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「よし、では始めるとしようか」
城下町にある居酒屋。その厨房が快く借りられたのも、アリウス様のおかげだった。アリウス様なしでは、この計画は上手くいかなかっただろう。そんな恩人が大きな一声を発し、俺も気合を入れる。
「ノウェ様、料理でしたら宮殿の厨房でも良かったのでは?」
「そう思ったんだけど、あそこだとヴィルに知られる可能性があるだろ。誰かが悪気なく、皇妃が厨房にいましたよ、なんて言っちゃうかもしれないし」
「なるほど。確かに、宮殿の厨房よりは、城下の居酒屋の方が秘匿性が高いですね」
「そういうこと」
アナスタシアも手伝ってくれるということで、一緒に腕まくりをしている。彼女にとっても初めての料理なのだという。イェルマは俺たちの背後で見守ってくれていた。
「ヴィルは今日、仕事が立て込んでるみたいで、帰りが遅くなるって言ってたから、丁度いいなと思って」
「陛下に何も言わずに出てきたんですか?」
「まぁね。気付かれないうちに帰れば、きっと大丈夫」
愛し合った後に少しだけ言い争いのようなことをしてしまった次の日、俺はいつも通りヴィルと同じ朝食のポリッジを食べた。けれど、なぜかすぐにいつも通りの空気に戻ることが癪に思えて、俺は少しばかり憮然として過ごしてたのだ。
そのせいか、あまり言葉を交わしていない。本当は、今日も夕方から出掛けてくると言うべきだったのかもしれないけれど、それを伝える気にならなかった。幸いにも、ここ数日のヴィルは忙しいのか、帰りがとても遅いのだ。
「見学して分かったんだけど、このビスケット作りは分量を計るのが凄く大事なんだ。きっちり計って、少しの過不足もないようにする」
「お任せ下さい。弾薬の調合も似たようなものなので、私、自信があります」
胸をドンと叩いて、お任せあれ、と言うアナスタシアを見て俺はついつい笑ってしまった。料理の手順も、彼女にかかれば弾薬の調合と同等になってしまうのだ。
「アナスタシアって本当に格好いい」
「えっ、な、なんですか急に」
「いや、なんか。自分の好きなことを全力で頑張ってて、格好いいなって」
「やめてくださいよ、照れるじゃないですか」
自分の好きなことを極めて、それを仕事にしているアナスタシアの姿は格好いい。俺の故郷にはいない女性の形だ。好きなものも、極めたいものもない俺からすれば憧憬すら抱く。
「ほら、おしゃべりも良いけど手を動かさないとね」
アリウス様の注意を受けて、俺たちは口ではなく手を動かし始めた。分量をきっちり計ることはアナに任せて、俺はひたすら混ぜたり、捏ねたり、を繰り返す。少し疲れた時にはイェルマが手伝ってくれたけれど、殆どを俺が調理したと思うのだ。
石窯の前に立って、時間を確認する。重い錠のようなものが下されて、しっかりと石窯の中の密閉が保たれていた。そろそろ良いかな、というアリウス様の判断で、石窯が開けられた。強い熱気が満ちる中から、木の棒を駆使しながらイェルマが大きな平皿を取り出してくれた。
「これ……、出来てるかな」
「良い具合じゃないでしょうか」
「うんうん。なかなか、上出来だと思うよ」
少し不安な気持ちで平皿の上に置かれた小さなビスケットたちを眺める俺に、アナスタシアとアリウス様が肯定を重ねてくれる。確かに、見栄えはいい。匂いも、良い香りがする。
それからビスケットを冷ましつつ、俺とアナスタシアは梱包の準備をした。ビスケットをそのまま渡すことは出来ない。何かに包まなければ。包み紙と飾り紐は、俺とアナで買いに行ったのだ。城下には、ユノの祭日に合わせて、その手のものが多く売られていた。
お茶をして雑談をしながら、ビスケットが覚めるのを待つ。アナスタシアは今まで、ユノの日に何度も告白されたことがあることを教えてくれた。人を愛することはよく分からないけれど、楽しい思い出だと語る彼女の横顔は美しい。
アリウス様には、似たような風習はロアには無いのかと問われたけれど、俺はロアのことをよく覚えていなくてイェルマに尋ねた。俺たちの視線が向いたイェルマは、似た風習はない、と短い回答を述べる。そんなことを話していると、ビスケットたちの冷め具合が良い頃合いになった。
「飾りつけ、こんな感じでいいかな」
「いい感じです、綺麗ですよ。……でも、こんなにたくさん作って、誰に渡すんですか?」
包み紙と飾り紐によって大切に包まれたビスケットたち。その塊は、五つあった。上手に出来たビスケットたちを五等分にして包んだのだ。その内の一つを手に持って、アナスタシアに渡す。
「アナスタシアに」
ユノの日は、恋人や夫婦だけの祭日ではない。日々お世話になっている人に感謝を伝える日でもある。俺はアナスタシアに感謝を伝えたかった。
「いつも俺と仲良くしてくれて、ありがとう。たくさん本を貸してくれることにも、いつも感謝している。これからも、俺と一緒に本の感想会、して欲しい」
「……ありがとうございます、ノウェ様」
俺がリオライネンでの日々を退屈せず過ごせているのは、アナのおかげだった。アナが俺に本を貸してくれるから、そして、その本の感想を語り合えるからだった。アナスタシアがいなければ、ここでの毎日は大きく色合いを変えていたことだろう。
「アリウス様に」
もう一つを掴み取り、俺はアリウス様に近寄った。きっとアリウス様は、お気に入りの女性たちから多くの贈り物をもらうのだろう。俺のビスケットなど不要かもしれない。それでも俺はアリウス様に感謝の証を贈りたかった。
「アリウス様が手解きをして下さらなければ、このビスケットは完成しませんでした。いつも、俺やヴィルのことを優しく見守って下さって、本当にありがとうございます」
「愛しい息子夫婦のためなら、どんな苦労も厭わないけれど……まさか、私にまでユノの贈り物があるなんて。妻に自慢しなくては」
小さな包みを受け取って、嬉しそうにアリウス様が笑った。いつだって、俺やヴィルヘルムを見守り、導いてくれる。少し困ったところもあるけれど、間違いなくアリウス様は俺たちを慈しんでくれていた。
「イェルマに」
残る三つのうちの一つを手にして、イェルマに手渡す。不出来なものでいい、だなんてイェルマは言っていたけれど、それでは俺が納得いかなかった。イェルマの献身は、不出来なビスケットでは到底釣り合わないのだ。
「ずっとずっと、俺のそばにいてくれてありがとう。イェルマがいてくれなかったら、俺は生きてこれなかった。ずっと、守ってくれてありがとう。これからも、俺のそばにいて欲しい」
ビスケットの包みを受け取ったイェルマの指先が、少しだけ震えていた。イェルマなしでは生きていられなかった。それは間違いのない事実だ。ロアの地でも、リオライネンへ来てからも、イェルマがずっとそばにいてくれたから、俺は今こんなにも幸せなのだ。
「……勿論です」
ゆっくりと頷いたイェルマは、声まで震わせていた。未だに震えるイェルマの指先を俺は握って、その震えが止まるようにと祈る。イェルマの手はとても冷たかった。俺が使った調理器具を、冷えた水で洗ってくれていたのだ。何から何まで、気が利く彼だった。
「あとは陛下と、……もう一つは?」
「イーヴァンの分。仲間外れにしたら可哀想だろう?」
「ノウェ様は本当に優しいですね。あんな悪態しかつかない男に、ノウェ様のビスケットは勿体無いくらいですよ」
「まぁ、俺もイーヴァンのことは何度か殴りたくなったことあるけどさ。でも、イーヴァンが動かなければ、俺はヴィルと結ばれなかったわけだし」
残る二つの包みを見て、アナスタシアが問う。それは、ヴィルヘルムのものとイーヴァンのものだった。イーヴァンには過去、酷いことを言われたこともあるし、腹立たしく思うことも多々あった。けれど、それでも今は、感謝したいと思っている。
「ユノの日になった瞬間に、ヴィルにあげようかな」
「いいですね! きっと陛下は、とても御喜びになられますよ」
明日に迫ったユノの祭日。この夜を過ごしているうちに、ユノの日がやってくる。時計の針が頂点を指す瞬間に、俺はヴィルにこの小包を手渡そう。そう考えると、心の中が楽しい気持ちで満ちていった。
アリウス様に感謝を告げて、城下を後にする。馬車に乗って、アナスタシアを貴族街で下ろした。そしてイェルマと共に宮殿へ向かう。もし万が一、今日に限ってヴィルの仕事が早く終わってしまったらどうしよう、と一抹の焦燥を感じもしたが、それは杞憂だった。俺たちの寝室に戻っても、ヴィルの姿はなかったのだ。
手早く湯浴みを済ませ、いつも通りにイェルマに髪を拭いてもらう。長すぎる髪は鬱陶しいことこの上ないのだが、どうにもヴィルはこの髪を好いているので、切るに切れない。
「ノウェ様、贈り物……、ありがとうございました」
髪を拭き終えたイェルマが、小さな声を発した。彼の感謝に対して、俺は首を左右に振る。感謝をしなければいけないのは俺であって、その感謝の証があのビスケットなのだ。それに対して感謝されてしまえば、何が何だか分からなくなってしまう。
「俺、イェルマにしてもらってばかりなのに、お返しが全然出来てないよな。ごめん、イェルマ」
「そのようなことは……っ、そばに置いて頂けるだけで幸せです」
イェルマは、嘘をつかない。それは分かっている。けれど、その言葉は彼の本心だろうか。俺への慕情を捨て切れないと言うイェルマにとって、俺の傍は幸福な場所なのだろうか。
「俺のそばにいるの、辛くない?」
「辛くありません」
「……そっか」
イェルマの回答は早かった。即答と言っても過言ではない。迷いはないのだと言うことは、その言葉の勢いから察することが出来た。俺は少し胸を撫で下ろす。
「イェルマ。俺は、ヴィルと一緒にいると幸せだなって思うよ」
「ノウェ様が幸せでいて下さるのであれば、それ以上は何も求めません」
「……ごめんね、ありがとう」
いつまで俺はイェルマに甘えて良いのだろう。いつか、イェルマは俺ではない人を愛するだろうか。そして、その人と幸せになってくれるだろうか。そんなことを考えながら、寝台に倒れ込む。少しばかり眠気がやってきた。
「ヴィルのやつ……本当に遅いな。眠くなりそう」
「陛下が戻られるまで、少し仮眠しては如何ですか?」
「……起きれるかな」
「陛下が戻られる報せが入り次第、起こしましょうか」
「いやでも、そんなこと頼んだらイェルマがずっと寝れないし……、うーん、もうちょっと待ってみるよ」
寝台の上で横になってしまった時点で、もう眠気に負けているところはあるのだけれど、それでも俺はこのままヴィルが戻ってくるのを待つつもりでいた。
「おやすみ、イェルマ」
「おやすみなさいませ」
イェルマと就寝の挨拶を交わし、イェルマが部屋から出ていく。部屋の中は静けさに包まれる。眠るわけにはいかないので、掛け布の中には潜らない。寝台の上で倒れ込んだまま、俺は一向に開く気配のない扉を眺めた。
城下町にある居酒屋。その厨房が快く借りられたのも、アリウス様のおかげだった。アリウス様なしでは、この計画は上手くいかなかっただろう。そんな恩人が大きな一声を発し、俺も気合を入れる。
「ノウェ様、料理でしたら宮殿の厨房でも良かったのでは?」
「そう思ったんだけど、あそこだとヴィルに知られる可能性があるだろ。誰かが悪気なく、皇妃が厨房にいましたよ、なんて言っちゃうかもしれないし」
「なるほど。確かに、宮殿の厨房よりは、城下の居酒屋の方が秘匿性が高いですね」
「そういうこと」
アナスタシアも手伝ってくれるということで、一緒に腕まくりをしている。彼女にとっても初めての料理なのだという。イェルマは俺たちの背後で見守ってくれていた。
「ヴィルは今日、仕事が立て込んでるみたいで、帰りが遅くなるって言ってたから、丁度いいなと思って」
「陛下に何も言わずに出てきたんですか?」
「まぁね。気付かれないうちに帰れば、きっと大丈夫」
愛し合った後に少しだけ言い争いのようなことをしてしまった次の日、俺はいつも通りヴィルと同じ朝食のポリッジを食べた。けれど、なぜかすぐにいつも通りの空気に戻ることが癪に思えて、俺は少しばかり憮然として過ごしてたのだ。
そのせいか、あまり言葉を交わしていない。本当は、今日も夕方から出掛けてくると言うべきだったのかもしれないけれど、それを伝える気にならなかった。幸いにも、ここ数日のヴィルは忙しいのか、帰りがとても遅いのだ。
「見学して分かったんだけど、このビスケット作りは分量を計るのが凄く大事なんだ。きっちり計って、少しの過不足もないようにする」
「お任せ下さい。弾薬の調合も似たようなものなので、私、自信があります」
胸をドンと叩いて、お任せあれ、と言うアナスタシアを見て俺はついつい笑ってしまった。料理の手順も、彼女にかかれば弾薬の調合と同等になってしまうのだ。
「アナスタシアって本当に格好いい」
「えっ、な、なんですか急に」
「いや、なんか。自分の好きなことを全力で頑張ってて、格好いいなって」
「やめてくださいよ、照れるじゃないですか」
自分の好きなことを極めて、それを仕事にしているアナスタシアの姿は格好いい。俺の故郷にはいない女性の形だ。好きなものも、極めたいものもない俺からすれば憧憬すら抱く。
「ほら、おしゃべりも良いけど手を動かさないとね」
アリウス様の注意を受けて、俺たちは口ではなく手を動かし始めた。分量をきっちり計ることはアナに任せて、俺はひたすら混ぜたり、捏ねたり、を繰り返す。少し疲れた時にはイェルマが手伝ってくれたけれど、殆どを俺が調理したと思うのだ。
石窯の前に立って、時間を確認する。重い錠のようなものが下されて、しっかりと石窯の中の密閉が保たれていた。そろそろ良いかな、というアリウス様の判断で、石窯が開けられた。強い熱気が満ちる中から、木の棒を駆使しながらイェルマが大きな平皿を取り出してくれた。
「これ……、出来てるかな」
「良い具合じゃないでしょうか」
「うんうん。なかなか、上出来だと思うよ」
少し不安な気持ちで平皿の上に置かれた小さなビスケットたちを眺める俺に、アナスタシアとアリウス様が肯定を重ねてくれる。確かに、見栄えはいい。匂いも、良い香りがする。
それからビスケットを冷ましつつ、俺とアナスタシアは梱包の準備をした。ビスケットをそのまま渡すことは出来ない。何かに包まなければ。包み紙と飾り紐は、俺とアナで買いに行ったのだ。城下には、ユノの祭日に合わせて、その手のものが多く売られていた。
お茶をして雑談をしながら、ビスケットが覚めるのを待つ。アナスタシアは今まで、ユノの日に何度も告白されたことがあることを教えてくれた。人を愛することはよく分からないけれど、楽しい思い出だと語る彼女の横顔は美しい。
アリウス様には、似たような風習はロアには無いのかと問われたけれど、俺はロアのことをよく覚えていなくてイェルマに尋ねた。俺たちの視線が向いたイェルマは、似た風習はない、と短い回答を述べる。そんなことを話していると、ビスケットたちの冷め具合が良い頃合いになった。
「飾りつけ、こんな感じでいいかな」
「いい感じです、綺麗ですよ。……でも、こんなにたくさん作って、誰に渡すんですか?」
包み紙と飾り紐によって大切に包まれたビスケットたち。その塊は、五つあった。上手に出来たビスケットたちを五等分にして包んだのだ。その内の一つを手に持って、アナスタシアに渡す。
「アナスタシアに」
ユノの日は、恋人や夫婦だけの祭日ではない。日々お世話になっている人に感謝を伝える日でもある。俺はアナスタシアに感謝を伝えたかった。
「いつも俺と仲良くしてくれて、ありがとう。たくさん本を貸してくれることにも、いつも感謝している。これからも、俺と一緒に本の感想会、して欲しい」
「……ありがとうございます、ノウェ様」
俺がリオライネンでの日々を退屈せず過ごせているのは、アナのおかげだった。アナが俺に本を貸してくれるから、そして、その本の感想を語り合えるからだった。アナスタシアがいなければ、ここでの毎日は大きく色合いを変えていたことだろう。
「アリウス様に」
もう一つを掴み取り、俺はアリウス様に近寄った。きっとアリウス様は、お気に入りの女性たちから多くの贈り物をもらうのだろう。俺のビスケットなど不要かもしれない。それでも俺はアリウス様に感謝の証を贈りたかった。
「アリウス様が手解きをして下さらなければ、このビスケットは完成しませんでした。いつも、俺やヴィルのことを優しく見守って下さって、本当にありがとうございます」
「愛しい息子夫婦のためなら、どんな苦労も厭わないけれど……まさか、私にまでユノの贈り物があるなんて。妻に自慢しなくては」
小さな包みを受け取って、嬉しそうにアリウス様が笑った。いつだって、俺やヴィルヘルムを見守り、導いてくれる。少し困ったところもあるけれど、間違いなくアリウス様は俺たちを慈しんでくれていた。
「イェルマに」
残る三つのうちの一つを手にして、イェルマに手渡す。不出来なものでいい、だなんてイェルマは言っていたけれど、それでは俺が納得いかなかった。イェルマの献身は、不出来なビスケットでは到底釣り合わないのだ。
「ずっとずっと、俺のそばにいてくれてありがとう。イェルマがいてくれなかったら、俺は生きてこれなかった。ずっと、守ってくれてありがとう。これからも、俺のそばにいて欲しい」
ビスケットの包みを受け取ったイェルマの指先が、少しだけ震えていた。イェルマなしでは生きていられなかった。それは間違いのない事実だ。ロアの地でも、リオライネンへ来てからも、イェルマがずっとそばにいてくれたから、俺は今こんなにも幸せなのだ。
「……勿論です」
ゆっくりと頷いたイェルマは、声まで震わせていた。未だに震えるイェルマの指先を俺は握って、その震えが止まるようにと祈る。イェルマの手はとても冷たかった。俺が使った調理器具を、冷えた水で洗ってくれていたのだ。何から何まで、気が利く彼だった。
「あとは陛下と、……もう一つは?」
「イーヴァンの分。仲間外れにしたら可哀想だろう?」
「ノウェ様は本当に優しいですね。あんな悪態しかつかない男に、ノウェ様のビスケットは勿体無いくらいですよ」
「まぁ、俺もイーヴァンのことは何度か殴りたくなったことあるけどさ。でも、イーヴァンが動かなければ、俺はヴィルと結ばれなかったわけだし」
残る二つの包みを見て、アナスタシアが問う。それは、ヴィルヘルムのものとイーヴァンのものだった。イーヴァンには過去、酷いことを言われたこともあるし、腹立たしく思うことも多々あった。けれど、それでも今は、感謝したいと思っている。
「ユノの日になった瞬間に、ヴィルにあげようかな」
「いいですね! きっと陛下は、とても御喜びになられますよ」
明日に迫ったユノの祭日。この夜を過ごしているうちに、ユノの日がやってくる。時計の針が頂点を指す瞬間に、俺はヴィルにこの小包を手渡そう。そう考えると、心の中が楽しい気持ちで満ちていった。
アリウス様に感謝を告げて、城下を後にする。馬車に乗って、アナスタシアを貴族街で下ろした。そしてイェルマと共に宮殿へ向かう。もし万が一、今日に限ってヴィルの仕事が早く終わってしまったらどうしよう、と一抹の焦燥を感じもしたが、それは杞憂だった。俺たちの寝室に戻っても、ヴィルの姿はなかったのだ。
手早く湯浴みを済ませ、いつも通りにイェルマに髪を拭いてもらう。長すぎる髪は鬱陶しいことこの上ないのだが、どうにもヴィルはこの髪を好いているので、切るに切れない。
「ノウェ様、贈り物……、ありがとうございました」
髪を拭き終えたイェルマが、小さな声を発した。彼の感謝に対して、俺は首を左右に振る。感謝をしなければいけないのは俺であって、その感謝の証があのビスケットなのだ。それに対して感謝されてしまえば、何が何だか分からなくなってしまう。
「俺、イェルマにしてもらってばかりなのに、お返しが全然出来てないよな。ごめん、イェルマ」
「そのようなことは……っ、そばに置いて頂けるだけで幸せです」
イェルマは、嘘をつかない。それは分かっている。けれど、その言葉は彼の本心だろうか。俺への慕情を捨て切れないと言うイェルマにとって、俺の傍は幸福な場所なのだろうか。
「俺のそばにいるの、辛くない?」
「辛くありません」
「……そっか」
イェルマの回答は早かった。即答と言っても過言ではない。迷いはないのだと言うことは、その言葉の勢いから察することが出来た。俺は少し胸を撫で下ろす。
「イェルマ。俺は、ヴィルと一緒にいると幸せだなって思うよ」
「ノウェ様が幸せでいて下さるのであれば、それ以上は何も求めません」
「……ごめんね、ありがとう」
いつまで俺はイェルマに甘えて良いのだろう。いつか、イェルマは俺ではない人を愛するだろうか。そして、その人と幸せになってくれるだろうか。そんなことを考えながら、寝台に倒れ込む。少しばかり眠気がやってきた。
「ヴィルのやつ……本当に遅いな。眠くなりそう」
「陛下が戻られるまで、少し仮眠しては如何ですか?」
「……起きれるかな」
「陛下が戻られる報せが入り次第、起こしましょうか」
「いやでも、そんなこと頼んだらイェルマがずっと寝れないし……、うーん、もうちょっと待ってみるよ」
寝台の上で横になってしまった時点で、もう眠気に負けているところはあるのだけれど、それでも俺はこのままヴィルが戻ってくるのを待つつもりでいた。
「おやすみ、イェルマ」
「おやすみなさいませ」
イェルマと就寝の挨拶を交わし、イェルマが部屋から出ていく。部屋の中は静けさに包まれる。眠るわけにはいかないので、掛け布の中には潜らない。寝台の上で倒れ込んだまま、俺は一向に開く気配のない扉を眺めた。
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