オーリの純心

シオ

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 ジグムントの庇護下に入ってから、ひと月が過ぎた。

 恐ろしいほどに穏やかな日々が、少しずつ私の地獄を淡くしていく。夜、眠っていると恐怖が蘇って飛び起きることもあるが、私にベッドを譲り床に藁を敷いて寝ているジグムントを見ると平静を取り戻すのだ。

 ジグムントは粗野なところがあり、鼾は大きいが、それでも私を苦しめた男たちと比べれば、聖人のような人物だった。

 ジグムントは、三日か二日に一度戻ってきては、手に入れた商品や売上を置いて、再び出かけていく。

 私は一日の殆どをアルフレドと過ごしていた。アルがいるから寂しくない。アルは、常に私に寄り添ってくれた。寒い夜は同じベッドに入って身を寄せて眠るのだ。人の言葉が分かるのかもしれないと思うほどに、アルは聡明で思慮深く優しい狼だった。

 私は、犬にしては体躯の大きいアルフレドのことを狼であると信じているが、ジグムントは犬だと言って譲らない。結局のところ、アルフレドが一体何なのかは分からず終いだった。だが、そんなことはどうでも良かった。アルフレドは、私を守り、寄り添ってくれる大切な存在であることに変わりはないのだから。

「アル、ここで待っていてね」

 洗濯籠を肩に掛けて、杖を持つ。あまり村に近付きすぎると、村人たちがアルフレドを怖がるのだ。それを知っているからこそ、アルは村から少し離れた場所でお座りをして、静かに尻尾を振った。直ぐ帰ってくるからね、と頭を撫でて歩き出す。

 自由の利かない右足を引きずるようにして、杖と左足で前進する。この歩行にも随分と慣れた。おかげで、全身の筋肉が発達したように思うが、いつまでたっても己の体は貧相なままで、加虐の痕が黒々と残る不気味な体になっていた。

「あら、しろちゃん。こんにちは」
「こんにちは」

 村に近付けば、愛想のいい婦人に出会う。まっしろ、とジグムントが私を呼ぶので、いつからか村人からは、しろ、と呼ばれるようになっていた。私が村に行く理由は大きく二つ。一つが買い物で、もう一つが洗濯だった。今まで、城では誰かが済ませてくれていた洗濯を、ここでは己の手でしなくてはならない。

 この村には共同の洗濯場があり、河の水を引いて絶えず水が流れる洗濯槽に女性たちが並び、そこで皆で会話を楽しみながら洗濯をするのだ。石灰を溶いたものを石鹸として使用しているが、あまり綺麗にはならない。城では一体、どんな洗剤を使っていたのだろう。

 商売に出ているジグムントが帰ってくると、二日分ほどの洗濯物を預かってそれを私が洗う。放っておくと、ジグムントは一週間でも二週間でも同じ服を着ていた。私が小まめに着替えてくれ、と訴えてやっと毎日の着替える習慣が身に付いたが、ここの村人たちも平気で何日間か同じ服を着ている。

 もしかすると、毎日着替えるのは城にいる者たちだけだったのかもしれない。けれど、毎日着替える習慣が骨身にしみている私は、どうしても着替えたくなってしまい、こうして毎日洗濯場に来ているのだ。頻繁に洗濯する私を、村人たちは綺麗好きだなぁと言って笑っていた。

 長く私を苦しめたアントンも、私を毎日着替えさせた。すぐに裸にさせるくせに、己の好みの服を着せて楽しんでいたのだ。あの日々でさえ、三日と同じ服は着なかった。私が着替えたくなる性質を持っていたとしても、それはもうどうしようもないことなのだ。

「こっちおいで、空いてるわよ」
「ありがとうございます」

 年頃の若い婦人が手招きをして、開いている場所を教えてくれた。ここの村人たちは、皆優しい。異様な姿の私を、すんなりと受け入れてくれた。

 それも、ジグムントのおかげだろう。ジグムントは、村人から好かれていたのだ。困りごとがあればすぐに手助けしてくれるジグムントは、皆から頼られており、その庇護下に入った私は最初から良い印象を持たれていた。

「ほらちょっと、そこの椅子取ってあげて」
「わざわざすみません」

 婦人が別の婦人へ声をかけて、椅子を持ってきてくれる。基本的に皆立ったまま洗濯をしているが、私の場合は座らなければ両手が自由にならなかった。有難くその椅子に腰を下し、己のものとジグムントの数日分の洗濯物を一枚ずつ水槽に浸し、ごしごしと擦って洗っていく。

「その足で洗濯は大変でしょう」
「そうですね。でも、だいぶ慣れました」
「足、いつから悪いの?」
「一年とちょっと前からです」
「あらまぁ、じゃあ最近だね」

 私について色々と質問を投げかけてくる婦人たちだが、深くは詮索しない。恐らく、私の白い髪や切れた右足の腱などを見て、異様な過去があるのだろうと察してくれているのだ。そこで根掘り葉掘り聞きださないのが、この人たちの優しさだった。

「いやぁ、しろちゃんは本当に働き者だねぇ。それで男の子だなんてもったいない。女の子なら、うちの馬鹿息子の嫁にもらったのにね」
「働き者だなんて……、私はこれくらいしか出来ないので。せめてジグムントの役に立ちたくて」
「まったく、ジグムントは良い拾い物をしたよ」
「本当本当。最初は一体何を拾ったのかと思ったけどね」
「いっときは、貴族の娘を攫って来た、とかなんとか。そんな噂もあったよねぇ」
「あったあった。結局、貴族の娘でもないし、攫ってきたわけでもなかったけど!」

 その噂話は以前も聞いたことがある。どうやら、私は女性であると思われていたらしい。伸び放題になっていた髪も、切らずに紐でひとつに結んでおり、後ろ姿だけ見ればそう見えないこともないのかもしれない。

 一度、ジグムントが髪を切ろうとしてくれたのだけれど、鋏が己の耳元にあるというのが酷く恐ろしく感じて、耐えられなかったのだ。

 かつて、アントンに拉致される前、あの集会場で鋏で肌を傷付けられたことがあった。ナイフよりも鈍い先端をぐりぐりと体に押し付けられ、肉を抉られたのだ。その時の恐怖が蘇ってしまって、髪を切ることが出来なかった。

 己がナイフを握って料理をすることも、鋏を握って布を裁断することも出来るのに、他人がそれらを持って私の肌に近付けるということが、怖くてたまらなかった。

「今日はジグムント、帰ってくるのかい?」
「はい。三日ぶりに」
「良かったね」
「はい」

 婦人の言葉を素直に肯定する。ジグムントが帰ってくるのは、嬉しいことだった。アルフレドがいるから寂しくは無いけれど、やはりアルフレドとは会話が出来ない。ジグムントと会話がしたかった。

 それから、洗い終えた服たちを洗濯籠に戻す。水を含んで重たくなった籠は、親切な婦人の指示でその息子さんが持って運んでくれた。

「運んでもらってしまって、すみません」
「これくらいなんてことないよ。困ったことがあったらお互い様だ」

 困ったことがあったらお互い様。その考えが皆に染みついているこの村が、私は好きだった。もう一度感謝を述べて、息子さんの背中を見送る。ここは、村の外れ。アルフレドを待たせていた場所だった。

「アル!」

 大きな声で名前を呼べば、どこかで体を休めていたのであろうアルフレドがやってくる。黒い体に葉がついていた。草むらで遊んでいたのだろうか。体についたそれらを手で払い落として、アルフレドを向かい合う。

「お待たせ。遅くなってごめんね。家まで宜しくね」

 運んでもらった洗濯籠の持ち手をアルフレドが咥える。そして、咥えながら後退するような姿勢で家へと向かった。洗濯籠を引きずって、アルフレドが家まで運んでくれるのだ。

 ジグムントの家は、少しばかり小高い丘にある。村の中に家を建てても良かったらしいが、アルフレドと共にいることを選んだジグムントは村の外れに家を建てた。

 村へは少し歩かなければならないが、家の周りには木々が茂り、すぐ横には透明度の高い湖がある。とても美しい世界だった。

「ただいま、まっしろ」

 丘の上、家の前にジグムントがいた。



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