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1.雪深き知らずの森
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見失ったという焦りが、どうやら相手も引いてくれたらしいという安堵に変わるまでしばらくの時間を要した。もう攻撃してくる人間はいないらしいと判断して、思わずリリィは地面に座り込んだ。まだ手が震えている。魔獣相手の戦闘では戦うべき相手の数も多かったが、そのぶん味方もたくさんいたのだ。けれど今回は、たったひとり。いや、ひとりではないか。一匹の大きな狼が、じっとリリィを見つめていた。
白狼に見せつけるようにリリィはことさらゆっくり手を伸ばす。犬の場合は手の甲の匂いをかがせることで敵意のないことを示すことができるが、果たして狼の場合はどうなのだろう。白狼は匂いをかぐことなくリリィの前までやってくると、小さく口を開いた。
「森を守ってくれたこと、礼を言う」
大きく目を見開き、リリィは慌てて立ち上がり淑女の礼をとった。人語を解する動物は、聖獣に限られているのだ。リリィとてその知識は教本で習っただけで、聖獣に実際に会うのは今回が初めてだ。ふらつくリリィの身体を支えるように、白狼は彼女に寄り添った。
「……あなたはただの狼ではなかったのですね。ここが知らずの森であるなら、当然のことでしょうか。申し遅れました、リリィと申します。貴族籍を抜けておりまして、苗字はありません。ただのリリィです」
「かしこまる必要はない。わたしはただ長生きしているだけの老いぼれにすぎないのだから」
「いいえ、どうぞ礼を言わせてください。もしも私ひとりだったならば、きっと生きることを諦めてしまっていたことでしょう。あなたのお陰で、立ち向かう勇気を持つことができました」
それはリリィの本音だった。おそらくリリィは、自分ひとりなら死を受け入れていたはずだ。自分の命を守るために、相手を殺すつもりで向き合うことはたぶんできなかった。自分の死を誰かが望んでいる。大聖女か、異母妹か。父親か、継母か。婚約者か、あるいはその他大勢の誰かが。そう考えたら、何もかもがどうでもよくなってしまったのだ。
けれど、白狼がリリィを守ってくれた。そして白狼の主人がこの森にいたから、リリィは力を発揮することができた。だからリリィにしてみれば、礼を言うのは彼女のほうだったのだ。聖女の資格を失い、神殿から追放された身の上にあっても、聖女として立ち上がることができた。何より自分を形作るのは他人の評価ではなく、自分が何を成し遂げたいかなのだということを、思い出させてくれたのだから。
「あちらにいらっしゃるのは、森の番人さまかとお見受けします。ご挨拶に伺ってもよろしいですか?」
「かまわんが、挨拶は不要だ」
「なぜ、ですか?」
「無意味だからだ」
「そんなことはないでしょう」
「ならば、好きにするがいい」
白狼の返事に首を傾げつつも、リリィは番人の足元で挨拶を行う。しかし、森の番人からの返事はない。どうやらまだ目覚めていないらしい。あれほどの大音量のやり取りがあってなお、まどろんでいるというのは一般的とは言い難い。まさか、先ほどの攻撃で何か身体に異常をきたしたのだろうか。あるいは老人特有の突発的な病の兆候か?
「森の番人さま、ご無礼をお許しくださいませ」
不躾だろうかと思いつつそっと老人の手に触れてみたが、握り返されることはなかった。氷のように冷たくはないけれど、確かに生きていると自信を持ってうなずけるほどの温かみもまたそこにはない。念のため脈をとり、息をしているかの確認もとる。死んではいない。かろうじてまだ生きていると言える程度の命の輝きが、そこにはあった。
「森の番人さま。どうぞお目覚めください」
無礼を承知で肩をゆすってみるが、返事はない。途方に暮れるリリィの横に、白狼が座り込んだ。つまらなそうに後ろ足で身体をかいている。
「番人は目覚めぬよ。眠りに落ちて、もうどれくらいになるか」
「すでに何年もこの状態なのですか?」
「ああそうだ。そなたも知っているであろう、魔力の高い者は己の魔力を取り込むことで肉体を維持できる。飲まず食わずでも、生きながらえることが可能なのだ」
それは、リリィも聞いたことがある。けれどそれはいわゆる仮死状態であり、特に理由もなくやることではなかったはずだ。例えば、毒を喰らった際に解毒のために眠り続けることは歴史的に見てもたびたびあるらしい。魔力の供給が途切れればそこで死亡するため、必ずしも成功するわけではないようだ。
白狼に見せつけるようにリリィはことさらゆっくり手を伸ばす。犬の場合は手の甲の匂いをかがせることで敵意のないことを示すことができるが、果たして狼の場合はどうなのだろう。白狼は匂いをかぐことなくリリィの前までやってくると、小さく口を開いた。
「森を守ってくれたこと、礼を言う」
大きく目を見開き、リリィは慌てて立ち上がり淑女の礼をとった。人語を解する動物は、聖獣に限られているのだ。リリィとてその知識は教本で習っただけで、聖獣に実際に会うのは今回が初めてだ。ふらつくリリィの身体を支えるように、白狼は彼女に寄り添った。
「……あなたはただの狼ではなかったのですね。ここが知らずの森であるなら、当然のことでしょうか。申し遅れました、リリィと申します。貴族籍を抜けておりまして、苗字はありません。ただのリリィです」
「かしこまる必要はない。わたしはただ長生きしているだけの老いぼれにすぎないのだから」
「いいえ、どうぞ礼を言わせてください。もしも私ひとりだったならば、きっと生きることを諦めてしまっていたことでしょう。あなたのお陰で、立ち向かう勇気を持つことができました」
それはリリィの本音だった。おそらくリリィは、自分ひとりなら死を受け入れていたはずだ。自分の命を守るために、相手を殺すつもりで向き合うことはたぶんできなかった。自分の死を誰かが望んでいる。大聖女か、異母妹か。父親か、継母か。婚約者か、あるいはその他大勢の誰かが。そう考えたら、何もかもがどうでもよくなってしまったのだ。
けれど、白狼がリリィを守ってくれた。そして白狼の主人がこの森にいたから、リリィは力を発揮することができた。だからリリィにしてみれば、礼を言うのは彼女のほうだったのだ。聖女の資格を失い、神殿から追放された身の上にあっても、聖女として立ち上がることができた。何より自分を形作るのは他人の評価ではなく、自分が何を成し遂げたいかなのだということを、思い出させてくれたのだから。
「あちらにいらっしゃるのは、森の番人さまかとお見受けします。ご挨拶に伺ってもよろしいですか?」
「かまわんが、挨拶は不要だ」
「なぜ、ですか?」
「無意味だからだ」
「そんなことはないでしょう」
「ならば、好きにするがいい」
白狼の返事に首を傾げつつも、リリィは番人の足元で挨拶を行う。しかし、森の番人からの返事はない。どうやらまだ目覚めていないらしい。あれほどの大音量のやり取りがあってなお、まどろんでいるというのは一般的とは言い難い。まさか、先ほどの攻撃で何か身体に異常をきたしたのだろうか。あるいは老人特有の突発的な病の兆候か?
「森の番人さま、ご無礼をお許しくださいませ」
不躾だろうかと思いつつそっと老人の手に触れてみたが、握り返されることはなかった。氷のように冷たくはないけれど、確かに生きていると自信を持ってうなずけるほどの温かみもまたそこにはない。念のため脈をとり、息をしているかの確認もとる。死んではいない。かろうじてまだ生きていると言える程度の命の輝きが、そこにはあった。
「森の番人さま。どうぞお目覚めください」
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それは、リリィも聞いたことがある。けれどそれはいわゆる仮死状態であり、特に理由もなくやることではなかったはずだ。例えば、毒を喰らった際に解毒のために眠り続けることは歴史的に見てもたびたびあるらしい。魔力の供給が途切れればそこで死亡するため、必ずしも成功するわけではないようだ。
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