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主人の寝室から離れ、俺は廊下を歩いていた。一定間隔を開けた位置で配置をしている警備兵たちが、俺に敬礼をする。俺は礼を返すことなく、歩きながら先ほど言葉を交わしたイェルマの姿を思い出して舌打ちをする。
「あの男を排除したいが……、そうするとノウェ様が自害すると脅してくるしなぁ」
イェルマがノウェ様に抱く感情は、あまりにも危険だ。ノウェ様がヴィルの想い人でなければ、皇妃とその従者が良い感じになる、なんて三文芝居じみた状況は鼻で笑って流せるのだが、あのお方がヴィルの最愛の人であるということが問題だった。
平素であれば穏やかに黙々と仕事をこなすヴィルヘルムだが、ノウェ様のことが絡むと手に負えなくなる。さっさとイェルマなどという不安要素を取り除きたいのだが、それをノウェ様に阻害されてしまうのだ。
「……困った困った」
国を治めることよりも、ヴィルの恋を成就させることの方が困難だった。溜息を漏らしながら、俺はヴィルの執務室へ向かった。扉の前に立てば、警備兵が俺のために扉を開けた。
執務室は、広い部屋だった。子供がこの部屋に入ったならば、駆け回りたくなることだろう。壁一面に本棚が設置されており、無数の本が並べられている。部屋の中央には大きな椅子と机。そのそばに、小さなソファが向かい合うように二つ置かれ、その間にはローテーブルが置かれている。
ヴィルヘルムは執務机に就いており、山のように積み上げられた書類に囲まれている。その近くに、見慣れた女性の姿があった。
「アナ、来ていたのか」
アナスタシア・ブルクハルト。馬に乗りたいとねだるノウェ様を託した人物だった。少し前まではドレス姿で宮殿内で見かけていたけれど、今の彼女は軍服姿だ。そちらの方が彼女に似合っている。
「えぇ。ヴィルが、今日のノウェ様の様子が知りたいって」
「なるほど」
「それと、自慢の新作銃を見せに」
「そっちが本当の目的じゃないのか?」
手に持っていた銃を少し掲げて俺に見せてくる。長い鉄の筒としか思えないその武器が、アナが人生を賭して向き合いたいものだという。
「ノウェは?」
「もう寝ておられたよ。流石に今日は疲れたんだろうさ」
「……そうか」
ヴィルは俺を見て最愛の人の様子を問う。そして、もう寝た、と伝えると少しばかり落胆したような表情を見せた。
「昨夜は少し会話が出来たんだ。今日も話せたらと思っていたんだが……」
ノウェが俺と会話してくれたんだ、と今朝方、嬉々としたヴィルヘルムにそう言われたとき、俺は流石にこの男を憐れんだ。世界最強と言っても過言ではないリオライネン帝国の皇帝でありながら、己の配偶者に素っ気なくされ続けて、些細なことで興奮してしまうのだ。これが哀れまずにいられるだろうか。
「ちょっと会話しただけで、一日中浮かれてるんだ。我らの皇帝は」
「ずっと想っていた相手なのだから、そうなっても仕方がないんじゃない?」
今日のヴィルは少し、ぼうっとしている瞬間が多かったように思う。おそらく、ノウェ様との会話を思い出していたのだろう。情けない、と溜息を吐く俺だったが、アナはヴィルに同調した。
「ねぇ、私の話も聞いて欲しいんだけど、これ見て。今じゃ、先込め式なんて時代遅れみたいな意見も多いけど、やっぱり使用できる弾種の豊富さで言えば抜群だと思うの。それで、私が開発したこの子は」
「敵軍を撃破して勝てる武器なら、俺はなんでもいい」
長くなりそうだったので、アナの語りを強制的に終わらせた。基本的な武器の詳細は把握しているが、アナスタシアのように精通しているわけではないのだ。彼女の熱弁を聞いたところで、俺に響くものはない。
アナスタシアは美しく、人柄も家柄も良い。ドレスを着て歩いていれば、多くの男が無謀にも求婚してくるだろう。だが、ミルティアディスとして成人した以上、こいつも変態だった。
八歳でミルティアディスの試験に合格し、九歳で適正なしと言われてミルティアディスではなくなったのなら、それはただ単に、頭のいい普通の人間だ。だが、ミルティアディスとして認められたまま成人になった連中は普通ではない。
出世欲も、権力欲もない。ただ有能で、ただ何かしらに熱中している。そんな連中しか、選抜され続けないのだ。ヴィルはノウェ様に、俺は国を動かすということに、アナは銃火器に、それぞれ魅せられている。
俺は今、内務卿というこの国で二番目に高い地位に就いているが、国を動かす立場がその地位だったから、そこに収まりたかっただけのことだ。この国を動かすのが、裏社会のボスであったなら、俺はそちらになりたかった。
優秀で公平だが、どこか歪で不完全。それが、成人までミルティアディスだった者たちの特徴。そして、そんな成人済みのミルティアディスがこの城に多く勤め、国のために働いている。
「イーヴは冷たいなぁ。ヴィルはちゃんと私の話を聞いてくれたのに」
「ヴィルが聞いてくれたなら、もういいだろ」
話を聞いてやらなかった俺を少しばかり睨みながら、アナは銃を大切そうに抱きしめた。俺にとっては鉄の塊でしかないそれも、アナにとっては我が子のように愛しいものらしい。
「アナの考え出したその銃は面白い。だが、見るからに既存の銃より部品が多く、製作工程も増えてしまう。何よりも、歩兵が持って歩くには少々重い。量産化は難しいだろうな」
「……そうなんだよね。私の理想を詰め込んだっていう子だから、ちょっと実践投入は難しいかなぁとは思う」
本人も、大量生産は難しいと分かっているようでしょんぼりとした顔を見せた。だがきっと、彼女はいつかその銃を戦地で多くの兵が使えるようにすることだろう。それだけの能力がアナにはある。だからこそ、彼女を開発局に入れたのだ。
「ノウェ様はどんな様子だった?」
おそらくヴィルがアナに聞いたであろう、乗馬の時のノウェ様の様子を俺も問う。アナはノウェ様の様子を思い出しながら、口を開いた。
「馬に乗っている時は楽しそうにしてた。……でも、悲しい顔もしていた。ヴィルのことはやっぱり許せなさそうで、ただただ帰りたいっていう感じだったかな。馬に、ヘカンテって名前をつけてた。ロア族の言葉で、故郷っていう意味なんだって」
「ヘカンテ、ねぇ。帰りたいなどとまだ思っているのか。帰る場所なんてないと教えてやったのに」
「イーヴが意地悪なことを言ったから、ノウェ様が悲しんでたってこと? 可哀そうなノウェ様」
「馬に乗れるのなら、体はもう万全なんだろう。だったら、いつまでもメソメソされても困るんだよ。披露目は近い。いつまでもあんな、ヴィルを睨むような顔をされていちゃリオライネン皇帝の体面に関わる」
「あぁ、そっか。お披露目式ね」
自分には関わりが無くなった行事のため、アナはすっかり失念していたようだ。即位式で皇帝がヴィルヘルムであることを内外に布告した後にあるのは、皇帝と皇妃の睦まじい光景を見せる披露目式だ。
「俺は、ノウェがそばにいてくれるのなら、俺を睨んだままでも構わない」
「お前はそうかもしれないけど、国としてはそれじゃ駄目なんだよ」
偉大なるリオライネンの皇帝が皇妃に睥睨されているなど、そんな姿を披露目式で見せてどうするつもりなのだ。本気でそんな馬鹿げたことを言っているヴィルに溜息を漏らしてしまう。
「ヴィル、貴方ちゃんとノウェ様と一緒の時間を過ごしてる?」
「いや……、即位してからずっと忙しいんだ。仕事がなくならない」
「皇帝の代替わりの前後は、どうしても仕事が増えるからな。仕方ない。それに、ノウェ様だってきっとヴィルとは一緒にいたくないだろ」
「それが駄目なんじゃないの? もっと話したり、一緒にのんびりしたりして時間を過ごさなくちゃ」
「恋愛に興味のないアナが、ヴィルに恋愛指導とは滑稽だな」
「私、自分の色恋には興味がないけど、恋愛小説読むのは好きなの」
そういえばそうだったな、と思い出す。アナは、自分自身の恋愛に興味がないくせに、物語上の作られた色恋には夢中になるのだ。人為的に作られた、美しく、予定調和に満ちた陳腐な恋愛小説をよく読んでいた
「ヴィルの行いをノウェ様が許すことは難しい。私だって、ノウェ様の境遇だったらヴィルを許さない。……でも、この国には皇帝には配偶者が必要で、ヴィルはその座にノウェ様を望んだ。国には初夜のルールがあって、それを敢行しなければならなかった。……それをノウェ様に分かってもらって、誠心誠意謝って、誠意を見せて尽くすしかないんじゃない?」
アナの言い分は理解できる。だが、この世界において政略結婚などごまんとあり、それらの結婚は当人同士が望まない場合がほとんどだ。抱かれたくない男に抱かれる女も、抱きたくない女を抱かなければならない男も数多いる。
ロア族の族長の血筋であるなら、そういった婚姻が存在することも理解していると思っていたのだが、随分とノウェ様は幼稚で我が儘だった。もっと聞き分けの良いやつにヴィルが惚れてくれたら物事は簡単に進んだと言うのに。
皇帝の子供に皇位の継承権が渡らないのであれば、結婚などしなくても良いし、初夜など不要だと俺は思う。だが、どうにも周辺諸国の物差しからすれば、配偶者のいない皇帝など一人前とは看做されないらしく、百年前の王の宣言以降もリオライネンの国主には配偶者が必要不可欠となっていたのだ。
「それに、あのノウェ様の侍従。ノウェ様を彼とずっと二人きにしておくのは、なんとなく良くない気がするけど」
激しい音を立てて、ヴィルが乱暴にペンを机に叩きつけた。アナの肩がびくりと震える。やはり、ノウェ様とあの侍従の関係性を熟知していないアナでも、何か感じ取るものがあったようだ。
「あれ? 私もしかして、正解を言っちゃった?」
「それも、ヴィルにとっては地雷級の正解だ」
「……イーヴ。明日、少しでもいいから時間を作れないか」
「まぁ、ずっと働き詰めだったし、明日は一日休めよ。明日の分は、明後日以降に分散して割り振ればこなせるだろ、お前なら」
どうやらヴィルは、アナの助言を聞き入れたらしい。ノウェ様と過ごす時間が欲しいと言い出すのは、これが初めてのことだった。
「今日はもう切り上げて、早く休め」
「あぁ」
確かに、最近のヴィルには顔色が悪い時もあった。倒れられでもしたら困るので、ここらで休ませるのも良いだろう。俺はそれだけを言い残し、翻る。アナも退室するようで、俺と並んで歩き出した。
「アナ、馬車で来たんだろ。車寄せまで送る」
「え……イーヴが親切にしてくれるなんて、なんか怖い」
「おい」
立場に違いがあったとしても、長い年月を共にミルティアディスとして過ごしている俺たちは、いつでも親しく話す。仲間など不要だと思ってはいるが、こうして心を許し合える人間がいることは幸福だとも思う。
「久々に宮殿に来たけど、働いてる人はやっぱり見知った顔が多いね」
「ヴィルの代替わりに合わせて、色んな役職が俺たちと年の近いミルティアディスに変わったからな」
「懐かしい感じ。私が婚約者として宮殿にいたときは、やっぱりアウリス様の世代が多かったから」
ミルティアディスとして成人した者の殆どは要職に就けられる。彼らはいずれ、大臣などの任を担っていくのだろう。ヴィルと競り合い、皇帝候補から外れた者たちも優秀であることは間違い無いので、その多くが宮殿に出仕して働いていた。
「これから三十年くらいは、皇帝選びも無くなるから、ミルティアディスの数も減らされるかもね」
「恐らくな。優秀な子供は見繕って、国のために働かせることにはなると思うけど。俺たちの時代ほど厳しい選定はないだろう」
「いいなぁ」
大抵の皇帝は在位を三十年程に定めている。頻繁に代替わりが行っては困ると言う臣下たちの意見と、早く優秀な後継者を決めて引退したいと願う皇帝との折衷案が三十年で、その慣習がもう何代も続いていた。
事実、先帝のアウリス様も、三十年務めて引退している。あの方もきっと、ミルティアディスになどなりたくなかったのだろうし、皇帝などまっぴらごめんだったのだ。
「私ね、ずっとヴィルの婚約者でいるのが辛かった。ヴィルのことは好きだけど、それは友達として。ミルティアディスで、ずっと一緒に頑張ってきた戦友として。それなのに周囲は、私たちが本当に愛し合っているんだと誤解して、そういう目で見てくる。もちろんそう演じるのがイーヴとの約束だったし、仕方のなかったことなんだけどさ。……苦痛だったな」
「その代わりに、今は自由に出来てるだろ」
「うん。今やっと、生きるのが凄く楽しくなってきた。……でも、ノウェ様はこれからもずっと苦しいのかな」
アナは優しい。誰かの苦しみを思えるのは、優しさだ。そして国政を担う者にとってそれは弱さだ。俺はその優しさを持たないことに決めている。利用できるものは利用する。この国を動かすために、何一つ犠牲にせず進めるとは思っていない。
むしろ、たった一人の辛苦で何もかもが丸く収まるのであれば上策だと思ってしまうほどだ。ノウェ様には申し訳ないと思うし、同情もする。だが俺は、進む道を改めたりはしない。
「……さあな」
「あの男を排除したいが……、そうするとノウェ様が自害すると脅してくるしなぁ」
イェルマがノウェ様に抱く感情は、あまりにも危険だ。ノウェ様がヴィルの想い人でなければ、皇妃とその従者が良い感じになる、なんて三文芝居じみた状況は鼻で笑って流せるのだが、あのお方がヴィルの最愛の人であるということが問題だった。
平素であれば穏やかに黙々と仕事をこなすヴィルヘルムだが、ノウェ様のことが絡むと手に負えなくなる。さっさとイェルマなどという不安要素を取り除きたいのだが、それをノウェ様に阻害されてしまうのだ。
「……困った困った」
国を治めることよりも、ヴィルの恋を成就させることの方が困難だった。溜息を漏らしながら、俺はヴィルの執務室へ向かった。扉の前に立てば、警備兵が俺のために扉を開けた。
執務室は、広い部屋だった。子供がこの部屋に入ったならば、駆け回りたくなることだろう。壁一面に本棚が設置されており、無数の本が並べられている。部屋の中央には大きな椅子と机。そのそばに、小さなソファが向かい合うように二つ置かれ、その間にはローテーブルが置かれている。
ヴィルヘルムは執務机に就いており、山のように積み上げられた書類に囲まれている。その近くに、見慣れた女性の姿があった。
「アナ、来ていたのか」
アナスタシア・ブルクハルト。馬に乗りたいとねだるノウェ様を託した人物だった。少し前まではドレス姿で宮殿内で見かけていたけれど、今の彼女は軍服姿だ。そちらの方が彼女に似合っている。
「えぇ。ヴィルが、今日のノウェ様の様子が知りたいって」
「なるほど」
「それと、自慢の新作銃を見せに」
「そっちが本当の目的じゃないのか?」
手に持っていた銃を少し掲げて俺に見せてくる。長い鉄の筒としか思えないその武器が、アナが人生を賭して向き合いたいものだという。
「ノウェは?」
「もう寝ておられたよ。流石に今日は疲れたんだろうさ」
「……そうか」
ヴィルは俺を見て最愛の人の様子を問う。そして、もう寝た、と伝えると少しばかり落胆したような表情を見せた。
「昨夜は少し会話が出来たんだ。今日も話せたらと思っていたんだが……」
ノウェが俺と会話してくれたんだ、と今朝方、嬉々としたヴィルヘルムにそう言われたとき、俺は流石にこの男を憐れんだ。世界最強と言っても過言ではないリオライネン帝国の皇帝でありながら、己の配偶者に素っ気なくされ続けて、些細なことで興奮してしまうのだ。これが哀れまずにいられるだろうか。
「ちょっと会話しただけで、一日中浮かれてるんだ。我らの皇帝は」
「ずっと想っていた相手なのだから、そうなっても仕方がないんじゃない?」
今日のヴィルは少し、ぼうっとしている瞬間が多かったように思う。おそらく、ノウェ様との会話を思い出していたのだろう。情けない、と溜息を吐く俺だったが、アナはヴィルに同調した。
「ねぇ、私の話も聞いて欲しいんだけど、これ見て。今じゃ、先込め式なんて時代遅れみたいな意見も多いけど、やっぱり使用できる弾種の豊富さで言えば抜群だと思うの。それで、私が開発したこの子は」
「敵軍を撃破して勝てる武器なら、俺はなんでもいい」
長くなりそうだったので、アナの語りを強制的に終わらせた。基本的な武器の詳細は把握しているが、アナスタシアのように精通しているわけではないのだ。彼女の熱弁を聞いたところで、俺に響くものはない。
アナスタシアは美しく、人柄も家柄も良い。ドレスを着て歩いていれば、多くの男が無謀にも求婚してくるだろう。だが、ミルティアディスとして成人した以上、こいつも変態だった。
八歳でミルティアディスの試験に合格し、九歳で適正なしと言われてミルティアディスではなくなったのなら、それはただ単に、頭のいい普通の人間だ。だが、ミルティアディスとして認められたまま成人になった連中は普通ではない。
出世欲も、権力欲もない。ただ有能で、ただ何かしらに熱中している。そんな連中しか、選抜され続けないのだ。ヴィルはノウェ様に、俺は国を動かすということに、アナは銃火器に、それぞれ魅せられている。
俺は今、内務卿というこの国で二番目に高い地位に就いているが、国を動かす立場がその地位だったから、そこに収まりたかっただけのことだ。この国を動かすのが、裏社会のボスであったなら、俺はそちらになりたかった。
優秀で公平だが、どこか歪で不完全。それが、成人までミルティアディスだった者たちの特徴。そして、そんな成人済みのミルティアディスがこの城に多く勤め、国のために働いている。
「イーヴは冷たいなぁ。ヴィルはちゃんと私の話を聞いてくれたのに」
「ヴィルが聞いてくれたなら、もういいだろ」
話を聞いてやらなかった俺を少しばかり睨みながら、アナは銃を大切そうに抱きしめた。俺にとっては鉄の塊でしかないそれも、アナにとっては我が子のように愛しいものらしい。
「アナの考え出したその銃は面白い。だが、見るからに既存の銃より部品が多く、製作工程も増えてしまう。何よりも、歩兵が持って歩くには少々重い。量産化は難しいだろうな」
「……そうなんだよね。私の理想を詰め込んだっていう子だから、ちょっと実践投入は難しいかなぁとは思う」
本人も、大量生産は難しいと分かっているようでしょんぼりとした顔を見せた。だがきっと、彼女はいつかその銃を戦地で多くの兵が使えるようにすることだろう。それだけの能力がアナにはある。だからこそ、彼女を開発局に入れたのだ。
「ノウェ様はどんな様子だった?」
おそらくヴィルがアナに聞いたであろう、乗馬の時のノウェ様の様子を俺も問う。アナはノウェ様の様子を思い出しながら、口を開いた。
「馬に乗っている時は楽しそうにしてた。……でも、悲しい顔もしていた。ヴィルのことはやっぱり許せなさそうで、ただただ帰りたいっていう感じだったかな。馬に、ヘカンテって名前をつけてた。ロア族の言葉で、故郷っていう意味なんだって」
「ヘカンテ、ねぇ。帰りたいなどとまだ思っているのか。帰る場所なんてないと教えてやったのに」
「イーヴが意地悪なことを言ったから、ノウェ様が悲しんでたってこと? 可哀そうなノウェ様」
「馬に乗れるのなら、体はもう万全なんだろう。だったら、いつまでもメソメソされても困るんだよ。披露目は近い。いつまでもあんな、ヴィルを睨むような顔をされていちゃリオライネン皇帝の体面に関わる」
「あぁ、そっか。お披露目式ね」
自分には関わりが無くなった行事のため、アナはすっかり失念していたようだ。即位式で皇帝がヴィルヘルムであることを内外に布告した後にあるのは、皇帝と皇妃の睦まじい光景を見せる披露目式だ。
「俺は、ノウェがそばにいてくれるのなら、俺を睨んだままでも構わない」
「お前はそうかもしれないけど、国としてはそれじゃ駄目なんだよ」
偉大なるリオライネンの皇帝が皇妃に睥睨されているなど、そんな姿を披露目式で見せてどうするつもりなのだ。本気でそんな馬鹿げたことを言っているヴィルに溜息を漏らしてしまう。
「ヴィル、貴方ちゃんとノウェ様と一緒の時間を過ごしてる?」
「いや……、即位してからずっと忙しいんだ。仕事がなくならない」
「皇帝の代替わりの前後は、どうしても仕事が増えるからな。仕方ない。それに、ノウェ様だってきっとヴィルとは一緒にいたくないだろ」
「それが駄目なんじゃないの? もっと話したり、一緒にのんびりしたりして時間を過ごさなくちゃ」
「恋愛に興味のないアナが、ヴィルに恋愛指導とは滑稽だな」
「私、自分の色恋には興味がないけど、恋愛小説読むのは好きなの」
そういえばそうだったな、と思い出す。アナは、自分自身の恋愛に興味がないくせに、物語上の作られた色恋には夢中になるのだ。人為的に作られた、美しく、予定調和に満ちた陳腐な恋愛小説をよく読んでいた
「ヴィルの行いをノウェ様が許すことは難しい。私だって、ノウェ様の境遇だったらヴィルを許さない。……でも、この国には皇帝には配偶者が必要で、ヴィルはその座にノウェ様を望んだ。国には初夜のルールがあって、それを敢行しなければならなかった。……それをノウェ様に分かってもらって、誠心誠意謝って、誠意を見せて尽くすしかないんじゃない?」
アナの言い分は理解できる。だが、この世界において政略結婚などごまんとあり、それらの結婚は当人同士が望まない場合がほとんどだ。抱かれたくない男に抱かれる女も、抱きたくない女を抱かなければならない男も数多いる。
ロア族の族長の血筋であるなら、そういった婚姻が存在することも理解していると思っていたのだが、随分とノウェ様は幼稚で我が儘だった。もっと聞き分けの良いやつにヴィルが惚れてくれたら物事は簡単に進んだと言うのに。
皇帝の子供に皇位の継承権が渡らないのであれば、結婚などしなくても良いし、初夜など不要だと俺は思う。だが、どうにも周辺諸国の物差しからすれば、配偶者のいない皇帝など一人前とは看做されないらしく、百年前の王の宣言以降もリオライネンの国主には配偶者が必要不可欠となっていたのだ。
「それに、あのノウェ様の侍従。ノウェ様を彼とずっと二人きにしておくのは、なんとなく良くない気がするけど」
激しい音を立てて、ヴィルが乱暴にペンを机に叩きつけた。アナの肩がびくりと震える。やはり、ノウェ様とあの侍従の関係性を熟知していないアナでも、何か感じ取るものがあったようだ。
「あれ? 私もしかして、正解を言っちゃった?」
「それも、ヴィルにとっては地雷級の正解だ」
「……イーヴ。明日、少しでもいいから時間を作れないか」
「まぁ、ずっと働き詰めだったし、明日は一日休めよ。明日の分は、明後日以降に分散して割り振ればこなせるだろ、お前なら」
どうやらヴィルは、アナの助言を聞き入れたらしい。ノウェ様と過ごす時間が欲しいと言い出すのは、これが初めてのことだった。
「今日はもう切り上げて、早く休め」
「あぁ」
確かに、最近のヴィルには顔色が悪い時もあった。倒れられでもしたら困るので、ここらで休ませるのも良いだろう。俺はそれだけを言い残し、翻る。アナも退室するようで、俺と並んで歩き出した。
「アナ、馬車で来たんだろ。車寄せまで送る」
「え……イーヴが親切にしてくれるなんて、なんか怖い」
「おい」
立場に違いがあったとしても、長い年月を共にミルティアディスとして過ごしている俺たちは、いつでも親しく話す。仲間など不要だと思ってはいるが、こうして心を許し合える人間がいることは幸福だとも思う。
「久々に宮殿に来たけど、働いてる人はやっぱり見知った顔が多いね」
「ヴィルの代替わりに合わせて、色んな役職が俺たちと年の近いミルティアディスに変わったからな」
「懐かしい感じ。私が婚約者として宮殿にいたときは、やっぱりアウリス様の世代が多かったから」
ミルティアディスとして成人した者の殆どは要職に就けられる。彼らはいずれ、大臣などの任を担っていくのだろう。ヴィルと競り合い、皇帝候補から外れた者たちも優秀であることは間違い無いので、その多くが宮殿に出仕して働いていた。
「これから三十年くらいは、皇帝選びも無くなるから、ミルティアディスの数も減らされるかもね」
「恐らくな。優秀な子供は見繕って、国のために働かせることにはなると思うけど。俺たちの時代ほど厳しい選定はないだろう」
「いいなぁ」
大抵の皇帝は在位を三十年程に定めている。頻繁に代替わりが行っては困ると言う臣下たちの意見と、早く優秀な後継者を決めて引退したいと願う皇帝との折衷案が三十年で、その慣習がもう何代も続いていた。
事実、先帝のアウリス様も、三十年務めて引退している。あの方もきっと、ミルティアディスになどなりたくなかったのだろうし、皇帝などまっぴらごめんだったのだ。
「私ね、ずっとヴィルの婚約者でいるのが辛かった。ヴィルのことは好きだけど、それは友達として。ミルティアディスで、ずっと一緒に頑張ってきた戦友として。それなのに周囲は、私たちが本当に愛し合っているんだと誤解して、そういう目で見てくる。もちろんそう演じるのがイーヴとの約束だったし、仕方のなかったことなんだけどさ。……苦痛だったな」
「その代わりに、今は自由に出来てるだろ」
「うん。今やっと、生きるのが凄く楽しくなってきた。……でも、ノウェ様はこれからもずっと苦しいのかな」
アナは優しい。誰かの苦しみを思えるのは、優しさだ。そして国政を担う者にとってそれは弱さだ。俺はその優しさを持たないことに決めている。利用できるものは利用する。この国を動かすために、何一つ犠牲にせず進めるとは思っていない。
むしろ、たった一人の辛苦で何もかもが丸く収まるのであれば上策だと思ってしまうほどだ。ノウェ様には申し訳ないと思うし、同情もする。だが俺は、進む道を改めたりはしない。
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