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一章 鬼に繞乱(じょうらん)されしは
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「なんだ、あれは……」
「新たな鬼か?」
「弓の者は屋根を狙え!」
「陰陽寮は二手にわかれ、雷と炎の準備を始めよ!」
新たな鬼らしき存在の出現に御所は騒然となった。陰陽寮は光榮殿の指示で廊下と庭を走り回り、武士たちも武具を手に走り出している。それぞれが同時に動き出したこともあってあちこちでぶつかり、怒鳴り合い、建物の中も外も大騒ぎになっていた。
「金花、少し動かすが大丈夫か?」
「……っ、ふふ、もう、大丈夫です、よ」
「血が止まらないままだろう! どこが大丈夫だと言うのだ!」
思わず叫ぶと、「そこにいたのか」という声がすぐそばで聞こえた。しかし声の主らしき黒い塊は屋根の上に座ったままで、それなのになぜかすぐそばから声がする。不可思議な現象に首を傾げるより全身の皮膚がぞわりと粟立った。
「な、んだ、これは……」
声が聞こえてきた途端に体の表面がカッと熱くなった。ところが腹の底は雪の上に裸で寝転がったかのようにぐんぐんと冷たくなっていく。ついには手足の感覚がなくなり、気がつけばガチガチと歯が鳴り始めていた。
「最強にまずい奴が現れたな」
やっとの思いで見上げた師匠はしっかりと立っていたが、グググと歯を噛み締めている。俺も師匠もこんな状態なのに、離れた場所にいる大勢の者たちは何も感じていないのか相変わらず騒々しく動き回っていた。
「皆、気づいていないのか……?」
「ある程度の力量がなければわからないものがあるってことだ。ま、陰陽師の一人は感じているみたいだがな」
師匠の言葉に、廊下で指示を出していた光榮殿を見た。たしかに遠目で見ても様子がおかしい。あれほど叫んでいたというのに、いまは両手をだらりと下げ立ち尽くしているように見える。
「ありゃあ、ただの鬼じゃない。昔、都を騒がせた大鬼……それも、この髭切が斬った鬼と同じか、それ以上の大鬼だ」
「ほう、そこにあるのが髭切か」
まるで目の前で話しているような声に肩がぶるりと震えた。
「ということは、おまえが棘希を斬った男か。いや、人はすぐ死ぬんだったな。じゃあ子か孫ってところか」
「嗣名の任に就いていたのは俺のご先祖様だ」
「ほう、これはまたおもしろいことになっているじゃないか。あれの子孫に、そっちのからは侘千帝の匂いがする。さらに我が兄弟ときたもんだ」
(……いま、なんと言った……?)
黒く大きな塊――大鬼は「我が兄弟」と言わなかったか。「あれの子孫」は髭切を持つ師匠のことで、侘千帝云々はおそらく俺のことだろう。ということは残りは金花しかいない。
(金花が、あの得体の知れない大鬼の兄弟……?)
まさかと目を見開く俺の耳に「なぜ」という別の声が聞こえてきた。
「あなた様がここに……」
見れば赤い目の鬼が屋根を見上げている。先ほどと同じ場所に立っているが、どうも様子がおかしい。火柱の残り火に照らされた顔は金花と同じくらい青白く、俺たちを圧倒していた気配は息を潜めていた。
「烏天狗たちが来いって言うんでな。もうしばらく都に戻ってくるつもりはなかったんだが、ちょうど彼奴の体も安定したようだし、ちょっとした里帰りってやつだ」
「それでも急なお戻りとは……」
「烏たちがうるさいんだよ。烏たちは其奴の育ての親みたいなもんだから気になって仕方がないんだろう。まぁそれはいい。烏たちが何を慈しみかわいがるかは自由だ。しかし勝手に使うってのはなぁ。いままでは大目に見ていたが、さてどうしたものかな」
大鬼の言葉に赤い目の鬼が安堵したような表情を浮かべた。そうしてニィと笑いながら口を開く。
「なるほど、ご不快で戻られたのであれば納得もします。えぇえぇ、そうでしょうとも。あのような下賤が鬼王であるあなた様の烏天狗を利用するなど言語道断。此度こそ処分されるのがよろしいでしょう」
屋根の上の大鬼を「鬼の王」だと呼んだ赤い目の鬼の言葉に血の気が引いた。赤い目の鬼だけでも手に負えないというのに、鬼の王が現れては俺たちに成す術はない。
傍らに立つ師匠と廊下で立ち尽くしている光榮殿は赤い目の鬼をじっと見ている。おそらく俺と同じで鬼たちの会話が聞こえているのだろう。しかし光榮殿以外の陰陽師たちや武士たちは鬼たちが話している声が聞こえないのか、右往左往の大騒ぎのままだった。
(いまので光榮殿に金花の正体がばれてしまった。それに師匠にもだ)
いや、光榮殿にはここにいる公達風の男が鬼だとばれただけで金花が鬼だとばれたわけではない。しかし師匠はここにいるのが金花だとわかっている。どちらにしても金花が鬼だと朝廷に知られるのは時間の問題だ。
自分も生き伸びられるかわからない状況だというのに、俺は金花のことで頭がいっぱいだった。ほとんど動かない金花の体を片腕でぎゅうと抱きしめ、この先のことに思いを巡らせる。
突然、ずぅんと得体の知れない圧迫感に襲われた。天から体を押さえつけられるような力を感じ、咄嗟に鴉丸を地面に突き立て堪えるがあまりの力に鞘を握る右手がブルブルと震え出す。
「なぜおまえが言語道断なんて言う?」
大鬼の声に肌がぶるりと震えた。慌てて屋根を見ようとしたが、手前の鬼の様子が変わったことに気づき視線を留める。
「俺はそんなこと言ってないよな?」
「そ、れは……。しかし烏天狗はあなた様の使い。それを下賤が勝手に使うなどあってはならないことで……」
「それはどうでもいいんだよ。勝手に使われると、俺がこうやって呼び出されるのが面倒だって言っているんだ。ま、彼奴の体が安定すれば、いつ呼ばれようともかまわないんだがな。暇つぶしにはちょうどいい」
「そ、それでは鬼王としての示しがつかないでしょう! あなた様は気高き鬼の王、すべての鬼の頂点たるお方。そんなあなた様が薄汚れた血の混じる下賤に使いを汚されるなど、さらに呼びつけられるなど、そんなことがあってよいはずがありません!」
「そう思ってるのは俺じゃない」
鬼の王の声が一段と低くなった。
「俺がどう思っているかなんて、おまえごときがわかるはずもない」
「ひぃ!」
屋根からひらりと飛び降りた鬼の王は、そのままずんずんと赤い目の鬼へと近づいた。しかし周囲の者たちは相変わらず雷だの炎だの弓矢だのと騒ぎ、鬼の王が屋根から降りたことにすら気づいていない。
(いったいどういうことだ? 皆には鬼の王の動きが見えていないのか?)
そう思っている間にも鬼の王は赤い目の鬼に近づき、ついに一人分ほどの間合いにまで迫った。
俺たちを圧倒していた赤い目の鬼だが、鬼の王を前にした姿は小物としか言いようがなかった。例えるなら気配も様子も大人と童ほどの違いがある。陰陽寮が放った雷でも火柱でも敵わなかった鬼だというのに、なんとちっぽけな存在だろうか。同時に鬼の王の力量を痛感した。このあと自分たちがどうなるのか考えるだけで血の気が引いていく。
「そういやさっきから下賤下賤と口にするが、それは俺の弟のことか?」
「そ、れは……いいえ、あれは弟君なとではありません。鬼王であるあなた様の名を汚す者など処分するのがよろしいのです。汚すどころか人に手を貸すなど、なんと愚かなことか。鬼として存在すべきではありません! あなた様も、これまで下賤のことなど気に留めていらっしゃらなかったではないですか!」
「そうだなぁ。気にしているかと問われれば、いまでもまったくもって気にしていない」
「では、この場で処分されるべきかと……!」
「しかしな、彼奴が『兄弟は大事ですよ』などと言うからなぁ」
「な……っ! そのような……あなた様は鬼王なのですよ!? 鬼王たるお方が人ごときの言葉に踊らされるなど……!」
鬼の王が纏う気配ががらりと変わった。赤い目の鬼も気づいたようで「ひぃ」と掠れた悲鳴を漏らす。
「人ごときとは、まさか彼奴のことを言っているのではあるまいな?」
鬼の王の気配が一段と濃く、それでいて氷のように冷たく鋭いものに変わった。直接対峙しているわけでもないのに鋭く尖った刃で体中を貫かれるような感覚に襲われる。そう感じるほど鬼の王の気配は鋭く恐ろしかった。
「それ、は……ッ。ひぃ……!」
「やれやれ、愚かな奴とはおまえのような小鬼のことを言うのだ。そもそも棘希が死んだとき、都は誰の下にも置かぬと言ったはずだ。人を攫い食らうのはよいが、誰か一人の所有にはせぬと俺は言ったよな?」
「ひっ」
「それなりの鬼であれば、人の頂に立つ者の血肉を食らいたいと思うのは仕方ない。なにせ奴らは神の血を引く一族だ、食らいたくなる気持ちはよくわかる。俺だってそう思って彼奴を手に入れた。いやはや、さすがは神の子孫と言われる血筋だ。俺でさえ惑い、いまじゃ傍らに置いてしゃぶり尽くす日々だ」
鬼の声がうっとりとしたものに変わった。まるで恋文を読むような声色に聞こえるが、体は震えじりじりと脂汗がにじみ出る。
「だがな、それと都を独り占めするのは別の話だ」
「……ひ、ひぃ……」
「都を鬼の所有物にしないと俺は彼奴に誓った。それを違えさせようというのか? それともおまえ、俺に変わって鬼王になりたいとでも思っているのか?」
「ひ……ッ」
優劣はもはや一目瞭然だった。赤い目の鬼はガタガタと震え、ついには言葉さえも出なくなっている。一方、鬼の王はニィと口元に笑みを浮かべてはいるが、残り火に照らされている目は笑っていなかった。
「烏ども、遠く都まで足を伸ばし腹が減っているだろう? それ、思う存分食らうがいい」
「ひィ!」
鬼の王の言葉と同時に真っ黒なつむじ風が現れた。黒い渦が赤い目の鬼を包んだかと思えば、あっという間に御所の壁を越えていく。鬼が立っていた場所に鬼はおらず、鬼の王が「やれやれ」と言いながら首の後ろを撫でているだけだ。
「さて」
鬼の王がこちらを見た。師匠が髭切を持つ手に力を込めたのを気配で感じたが、俺の右手は鴉丸を握り締めるばかりで構えることすらできない。
「我が弟はそのまま死にたいのか?」
その言葉にハッと胸元を見た。鬼の王が現れたときにはまだ薄く開いていたが、その目は硬く閉じ口から漏れる息は随分と弱くなっている。顔はますます青白くなり、左肩に押し当てていた着物は吸った血が滴り落ちそうなほどになっていた。
「ふむ。おまえ、血を食らっていないな? だからその程度の傷すら塞がらないのだ」
「…………まさか、あなたに心配、される日が、こようとは、」
「金花!」
ゆっくりと瞼が開き、いつもより力のない黒目が鬼の王に向けられた。
「俺が心配などするはずがないだろう。ただな、ここでおまえが死んでは彼奴に叱られかねない。それは少々困る」
「……なるほど」
「で、おまえは死にたいのか? 生きたいのか?」
鬼の王の言葉に金花を抱く腕に力がこもった。もし金花が死を選んだとしたら……脳裏をよぎった言葉にぞっとした。
人なら生きたいと願うのが当然だが、鬼である金花がどう思うのかわからない。それに金花は相当長く生きてきたはずで、人のようにこの世に未練がないかもしれない。もし未練がなく、俺を救ったことに満足していたとしたら……。もし、満足して死を選んだとしたら。
(それだけは駄目だ!)
抱きしめる手に力が入った。
「金花、死ぬな! おまえは俺の妻だ、勝手に死ぬなど許さん!」
思わず叫んでいた。隣で師匠がふっと小さく笑ったような気がするが、そんなことを気にする余裕はない。
「いつもそばにいたいと言っていただろう!? 俺だって同じだ! これからもずっとそばにいろ! おまえが鬼だろうが関係ない! おまえはおまえで俺の奥方、ただそれだけだ!」
俺の必死に言葉に、金花の色をなくした唇がわずかに動いた。声にはならなかったが、俺の耳にはいつもの声で「かわいい方」と聞こえたような気がした。
「ほう。おまえ、人の嫁になっていたのか。なるほど、精だけはたんまり食らっていたようだが、血は望まなかったというわけか」
「…………旦那様は、鬼を、嫌って、いるんです」
「それはおまえのことじゃない! おまえ以外の鬼は嫌いだが、おまえのことは好いている!」
「……ふふ、……本当に、……っ」
「金花!」
眉がぐぅっと寄り、次の瞬間、ごぽりと口からどす黒い血を吐き出した。慌てて口元を拭ったが、ますますぐったりとした金花の様子にドクドクと鼓動が激しくなる。
「金花!」
「さっきの愚か者の蠱毒にやられたな」
「毒、……肩の傷か!」
気がつけば周囲がうっすらと明るくなりつつある。空が明け始めたことで高灯台や火柱の残り火で見ていたときよりも、あたりがはっきりと見えた。おかげで金花の左肩の出血が思っていたよりもひどいことがわかった。色は赤というよりも杉染色にも黒橡色にも見える黒々としたもので、口元についている血の色も同じだ。
「陰陽寮に解毒の薬があるかどうか……」
「人には解毒できぬだろうなぁ」
鬼の王の言葉に、ぐぅっと唇を噛み締める。
「蠱毒を浴びてすぐならまだしも、体中を巡ってしまってはどうにもなるまい」
愕然とすると同時に、ぐわりと腹が煮えるような熱を感じた。ぐつぐつと煮えたぎる熱が臓腑を燃やし、気がつけば頭にまでその熱が達している。その熱に浮かされたまま、俺は鬼の王を睨みつけるように見ながら口を開いた。
「金花を助けてくれないか」
俺の言葉に鬼の王はわずかに目を見開き、すぐさまニィと笑った。
「ほほう、人が鬼王たる俺に願い事とはな」
「俺は金花を助けたい。死なせたくない。そのためなら、たとえおまえが鬼の王であっても乞い願う」
「……ふふ、ふはは、ははははは! これは愉快! なんとおもしろいことだ!」
笑い声は御所中に響き渡るほどの大声だったが、やはり周囲の者たちには聞こえていないようで誰一人として鬼の王を見ることがない。ただ赤い目の鬼が消えたことには気づいたのか、武士たちは塀の外へと走り出し陰陽師たちは御所内を走り回っていた。
その中でぽつんと立ち尽くす光榮殿が視界に入り、一瞬「鬼に願う姿を見られてしまった」と思った。しかし、いまは金花の命のほうが大事だ。後々俺が罰せられることになったとしても金花が助かればそれでいい。
「金花を助けてほしい」
「いやはや、なんとも愉快、久しぶりに都まで来た甲斐があったな」
「金花を救ってくれるなら俺はどうなってもかまわない」
師匠がやめろと言うようにぐいっと肩を掴んだが、俺は縋るような眼差しで鬼の王を見つめた。金花が助かるなら俺は何だってやろう。鬼に何かされることも朝廷で罰を受けることも甘んじて受けよう。
俺は必死に鬼の王を見つめた。金花を助けてほしい、それだけを願って見つめ続けた。
「その目、彼奴によく似ている。同じ血が流れているというだけなのに、人とはおもしろいものだ」
そう言った鬼の王は、音を立てることなく一瞬にして俺の目の前に立った。あまりの素早さに師匠すら動くことができず、傍らでぐぅと唸るような声を上げている。
「さて、おまえも生きたいと願うか?」
ぴくりとも動かなかった金花の腕がゆるりと持ち上がった。慌てて掴むと、きゅうと俺の手を握り返す。それがまだ生きたいと言っているように俺には思えた。金花は生きたいと願ってくれる……そう思い、大丈夫だと伝えるようにぎゅうぎゅうと柔い手を握り返す。
「なるほど。ならばその願い、叶えてやろうではないか」
そう言った鬼の王が、ずいと左腕を突きだした。咄嗟に金花を庇うように抱きしめたが、どうやら俺の考えたことは杞憂だったらしい。
俺を見てニヤリと笑った鬼の王は、伸ばした左の手首に己の右手の爪を当て、そのまますっと引いた。手首には赤い筋が現れ、じわりじわりと滲む量が増えていく。その様子に、鬼の王も人と同じ赤い血なのだなとおかしなことを思った。
「舐めろ」
鬼の王の声には抗うことを許さないと言わんばかりの力があった。思わずぶるりと震えた俺の前に鬼の王がしゃがみ込む。その姿に驚き目を見張る俺を気にすることなく、鬼の王は血が滲む左手首を金花の口元へと近づけた。
血の気配に気づいたのか、金花の唇がわずかに開き隙間からすぅと舌が伸びた。いつもは濡れて赤く艶のある舌だが、いまは吐き出した血のせいか黒ずんで見える。その舌がぬぅと伸び、鬼の王の手首にぴたりと触れた。
ぺろ、ぺりろ、ぺろり。
滲む血を舐めるその姿はまさしく鬼そのものだった。俺以外の者が見れば恐ろしい鬼だと震えたことだろう。しかし俺が金花を恐れることはない。それでも見ていることができずに視線を逸らした。
(やはり金花は鬼なのだ)
それをまざまざと見せつけられた気がした。金花には助かってほしい。それは本心だが、血を舐める姿に金花もまた鬼だと痛感させられ見ることができない。
(……いや、いまは金花が助かることだけを考えよう)
そう思って金花の肩を抱く手に力を込める。しばらくすると鬼の王がすっくと立ち上がった。
「さて、これ以上の俺の血はかえって毒になる。まぁ久しぶりの血だろうから、しばらくは寝込むかもしれないがな」
「……これで助かるのか?」
「鬼にとって鬼の血肉は力を増すものだ。鬼王である俺の血は神仏に願っても手に入れられないほどの妙薬だぞ?」
内容に顔をしかめたくなったが、いまは鬼の王の言葉を信じるしかない。
「さて、帰るとするか。彼奴もそろそろ目が覚める頃だろうしな」
鬼の王の声にゆっくりと視線を上げる。まだ体の震えは止まらないが、先ほどよりは冷静に鬼の王を見ることができた。
(鬼の王とは、なかなかの美形なのだな)
不意にそんなことを思った。赤い目の鬼と対峙していたときには全体的に黒々しく見えていたが、いまは白い肌に黒髪黒目という見目のよい大男のように見える。美しい金花の兄弟なら然もありなんということか。
「……先ほど、体調が安定したら、と言っていましたが、もしや」
「金花!? 気がついたのか!」
「……ふぅ、急に動かさないで、ください」
「あ、あぁ、すまない」
まだつらそうに眉を寄せながらも俺ににこりと微笑んだ金花は、真顔になると鬼の王を見上げた。
「もしやと思っていましたが……あの人に、鬼を食わせましたか」
金花の言葉にギョッとした。誰の話をしているのかはわからないが、鬼を食わせるなど尋常なことではない。
「あぁ、食わせた。勘違いするなよ? 鬼を食らうと決めたのは彼奴だからな」
「……そう、ですか」
「さて、俺はもう帰るぞ。あぁ、礼なら彼奴の好きそうな菓子でも持って来い」
「……そのうちに」
「ふはははは! そうだ、おまえもその男を手放したくないと思うなら、さっさと鬼を食わせることだな」
「朱天、……っ」
急に声を荒げたのが堪えたのか、金花の眉がぐぐっと寄り唇が苦しそうに歪んだ。慌てて地面に金花を横たわらせ、すぐさま鬼の王を見る。しかしそこに鬼の王の姿はなく、現れたときと同じように木の葉が地面の上をするすると舞っているだけだった。
(……助かった)
朝もやのように霞む御所の庭で、俺は金花が助かったことへの喜びをじわりと感じていた。同時に、師匠や光榮殿に金花の正体を知られてしまったことへの不安に気持ちが重くなる。そして鬼の王の最後の言葉がやけに耳に残った。
(鬼を食わせるとは……俺に鬼を、ということだろうな)
恐ろしい言葉を投げかけられたのに不思議と震えることはなかった。
(あの鬼の王が、朱天)
金花はたしかに鬼の王に向かって「朱天」と呼んだ。
(朱天とは、たしか……)
覚え違いでなければ、侘千帝の親王であった敦皇様を攫った大鬼の名だ。その後敦皇様は二度と姿を見せることはなく、鬼に食い殺されたと言われている。
(あの鬼の王はなぜ侘千帝を覚えていたんだ……?)
そうでなければ俺が侘千帝の子孫だとは気づかなかっただろう。それがやけに気になった。
(いや、まずは金花を屋敷に運ぶのが先だ)
すべては金花が癒えてから考えよう。俺は再び力を失った金花を抱え、慌ただしくも騒々しい御所をあとにした。
「新たな鬼か?」
「弓の者は屋根を狙え!」
「陰陽寮は二手にわかれ、雷と炎の準備を始めよ!」
新たな鬼らしき存在の出現に御所は騒然となった。陰陽寮は光榮殿の指示で廊下と庭を走り回り、武士たちも武具を手に走り出している。それぞれが同時に動き出したこともあってあちこちでぶつかり、怒鳴り合い、建物の中も外も大騒ぎになっていた。
「金花、少し動かすが大丈夫か?」
「……っ、ふふ、もう、大丈夫です、よ」
「血が止まらないままだろう! どこが大丈夫だと言うのだ!」
思わず叫ぶと、「そこにいたのか」という声がすぐそばで聞こえた。しかし声の主らしき黒い塊は屋根の上に座ったままで、それなのになぜかすぐそばから声がする。不可思議な現象に首を傾げるより全身の皮膚がぞわりと粟立った。
「な、んだ、これは……」
声が聞こえてきた途端に体の表面がカッと熱くなった。ところが腹の底は雪の上に裸で寝転がったかのようにぐんぐんと冷たくなっていく。ついには手足の感覚がなくなり、気がつけばガチガチと歯が鳴り始めていた。
「最強にまずい奴が現れたな」
やっとの思いで見上げた師匠はしっかりと立っていたが、グググと歯を噛み締めている。俺も師匠もこんな状態なのに、離れた場所にいる大勢の者たちは何も感じていないのか相変わらず騒々しく動き回っていた。
「皆、気づいていないのか……?」
「ある程度の力量がなければわからないものがあるってことだ。ま、陰陽師の一人は感じているみたいだがな」
師匠の言葉に、廊下で指示を出していた光榮殿を見た。たしかに遠目で見ても様子がおかしい。あれほど叫んでいたというのに、いまは両手をだらりと下げ立ち尽くしているように見える。
「ありゃあ、ただの鬼じゃない。昔、都を騒がせた大鬼……それも、この髭切が斬った鬼と同じか、それ以上の大鬼だ」
「ほう、そこにあるのが髭切か」
まるで目の前で話しているような声に肩がぶるりと震えた。
「ということは、おまえが棘希を斬った男か。いや、人はすぐ死ぬんだったな。じゃあ子か孫ってところか」
「嗣名の任に就いていたのは俺のご先祖様だ」
「ほう、これはまたおもしろいことになっているじゃないか。あれの子孫に、そっちのからは侘千帝の匂いがする。さらに我が兄弟ときたもんだ」
(……いま、なんと言った……?)
黒く大きな塊――大鬼は「我が兄弟」と言わなかったか。「あれの子孫」は髭切を持つ師匠のことで、侘千帝云々はおそらく俺のことだろう。ということは残りは金花しかいない。
(金花が、あの得体の知れない大鬼の兄弟……?)
まさかと目を見開く俺の耳に「なぜ」という別の声が聞こえてきた。
「あなた様がここに……」
見れば赤い目の鬼が屋根を見上げている。先ほどと同じ場所に立っているが、どうも様子がおかしい。火柱の残り火に照らされた顔は金花と同じくらい青白く、俺たちを圧倒していた気配は息を潜めていた。
「烏天狗たちが来いって言うんでな。もうしばらく都に戻ってくるつもりはなかったんだが、ちょうど彼奴の体も安定したようだし、ちょっとした里帰りってやつだ」
「それでも急なお戻りとは……」
「烏たちがうるさいんだよ。烏たちは其奴の育ての親みたいなもんだから気になって仕方がないんだろう。まぁそれはいい。烏たちが何を慈しみかわいがるかは自由だ。しかし勝手に使うってのはなぁ。いままでは大目に見ていたが、さてどうしたものかな」
大鬼の言葉に赤い目の鬼が安堵したような表情を浮かべた。そうしてニィと笑いながら口を開く。
「なるほど、ご不快で戻られたのであれば納得もします。えぇえぇ、そうでしょうとも。あのような下賤が鬼王であるあなた様の烏天狗を利用するなど言語道断。此度こそ処分されるのがよろしいでしょう」
屋根の上の大鬼を「鬼の王」だと呼んだ赤い目の鬼の言葉に血の気が引いた。赤い目の鬼だけでも手に負えないというのに、鬼の王が現れては俺たちに成す術はない。
傍らに立つ師匠と廊下で立ち尽くしている光榮殿は赤い目の鬼をじっと見ている。おそらく俺と同じで鬼たちの会話が聞こえているのだろう。しかし光榮殿以外の陰陽師たちや武士たちは鬼たちが話している声が聞こえないのか、右往左往の大騒ぎのままだった。
(いまので光榮殿に金花の正体がばれてしまった。それに師匠にもだ)
いや、光榮殿にはここにいる公達風の男が鬼だとばれただけで金花が鬼だとばれたわけではない。しかし師匠はここにいるのが金花だとわかっている。どちらにしても金花が鬼だと朝廷に知られるのは時間の問題だ。
自分も生き伸びられるかわからない状況だというのに、俺は金花のことで頭がいっぱいだった。ほとんど動かない金花の体を片腕でぎゅうと抱きしめ、この先のことに思いを巡らせる。
突然、ずぅんと得体の知れない圧迫感に襲われた。天から体を押さえつけられるような力を感じ、咄嗟に鴉丸を地面に突き立て堪えるがあまりの力に鞘を握る右手がブルブルと震え出す。
「なぜおまえが言語道断なんて言う?」
大鬼の声に肌がぶるりと震えた。慌てて屋根を見ようとしたが、手前の鬼の様子が変わったことに気づき視線を留める。
「俺はそんなこと言ってないよな?」
「そ、れは……。しかし烏天狗はあなた様の使い。それを下賤が勝手に使うなどあってはならないことで……」
「それはどうでもいいんだよ。勝手に使われると、俺がこうやって呼び出されるのが面倒だって言っているんだ。ま、彼奴の体が安定すれば、いつ呼ばれようともかまわないんだがな。暇つぶしにはちょうどいい」
「そ、それでは鬼王としての示しがつかないでしょう! あなた様は気高き鬼の王、すべての鬼の頂点たるお方。そんなあなた様が薄汚れた血の混じる下賤に使いを汚されるなど、さらに呼びつけられるなど、そんなことがあってよいはずがありません!」
「そう思ってるのは俺じゃない」
鬼の王の声が一段と低くなった。
「俺がどう思っているかなんて、おまえごときがわかるはずもない」
「ひぃ!」
屋根からひらりと飛び降りた鬼の王は、そのままずんずんと赤い目の鬼へと近づいた。しかし周囲の者たちは相変わらず雷だの炎だの弓矢だのと騒ぎ、鬼の王が屋根から降りたことにすら気づいていない。
(いったいどういうことだ? 皆には鬼の王の動きが見えていないのか?)
そう思っている間にも鬼の王は赤い目の鬼に近づき、ついに一人分ほどの間合いにまで迫った。
俺たちを圧倒していた赤い目の鬼だが、鬼の王を前にした姿は小物としか言いようがなかった。例えるなら気配も様子も大人と童ほどの違いがある。陰陽寮が放った雷でも火柱でも敵わなかった鬼だというのに、なんとちっぽけな存在だろうか。同時に鬼の王の力量を痛感した。このあと自分たちがどうなるのか考えるだけで血の気が引いていく。
「そういやさっきから下賤下賤と口にするが、それは俺の弟のことか?」
「そ、れは……いいえ、あれは弟君なとではありません。鬼王であるあなた様の名を汚す者など処分するのがよろしいのです。汚すどころか人に手を貸すなど、なんと愚かなことか。鬼として存在すべきではありません! あなた様も、これまで下賤のことなど気に留めていらっしゃらなかったではないですか!」
「そうだなぁ。気にしているかと問われれば、いまでもまったくもって気にしていない」
「では、この場で処分されるべきかと……!」
「しかしな、彼奴が『兄弟は大事ですよ』などと言うからなぁ」
「な……っ! そのような……あなた様は鬼王なのですよ!? 鬼王たるお方が人ごときの言葉に踊らされるなど……!」
鬼の王が纏う気配ががらりと変わった。赤い目の鬼も気づいたようで「ひぃ」と掠れた悲鳴を漏らす。
「人ごときとは、まさか彼奴のことを言っているのではあるまいな?」
鬼の王の気配が一段と濃く、それでいて氷のように冷たく鋭いものに変わった。直接対峙しているわけでもないのに鋭く尖った刃で体中を貫かれるような感覚に襲われる。そう感じるほど鬼の王の気配は鋭く恐ろしかった。
「それ、は……ッ。ひぃ……!」
「やれやれ、愚かな奴とはおまえのような小鬼のことを言うのだ。そもそも棘希が死んだとき、都は誰の下にも置かぬと言ったはずだ。人を攫い食らうのはよいが、誰か一人の所有にはせぬと俺は言ったよな?」
「ひっ」
「それなりの鬼であれば、人の頂に立つ者の血肉を食らいたいと思うのは仕方ない。なにせ奴らは神の血を引く一族だ、食らいたくなる気持ちはよくわかる。俺だってそう思って彼奴を手に入れた。いやはや、さすがは神の子孫と言われる血筋だ。俺でさえ惑い、いまじゃ傍らに置いてしゃぶり尽くす日々だ」
鬼の声がうっとりとしたものに変わった。まるで恋文を読むような声色に聞こえるが、体は震えじりじりと脂汗がにじみ出る。
「だがな、それと都を独り占めするのは別の話だ」
「……ひ、ひぃ……」
「都を鬼の所有物にしないと俺は彼奴に誓った。それを違えさせようというのか? それともおまえ、俺に変わって鬼王になりたいとでも思っているのか?」
「ひ……ッ」
優劣はもはや一目瞭然だった。赤い目の鬼はガタガタと震え、ついには言葉さえも出なくなっている。一方、鬼の王はニィと口元に笑みを浮かべてはいるが、残り火に照らされている目は笑っていなかった。
「烏ども、遠く都まで足を伸ばし腹が減っているだろう? それ、思う存分食らうがいい」
「ひィ!」
鬼の王の言葉と同時に真っ黒なつむじ風が現れた。黒い渦が赤い目の鬼を包んだかと思えば、あっという間に御所の壁を越えていく。鬼が立っていた場所に鬼はおらず、鬼の王が「やれやれ」と言いながら首の後ろを撫でているだけだ。
「さて」
鬼の王がこちらを見た。師匠が髭切を持つ手に力を込めたのを気配で感じたが、俺の右手は鴉丸を握り締めるばかりで構えることすらできない。
「我が弟はそのまま死にたいのか?」
その言葉にハッと胸元を見た。鬼の王が現れたときにはまだ薄く開いていたが、その目は硬く閉じ口から漏れる息は随分と弱くなっている。顔はますます青白くなり、左肩に押し当てていた着物は吸った血が滴り落ちそうなほどになっていた。
「ふむ。おまえ、血を食らっていないな? だからその程度の傷すら塞がらないのだ」
「…………まさか、あなたに心配、される日が、こようとは、」
「金花!」
ゆっくりと瞼が開き、いつもより力のない黒目が鬼の王に向けられた。
「俺が心配などするはずがないだろう。ただな、ここでおまえが死んでは彼奴に叱られかねない。それは少々困る」
「……なるほど」
「で、おまえは死にたいのか? 生きたいのか?」
鬼の王の言葉に金花を抱く腕に力がこもった。もし金花が死を選んだとしたら……脳裏をよぎった言葉にぞっとした。
人なら生きたいと願うのが当然だが、鬼である金花がどう思うのかわからない。それに金花は相当長く生きてきたはずで、人のようにこの世に未練がないかもしれない。もし未練がなく、俺を救ったことに満足していたとしたら……。もし、満足して死を選んだとしたら。
(それだけは駄目だ!)
抱きしめる手に力が入った。
「金花、死ぬな! おまえは俺の妻だ、勝手に死ぬなど許さん!」
思わず叫んでいた。隣で師匠がふっと小さく笑ったような気がするが、そんなことを気にする余裕はない。
「いつもそばにいたいと言っていただろう!? 俺だって同じだ! これからもずっとそばにいろ! おまえが鬼だろうが関係ない! おまえはおまえで俺の奥方、ただそれだけだ!」
俺の必死に言葉に、金花の色をなくした唇がわずかに動いた。声にはならなかったが、俺の耳にはいつもの声で「かわいい方」と聞こえたような気がした。
「ほう。おまえ、人の嫁になっていたのか。なるほど、精だけはたんまり食らっていたようだが、血は望まなかったというわけか」
「…………旦那様は、鬼を、嫌って、いるんです」
「それはおまえのことじゃない! おまえ以外の鬼は嫌いだが、おまえのことは好いている!」
「……ふふ、……本当に、……っ」
「金花!」
眉がぐぅっと寄り、次の瞬間、ごぽりと口からどす黒い血を吐き出した。慌てて口元を拭ったが、ますますぐったりとした金花の様子にドクドクと鼓動が激しくなる。
「金花!」
「さっきの愚か者の蠱毒にやられたな」
「毒、……肩の傷か!」
気がつけば周囲がうっすらと明るくなりつつある。空が明け始めたことで高灯台や火柱の残り火で見ていたときよりも、あたりがはっきりと見えた。おかげで金花の左肩の出血が思っていたよりもひどいことがわかった。色は赤というよりも杉染色にも黒橡色にも見える黒々としたもので、口元についている血の色も同じだ。
「陰陽寮に解毒の薬があるかどうか……」
「人には解毒できぬだろうなぁ」
鬼の王の言葉に、ぐぅっと唇を噛み締める。
「蠱毒を浴びてすぐならまだしも、体中を巡ってしまってはどうにもなるまい」
愕然とすると同時に、ぐわりと腹が煮えるような熱を感じた。ぐつぐつと煮えたぎる熱が臓腑を燃やし、気がつけば頭にまでその熱が達している。その熱に浮かされたまま、俺は鬼の王を睨みつけるように見ながら口を開いた。
「金花を助けてくれないか」
俺の言葉に鬼の王はわずかに目を見開き、すぐさまニィと笑った。
「ほほう、人が鬼王たる俺に願い事とはな」
「俺は金花を助けたい。死なせたくない。そのためなら、たとえおまえが鬼の王であっても乞い願う」
「……ふふ、ふはは、ははははは! これは愉快! なんとおもしろいことだ!」
笑い声は御所中に響き渡るほどの大声だったが、やはり周囲の者たちには聞こえていないようで誰一人として鬼の王を見ることがない。ただ赤い目の鬼が消えたことには気づいたのか、武士たちは塀の外へと走り出し陰陽師たちは御所内を走り回っていた。
その中でぽつんと立ち尽くす光榮殿が視界に入り、一瞬「鬼に願う姿を見られてしまった」と思った。しかし、いまは金花の命のほうが大事だ。後々俺が罰せられることになったとしても金花が助かればそれでいい。
「金花を助けてほしい」
「いやはや、なんとも愉快、久しぶりに都まで来た甲斐があったな」
「金花を救ってくれるなら俺はどうなってもかまわない」
師匠がやめろと言うようにぐいっと肩を掴んだが、俺は縋るような眼差しで鬼の王を見つめた。金花が助かるなら俺は何だってやろう。鬼に何かされることも朝廷で罰を受けることも甘んじて受けよう。
俺は必死に鬼の王を見つめた。金花を助けてほしい、それだけを願って見つめ続けた。
「その目、彼奴によく似ている。同じ血が流れているというだけなのに、人とはおもしろいものだ」
そう言った鬼の王は、音を立てることなく一瞬にして俺の目の前に立った。あまりの素早さに師匠すら動くことができず、傍らでぐぅと唸るような声を上げている。
「さて、おまえも生きたいと願うか?」
ぴくりとも動かなかった金花の腕がゆるりと持ち上がった。慌てて掴むと、きゅうと俺の手を握り返す。それがまだ生きたいと言っているように俺には思えた。金花は生きたいと願ってくれる……そう思い、大丈夫だと伝えるようにぎゅうぎゅうと柔い手を握り返す。
「なるほど。ならばその願い、叶えてやろうではないか」
そう言った鬼の王が、ずいと左腕を突きだした。咄嗟に金花を庇うように抱きしめたが、どうやら俺の考えたことは杞憂だったらしい。
俺を見てニヤリと笑った鬼の王は、伸ばした左の手首に己の右手の爪を当て、そのまますっと引いた。手首には赤い筋が現れ、じわりじわりと滲む量が増えていく。その様子に、鬼の王も人と同じ赤い血なのだなとおかしなことを思った。
「舐めろ」
鬼の王の声には抗うことを許さないと言わんばかりの力があった。思わずぶるりと震えた俺の前に鬼の王がしゃがみ込む。その姿に驚き目を見張る俺を気にすることなく、鬼の王は血が滲む左手首を金花の口元へと近づけた。
血の気配に気づいたのか、金花の唇がわずかに開き隙間からすぅと舌が伸びた。いつもは濡れて赤く艶のある舌だが、いまは吐き出した血のせいか黒ずんで見える。その舌がぬぅと伸び、鬼の王の手首にぴたりと触れた。
ぺろ、ぺりろ、ぺろり。
滲む血を舐めるその姿はまさしく鬼そのものだった。俺以外の者が見れば恐ろしい鬼だと震えたことだろう。しかし俺が金花を恐れることはない。それでも見ていることができずに視線を逸らした。
(やはり金花は鬼なのだ)
それをまざまざと見せつけられた気がした。金花には助かってほしい。それは本心だが、血を舐める姿に金花もまた鬼だと痛感させられ見ることができない。
(……いや、いまは金花が助かることだけを考えよう)
そう思って金花の肩を抱く手に力を込める。しばらくすると鬼の王がすっくと立ち上がった。
「さて、これ以上の俺の血はかえって毒になる。まぁ久しぶりの血だろうから、しばらくは寝込むかもしれないがな」
「……これで助かるのか?」
「鬼にとって鬼の血肉は力を増すものだ。鬼王である俺の血は神仏に願っても手に入れられないほどの妙薬だぞ?」
内容に顔をしかめたくなったが、いまは鬼の王の言葉を信じるしかない。
「さて、帰るとするか。彼奴もそろそろ目が覚める頃だろうしな」
鬼の王の声にゆっくりと視線を上げる。まだ体の震えは止まらないが、先ほどよりは冷静に鬼の王を見ることができた。
(鬼の王とは、なかなかの美形なのだな)
不意にそんなことを思った。赤い目の鬼と対峙していたときには全体的に黒々しく見えていたが、いまは白い肌に黒髪黒目という見目のよい大男のように見える。美しい金花の兄弟なら然もありなんということか。
「……先ほど、体調が安定したら、と言っていましたが、もしや」
「金花!? 気がついたのか!」
「……ふぅ、急に動かさないで、ください」
「あ、あぁ、すまない」
まだつらそうに眉を寄せながらも俺ににこりと微笑んだ金花は、真顔になると鬼の王を見上げた。
「もしやと思っていましたが……あの人に、鬼を食わせましたか」
金花の言葉にギョッとした。誰の話をしているのかはわからないが、鬼を食わせるなど尋常なことではない。
「あぁ、食わせた。勘違いするなよ? 鬼を食らうと決めたのは彼奴だからな」
「……そう、ですか」
「さて、俺はもう帰るぞ。あぁ、礼なら彼奴の好きそうな菓子でも持って来い」
「……そのうちに」
「ふはははは! そうだ、おまえもその男を手放したくないと思うなら、さっさと鬼を食わせることだな」
「朱天、……っ」
急に声を荒げたのが堪えたのか、金花の眉がぐぐっと寄り唇が苦しそうに歪んだ。慌てて地面に金花を横たわらせ、すぐさま鬼の王を見る。しかしそこに鬼の王の姿はなく、現れたときと同じように木の葉が地面の上をするすると舞っているだけだった。
(……助かった)
朝もやのように霞む御所の庭で、俺は金花が助かったことへの喜びをじわりと感じていた。同時に、師匠や光榮殿に金花の正体を知られてしまったことへの不安に気持ちが重くなる。そして鬼の王の最後の言葉がやけに耳に残った。
(鬼を食わせるとは……俺に鬼を、ということだろうな)
恐ろしい言葉を投げかけられたのに不思議と震えることはなかった。
(あの鬼の王が、朱天)
金花はたしかに鬼の王に向かって「朱天」と呼んだ。
(朱天とは、たしか……)
覚え違いでなければ、侘千帝の親王であった敦皇様を攫った大鬼の名だ。その後敦皇様は二度と姿を見せることはなく、鬼に食い殺されたと言われている。
(あの鬼の王はなぜ侘千帝を覚えていたんだ……?)
そうでなければ俺が侘千帝の子孫だとは気づかなかっただろう。それがやけに気になった。
(いや、まずは金花を屋敷に運ぶのが先だ)
すべては金花が癒えてから考えよう。俺は再び力を失った金花を抱え、慌ただしくも騒々しい御所をあとにした。
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