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第七章 紫都の新しい旅

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「じゃあな、明日、9時に迎えに来るからな」

   洗濯と少しだけ、荷物の整理を手伝って、私と岡田は、病室を後にした。
   去り際、

  「いいかい、奪うつもりで、だよ?」

    と、赤石さんが念を押したので、ちょっと赤くなった。
     別に、岡田の事を好きだって言ってないのに。
 
  「何だよ、俺からカツアゲでもするつもりか?」
 
    岡田がまたつまんない冗談を言う。
   
  「そんなに困ってません」
   
  「実家暮らしが一番優雅だからな」
     
    鼻で笑われて、胸がチクリ………とした。
    
    私自身、本当に自立する為には、一度は家を出た方が良いと心の何処かで思っていたからだ。
  

  「そんな傷ついた顔すんなよ、俺、意地悪みたいじゃんか」
   
  「みたい、じゃなくて意地悪ですよ」
    
    はは、と笑う岡田は、離婚してから実家に出戻ったりはしてないんだろうな。
    
    不規則な仕事なのに、家事は自分でやってるんだろう。
     私とは大違い。
    

    ホテルに入る頃には、陽が落ちて、辺りは薄暗くなっていた。


   岡田の部屋は隣だった。
   それぞれ、フロントで受け取った鍵で開ける。
   
 「ここの一階のファミレスの食事券、何時でも使えるからな」
    
   夕食の事だろうけど。
  
 「お腹空いてないから、今夜は行かないかも」
     
   さっき、ごま豆腐食べたし。
 
 「同じく………」

    岡田は、ドアを開けながら何か言いたげだ。
 
    私も、彼がぶら下げている袋を見て、部屋飲みの誘いを思い出し、
  
  「………あ」
   
    返事をしようとしたけれど、二人の目が合うと口をつぐんでしまった。

   「これ。半分持っていくか?」
  
    岡田が酒の入った袋を差し出す。

   「………そ」
    
    そうですね、と言おうとして、また口をつぐむ。
    
    顔を上げて、鋭いのに何処か憂いのある、岡田の漆黒の目を見ていたら、本当にそれでいいのかと、思ってしまったからだ。
  
  「…じゃあ、こっちで冷やしておく」
    
    岡田は、ホテルの冷蔵庫には全部は収まりきらないだろう量のそれを持って、部屋に入って行った。
     
    ………部屋飲み、決定。



     
    仕事ではないホテルのシングル部屋。
    デスクも大きいし、高級感あるホテルだ。
    
    荷物を置いてから、ベッドにゴロッとなって目を瞑る。
     
    あれ? 壁が薄い?ーー
     
    今、ベッドに腰をおろした、とか。
    お風呂を貯めてる、とか。
    隣の岡田の動きが何となくわかってしまって嫌だった。
   
    だって、あっちにも分かるってことでしょ?
    テレビをつけても、パッとする番組はない。一人での、目的のない時間は勿体ない気がした。
    
  「とりあえず、シャワー浴びよう」


    このユニットバスっていうのは苦手だ。
    
    中学の修学旅行で、使い方がわからずに、トイレの方まで水浸しにした想い出がある。
 
    旅先なら 温泉がいい。
    温泉、また浸かりたいな。でも、一人旅は寂しいから、誰かとーー
   
     誰かって誰?
     ボヤボヤ~っと頭に浮かんだのは、岡田だった。
   
     駄目だ。赤石さんに煽られておかしくなってる。
    
    髪を乾かして、スマホを触っていると、トン!と壁を軽く叩く音がした。
 
     岡田からのサイン?
    
    ーー ″ いつでもどうぞ ″ って、意味?
  
    心臓が急に暴れ出した。













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