すべては花の積もる先

シオ

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 あまりにもトーカの帰りが遅い。

 物置部屋に残された俺は、どう行動を起こすべきか思案していた。扉に耳をあて、向こう側の気配を探る。人が通ったり、無人だったり。状況はあまりにも不安定で、出て行くには不安が残る状態だ。だが、ここで俺の存在が娼婦たちに知られたとして、それの何が問題なのだろうか。俺の身は、一応バイユエが保証してくれることだろう。ならば、行ってしまえばいい。こんなところでぐずぐずとしている間に、トーカに何かあったらどうするのか。足に力を込めて踏み出そうとした直後、扉が音を立てて開く。

「待たせてごめんね」

 俺の待ち人が帰ってきた。てっきり、ズーユンがトーカをこの部屋に連れてくると思っていたのだが、トーカの隣にあの女はいない。代わりに、この世で最も視界に入れたくない男がトーカのそばに立っていた。その男を直視しないようにして、俺はトーカに問いかける。

「迎えに行ったほうが良かった?」
「大丈夫だよ。スイが来てくれたから」

 そう言ってトーカは微笑んだけれど、俺の心は穏やかではない。苛立ちが心の中に生まれる。俺はゆっくりと立ち上がってトーカに並ぼうとするが、男はその場所を一切動かない。譲る気など毛頭ないのだ。俺たちの視線が、一瞬だけ交わる。互いに殺意の籠る瞳だった。トーカだけが、そのことに気付かない。

「兄さん、もう行こう。あまり、こんな……長居はしないほうがいい」

 本当は、あまりこんな場所には長居しない方がいい、と言いたかったのだろう。娼館はバイユエの収入源として大きな存在ではあるが、この男はあまり好ましく思ってはいないのだ。だが、こんな場所、と言って蔑めば、かつて娼婦であったトーカの母親を侮辱する言葉になりかねない。だからこそ、男は言葉を濁したのだろう。

「でも……これをズーユンさんに返さないと」

 トーカは、己の肩に掛けていた羽織を掴んで戸惑いを見せた。俺がそばにいない間に何があったのかは分からないが、どうやら最終的に、トーカはズーユンと行動は共にせずバイユエの頭目と遭遇することになったらしい。

 そんな羽織一枚、トーカが気にすることはない。誰かに頼んで返しておいてもらえばいいだけのことだ。いつまでもトーカの隣に立つ憎らしいその男は、羽織よりも他のことが気掛かりになようで、トーカに疑問を投げかける。

「ズーユン? それが、兄さんを呼びつけた女の名前?」
「言い方が良くないよ、スイ。彼女は母さんの遺品をくれたんだ」
「まぁ、そうだね。でも遺品を渡すだけなら、バイユエの屋敷に届けさせればいいような気もするけど」
「えっと……、それは……頼みにくかったのかな?」

 小首を傾げてトーカが己の考えを述べるが、その意見はとても弱いものだった。確かに、ズーユンの行動には不可解なところが多い。振る舞いが作為的なのだ。だが間違いなく、あの崖での出会いは偶然のものだった。あの日の出会いがなければ、今日トーカがハンファに来ることもなかっただろう。俺には、ズーユンという娼婦が分からない。一体、あれは何なのか。

「……ズーユン、ね」

 意味ありげに、男がその名を口にする。随分と含みのある言い方だ。俺では知り得ないことを、きっとこの男は知っているのだろう。だが、それをトーカに告げていない。つまり、トーカの身に良からぬことが起こることはないと判断しているのだ。トーカの身の安全を守ること。その点に限っていえば、この男のことは信用出来る。

「兄さん、足元に気をつけて」
「大丈夫だよ。さっきは、もっと足元の細い階段を登ってきたんだから」
「それって、裏手の?」
「そう」

 どこか武勇伝を語るように、胸を張りながらトーカはそう言った。直後、男の横顔が青ざめる。その様子から察するに、裏手の階段がどのような有様であるかを知っているようだ。そして背後に立つ俺を睨む。

「……何を考えている」
「俺が支えていた。問題ない」

 声を潜めようが、俺たちの会話はトーカの耳に届いていたことだろう。だというのに、俺たちはひそひそと言葉を投げつけ合った。男は、危険な階段を使わせたことで俺を責めている。その気持ちは分かるが、何かが起こった時には身を挺してトーカを守る覚悟くらい、当然俺にはあった。

「役立たずの駄犬が」

 そう言われることには慣れている。その程度の罵声を投げつけられても、俺はどうとも思わないのだ。それよりも、ずっとトーカの腰に添えられているこの男の腕を切り落としたくて堪らない。何故トーカは、そのように腰を抱くことを許し続けているのか。

 俺はいつだってこの男が気に食わなくて、男は俺を殺したいと思っている。そんな俺たちが同じ場所に立って、同じ空気を吸うのは、ここにトーカがいるからだ。トーカの存在を中心に、俺たちは歩を進める。登ってきた時のようにこそこそと裏手の階段を行くのではなく、堂々と娼館内の階段を降りた。

 踏み板は広く、転がり落ちる心配のない階段だ。だというのに、男は今もトーカの体を支え続けている。進むたびに、感じる視線の度合いが強くなった。それもそうだろう。このハンファはバイユエの所有物であり、そんなバイユエの頭目である男が、甲斐甲斐しく他者に接しているような光景は滅多に見られるものではないのだから。娼婦もその客たちも、興味深そうな目をした野次馬と化し、こちらを見ていた。

「頭目?」

 階段を下りきり、大玄関へと降りたところでその声が聞こえた。ヤザだ。頭目補佐であるその男が、複数の幹部と徒弟を連れていた。おそらく、頭目と共にハンファへやって来た連中だろう。俺たちの存在に気付いたヤザは、俺に視線を向けて鋭く睨んだ。その視線に心当たりはある。ヤザは、俺が夜にしでかしたことを知っていて、その上でトーカの実弟にそれを伝えない判断を下した。黙っているのはバイユエのためだが、そう決断させた俺にヤザは腹を立てているのだ。

「兄さんを送ってくる。ヤザ、ここは任せた」
「ちゃんと戻ってきてくださいよ?」
「分かってる」

 男とヤザのやり取りを聞いて、トーカは戸惑いをおもてに浮かべた。おずおずとしながらズーユンの羽織を脱ぐと、それをすかさず男が受け取り、そのままヤザへと渡す。トーカは、男の服を少し掴みながら、ゆっくりと視線を合わせていた。

「スイ、送ってくれなくても平気だよ。レンもいるし、大丈夫。用があってハンファに来ていたんでしょう?」
「駄犬だけじゃ安心できない。それに、兄さんより大事なことはないから、気にしないで」
「……でも」

 どうやらトーカは、弟に送られることに対して戸惑いを感じているようだ。俺には、トーカの気持ちが手に取るように分かる。ハンファへやって来たことを、自分勝手な行いだと思っているのだろう。そして、そんな自分勝手に弟を巻き込むことが嫌なのだ。

「じゃあ、ハイリを出るところまで送らせて」

 その折衷案で決定だと決めつけて、男は歩き出す。その腕は、いまだにトーカの腰にまわっていた。いい加減に離れろ、と叫んでしまえたらどれだけ気持ちが軽くなるだろう。だが、そうした振る舞いは、俺とトーカの穏やかな日々を壊す。これでも、俺は弁えているのだ。この男の目を盗みながら、トーカとの幸せを築いている。

「……ありがとう」

 トーカの唇は一度、ごめん、の形を象った。だが、それを飲み込んで感謝を伝える。賑やかなハイリの街を照らす提灯の明かり。それに照らされたトーカの小さな微笑みは、とても美しかった。男が息を詰まらせたのは、その輝きに悶絶していたからだろう。

 トーカの隣に男がいて、トーカの斜め後ろに俺がいる。その形を崩すことなく、俺たちは進んで行った。ハイリの人々は、バイユエの頭目の顔をよく知っている。そして、その腕で守られている桃色の髪の持ち主がトーカであることも察するだろう。混雑していることが常である夜のハイリだというのに、人垣が割れて、トーカたちが歩む道が開かれていった。そんな道を歩きながら、トーカは居心地悪そうに俯いている。

 誰もが俺たちを避けていく。だというのに、真っ直ぐにこちらへやって来る者たちがいた。俺がその一群に気付くのと同時に、トーカの横に立つその男も気付いたらしく、途端に苛立ちを見せる。民衆が互いを押し合って無理やり開かれた道の上で、その一群と俺たちは道を譲り合うことなく真正面から向き合った。とはいえ、道幅は狭くはないため、体と体がぶつかり合うようなことは起こらない。

 一体、何者なのか。その群れの男たちは、にやにやとした卑しい表情でこちらを見ている。それらの視線はトーカを向いており、俺の中にも怒りが湧いた。ただの破落戸とみなすには、度胸がありすぎる。何せ、ここにいるのはバイユエの頭目なのだ。そんな男に、このような挑発的な態度で対峙する者などルーフェイには滅多にいない。

 仄暗く、鋭い眼光があった。破落戸に囲まれる中に、一人だけ風格の異なる男がいる。感情を見せないその男は、整えられていない赤い髪で目元を隠していた。このあたりの人間は、黒髪であることが多い。だからこそ、燃えるようなその赤毛は目を引いた。随分と目立つ風貌に注視していた瞬間、赤毛の男はその鋭い視線でじっとトーカを見る。トーカの腰を抱く男の腕に、力が込められた。空気が、一気に緊迫したものに変貌する。

 けれど、バイユエの頭目は動じることなく一歩を踏み出し、破落戸たちの存在を無視したまま横を通り過ぎる。一触即発もあり得ると身構えていた俺だが、トーカがそばにいる状況でこの男が暴力沙汰を起こすわけがないのだ、と己の杞憂を嘲笑った。空気の緊迫をトーカも感じていたようで、破落戸の一群から遠ざかって胸を撫で下ろす。

「スイ、今のは……?」
「なんでもないよ。兄さんは気にしないで」

 奴らの正体を、告げるつもりがないらしい。だが、俺はすぐに察した。あれは、ヘイグァンだ。バイユエに対し、挑発的な行動を繰り返している連中。今この瞬間、トーカがここにいなければ、この男は間違いなく拳を振り上げていたことだろう。奴らはそこまで計算してやって来たのだろうか。はたまた、ただの偶然か。

 顔は覚えた。特に気をつけなければならないのは、あの赤毛の男。あれは絶対に、トーカに近づけてはいけない男だ。

 俺たち三人の間に流れる空気は張り詰めており、無言が続く。そんな中で、トーカは隣に立つ実弟と俺を交互に見て、様子を伺っていた。トーカが振り返っても、もうヘイグァンの姿はない。その視線は最後に高く聳えるハンファを見て、再び隣の男へと戻っていった。

「……スイは、ハンファのようなところに、よく行くの?」

 何を思ったか、トーカは突然そんなことを問いかけたのだ。あまりにも突飛なものであったため、俺も奴も、つい先程までの緊迫した空気を一瞬で無くしてしまう。ハンファのようなところ、という言葉が指すのは当然、娼館のことだ。

「仕事以外では行かないよ。興味もないし、用事もない」
「そう、なんだ」

 トーカの父親である先代の頭目は、好色であったと聞いている。娼館に通うのは日常茶飯事だった。だからこそ、トーカの母親と出会ったのだ。そんな父親に、己の弟が似ているかどうかが気になったのだろうか。トーカは、心中を察しにくい小さな返事をした後に、さらなる質問を投げかけた。

「じゃあ、良い相手がもういるとか?」

 驚いたのは、俺だけではないだろう。男も、目を丸くして驚愕を隠しきれていない。良い相手がいるかどうか。そんなことを聞いてしまうトーカは、無垢で、残酷だ。バイユエの誰に問いかけても、“頭目の意中の相手“を間違える者はいない。それほどまでに、明らかなのだ。だが、トーカにはそれが分からない。

「いないよ」
「でも、そろそろ縁談とかそういう話が来るんじゃないの?」
「まあ……なくはないけどね」

 今年で二十一になるこの男に、許嫁の一人もいないというのはあり得ない話だった。ルーフェイのバイユエといえば、この都市の王家にも等しい。婚約者として家柄の見合う娘がそばにいてもおかしくはないのだ。事実、縁談話はあるらしい。曖昧に笑って誤魔化しながら、男はトーカの追求を避けた。

「……ズーユンさんと出会ってからずっと、母さんのことを考えてた。父さんと結ばれて、母さんは……幸せだったのかなって」
「兄さんはどう思う?」
「色々考えてみたけど……でも、分からない。こればっかりは、当人しか分からないよね」

 困ったように笑いながら、トーカは男を見る。ここ最近、トーカはぼうっとすることが多かった。母の遺品である日記を何度も読み返しながら、何かを考え込んだりもしていた。トーカの思考の大部分を、母親が占めている。その事実に俺は不満を抱えていた。死者を想うよりも、今ここにいる俺を想ってほしい。そんな我儘な感情が何度も胸に湧いていたのだ。

「ただ一つ強く思ったのは、スイには幸せな結婚をして欲しいなって言うこと」
「もちろんだよ、兄さん。……俺は、好きな人としか結婚しない」

 その言葉に込めた重い感情に、トーカが気付く日が来るのだろうか。トーカが気付こうが、気付くまいが、いずれこの男はトーカを己の伴侶とするだろう。それを俺が喜んで受け入れることはないが、それでも抗いはしない。これでも、分を弁えているつもりなのだ。権力のない俺では、バイユエの頭目には勝てない。トーカがこの男のものになったとしても、俺がトーカのものでいれるのならば、俺はそれでいい。多くを望まない。それが俺の生き方だった。

「ここまでで大丈夫だよ、スイ」

 そこは、ハイリ地区の端だった。喧騒からは離れ、漂う空気にも静けさがある。繁華街であるハイリと、富裕層の住む地区であるイェンジン。その間に至って、トーカは足を止めた。そして一歩、男から離れる。渋々ではあったが、男も別離を受け入れた。

「イェンジンは、ハイリよりは安全だけど……屋敷までは気をつけて」

 言いながら、男の手はトーカの頭に触れ、髪を撫でながら最後には頬に手を添えた。沈黙のまま、俺はその光景に瞳に映す。ずっと俺は、我慢してきた。目の前で二人が触れ合うことに耐えてきたのだ。だが、もう限界だった。半ば無意識的に、俺はトーカへ手を伸ばす。手首を掴んで引き寄せた。そのままの流れで腰に腕を回して、トーカとぴったり引っ付いたのだ。

「おい、兄さんに触るな」
「うるさい」

 双方、青筋を浮かべている。これほどまでに、互いに殺してやりたいと思っているのに、手を上げることがないのは、ひとえにトーカのおかげだった。もし俺がこの男を殺せば、トーカは俺を許さないだろう。それと同様に、この男が俺を殺したとしても、トーカは実弟を永劫許さない。それが分かるからこそ、俺たちは互いを害することがないのだ。だが、もし何か一つでもきっかけになることがあれば、その限りではない。

「二人とも」

 殺意を向け合ったところで、トーカが俺たちを止める。これ以上は駄目だと言うように、俺と男の胸を押して二人を離そうとした。小さく溜め息を漏らして、男はトーカの言に従う。そして、そのまま身を翻して去っていった。トーカは、そんな後ろ姿をしばらく眺めて、満足したところで踵を返す。

 イェンジンにまで来たのであれば、バイユエの屋敷はもうすぐだ。慣れた道を歩く。そして、物々しい風貌の徒弟が番をする門をくぐってトーカは屋敷へと戻ってきた。誰にも会わないように、静かに階上へと進む。そっと自室の扉を開いて、ふぅと息を吐いた。椅子に腰を下ろしたトーカを見届けながら、俺は茶炉の炭に火をつけて湯を沸かす。

「ズーユンは、どうだった?」

 茶炉の上に置いた茶釜に水を注ぎ、それが沸騰するのを待つ。同時に、俺はトーカに問いを投げかけた。トーカに同行出来なかった俺は、トーカがズーユンとどういったやり取りをしたのかを知らないのだ。俺がそばにいなかった時に何があったのかを、問う。
 
「母さんが昔描いた絵をくれたんだよ」
「そっか」

 懐から紙の束を出すトーカ。それは随分と分厚く、一枚、二枚、といった量ではないことが察せられる。紙束をまとめていた麻の紐を解き、その絵を一枚ずつ机の上に並べていく。俺は茶釜の様子を伺いながら、部屋の中を歩いてトーカのそばへと向かった。

「会いに行って、良かった?」
「もちろん」

 そう言ってトーカが笑えるのなら、俺はなんだっていい。母親との繋がりは、トーカがずっと求めているものなのだ。それが手に入り、トーカが喜びに包まれるのであれば、俺は満足だった。けれども、トーカの笑みはすぐに失せ、表情に影が差す。薄桃色の唇は、そっと言葉を紡いでいく。

「……多分、ズーユンさんには彼女なりの目的があって、私をハンファに呼んだんだと思う。それは、なんとなく分かってる。……それが何なのかは分からない。けど……、その代わりに私は今まで持っていなかった母さんの遺品を手にすることが出来たから、それでいいかなって」

 明らかに、あの女は不審だった。それでもいいのだと、トーカが判断するのであれば、これ以上俺が言うことなど何もない。トーカの母が残したという絵。それが描かれた紙は、もう随分と干からびており、触れるだけでかさかさと言う音がする。その音を楽しむように、トーカは絵に触れていた。

「せめて、ズーユンさんの目的が、私の周りの人の迷惑にならないことだといいなぁ」
「大丈夫。トーカのことは必ず守る」
「ありがとう。……でも、守って欲しいのは、私のことじゃないよ」
「それでも俺は、トーカのことを守る」

 困ったように笑う。その笑みが好きだと言ったら、トーカはなおのこと困ってしまうだろうか。己の意思を曲げない俺を見て、少しだけ肩を竦めたトーカは、俺へ向けた視線を再び紙の上の絵に向ける。

「レン、見て。母さんの絵。可愛い」

 細い指先が、絵をなぞった。何かの生き物が描かれているが、何であるかがはっきりと分からない。犬のようにも見えるが、猫のようでもあり、兎のようでもある。つまりは、四本足で歩く何かということだ。

「トーカの方が上手」
「そ、それは……そうかもしれないけど、なんていうか、味がある絵だよ」

 俺には絵のことなど殆ど分からない。だが、トーカの方が上手いということくらいは分かるのだ。そしてトーカ自身も、母親の絵の稚拙さを否定出来ないでいる。この程度の絵であれば、俺でも描けそうだった。

「こんなにたくさんもらっちゃって良かったのかな……でも、ズーユンさんも片付けたいみたいなこと言ってたし……」

 ぶつぶつと呟きながら、トーカの手が一枚、また一枚と絵を捲っていく。動物だけでなく、花や、食器、船、と言ったように様々な絵が現れた。だが、とある紙に行き着いた時に、トーカの手が止まったのだ。手が止まった理由を、俺も即座に理解する。

「……これって」

 文字だった。絵の中に紛れるように、小さな紙に小さな文字が記されている。暗い部屋の中で、トーカはその紙を顔に近づけてじっと見た。俺にはそこに何が書かれているかは見えない。それでも、大凡を察することが出来る。

「ハンファの外で、……お別れを言いたいって」

 トーカを呼び出すものであること分かっていた。ズーユンは崖で偶然であったトーカに、ハンファに来るように伝え、そこで母の遺品を譲り、さらにその遺品の中に誘い出す文を紛れ込ませた。理由は釈然としないが、それでも、あの女はトーカを利用しようとしている。

「トーカ、流石にこれは」
「……分かってる。怪しいなって言うのは、分かってる。……でも私は、ズーユンさんを見届けたいって思ってしまうんだよ……ごめん、ごめん……レン」

 少しだけ、トーカの声は震えていた。こんな誘い方をしてくるなんて可笑しい、と理性は判断しているのだろう。だが、ズーユンの行く末を見届けたいとトーカの本能が泣いているのだ。俺は一度だけ、微かな溜め息を漏らして茶炉の元へと戻った。湯が沸いている。茶器を取り出し、そこに茶を注いだ。

「トーカは、あの女にシアさんのことを重ねすぎている」
「……うん、そうだね」

 トーカが生まれる前の母親。その姿を、ズーユンに重ねているのだ。だからこそ、利用されていると理解しながらも、ズーユンが何を考え、何を求め、何をしようとしているのかを知りたくて堪らないのだろう。茶托の上に茶器を乗せ、トーカの前へと運んだ。それを受け取り、トーカはそっと器に唇をつける。一口含み、一呼吸を置いた。

「色々な人に守ってもらっている身で、我儘なことは出来ないし、無責任な振る舞いも許されないと思う。……でも、私は」
「トーカは、トーカの望むことをすればいい」

 葛藤を見せるトーカに、俺が言えることはそれだけだった。良くない道に進もうとしているトーカの手首を掴んで、正しい道へ連れて行くということが、俺には出来ない。トーカが望む道を共に歩き、その道の上でトーカを守る。それが俺に出来る最善なのだ。行き着く先が地獄でも、共に行く。

「俺が、トーカを守るから」
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