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イェルマの目が真っ直ぐに俺を見ている。視線を逸らすことが出来ない。どこなのかもよく分からない小屋の中で、俺はイェルマの腕の中にいた。かつては人が住んでいたのだろうが、今は無人で、廃れている。
言われた言葉を思い出す。お慕い申し上げております。イェルマは俺にそう告げた。悲しい瞳をしていた。切ない声だった。希うように、縋るようにそっと囁いたのだ。
告げられた言葉は理解できるのに、その意味が分からない。不思議な感覚だった。頭がろくに動いていない。目の前でルイーゼが死に、響く銃声と飛び散る血に気が動転していた。そのせいなのだろうか。イェルマがどういう意味で俺にその言葉を告げたのかが分からないのだ。
「……それって、どう……いう」
素直に、問いかける。イェルマの両腕に抱きしめられており、お互いの距離は近い。俺が発した小さな声でも、しっかりとイェルマの耳には届いているようだった。
「愛しているということです」
簡素な回答だった。愛している。それはそうだ。俺だって分かっていた。お慕いしている。それは慕情を向けるということ。さらに言えば、愛しているということに他ならない。
分かっているのに、分からないふりをした。否、分かろうとしなかったのかもしれない。そんなはずがないと、頭ごなしに否定をして、イェルマの真意から目を逸らしたのだ。そんなはずがないと決めつけた。
「イェルマが……、俺を?」
信じることが出来なくて、俺は問い返してしまった。イェルマが俺を愛しているという。愛とはなんだ。どんな感情を指すのだ。混迷の度合いを深める俺の思考は、ぐるぐると渦巻いてまとまらない。
「お、俺だって、イェルマのことは大切だ」
「大切という言葉では足りません。俺は、ノウェ様を独り占めしたいのです」
イェルマのことは大切だ。家族のように思っている。この感情に愛と名前をつけても良いだろう。イェルマだって、そういう意味で愛していると言ったのだ。そう思って俺は言葉を紡いだが、やんわりとイェルマに否定される。そういうことではないのだ、と。
「皇帝には渡したくない」
その言葉は随分と暗く、重く響いた。イェルマがヴィルヘルムをよく思っていないことは理解していたが、そこに秘められた感情には気づいていなかった。つまりイェルマは、俺を独り占めしたいからヴィルヘルムが邪魔だったということなのだ。
「ノウェ様が、あの男の隣に立つだけで、俺の体は内側から焼けるようで苦しかった。爛れて、痛むのです。同じ寝台で眠らないで欲しい。手ずから朝食など食べないで欲しい。笑いかけないで欲しい。触れないで欲しい。……ずっと、そう思っていました」
滔々と語るイェルマの言葉を、俺はどんな顔をして聞いているのだろう。いつだってイェルマは静かな顔をしていた。涼やかで、激情に駆られることもなく、冷静だった。だからこそ、そんな気持ちを抱えていたなんて俺は知らなかった。気付くことが出来なかった。
思いもしなかったのだ。イェルマがそんな気持ちを俺に向けているだなんて。俺たちは幼い頃から一緒にいた。それこそ、俺にとっては生まれた時からそばにいる兄だった。そんな兄から、特別な感情を向けられているなんて、誰が思うだろう。
「イェルマは……俺にとって、家族なんだ」
「家族のまま、ノウェ様の最愛になることは出来ませんか?」
戸惑いの渦を抱えたままの俺に、イェルマは難しいことをいう。家族は大切だ。大好きだし、愛している。でも俺のそれは、イェルマが求めるものに符合しないのだろう。
「ノウェ様の体を暴きたいなどと、過ぎた欲は抱きません。ただ、皇妃になどにはならないと言って頂きたいのです。俺と逃げることに同意して頂きたい。……俺はただ、ノウェ様と静かに、二人だけで生きていきたいんです」
少しずつイェルマの望みが見えてきた。イェルマはただ、俺と二人きりでいたいのだ。誰にも邪魔されずに、ずっとずっと二人で。俺はイェルマだけを見て、イェルマも俺だけを見る。二人だけで完結する世界を、求めているのだ。
「……ずっと、そう思ってたって……いつから」
「自覚したのは、ノウェ様と共にリオライネンへ来た頃です」
「そんなに前から……?」
八年前も前から、イェルマはその思いを抱えて押し黙っていたという。イェルマは何もかも一人で抱え込んでしまうところがある。乳母であるフィジェのこともイェルマは話してくれなかった。
そういう性格なのだと理解はしているけれど、もっと早くに話して欲しかったとついつい思ってしまう。だが、イェルマが俺に秘めた気持ちを打ち明けてくれていたとして、それで俺はどうしただろう。イェルマの求めに応じることが出来ただろうか。
ヴィルヘルムの姿が脳裏をよぎった。イェルマと交わす抱擁と、ヴィルヘルムのそれとでは大きな違いがある。イェルマに抱きしめられると心が安らいで、このままずっと包んでいて欲しいという気持ちが湧く。それは、幼い子供が母親に抱きしめられた時に得る安心感と同じなのだろう。
だが、ヴィルヘルムに抱きしめられると、胸が苦しくなるのだ。触れられているところが熱くて、火傷をしたのかと思うほど。抱きしめられていることが嫌なわけではないのに、戸惑いや動揺がいつだって付き纏う。
イェルマに対する感情と、ヴィルヘルムに対する感情の違いを言葉にすることが出来ない。けれど、明確にそれらが違うことだけは分かる。ヴィルヘルムに向ける気持ちと同じものを、イェルマに向けることは出来ないと、分かっていたのだ。
「酷い独占欲を抱いていました。俺以外がノウェ様に触れることが、たまらなく嫌だった。……歪なのかもしれませんが、俺は自分の中の感情に愛と名付けるしかなかった」
一体誰が、感情に名前をつけたのだろう。目に見えないものに、一人一人感じ方が異なるものに、どうして名前が付けられるなどと思ったのだろう。俺がヴィルヘルムに向ける感情に付ける名が分からず戸惑うように、イェルマも戸惑っていた。戸惑いの果てに、それを愛と呼ぶと決めたのだ。
「クユセンにも帰らず、リオライネンにも戻らず、二人でどこかへ逃げませんか」
荒屋の中、傾き始めた陽は世界を茜色に染め上げる。窓硝子の抜けた窓枠しかないそこから、橙の陽光が差し込む。イェルマの背後から降り注ぐそれが、俺の目を焼いた。イェルマは、悲しい笑みで笑う。
「誰も俺たちのことを知らない場所で、二人だけで生きていきたい。……それが、俺の抱くたった一つの願いです」
きっと、俺が頷かない事を分かっている。分かっていて、そんな事を問いかけているのだ。イェルマが俺に向けてくれる慕情の根底には、諦念があった。それが分かってしまった。
体が震える。悲しかったのだ。一心に想ってくれるイェルマに、どうして俺は同じ感情を返せないのかと苦しかった。こんなにも俺を守ってくれて、ずっとそばにいてくれたイェルマに、こんな悲しい笑みを浮かべさせることしか出来ない自分を、憎く思う。
「……貴方を泣かせると分かっていた」
気付いた時には、瞳から涙が溢れ出ていた。どうして、この世界はこんなにも悲しい思いに満ちているのだろう。誰かが誰かを愛して、報われなくて嘆いている。嘆きを殺意に変える者もいれば、嘆いたままに悲しく笑う者もいる。どうして、誰も彼もが幸福になる世界ではないのだろう。
「俺……、俺だって、イェルマが大切だ……」
「はい。ノウェ様に大切に思って頂けていることは、承知しております。身に余る光栄です」
「……で、も……、……でも……、……イェルマは、俺は……」
喉が震えて、言葉が出てこない。イェルマの想いを受け入れることはできないと、そう伝えることがどうしても出来なかった。想いを詳らかにしてくれたイェルマに対して不誠実な自分が嫌だった。泣いている場合ではないと、心の中で自分を叱責する。
「悲しませて、ごめんなさい」
優しい指先が俺の涙を拭っていった。イェルマが触れてくれると、とても嬉しい。でも、ヴィルヘルムが触れるような、火傷に似た熱さはなかった。無意識下で、ヴィルと比較している自分に気付いてしまう。
「誰もが皆、愛した人に愛される世の中なら、悲しむ人などいないのでしょうね」
そんな世界であったなら、ゾフィーとルイーゼはヴィルヘルムに愛されていたのだろうか。月の王子様を得て、彼女たちは幸せになったのだろうか。ヴィルヘルムが彼女たちと結ばれるのなら、俺は誰と結ばれるのだろう。イェルマだろうか。
ヴィルヘルムの腕を、ゾフィーとルイーゼが握る。右手と左手、両方が彼女たちのものだ。そうして、三人は俺に背を向けて歩いていく。そんな姿を想像した瞬間に、胸が苦しくなった。ヴィルヘルムの背中を追いかけて、思い切り叩いてしまう。お前は俺が好きなんだろ、と怒鳴ってしまう。
「……ごめん、イェルマ……俺、どうしても……ヴィルに会いたいんだ」
嫌というほどに、理解させられた。どことも知れない廃墟の中で、俺は自覚する。ゆっくりと夜の帳が降りる埃に満ちた家屋の中で俺は自分の気持ちを理解する。俺は、ヴィルヘルムを愛してしまったのだ。
「分かりました。……俺は、ノウェ様の願いに従います」
全てを受け入れて、イェルマは頷く。涙が止まらない。どうして俺はイェルマの求めるノウェになれなかったのだろう。イェルマの献身に報いるために、己の身を差し出すということが、どうして俺には出来なかったのだろう。
「俺と一緒にいるのが辛いなら……、イェルマの好きなところに行ってくれて良い」
「そんな悲しいことは言わないでください。ずっとそばにいろと、命じてください」
「でも、それじゃイェルマが苦しいだろ」
「苦しいです。報われない願いを抱いて、愛する人が別の男に想いを向ける光景を見るのは、身を引き裂かれるような思いがします」
「だったら……」
俺なら、耐えられない。ゾフィーとルイーゼに想いを向けるヴィルヘルムのそばになんていられない。自分の方を向いてくれないのなら、走って逃げ出すと思う。辛くて、苦しい。けれど、イェルマはそんな艱難に対峙するという。
「それでも、ノウェ様のそばにいたい。苦しくとも、痛くとも、貴方のそばが一番幸福なのです」
それ以上、言葉を紡ぐことが出来なかった。がちがちと歯の根が震える。色々な感情に押しつぶされて、心が乱れていた。悲しくて、苦しくて、辛くて、虚しい。俺は大好きな兄の気持ちを無下にしたのだ。
「陽が落ちてきてしまいましたね。今晩はここで夜更けを待ちましょう。寒くはないですか」
頷く。俺の体を、イェルマはしっかりと抱きこんで両腕で包んでくれた。幼い俺を守り続けてくれた、かけがえのない人。優しくて、強くて、大好きな人。どうして俺たちは、こんなに侘しい夜を迎えているのだろう。
「……今夜だけは、俺だけのノウェ様でいてください」
耳元でイェルマがそう囁いた。俺は無言のままに受け入れる。きっと、こんな夜は今夜が最後なのだ。俺とイェルマの二人きりで過ごす夜。朝日が登れば、いつも通りの関係に戻るのだろう。俺が望むままに、イェルマは兄の役を完璧にこなしてくれるのだ。自分の想いを押し殺したままに。
「愛しています。誰よりも」
世界でただ一人、俺にだけ聞かせるように小さく囁く。優しい声音が鼓膜を震わせた。涙は止まらなくて、目元を押し付けるイェルマの胸のあたりに染みを作っていく。場に満ちる空気は冷え込んできたが、イェルマの腕の中はとても温かった。
「貴方に愛して頂けなくとも」
言われた言葉を思い出す。お慕い申し上げております。イェルマは俺にそう告げた。悲しい瞳をしていた。切ない声だった。希うように、縋るようにそっと囁いたのだ。
告げられた言葉は理解できるのに、その意味が分からない。不思議な感覚だった。頭がろくに動いていない。目の前でルイーゼが死に、響く銃声と飛び散る血に気が動転していた。そのせいなのだろうか。イェルマがどういう意味で俺にその言葉を告げたのかが分からないのだ。
「……それって、どう……いう」
素直に、問いかける。イェルマの両腕に抱きしめられており、お互いの距離は近い。俺が発した小さな声でも、しっかりとイェルマの耳には届いているようだった。
「愛しているということです」
簡素な回答だった。愛している。それはそうだ。俺だって分かっていた。お慕いしている。それは慕情を向けるということ。さらに言えば、愛しているということに他ならない。
分かっているのに、分からないふりをした。否、分かろうとしなかったのかもしれない。そんなはずがないと、頭ごなしに否定をして、イェルマの真意から目を逸らしたのだ。そんなはずがないと決めつけた。
「イェルマが……、俺を?」
信じることが出来なくて、俺は問い返してしまった。イェルマが俺を愛しているという。愛とはなんだ。どんな感情を指すのだ。混迷の度合いを深める俺の思考は、ぐるぐると渦巻いてまとまらない。
「お、俺だって、イェルマのことは大切だ」
「大切という言葉では足りません。俺は、ノウェ様を独り占めしたいのです」
イェルマのことは大切だ。家族のように思っている。この感情に愛と名前をつけても良いだろう。イェルマだって、そういう意味で愛していると言ったのだ。そう思って俺は言葉を紡いだが、やんわりとイェルマに否定される。そういうことではないのだ、と。
「皇帝には渡したくない」
その言葉は随分と暗く、重く響いた。イェルマがヴィルヘルムをよく思っていないことは理解していたが、そこに秘められた感情には気づいていなかった。つまりイェルマは、俺を独り占めしたいからヴィルヘルムが邪魔だったということなのだ。
「ノウェ様が、あの男の隣に立つだけで、俺の体は内側から焼けるようで苦しかった。爛れて、痛むのです。同じ寝台で眠らないで欲しい。手ずから朝食など食べないで欲しい。笑いかけないで欲しい。触れないで欲しい。……ずっと、そう思っていました」
滔々と語るイェルマの言葉を、俺はどんな顔をして聞いているのだろう。いつだってイェルマは静かな顔をしていた。涼やかで、激情に駆られることもなく、冷静だった。だからこそ、そんな気持ちを抱えていたなんて俺は知らなかった。気付くことが出来なかった。
思いもしなかったのだ。イェルマがそんな気持ちを俺に向けているだなんて。俺たちは幼い頃から一緒にいた。それこそ、俺にとっては生まれた時からそばにいる兄だった。そんな兄から、特別な感情を向けられているなんて、誰が思うだろう。
「イェルマは……俺にとって、家族なんだ」
「家族のまま、ノウェ様の最愛になることは出来ませんか?」
戸惑いの渦を抱えたままの俺に、イェルマは難しいことをいう。家族は大切だ。大好きだし、愛している。でも俺のそれは、イェルマが求めるものに符合しないのだろう。
「ノウェ様の体を暴きたいなどと、過ぎた欲は抱きません。ただ、皇妃になどにはならないと言って頂きたいのです。俺と逃げることに同意して頂きたい。……俺はただ、ノウェ様と静かに、二人だけで生きていきたいんです」
少しずつイェルマの望みが見えてきた。イェルマはただ、俺と二人きりでいたいのだ。誰にも邪魔されずに、ずっとずっと二人で。俺はイェルマだけを見て、イェルマも俺だけを見る。二人だけで完結する世界を、求めているのだ。
「……ずっと、そう思ってたって……いつから」
「自覚したのは、ノウェ様と共にリオライネンへ来た頃です」
「そんなに前から……?」
八年前も前から、イェルマはその思いを抱えて押し黙っていたという。イェルマは何もかも一人で抱え込んでしまうところがある。乳母であるフィジェのこともイェルマは話してくれなかった。
そういう性格なのだと理解はしているけれど、もっと早くに話して欲しかったとついつい思ってしまう。だが、イェルマが俺に秘めた気持ちを打ち明けてくれていたとして、それで俺はどうしただろう。イェルマの求めに応じることが出来ただろうか。
ヴィルヘルムの姿が脳裏をよぎった。イェルマと交わす抱擁と、ヴィルヘルムのそれとでは大きな違いがある。イェルマに抱きしめられると心が安らいで、このままずっと包んでいて欲しいという気持ちが湧く。それは、幼い子供が母親に抱きしめられた時に得る安心感と同じなのだろう。
だが、ヴィルヘルムに抱きしめられると、胸が苦しくなるのだ。触れられているところが熱くて、火傷をしたのかと思うほど。抱きしめられていることが嫌なわけではないのに、戸惑いや動揺がいつだって付き纏う。
イェルマに対する感情と、ヴィルヘルムに対する感情の違いを言葉にすることが出来ない。けれど、明確にそれらが違うことだけは分かる。ヴィルヘルムに向ける気持ちと同じものを、イェルマに向けることは出来ないと、分かっていたのだ。
「酷い独占欲を抱いていました。俺以外がノウェ様に触れることが、たまらなく嫌だった。……歪なのかもしれませんが、俺は自分の中の感情に愛と名付けるしかなかった」
一体誰が、感情に名前をつけたのだろう。目に見えないものに、一人一人感じ方が異なるものに、どうして名前が付けられるなどと思ったのだろう。俺がヴィルヘルムに向ける感情に付ける名が分からず戸惑うように、イェルマも戸惑っていた。戸惑いの果てに、それを愛と呼ぶと決めたのだ。
「クユセンにも帰らず、リオライネンにも戻らず、二人でどこかへ逃げませんか」
荒屋の中、傾き始めた陽は世界を茜色に染め上げる。窓硝子の抜けた窓枠しかないそこから、橙の陽光が差し込む。イェルマの背後から降り注ぐそれが、俺の目を焼いた。イェルマは、悲しい笑みで笑う。
「誰も俺たちのことを知らない場所で、二人だけで生きていきたい。……それが、俺の抱くたった一つの願いです」
きっと、俺が頷かない事を分かっている。分かっていて、そんな事を問いかけているのだ。イェルマが俺に向けてくれる慕情の根底には、諦念があった。それが分かってしまった。
体が震える。悲しかったのだ。一心に想ってくれるイェルマに、どうして俺は同じ感情を返せないのかと苦しかった。こんなにも俺を守ってくれて、ずっとそばにいてくれたイェルマに、こんな悲しい笑みを浮かべさせることしか出来ない自分を、憎く思う。
「……貴方を泣かせると分かっていた」
気付いた時には、瞳から涙が溢れ出ていた。どうして、この世界はこんなにも悲しい思いに満ちているのだろう。誰かが誰かを愛して、報われなくて嘆いている。嘆きを殺意に変える者もいれば、嘆いたままに悲しく笑う者もいる。どうして、誰も彼もが幸福になる世界ではないのだろう。
「俺……、俺だって、イェルマが大切だ……」
「はい。ノウェ様に大切に思って頂けていることは、承知しております。身に余る光栄です」
「……で、も……、……でも……、……イェルマは、俺は……」
喉が震えて、言葉が出てこない。イェルマの想いを受け入れることはできないと、そう伝えることがどうしても出来なかった。想いを詳らかにしてくれたイェルマに対して不誠実な自分が嫌だった。泣いている場合ではないと、心の中で自分を叱責する。
「悲しませて、ごめんなさい」
優しい指先が俺の涙を拭っていった。イェルマが触れてくれると、とても嬉しい。でも、ヴィルヘルムが触れるような、火傷に似た熱さはなかった。無意識下で、ヴィルと比較している自分に気付いてしまう。
「誰もが皆、愛した人に愛される世の中なら、悲しむ人などいないのでしょうね」
そんな世界であったなら、ゾフィーとルイーゼはヴィルヘルムに愛されていたのだろうか。月の王子様を得て、彼女たちは幸せになったのだろうか。ヴィルヘルムが彼女たちと結ばれるのなら、俺は誰と結ばれるのだろう。イェルマだろうか。
ヴィルヘルムの腕を、ゾフィーとルイーゼが握る。右手と左手、両方が彼女たちのものだ。そうして、三人は俺に背を向けて歩いていく。そんな姿を想像した瞬間に、胸が苦しくなった。ヴィルヘルムの背中を追いかけて、思い切り叩いてしまう。お前は俺が好きなんだろ、と怒鳴ってしまう。
「……ごめん、イェルマ……俺、どうしても……ヴィルに会いたいんだ」
嫌というほどに、理解させられた。どことも知れない廃墟の中で、俺は自覚する。ゆっくりと夜の帳が降りる埃に満ちた家屋の中で俺は自分の気持ちを理解する。俺は、ヴィルヘルムを愛してしまったのだ。
「分かりました。……俺は、ノウェ様の願いに従います」
全てを受け入れて、イェルマは頷く。涙が止まらない。どうして俺はイェルマの求めるノウェになれなかったのだろう。イェルマの献身に報いるために、己の身を差し出すということが、どうして俺には出来なかったのだろう。
「俺と一緒にいるのが辛いなら……、イェルマの好きなところに行ってくれて良い」
「そんな悲しいことは言わないでください。ずっとそばにいろと、命じてください」
「でも、それじゃイェルマが苦しいだろ」
「苦しいです。報われない願いを抱いて、愛する人が別の男に想いを向ける光景を見るのは、身を引き裂かれるような思いがします」
「だったら……」
俺なら、耐えられない。ゾフィーとルイーゼに想いを向けるヴィルヘルムのそばになんていられない。自分の方を向いてくれないのなら、走って逃げ出すと思う。辛くて、苦しい。けれど、イェルマはそんな艱難に対峙するという。
「それでも、ノウェ様のそばにいたい。苦しくとも、痛くとも、貴方のそばが一番幸福なのです」
それ以上、言葉を紡ぐことが出来なかった。がちがちと歯の根が震える。色々な感情に押しつぶされて、心が乱れていた。悲しくて、苦しくて、辛くて、虚しい。俺は大好きな兄の気持ちを無下にしたのだ。
「陽が落ちてきてしまいましたね。今晩はここで夜更けを待ちましょう。寒くはないですか」
頷く。俺の体を、イェルマはしっかりと抱きこんで両腕で包んでくれた。幼い俺を守り続けてくれた、かけがえのない人。優しくて、強くて、大好きな人。どうして俺たちは、こんなに侘しい夜を迎えているのだろう。
「……今夜だけは、俺だけのノウェ様でいてください」
耳元でイェルマがそう囁いた。俺は無言のままに受け入れる。きっと、こんな夜は今夜が最後なのだ。俺とイェルマの二人きりで過ごす夜。朝日が登れば、いつも通りの関係に戻るのだろう。俺が望むままに、イェルマは兄の役を完璧にこなしてくれるのだ。自分の想いを押し殺したままに。
「愛しています。誰よりも」
世界でただ一人、俺にだけ聞かせるように小さく囁く。優しい声音が鼓膜を震わせた。涙は止まらなくて、目元を押し付けるイェルマの胸のあたりに染みを作っていく。場に満ちる空気は冷え込んできたが、イェルマの腕の中はとても温かった。
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