下賜される王子

シオ

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◆ 幕間

4、朝に垂る水(2)

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「……上、叔父上」

 紗を微かに揺らすそよ風のような、涼しげで清廉な声だった。微かだったそれが、確かな音を伴って私の鼓膜を震わせる。

「こんな所でうたた寝をされては、お風邪を召されますよ」

 うたた寝。私は眠っていたのか。先程まで兄上の腕に抱かれていたのだが、兄上はどこに行ってしまったのだろう。もしや、全てが夢だったとでも言うのだろうか。

「……吉乃か」
「はい。吉乃です」

 暖かい日差しの差し込む離宮の四阿で、私は寝椅子に腰掛けて微睡んでいたらしい。私の眼前には、同じ役目を背負うただ一人の甥が。こちらを覗き込み、私の瞳を見ている。真っ黒な目に、真っ黒な髪。この世のものとは思えない天の造形物がそこにはあった。

「お前はちっとも兄上に似ておらんな」
「兄上、というと先代国王陛下ですか?」
「あぁ。まだ紫蘭の方が兄上に似ている」
「では、一の兄上を連れて参りましょうか」
「いや、結構だ。似ていたとしても、あれは私の兄上ではない」

 顔は似ていたとしても、それだけだ。私を愛してくれた人はもういない。どうして兄上はここにいないのに、私はここに留まっているのだか。

「吉乃」
「はい」

 手に持っていた膝掛けを私に掛けながら、隣に腰掛けた甥に言葉を掛けた。私達は互いに姫宮同士で、通じ合うところもあるが、だからといって離宮にまで来て叔父と言葉を交わす吉乃のような存在は稀だ。

 我ら天瀬王家にしてみれば、兄弟以外は有象無象の輩なのだから。そんな物好きな甥は、きょとんとした顔をして私の言葉の続きを待っていた。

「お前、清玖が死んでしまったらどうする」

 結ばれたばかりで、新婚である吉乃に投げ掛けるにしては、あまりに酷な問いだと自覚している。

 だが、愛するものを失うというのは、いつ訪れるとも知れぬ絶大な恐怖だ。私はすでに経験済みだが、その時に負った傷は未だに癒えていない。

 吉乃が清玖を失ったらどうするのか。尋ねたのはきっと、軽い好奇心ゆえだったのだろう。だが、知りたかった。吉乃はどうするのか。私はこれから、どうすれば良いのか。

「とても……悲しいです」
「そして、死にたくなるはず」
「ええ、きっと」

 迷いなく頷いた。吉乃のその首肯は正しい。思わず口元に笑みが浮かぶ。笑う事しか出来ない。死んでしまいたいという気持ちを抱きながらいまだ、この世に留まる己を。

 死んでしまいたい。だが、侍従たちは必死になって私を慰め、心の支えになろうと務めてくれた。その献身を裏切れない。

 兄弟達も、私が死ねば嘆くだろう。最愛は兄上だが、当然、ほかの兄弟たちのことも私は深く愛している。

 そしてなにより、兄上が私の自死を望まないと思うから、だから私はここに留まっている。寂しくて、苦しくて、堪らなく痛くても、私はここにいる。

「死なないでいる私を褒めて欲しい」

 随分と年下の甥に甘えるように、私は身を寄せた。女とも違うが、どの男よりも華奢な体だ。私も大差ないのかもしれなが、それでも、私よりも小柄に思えた。

「叔父上には、いつまでもお健やかでいて頂きたいです」

 それが吉乃の本心からの言葉であると、疑うことなく信じられた。吉乃の肩に頭を乗せ体重を預ける私に、吉乃もまた寄り添う。互いを支え合うように、私達は体を寄せ合っていた。

「不思議だな……、普通、己の甥子などに王族は興味を持たないというのに」

 私とて、吉乃の兄弟たちに触れようなどとは微塵も思わない。だが、こうして吉乃の体温に触れることには、穏やかな幸福感すら抱く。本当に不思議な感覚だった。

「何故だか、お前は一等愛おしく思える」

 この幸福感の名は、愛おしさ。己が愛おしいと感じるものに触れていられる僥倖。己の弟でもなく、己の子でもない。私の甥。姫宮という凄惨で過酷な役目を私から継いだ後継者。

「兄上の子など七人もいるというのに、何故だかお前だけが可愛い」
「叔父上……」

 兄上がこの世に残した黒髪黒目の姫宮。吉乃がいなければ、私はもっと孤独を感じていたことだろう。吉乃は、兄上が私に与えてくれた置き土産だったのだろうか。

 子をあやすため、人形を与えるように。弟を慰めるため、美しい甥を兄上は置いていったのだろうか。

「……私は、姫宮を立派に務め上げただろうか」

 兄上が即位してから、お隠れになるまで、兄上と共に苦しんだ。誰からも求められる吉乃のような容貌は持たないが、姫宮としての技術を磨き、もてなすことで支持を得てきた。私は、自分なりに全力を尽くしてきたと思う。

「兄上は、私を褒めて下さるだろうか」

 それだけが私の望みだった。兄上に褒められたい。それがあれば、どれほどの絶望だって諾々と飲み干せた。

 良くやったと褒めて、頭を撫でてもらいたい。けれど、分かっている。嫌という程に分かっているのだ。どれほど強く望んでも、私を褒める声はない。どれほど強く願っても、私の頭を撫でる手はない。兄上はもはや、私から酷く遠い場所にいる。

「きっと褒めてくださいますよ。叔父上が如何に御立派であるかを、吉乃は知っております。私が知ることを、先王陛下がご存知ないはずがありません」

 吉乃は、本当に優しい子だ。私より過酷な道を歩まされているというのに、慈悲の心が何よりも強い。天に愛された者と言われても、驚くどころか腑に落ちるほどだ。

 穏やかで、あたたかい笑みを浮かべる甥の言葉は、私の心にじわりと溶け込んでこの身を包み込んだ。

「そうか……立派に務めたか……、いつか、そんな風に兄上に褒めて頂きたいな」

 朝露が、垂れ落ちて地へ帰るように。自然な流れの中にあって、この命がいつか天へと帰ったならば。

 そこでなら、愛する兄上だけを感じて生きていけるのだろうか。立場も務めも気にせず、ただ愛し合うことが出来るのだろうか。

 王族として生まれ、何不自由なく育ち、それでいて大層な役目を背負わされた。なかなかに酷な運命であったと思う。けれど、私が願うことなど、ひとつだけだった。欲したのは、ただひとつ。

 愛する人と、愛し合いたい。
 ただ、それだけだった。

「……兄様。兄様の夜月が、いずれ参ります。それまで、暫しお待ちくださいね」

 私は夢見る。
 朝に垂る水の如く、この天命を全うする日を。


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