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第一章 暁を之(ゆ)く少年
第十話 愛し君を求めて
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少年は森の中を走っていた。
全身が焦げ臭い。一部が燃え落ちた裾を翻しながら、朱昂は懸命に下草を踏みしだき、低い枝の上に乗り移りながら疾走していた。
朱昂が九十年近く暮らした屋敷からは炎が噴きあがっていた。それを一顧だにせず、朱昂はただ前に進むことだけを考えた。
炎が生んだ風が朱昂の黒髪を乱す。
魔境に入るつもりも、人間の復讐の餌食になることも、父に殉じることも、朱昂の頭にはなかった。ただひたすら先へ、父すら知らぬ土地へ行くために、朱昂は走る。
しかし、そんな少年の逃避行は長く続かないようだった。
屋敷から抜け出してからさしてかからぬ内に、人間に見つかっていた。
殺せという怒号とともに追いかけられ、その度にまいていたが、息つく暇もなく、また人影が現れた。
――数が多すぎる。
紅眼の食人鬼に関する情報を各地にばらまいたのは朱昂だ。しかし朱昂自身、ここまで人間が集まるとは予想していなかった。
予想の三倍近い集まりだ。女子供を奪われた男たちの恨みの深さを改めて思い知る。
「赤目の子鬼だ!」
「何としても捉えろ!」
「逃がすな!」
また見つかった。
朱昂が激しく舌打ちをし、木の枝を蹴ろうとした瞬間、足首が妙な方向に曲がり、地に落ちた。膝が嫌な音を立て、激痛にのけ反る。人間たちの足音が近くなってきた。
脂汗の浮いた額を土にこすりつけたまま呼吸三つ分を耐え、朱昂は起きあがるとまた走り出した。
だが、数十歩走ったところで足がもつれ、再び転ぶ。
火傷や骨折に治癒能力を割かれ、疲労の解消ができない。全力疾走に慣れない筋肉が軽く痙攣していた。
つるような痛みを覚えながらそれでも足を動かす。腱が切れる予感を抱えながらも、止まるわけにはいかなかった。人間との距離が確実に詰まってきている。
息苦しさで顎が上がる。
このままだと追いつかれると判断した朱昂は、獣道を辿るのをやめ、鬱蒼と木々が絡み合う茂みの中へと飛びこんだ。途端に立ち枯れした低木の枝が朱昂の頬を傷つける。
足場の悪い場所では動きが遅くなるが、それは相手も同じこと。身軽な自分に分があると考えたが、やや軽率だったらしい。
下草に足を取られ、何度も体勢を崩す。ぶちりと腱が切れ、朱昂はうつぶせに倒れた。地面に腕を突っ張るも、どうしても立ち上がることができない。
己を照らす松明の焦げた匂いを嗅ぎながら、土を掴み、唇を噛む朱昂の眦が濡れていた。
その時、後ろで何人かのうめき声が聞こえた。肉を打つような音とともに、背後にいくつもあった灯りがひとつになる。朱昂の影が下草の上をいびつに伸びる。
ガサガサガサ。
震えを押し殺している間にも、人間が驚くような速さで近づいてくる。
――金でも懸けられていたか。
なぜ背後で乱闘が起きたかは分からない。
人間の気配がより濃厚になる。
人間がすぐ後ろで立ち止まったのを狙って朱昂は立ち上がった。何とか治癒が間に合った。先に、進まなければならない。
ぐっと足首に力を入れれば、痛みが脳にまで走った。噛み抜いた唇から血が飛沫く。
――前へ!
疲労困憊した全身に命じる少年の腕を掴む者があった。後ろから羽交い締めにされる。やけに熱く感じる手に、朱昂は噛みついた。耳元でうなり声があがるが、身をよじっても腕は解けなかった。
男が取り落とした松明が下草を燃やし始める。
「離せ、無礼者!」
「朱昂!」
朱昂は目を見開いた。
聞き間違えるはずはなかった。忘れたことのない声。朱昂は己を抱く人間の顔を見た。
「暁ちゃん……?」
黒い瞳を持つ青年が、小さく頷いた。
朱昂を離すと、暁之は松明を取り上げ、急いで草に移った火を踏み消した。その間、朱昂は瞬きを忘れて呼吸を繰り返すだけだ。
暁之は小さくなった火をかざして朱昂と正対し、眉を寄せた。ひどい血だ。
「怪我は」
「な、い」
だとすると全て返り血か。
朱昂の着ているものは汚れ、破れていたが、それ以外にもおかしなところがあった。衣に見覚えがあったのだ。
朱昂はいつも二度と同じ着物を見ることはないほど衣を替えていた。だが、今身に着けているものはどうだ、最後に会った頃と同じものではないだろうか。
暁之の違和感を裏付けるように、衣は丈が合っていない。
より青白くなったような朱昂の顔。目の色だけが濃くなったような気がする。記憶の中の朱昂と、目の前の少年の出す雰囲気のちぐはぐさが、暁之の顔を険しくさせる。
「暁之」
震える掠れ声が、暁之を現実に引き戻した。どうした、と問う前に、朱昂の頬を涙が走る。
「み、のがして……くれ」
朱昂の涙より、その言葉が暁之に衝撃を与えた。怒りに似たものが足下から伝い上ってくる。
なぜ。何が。朱昂をこんなに変えたのだ、と。
「朱昂」
「頼む。俺はまだ……」
頼むと言いながら、朱昂は走り出さない。迷子のように瞳を揺らしてべそをかいている。
「暁ちゃん、俺……暁ちゃんに会いたかったよ」
朱昂が頭を抱えて泣き出した。ずっとずっと会いたかった。掠れた声で泣き声をあげながら、朱昂は首を振る。
その一回り大きくなった手を、暁之が握った。膝をついて友を見上げる。
「逃げよう、朱昂。俺は、お前を助けに来たんだ」
「たすけに……?」
暁之は紅い目に頷いて見せてから背後の闇へ首を向けた。先ほど気絶させた男たちがいつ目を覚ますかも分からない。混乱している朱昂と、早く安全な場所に行かねば。
「本当か?」
朱昂の声が低くなった。顔中を猜疑心で曇らせながら、朱昂が後ずさる。舌打ちをしそうになるのをこらえて、暁之は腕を開いた。
どうしたら信じてもらえるのだ。どうしても信じてもらわねば困る。
「信じてくれ、朱昂。俺は……。俺はお前を絶対に渡したくない。渡すわけにはいかない」
雨が落ちてきた。
松明の炎が痩せ、消える。それでも暁之は動かなかった。
やがて、温かい体が腕の中に飛び込んでくる。ぎゅっと縋り付くように細い腕が背に回る。
「ごめ、なさ……暁ちゃん、俺……。ご、ごめんなさい父上、たすけ、っく……助けて、父上さま。ごめ、ごめんなざい、ごめんなさいごめんなさい父上様ァ!俺、俺ぇ……っく」
泣きながら朱昂はしきりに謝罪を繰り返す。ごめんなさいごめんなさい。果てしない謝罪の末にゆるして、と赤く腫れた唇が動いた。濡れた体を暁之の腕が一層強く抱きしめる。
――許してください。許して父上様!!
慟哭の果てに一際高く叫んだ朱昂を抱え上げ、暁之は森の中を走り出した。
逃避する人間と鬼を照らすものは何もなかった。
全身が焦げ臭い。一部が燃え落ちた裾を翻しながら、朱昂は懸命に下草を踏みしだき、低い枝の上に乗り移りながら疾走していた。
朱昂が九十年近く暮らした屋敷からは炎が噴きあがっていた。それを一顧だにせず、朱昂はただ前に進むことだけを考えた。
炎が生んだ風が朱昂の黒髪を乱す。
魔境に入るつもりも、人間の復讐の餌食になることも、父に殉じることも、朱昂の頭にはなかった。ただひたすら先へ、父すら知らぬ土地へ行くために、朱昂は走る。
しかし、そんな少年の逃避行は長く続かないようだった。
屋敷から抜け出してからさしてかからぬ内に、人間に見つかっていた。
殺せという怒号とともに追いかけられ、その度にまいていたが、息つく暇もなく、また人影が現れた。
――数が多すぎる。
紅眼の食人鬼に関する情報を各地にばらまいたのは朱昂だ。しかし朱昂自身、ここまで人間が集まるとは予想していなかった。
予想の三倍近い集まりだ。女子供を奪われた男たちの恨みの深さを改めて思い知る。
「赤目の子鬼だ!」
「何としても捉えろ!」
「逃がすな!」
また見つかった。
朱昂が激しく舌打ちをし、木の枝を蹴ろうとした瞬間、足首が妙な方向に曲がり、地に落ちた。膝が嫌な音を立て、激痛にのけ反る。人間たちの足音が近くなってきた。
脂汗の浮いた額を土にこすりつけたまま呼吸三つ分を耐え、朱昂は起きあがるとまた走り出した。
だが、数十歩走ったところで足がもつれ、再び転ぶ。
火傷や骨折に治癒能力を割かれ、疲労の解消ができない。全力疾走に慣れない筋肉が軽く痙攣していた。
つるような痛みを覚えながらそれでも足を動かす。腱が切れる予感を抱えながらも、止まるわけにはいかなかった。人間との距離が確実に詰まってきている。
息苦しさで顎が上がる。
このままだと追いつかれると判断した朱昂は、獣道を辿るのをやめ、鬱蒼と木々が絡み合う茂みの中へと飛びこんだ。途端に立ち枯れした低木の枝が朱昂の頬を傷つける。
足場の悪い場所では動きが遅くなるが、それは相手も同じこと。身軽な自分に分があると考えたが、やや軽率だったらしい。
下草に足を取られ、何度も体勢を崩す。ぶちりと腱が切れ、朱昂はうつぶせに倒れた。地面に腕を突っ張るも、どうしても立ち上がることができない。
己を照らす松明の焦げた匂いを嗅ぎながら、土を掴み、唇を噛む朱昂の眦が濡れていた。
その時、後ろで何人かのうめき声が聞こえた。肉を打つような音とともに、背後にいくつもあった灯りがひとつになる。朱昂の影が下草の上をいびつに伸びる。
ガサガサガサ。
震えを押し殺している間にも、人間が驚くような速さで近づいてくる。
――金でも懸けられていたか。
なぜ背後で乱闘が起きたかは分からない。
人間の気配がより濃厚になる。
人間がすぐ後ろで立ち止まったのを狙って朱昂は立ち上がった。何とか治癒が間に合った。先に、進まなければならない。
ぐっと足首に力を入れれば、痛みが脳にまで走った。噛み抜いた唇から血が飛沫く。
――前へ!
疲労困憊した全身に命じる少年の腕を掴む者があった。後ろから羽交い締めにされる。やけに熱く感じる手に、朱昂は噛みついた。耳元でうなり声があがるが、身をよじっても腕は解けなかった。
男が取り落とした松明が下草を燃やし始める。
「離せ、無礼者!」
「朱昂!」
朱昂は目を見開いた。
聞き間違えるはずはなかった。忘れたことのない声。朱昂は己を抱く人間の顔を見た。
「暁ちゃん……?」
黒い瞳を持つ青年が、小さく頷いた。
朱昂を離すと、暁之は松明を取り上げ、急いで草に移った火を踏み消した。その間、朱昂は瞬きを忘れて呼吸を繰り返すだけだ。
暁之は小さくなった火をかざして朱昂と正対し、眉を寄せた。ひどい血だ。
「怪我は」
「な、い」
だとすると全て返り血か。
朱昂の着ているものは汚れ、破れていたが、それ以外にもおかしなところがあった。衣に見覚えがあったのだ。
朱昂はいつも二度と同じ着物を見ることはないほど衣を替えていた。だが、今身に着けているものはどうだ、最後に会った頃と同じものではないだろうか。
暁之の違和感を裏付けるように、衣は丈が合っていない。
より青白くなったような朱昂の顔。目の色だけが濃くなったような気がする。記憶の中の朱昂と、目の前の少年の出す雰囲気のちぐはぐさが、暁之の顔を険しくさせる。
「暁之」
震える掠れ声が、暁之を現実に引き戻した。どうした、と問う前に、朱昂の頬を涙が走る。
「み、のがして……くれ」
朱昂の涙より、その言葉が暁之に衝撃を与えた。怒りに似たものが足下から伝い上ってくる。
なぜ。何が。朱昂をこんなに変えたのだ、と。
「朱昂」
「頼む。俺はまだ……」
頼むと言いながら、朱昂は走り出さない。迷子のように瞳を揺らしてべそをかいている。
「暁ちゃん、俺……暁ちゃんに会いたかったよ」
朱昂が頭を抱えて泣き出した。ずっとずっと会いたかった。掠れた声で泣き声をあげながら、朱昂は首を振る。
その一回り大きくなった手を、暁之が握った。膝をついて友を見上げる。
「逃げよう、朱昂。俺は、お前を助けに来たんだ」
「たすけに……?」
暁之は紅い目に頷いて見せてから背後の闇へ首を向けた。先ほど気絶させた男たちがいつ目を覚ますかも分からない。混乱している朱昂と、早く安全な場所に行かねば。
「本当か?」
朱昂の声が低くなった。顔中を猜疑心で曇らせながら、朱昂が後ずさる。舌打ちをしそうになるのをこらえて、暁之は腕を開いた。
どうしたら信じてもらえるのだ。どうしても信じてもらわねば困る。
「信じてくれ、朱昂。俺は……。俺はお前を絶対に渡したくない。渡すわけにはいかない」
雨が落ちてきた。
松明の炎が痩せ、消える。それでも暁之は動かなかった。
やがて、温かい体が腕の中に飛び込んでくる。ぎゅっと縋り付くように細い腕が背に回る。
「ごめ、なさ……暁ちゃん、俺……。ご、ごめんなさい父上、たすけ、っく……助けて、父上さま。ごめ、ごめんなざい、ごめんなさいごめんなさい父上様ァ!俺、俺ぇ……っく」
泣きながら朱昂はしきりに謝罪を繰り返す。ごめんなさいごめんなさい。果てしない謝罪の末にゆるして、と赤く腫れた唇が動いた。濡れた体を暁之の腕が一層強く抱きしめる。
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