。下手に返事をして師匠に金花が鬼であると勘づかれるわけにはいかないからだ。
くっくっと笑っていた鬼がニィと張りついたような笑みを浮かべた。そうしてゆっくりと右手を前に突き出す。
(何か来る!)
咄嗟に金花を右へと突き飛ばし、自分は逆のほうへと大きく飛び退いた。後ろにいた師匠は俺より早く勘づいたようで、ひょいと身軽く飛び退いたのを視界の端で確認する。
飛び退きながらも鬼の姿を捉えていた俺の目にほんの一瞬、鬼の爪がぎゅんと伸びたように見えた。「あっ」と思ったときには鬼の指先から何かが飛んだが、あまりの速さに目で追うことができない。代わりにヒュンと空気を裂くような音が聞こえ、少し離れたところでガキンと何かにぶつかるような音がした。
「師匠!」
振り返ると師匠が髭切で何かを切り捨てている。加勢しなくてはと思ったが「来るな!」という叫び声ににグッと踏み止まった。
「ほう、斬れ味は落ちていないようだな」
「当たり前だ。代々手入れは欠かさなかったし、八幡大菩薩にご挨拶もしてきたからな」
「なるほど。しかし担い手のほうは昔のままとはいかないはずだ。人は我らより命が短い。あのとき髭切を振るっていた者は相当な強者であったと聞くが、すでにこの世にはおるまい」
「あー、そりゃ俺のご先祖様だな。なんだおまえ、棘希が都にいたときにもいたのか?」
「噂に聞いただけだ。なるほど、あの棘希の腕を落とした者の子孫か」
いつの間にか元の長さに戻っていた爪を真っ赤な舌がぺろりと舐めている。そんな鬼と師匠の会話から、俺はようやく棘希という鬼のことを思い出した。
(そうだ、棘希は嗣名が腕を斬り落とした大鬼の名じゃないか!)
師匠は貴族の身ではあるが高明な武士の血を受け継いでいる。有名な退魔の太刀である髭切を受け継いでいるのはそのためで、当時髭切を携えていた嗣名と呼ばれる鬼討伐隊の隊長こそ師匠の先祖だった。
貴族からは煙たがれるだろうが、鬼退治をしてきた武士の血に誇りを持っている――そう話す師匠はとても眩しく、俺にも武士の血が流れていればよかったのにと何度も思った。
「ご先祖様も大したもんだなァ。鬼にまで名が知られているとは、子孫として鼻が高い」
「さて、子孫が同じだけの腕前を持っているかはわからんがな」
ニィと笑ったままの鬼が、今度は俺を目掛けて手を突き出した。長く伸ばした爪で襲うのだろうと予想した俺は、鴉丸を抜きながら後ろへと飛び退く。間合いを十分に取れば避けられない攻撃ではないと考えたからだ。しかし俺に向かってきたのは鋭い爪ではなく無数の黒いものだった。
「な……ッ!?」
鳥か? 一瞬小さな鳥の群れかと思った。しかし鳥にしては一つ一つがやけに小さい。それに羽ばたく音はなく、代わりに何かが擦れるような音が迫ってくるのがわかった。
「これは……蜂か!?」
擦れる音は蜂の羽音だ。まさかこんな夜更けに蜂が飛んでいるとは思わず呆気にとられる。
黒々とした塊は思ったよりも大きく、相当な数でこちらに向かってきていることがわかった。あんな小さい蜂を一匹ずつ刀で斬って捨てることなどできるはずがない。構えた鴉丸はそのままに、どうすべきか迷いながら黒い塊を見据えた。
ぶわり、ざざざざざーー!
真っ黒な塊が大きく広がったかと思えば、次の瞬間にはまた塊となって俺へと向かってくる。その羽音は凄まじいもので、音を聞くだけで首がぞわぞわと総毛立つほどだった。
これまで多くの鬼と対峙してきたが、蜂と向かい合ったことは一度もない。どう対処すべきか悩みながら抜いた刀身をぐぃと引いたところで「身を低くして袖で頭を覆って」という声が聞こえた。
考える前に体が動いた。咄嗟に地面に額が触れるほど身を屈め左の袖で頭を覆う。すると少し離れたところでびちゃりと何かが潰れる音がした。その音に誘われるようにざざざと羽音を響かせながら黒い塊が音がしたほうへと向かっていく。
(いったい何が……?)
袖の下から羽音が向かうほうを見れば、行き先が金花のほうだということに気がついた。それなのに金花は平然と立っている。慌てて「逃げろ!」と叫んだが、少し離れた地面に何かが落ちていることに気がついた。しばらくすると、かすかに甘い香りがし始める。誰かが焚きしめた香ではなく……これは枇杷の実だ。
「……枇杷とは、用意がいいな」
鬼の声がした。気のせいでなければ少しばかり苛立っているように聞こえる。
「御所へ来る前に、どなたかの屋敷の庭先に熟れた枇杷がありましてね。カラギと食べようともいできたのですが、意外なところで役に立ったようですね」
赤い目の鬼が金花を見据えたような気がした。口元はニィと笑んだままだが、不穏な気配は先ほどより強くなっている。
「蜂に枇杷ってのは、まるでどこぞの公卿様だなァ」
師匠のところへ迫っていた蜂も枇杷の甘い香りに引き寄せられたのか周囲には一匹も飛んでいない。髭切をぶんと一振りした師匠は、蜂を見ながら顎を撫で感心したように「なるほど、あの話は本当だったか」と口にした。
「そういえば蜂を大層愛でられていた公卿がいましたね。そうそう、蜂飼大臣でしたか」
「おー、そうだそうだ。御所で蜂の群れに出くわしたとき、枇杷でおとなしくさせたって話は有名だなァ」
「おやまぁ、そんなことが。その話は知りませんでしたが、枇杷をもいでおいてよかったということですね」
二人が話している間に枇杷で満足したのか、黒い塊だった蜂が今度は蜘蛛の子を散らすようにあちこちに飛んで行った。それらをじっと見ていた鬼が金花に視線を向ける。
「小賢しい真似を。我が虫を操ると知っていたのだろう?」
「さて、下賤なわたしには高貴な鬼のことなどわからぬこと。けれど、あなたが人の苦しむ様を好物にしていることはわかりました。とくに虫の毒でもがき苦しむのを眺めるのがお好きなのでしょう? 爪に虫の毒を仕込むくらいですからね」
「……不愉快な奴だ」
爪と聞いてドキッとした。爪に傷をつけられたとき、手当をしながら毒があることに気づいたに違いない。
鬼の赤い目は完全に金花を捉えている。このままでは金花までも襲われかねない。同じ鬼だとしても金花の鬼の部分は半分、おそらく赤い目の鬼には勝てないだろう。体を起こした俺は、震える足に力を入れながら金花に近づいた。もし赤い目の鬼が何かしようとしても俺が鴉丸をもって防いでみせる。心の中でそう誓いながら柄をぎゅうと握り締めた。
そんな俺の動きに気づいたのか金花の横顔が少しだけ笑った。しかしすぐさま緩めた口をきゅぅと結ぶ。
(金花も緊張しているのか)
金花のこんな表情は初めて見た。いつもニィと笑みを浮かべ、母上が攫われかけたときも平然としていた。それなのにいまはひどく緊張しているような顔をしている。
(やはり金花を守るのは俺の役目だ)
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