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第一章 紫都と散り桜

昔の恋と曽木の旅

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 「曽木の滝は、滝幅210メートル、高さ12メートルの壮大なスケールを誇り、″ 東洋のナイアガラ ″ とも呼ばれております。千畳岩の岩肌を削るような…」
   
   曽木公園に到着してからは、お客様を蛯原さんに委ねる。
   
  その間に店のお座敷に行き、座席、配膳の数もチェック。足の悪いお客様には椅子も配備。
  よし。抜かりなし。
   
  ただ、心配していた通り、敷地内の桜は殆ど散ってしまい、見事なピンク色の絨毯を作っていた。
  上手の方の木に、僅かに残ってるだけ。
  
  時折、強く吹く春の風に、淡い桃色の花弁が舞い上がる。
  それを見ると、ちょっぴり切ない気持ちになってしまった。

   ″ あの人 ″ と出会ったのも、数年前の【桜紀行】と名打った春のツアーだったから。

 当時。
 久しぶりの恋に夢中になった。
     
  旅の夜、散歩に誘われたっけ。
  顔を見るだけでドキドキして、手が触れるだけで、あったかくなった。
    
   唇を重ねただけで頭の中が真っ白になって、抱き締められただけで溶けそうなったーー
 
   ″ 旅が終わってからも、二人で会いたい ″

  客と添乗員から、恋人へ。
  転がるように、関係は深くなった。

  …… もう、あんな恋をすることはない。
   
  それなのに、まだ身体は覚えてる。
  
  ″ あの人 ″ の隅々を、感触をーー
    
  想い出は残酷なほど綺麗だ。

「…いかんいかん」
  
  感傷に浸る暇はない。
  32歳。
  私の ″ 恋愛適齢期 ″ は、もう終わったんだから。
   
  漫画のようにほっぺをパン!と軽く叩いていると、バスから降りたドライバーの岡田が、水を片手に此方を見ていた。
    
 人を小バカにしたような目だ。
   
「お疲れ様です」
    
 それでも、会釈をして挨拶をすると、
 
「…もう終わりだな」
 
「え」
   
 岡田が、ボソッと言った。
 
「次の桜の名所も終わってるよ」

 あぁ、なんだ。桜ね。
 
「やっぱり、そうですよね」
    
 そんなことは私だって予想済みだ。
 地元でさえ散ってるのに、暖かい鹿児島なら尚更だ。
  
「で、どうする? 行くのか?」
「え」
 
   岡田は、水をゴクゴクと飲むと、少し苛ついたように続けた。
   
「桜祭りの最中かもしれないが、ここで昼食とってから屋台しかない公園に寄ってもしょうもない気がするけどな」
  
「…確かに」
     
 桜は散っても、お祭り気分だけでも味わえたら、と思っていたけれど。
    
「昼食の間に代案を考えておけば?」
      
 それを蛯原さんに相談しようと思っていたのに、先に無愛想な岡田に指摘されて、ちょっとムッときた。
     
「言われなくても考えます」

「あ、そ」
    
 と、冷たく返して、スラリ…とした足で颯爽とバスに乗り込む岡田。
   
 座ってスマホを弄りだしていた。
 その横顔も凛々しく、目も鼻筋も、唇も完璧だ。
 つい、見とれてしまう。
    
 女性にだけじゃなく、男性にもモテるかもしれない。
    
 その場合。
 きっと、…受け、ではないよね。
   
「フフ…」
    
 腐った妄想を一瞬だけ楽しんで、食事処の店に移動する。
  …… それにしても。
     
 あの人も、ちゃんと考えてるのね、旅の事。
 ただ、決まった通りに運転だけを遂行してるのかと思ってた。








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