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後編 魔法学園での日々とそれから
182.今生の別れ
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水晶球の中にゆらりと映像が……ここは、どこかの部屋?
「控室よ。面会が可能になったら呼ばれるわ。今はそれを待っているところ」
一人だけいる……私のよく知る顔……でも……。
よく考えれば当然のことだ。だって、お父様やお母様も歳をとっている。
「お父さん、老けたんだね……」
黒髪だった頭はもうほとんど白い。
何かあったら守ってくれると百パーセント信じられる頼れる存在だったのに、今はもう背中は丸まって目も落ちくぼんでいる。目の下の隈も酷い。憔悴……している。弱々しくなっている。
「……お父さん……」
もう、皆を支える側ではないんだ……。
お父さんと、たくさんの人たちが会話をしている。笑顔もなく言葉少なに返し……でも、私にはもうその言葉は聞き取れない。
涙がこぼれていく。
当たり前のように、その言葉で私も会話していたはずなのに。
「アリス、内容を聞いていると、黒い服の男性が大樹くんだ。茶色の上着を着ているのが、おそらく光樹くん。全ての会話は俺も分からないけど……死の確率や後遺症の確率について、う……ん、水頭症……って言ったのかな……になることも多いとか、そんな話をしている。お父さんが医者から聞いた話を家族にもう一度しているような会話だ。大樹くん一家は遠方に住んでいて、今日まで来られなくて申し訳なかったと謝っている」
「そう……ありがと」
茶色の上着って……光樹、太り過ぎでしょう。どうしちゃったの。私よりすっかり縦も横も大きくなって……。でも、隣にいるのはお嫁さんかな。こちらも、ふくよかだ。一緒にいて安心できそうな、人がよさそうな人。
大樹、立派になったんだね。面影がよく見るとすごくあるよ。お嫁さん、美人じゃん。女の子が二人もいる。どっちも小学生かな。
ねぇ……いるんだよ?
その女の子たちに、イトコがいるんだよ?
私、四人も産んだんだよ。
もう、そこにいる誰も私のことは覚えていないけど……。
看護師さんが呼びに来た。
一度、父だけが呼ばれてすぐに戻ってきて、全員でそこへ……。
思ったよりも広い。フロアといったそこでは慌ただしく看護師さんが何人も動いていて、奥へとお父さんが先頭で向かっていく。
まさか……まさか……え……?
お父さんが何かを呼びかけるその相手は……。
――涙が止まらない。
もう別人だ……。
短くなっている髪。大きなガーゼが頭に貼られている。何かの管もたくさん……。
化粧っ気のないその顔には、皺が刻まれている。生き生きとしていた生の光が、顔から感じられない。薄目を開けてすごくだるそうで、何か一言だけを小さく口にした。その声のトーンも、以前と比べようもなく低い。
「かなり……呂律が回っていない。聞き取れているのはお父さんだけだ。来てくれてありがとうと言ったらしい……っ、く……」
レイモンドも涙を流し始めた。
大樹がお母さんの手をとる。お母さんもそっと握り返した。
「右手が数日でかなり動くようになったとか……最初は指先だけだったって……でも、左半身は……動かない。右脳で出血したらしい。ごめん、全部は分からない……姉妹二人が学校での話をしている。何かをできるようになったとか……」
「うん……もういいよ、通訳は。ありがとう」
「ご……め……っ」
堪えきれなくように、レイモンドが息を荒くして泣き続ける。
覗き見していたもんね。
あのお母さんを、見ていたんだもんね。
お母さん……。
不満はあった。なんで私だけって思ったこともあった。でも、今思い出すのはお母さんとの当たり前にあった優しい日々だ。
保育園から帰りたくないとダダをこねて、交換条件でよく帰りに公園に寄ってくれた。早く帰ろうと不満げにしながらも、「追いかけて!」と言ったら笑って追いかけてくれた。その光景だけは未だに強く印象に残っている。
弟が産まれてからはいつも弟ばっかりかまって寂しかったけど、「特別よ」と七色の色味が入った蝶のブローチをくれた。服につけたら、似合っているわねって。ずっと大事に学習机の引き出しに入れていた。
あの時……身につけていればよかった。そうしたら持って来られたのに。
女の子なんだから、これくらいできないとねってたまに料理を教えてくれた。「手つきがいいわね、さすが私の子!」と大げさに褒めてくれた。
「死なないで……」
つい、そう呟いてしまう。
お母さんからは私の存在が消えてしまった。あのたくさんの思い出は、私の中にしかない。
私もお腹を痛めて四人も産んだからこそ、その残酷さが分かる。胎動を感じて、もう二度と産むものかと思うほどの痛みを越えて新しい命に感動して、たくさんの思い出を積み上げて……それなのに、愛しいその我が子を存在ごと忘れて、積み上げてきたものもなかったことになって……。
お母さん、私はここにいるよ。
ここにいるんだよ。
たくさんのお母さんの思い出を抱えて、私はここに――。
「お母さんが産んでくれたから、私はここで生きているよ。毎日幸せを感じていられるのは、お母さんのお陰だよ。たとえお母さんが忘れても、全部、全部忘れても、いなくなってしまうのだとしても……! 私は生きている。私を産んでくれて、ありがとう……っ」
届かない思いを口に出す。
たとえ水晶球越しだったとしても、お母さんを目の前にすると、あの頃の自分のように幼くなってしまう。
疲れたのか、お母さんの瞳が閉じていく。
スゥと眠りに落ちていく。
お母さんお母さんお母さん――――。
もう会えないの……そんなのって……。
「アリスちゃんの存在は、完全になかったことにはなっていないわ」
「――――え?」
静かに魔女さんが、独白するように言う。
「例えば……だけど、アリスちゃんの言葉で救われた子が、救われなかったということにはならないように修正されるわ。光樹くんが怪我をしたかもしれない場面で、アリスちゃんが助けたという過去があれば書き換わっても運よく大丈夫だったということになるのよ」
「それ……は……」
大それた何かをしたことはない……けど……。
「アリスちゃんが歌った子守唄は……もしかしたら夢の中で彼らは聞いたのかもしれないわ。宿した命の重さに代わるものはないけれど……」
――アリス。
馴染みのある、その言葉が水晶球から聞こえた。大樹が長女にかけるその言葉が、はっきりと聞き取れた。
「あなたのお母さんが娘ができたらつけようと思ったその名前を、大樹くんがつけたようね」
賢そうな顔をしている女の子。
美人な奥さん似かな。
アリスって名前なんだ。
「お母さんには、アリスと呼べる存在がいたんだね……」
初孫だよね。
初めての娘の代わりに、初めての孫がアリスだったんだね。どうだったのかな……私が存在する世界なら、違う名前の女の子になっていたのかな。
どんなに願っても、その命は終わってしまう。残り四日で……。
「……お母さん……」
閉じてしまった瞳はなかなか開かない。もう全員が控室に戻ろうかという雰囲気だ。お母さんの家族の中で、私だけが死の運命を知っている。
もう一度、アリスって呼んでくれるお母さんが見たかったな。
死は突然だ。何も後悔しないで迎えられる死なんて、ないのかもしれない。でも……。
「あっちにいる間に大好きって言えばよかった。ありがとうって言えばよかった。ご飯美味しいよって言えばよかった。夏休みくらい、お仕事行ってらっしゃいって玄関までお見送りすればよかった。お母さんお母さんお母さんお母さんお母さん――、会いたいよ……子供の顔を見せたかった……っ」
この日は泣いた。
聖歌と別れたあとよりも泣いた。
レイモンドと二人の部屋に戻っても泣き続けた。ずっと彼に抱きしめてもらった。
いつか来る。
私にも、その時が。
それまでに、たくさんの大好きと感謝を大事な人たちに伝えて生きていこう。
――最期のその瞬間まで。
「控室よ。面会が可能になったら呼ばれるわ。今はそれを待っているところ」
一人だけいる……私のよく知る顔……でも……。
よく考えれば当然のことだ。だって、お父様やお母様も歳をとっている。
「お父さん、老けたんだね……」
黒髪だった頭はもうほとんど白い。
何かあったら守ってくれると百パーセント信じられる頼れる存在だったのに、今はもう背中は丸まって目も落ちくぼんでいる。目の下の隈も酷い。憔悴……している。弱々しくなっている。
「……お父さん……」
もう、皆を支える側ではないんだ……。
お父さんと、たくさんの人たちが会話をしている。笑顔もなく言葉少なに返し……でも、私にはもうその言葉は聞き取れない。
涙がこぼれていく。
当たり前のように、その言葉で私も会話していたはずなのに。
「アリス、内容を聞いていると、黒い服の男性が大樹くんだ。茶色の上着を着ているのが、おそらく光樹くん。全ての会話は俺も分からないけど……死の確率や後遺症の確率について、う……ん、水頭症……って言ったのかな……になることも多いとか、そんな話をしている。お父さんが医者から聞いた話を家族にもう一度しているような会話だ。大樹くん一家は遠方に住んでいて、今日まで来られなくて申し訳なかったと謝っている」
「そう……ありがと」
茶色の上着って……光樹、太り過ぎでしょう。どうしちゃったの。私よりすっかり縦も横も大きくなって……。でも、隣にいるのはお嫁さんかな。こちらも、ふくよかだ。一緒にいて安心できそうな、人がよさそうな人。
大樹、立派になったんだね。面影がよく見るとすごくあるよ。お嫁さん、美人じゃん。女の子が二人もいる。どっちも小学生かな。
ねぇ……いるんだよ?
その女の子たちに、イトコがいるんだよ?
私、四人も産んだんだよ。
もう、そこにいる誰も私のことは覚えていないけど……。
看護師さんが呼びに来た。
一度、父だけが呼ばれてすぐに戻ってきて、全員でそこへ……。
思ったよりも広い。フロアといったそこでは慌ただしく看護師さんが何人も動いていて、奥へとお父さんが先頭で向かっていく。
まさか……まさか……え……?
お父さんが何かを呼びかけるその相手は……。
――涙が止まらない。
もう別人だ……。
短くなっている髪。大きなガーゼが頭に貼られている。何かの管もたくさん……。
化粧っ気のないその顔には、皺が刻まれている。生き生きとしていた生の光が、顔から感じられない。薄目を開けてすごくだるそうで、何か一言だけを小さく口にした。その声のトーンも、以前と比べようもなく低い。
「かなり……呂律が回っていない。聞き取れているのはお父さんだけだ。来てくれてありがとうと言ったらしい……っ、く……」
レイモンドも涙を流し始めた。
大樹がお母さんの手をとる。お母さんもそっと握り返した。
「右手が数日でかなり動くようになったとか……最初は指先だけだったって……でも、左半身は……動かない。右脳で出血したらしい。ごめん、全部は分からない……姉妹二人が学校での話をしている。何かをできるようになったとか……」
「うん……もういいよ、通訳は。ありがとう」
「ご……め……っ」
堪えきれなくように、レイモンドが息を荒くして泣き続ける。
覗き見していたもんね。
あのお母さんを、見ていたんだもんね。
お母さん……。
不満はあった。なんで私だけって思ったこともあった。でも、今思い出すのはお母さんとの当たり前にあった優しい日々だ。
保育園から帰りたくないとダダをこねて、交換条件でよく帰りに公園に寄ってくれた。早く帰ろうと不満げにしながらも、「追いかけて!」と言ったら笑って追いかけてくれた。その光景だけは未だに強く印象に残っている。
弟が産まれてからはいつも弟ばっかりかまって寂しかったけど、「特別よ」と七色の色味が入った蝶のブローチをくれた。服につけたら、似合っているわねって。ずっと大事に学習机の引き出しに入れていた。
あの時……身につけていればよかった。そうしたら持って来られたのに。
女の子なんだから、これくらいできないとねってたまに料理を教えてくれた。「手つきがいいわね、さすが私の子!」と大げさに褒めてくれた。
「死なないで……」
つい、そう呟いてしまう。
お母さんからは私の存在が消えてしまった。あのたくさんの思い出は、私の中にしかない。
私もお腹を痛めて四人も産んだからこそ、その残酷さが分かる。胎動を感じて、もう二度と産むものかと思うほどの痛みを越えて新しい命に感動して、たくさんの思い出を積み上げて……それなのに、愛しいその我が子を存在ごと忘れて、積み上げてきたものもなかったことになって……。
お母さん、私はここにいるよ。
ここにいるんだよ。
たくさんのお母さんの思い出を抱えて、私はここに――。
「お母さんが産んでくれたから、私はここで生きているよ。毎日幸せを感じていられるのは、お母さんのお陰だよ。たとえお母さんが忘れても、全部、全部忘れても、いなくなってしまうのだとしても……! 私は生きている。私を産んでくれて、ありがとう……っ」
届かない思いを口に出す。
たとえ水晶球越しだったとしても、お母さんを目の前にすると、あの頃の自分のように幼くなってしまう。
疲れたのか、お母さんの瞳が閉じていく。
スゥと眠りに落ちていく。
お母さんお母さんお母さん――――。
もう会えないの……そんなのって……。
「アリスちゃんの存在は、完全になかったことにはなっていないわ」
「――――え?」
静かに魔女さんが、独白するように言う。
「例えば……だけど、アリスちゃんの言葉で救われた子が、救われなかったということにはならないように修正されるわ。光樹くんが怪我をしたかもしれない場面で、アリスちゃんが助けたという過去があれば書き換わっても運よく大丈夫だったということになるのよ」
「それ……は……」
大それた何かをしたことはない……けど……。
「アリスちゃんが歌った子守唄は……もしかしたら夢の中で彼らは聞いたのかもしれないわ。宿した命の重さに代わるものはないけれど……」
――アリス。
馴染みのある、その言葉が水晶球から聞こえた。大樹が長女にかけるその言葉が、はっきりと聞き取れた。
「あなたのお母さんが娘ができたらつけようと思ったその名前を、大樹くんがつけたようね」
賢そうな顔をしている女の子。
美人な奥さん似かな。
アリスって名前なんだ。
「お母さんには、アリスと呼べる存在がいたんだね……」
初孫だよね。
初めての娘の代わりに、初めての孫がアリスだったんだね。どうだったのかな……私が存在する世界なら、違う名前の女の子になっていたのかな。
どんなに願っても、その命は終わってしまう。残り四日で……。
「……お母さん……」
閉じてしまった瞳はなかなか開かない。もう全員が控室に戻ろうかという雰囲気だ。お母さんの家族の中で、私だけが死の運命を知っている。
もう一度、アリスって呼んでくれるお母さんが見たかったな。
死は突然だ。何も後悔しないで迎えられる死なんて、ないのかもしれない。でも……。
「あっちにいる間に大好きって言えばよかった。ありがとうって言えばよかった。ご飯美味しいよって言えばよかった。夏休みくらい、お仕事行ってらっしゃいって玄関までお見送りすればよかった。お母さんお母さんお母さんお母さんお母さん――、会いたいよ……子供の顔を見せたかった……っ」
この日は泣いた。
聖歌と別れたあとよりも泣いた。
レイモンドと二人の部屋に戻っても泣き続けた。ずっと彼に抱きしめてもらった。
いつか来る。
私にも、その時が。
それまでに、たくさんの大好きと感謝を大事な人たちに伝えて生きていこう。
――最期のその瞬間まで。
応援ありがとうございます!
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