2 / 47
プロローグ(二) 恐怖
しおりを挟む
凍える大気の中、月が青白い光を放つ。家の灯りがひとつ消え、ふたつ消え、あたりは夜の帳におおわれた。
街は眠りについていた。通り過ぎる木枯らしに、裸の木々も目を覚まさない。
今宵、街は音をなくしたかのように静寂を保っている。
夜空にかかる月は冷たい光で街を照らす。
妖しいまでに美しいそれは、静かに降りそそぐ。
魔物を眠りから起こすように。
夜の中に少女は立っていた。
年のころは十七、八。成熟した女性の色香とあどけなさを同居させている。
大人の女を演じようと背伸びをしているが、ときおり見える幼さは、少女が男を知らないためだ。
少女の、背中まで伸びたくせのない黒髪が、月の光を浴びて輝く。
透けるような白い肌は、これから起こることへの期待と緊張で赤みがさしている。赤いルージュで彩られた唇は、虚栄心の現れだ。
漆黒の瞳が青年を見つめた。身体を走る衝動に耐え切れず、その身をさしだそうとしている。
――そそるようなまなざしだ。
誘いかける黒い瞳に満足して、青年は口元に冷ややかな笑みを浮かべる。
「くるがいい、この腕の中に」
右手をさしのべると、少女はコートを足元に脱ぎ捨て、見えない糸にたぐりよせられるように、青年のそばにゆっくりと歩みよる。
冬枯れの木立を夜風が通り抜けた。
足元の芝生は夜露で濡れている。
彼らは人目を避けるようにして肌をよせあっていた。
めったに人の訪れないこの場所には、街灯の明りも届かない。ふたりを照らすものは、夜空にかかる月の光のみだ。
少女の着る胸元の広く開いた白いワンピースが、月明りで青く浮かぶ。
長い黒髪が素肌にまとわりつき、白いうなじを淫らに飾る。
青年は少女の髪を優しくかきあげた。
細い首筋が彼の視線をとらえる。
少女のあごに手をそえて青年はすばやく口づけた。
まだ青みの残った果実のような瑞々しい唇が、青年の動きにぎこちなく応える。舌を絡め、強く吸うと、
「う……」
くぐもった声がもれた。
心臓が力強く鼓動を始め、少女の欲望の高まりを告げる。
命の源、あふれるエネルギー、若い生命力が脈打つ。
青年の瞳に欲望の火が灯される。
肩から首筋に小さなキスを浴びせると、少女が小刻みにふるえた。
わずかに残ったはじらいが、青年の欲望をさらに高める。
若くて健康な肉体と新鮮な命の源が、刺激し誘惑する。
本能の命じるまま、青年は心を漂わせ解放した。徐々に彼の身体が変化を始める。
青年は押し殺すように唸り声を上げた。次の瞬間、瞳は月光を反射して獣のように輝き、二本の犬歯が肉食獣のように長く鋭く伸びた。
大きく開かれた口元で、濡れた牙が月光を受け止めている。
「ああーっ」
彼の与えた痛みが少女に悲鳴を上げさせた。耳に届く荒い息づかいは、やがて鼻にかかった甘い吐息に変化し、青年の心を妖しく誘惑する。
少女はすべての快楽を逃すことを恐れるように、力の限り青年を抱きしめた。
細く白い首筋に鋭い牙を立て、青年は生命の源をむさぼるように飲み続ける。
少女のエネルギーが青年に行き渡るにつれて、全身に心地よい温もりが広がった。
それは上質のワインを口にしたときにも似て、甘美でとろけるようだ。
生命を吸い上げる。感覚が徐々に頂点に近づく。
青年の欲望は、少しずつ満たされた。
「あ、ああ……」
少女の身体が歓喜にふるえた。アルコールに酔ったときのように、青年の全身がほのかに熱を帯びる。
ふたつの生命がひとつになる。そんな感覚をつかんだ瞬間、青年の欲望は絶頂に達した。
しばらくのあいだ余韻に身を任せていたが、やがて、ふう、と肩で息をして、青年は少女から身体を離した。
月光が少女の白いうなじを照らす。
二筋の血が首筋から流れ落ち、胸元を伝って白いワンピースに赤い二本の筋を作った。
足元がふらつき、少女は地面に崩れかかる。それを青年の力強い腕が支える。
少女はゆっくりと顔を上げた。そこには恍惚とした表情が広がっていた。
だが顔色は蝋のように白く、唇は赤みが失せている。口づけの前に見せた生命の躍動感は、面影すら残っていない。
少女の生命の灯は弱々しく、一息吹きかけるだけで消えてしまいそうだ。
そのとき――。
快楽に浸った少女の表情が、一瞬のうちに変化した。目をカッと見開き、声にならない悲鳴を上げる。
断末魔の表情だ。
口から赤い血を流し、少女は糸の切れたマリオネットのように力なく崩れた。
うつぶせに倒れた少女の下から、血だまりが広がる。冷淡な笑みを浮かべ、青年は足で遺体を仰むけにした。
少女の胸元に刺さる短剣に、月光が反射する。
青年の胸は返り血で赤く染まっていた。
血まみれの手で短剣を抜き、遺体の首筋に刃をつきつけた。慣れた手つきで斬ると、傷口から流れ出る温かい血が芝生を赤い海にする。
むせかえる生臭さと赤く染まる景色の中で、青年は口元を妖しくゆがめた。
月が厚い雲に隠されて、あたりは闇におおわれた。
闇に邪悪な気配が浮かぶ。
なにかをすするような不快な音、生理的な嫌悪感を呼び起こす音が闇の中で響く。
ふと、青年の心に奇妙な感情が生まれた。原始的な感覚——恐怖感だ。
彼の中で別の人格が目を覚まし、瞬時に心は別人に支配される。
雲が流され、月が再び顔を出す。
闇にまぎれて出現したものを青年は見た。
地獄絵だ。血で全身を染めた人間——亡者の姿があった。
渇きをいやすために遺体にむらがり、その血をすする。
鋭い二本の牙と月光を反射させる瞳。青年の口づけを受けて従者となった者たちが、主人の与える生#__い__#け贄の血をむさぼる。
青年は亡者たちに囲まれた。
「血を……」
「命の源であるエネルギーを……」
ジリジリとつめよる亡者たち。満たされることのない飢餓に、人間だったころの品格は姿を消していた。飢えた獣の目が青年を見つめる。
今すぐここから逃げ出したい。青年はそう願った。だが身体が動かない。恐怖が彼を金縛りにする。
「もっと生け贄を……」
ヤメロ。
「永遠の命の糧を——」
チカヨルナ。
「赤い血を——」
ボクニ、フレルンジャ、ナイッ。
魔物の瞳が彼を射抜く。生気のない目が、恐怖にとらわれた青年を映す。
恐怖のあまり緊張の糸が切れ、彼は叫び声を上げた。
街は眠りについていた。通り過ぎる木枯らしに、裸の木々も目を覚まさない。
今宵、街は音をなくしたかのように静寂を保っている。
夜空にかかる月は冷たい光で街を照らす。
妖しいまでに美しいそれは、静かに降りそそぐ。
魔物を眠りから起こすように。
夜の中に少女は立っていた。
年のころは十七、八。成熟した女性の色香とあどけなさを同居させている。
大人の女を演じようと背伸びをしているが、ときおり見える幼さは、少女が男を知らないためだ。
少女の、背中まで伸びたくせのない黒髪が、月の光を浴びて輝く。
透けるような白い肌は、これから起こることへの期待と緊張で赤みがさしている。赤いルージュで彩られた唇は、虚栄心の現れだ。
漆黒の瞳が青年を見つめた。身体を走る衝動に耐え切れず、その身をさしだそうとしている。
――そそるようなまなざしだ。
誘いかける黒い瞳に満足して、青年は口元に冷ややかな笑みを浮かべる。
「くるがいい、この腕の中に」
右手をさしのべると、少女はコートを足元に脱ぎ捨て、見えない糸にたぐりよせられるように、青年のそばにゆっくりと歩みよる。
冬枯れの木立を夜風が通り抜けた。
足元の芝生は夜露で濡れている。
彼らは人目を避けるようにして肌をよせあっていた。
めったに人の訪れないこの場所には、街灯の明りも届かない。ふたりを照らすものは、夜空にかかる月の光のみだ。
少女の着る胸元の広く開いた白いワンピースが、月明りで青く浮かぶ。
長い黒髪が素肌にまとわりつき、白いうなじを淫らに飾る。
青年は少女の髪を優しくかきあげた。
細い首筋が彼の視線をとらえる。
少女のあごに手をそえて青年はすばやく口づけた。
まだ青みの残った果実のような瑞々しい唇が、青年の動きにぎこちなく応える。舌を絡め、強く吸うと、
「う……」
くぐもった声がもれた。
心臓が力強く鼓動を始め、少女の欲望の高まりを告げる。
命の源、あふれるエネルギー、若い生命力が脈打つ。
青年の瞳に欲望の火が灯される。
肩から首筋に小さなキスを浴びせると、少女が小刻みにふるえた。
わずかに残ったはじらいが、青年の欲望をさらに高める。
若くて健康な肉体と新鮮な命の源が、刺激し誘惑する。
本能の命じるまま、青年は心を漂わせ解放した。徐々に彼の身体が変化を始める。
青年は押し殺すように唸り声を上げた。次の瞬間、瞳は月光を反射して獣のように輝き、二本の犬歯が肉食獣のように長く鋭く伸びた。
大きく開かれた口元で、濡れた牙が月光を受け止めている。
「ああーっ」
彼の与えた痛みが少女に悲鳴を上げさせた。耳に届く荒い息づかいは、やがて鼻にかかった甘い吐息に変化し、青年の心を妖しく誘惑する。
少女はすべての快楽を逃すことを恐れるように、力の限り青年を抱きしめた。
細く白い首筋に鋭い牙を立て、青年は生命の源をむさぼるように飲み続ける。
少女のエネルギーが青年に行き渡るにつれて、全身に心地よい温もりが広がった。
それは上質のワインを口にしたときにも似て、甘美でとろけるようだ。
生命を吸い上げる。感覚が徐々に頂点に近づく。
青年の欲望は、少しずつ満たされた。
「あ、ああ……」
少女の身体が歓喜にふるえた。アルコールに酔ったときのように、青年の全身がほのかに熱を帯びる。
ふたつの生命がひとつになる。そんな感覚をつかんだ瞬間、青年の欲望は絶頂に達した。
しばらくのあいだ余韻に身を任せていたが、やがて、ふう、と肩で息をして、青年は少女から身体を離した。
月光が少女の白いうなじを照らす。
二筋の血が首筋から流れ落ち、胸元を伝って白いワンピースに赤い二本の筋を作った。
足元がふらつき、少女は地面に崩れかかる。それを青年の力強い腕が支える。
少女はゆっくりと顔を上げた。そこには恍惚とした表情が広がっていた。
だが顔色は蝋のように白く、唇は赤みが失せている。口づけの前に見せた生命の躍動感は、面影すら残っていない。
少女の生命の灯は弱々しく、一息吹きかけるだけで消えてしまいそうだ。
そのとき――。
快楽に浸った少女の表情が、一瞬のうちに変化した。目をカッと見開き、声にならない悲鳴を上げる。
断末魔の表情だ。
口から赤い血を流し、少女は糸の切れたマリオネットのように力なく崩れた。
うつぶせに倒れた少女の下から、血だまりが広がる。冷淡な笑みを浮かべ、青年は足で遺体を仰むけにした。
少女の胸元に刺さる短剣に、月光が反射する。
青年の胸は返り血で赤く染まっていた。
血まみれの手で短剣を抜き、遺体の首筋に刃をつきつけた。慣れた手つきで斬ると、傷口から流れ出る温かい血が芝生を赤い海にする。
むせかえる生臭さと赤く染まる景色の中で、青年は口元を妖しくゆがめた。
月が厚い雲に隠されて、あたりは闇におおわれた。
闇に邪悪な気配が浮かぶ。
なにかをすするような不快な音、生理的な嫌悪感を呼び起こす音が闇の中で響く。
ふと、青年の心に奇妙な感情が生まれた。原始的な感覚——恐怖感だ。
彼の中で別の人格が目を覚まし、瞬時に心は別人に支配される。
雲が流され、月が再び顔を出す。
闇にまぎれて出現したものを青年は見た。
地獄絵だ。血で全身を染めた人間——亡者の姿があった。
渇きをいやすために遺体にむらがり、その血をすする。
鋭い二本の牙と月光を反射させる瞳。青年の口づけを受けて従者となった者たちが、主人の与える生#__い__#け贄の血をむさぼる。
青年は亡者たちに囲まれた。
「血を……」
「命の源であるエネルギーを……」
ジリジリとつめよる亡者たち。満たされることのない飢餓に、人間だったころの品格は姿を消していた。飢えた獣の目が青年を見つめる。
今すぐここから逃げ出したい。青年はそう願った。だが身体が動かない。恐怖が彼を金縛りにする。
「もっと生け贄を……」
ヤメロ。
「永遠の命の糧を——」
チカヨルナ。
「赤い血を——」
ボクニ、フレルンジャ、ナイッ。
魔物の瞳が彼を射抜く。生気のない目が、恐怖にとらわれた青年を映す。
恐怖のあまり緊張の糸が切れ、彼は叫び声を上げた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
罰ゲームから始まった、五人のヒロインと僕の隣の物語
ノン・タロー
恋愛
高校2年の夏……友達同士で行った小テストの点を競う勝負に負けた僕、御堂 彼方(みどう かなた)は、罰ゲームとしてクラスで人気のある女子・風原 亜希(かざはら あき)に告白する。
だが亜希は、彼方が特に好みでもなく、それをあっさりと振る。
それで終わるはずだった――なのに。
ひょんな事情で、彼方は亜希と共に"同居”することに。
さらに新しく出来た、甘えん坊な義妹・由奈(ゆな)。
そして教室では静かに恋を仕掛けてくる寡黙なクラス委員長の柊 澪(ひいらぎ みお)、特に接点の無かった早乙女 瀬玲奈(さおとめ せれな)、おまけに生徒会長の如月(きさらぎ)先輩まで現れて、彼方の周囲は急速に騒がしくなっていく。
由奈は「お兄ちゃん!」と懐き、澪は「一緒に帰らない……?」と静かに距離を詰める。
一方の瀬玲奈は友達感覚で、如月先輩は不器用ながらも接してくる。
そんな中、亜希は「別に好きじゃないし」と言いながら、彼方が誰かと仲良くするたびに心がざわついていく。
罰ゲームから始まった関係は、日常の中で少しずつ形を変えていく。
ツンデレな同居人、甘えたがりな義妹、寡黙な同クラ女子、恋愛に不器用な生徒会長、ギャル気質な同クラ女子……。
そして、無自覚に優しい彼方が、彼女たちの心を少しずつほどいていく。
これは、恋と居場所と感情の距離をめぐる、ちょっと不器用で、でも確かな青春の物語。
皆さんは呪われました
禰津エソラ
ホラー
あなたは呪いたい相手はいますか?
お勧めの呪いがありますよ。
効果は絶大です。
ぜひ、試してみてください……
その呪いの因果は果てしなく絡みつく。呪いは誰のものになるのか。
最後に残るのは誰だ……
番に見つからない街で、子供を育てている
はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。
異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。
現世の記憶は失われているが、
この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。
街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、
ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。
だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。
再会は望まない。
今はただ、この子との生活を守りたい。
これは、番から逃げたオメガが、
選び直すまでの物語。
*本編完結しました
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる