【完結】黄昏の少年

須賀マサキ(まー)

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プロローグ(一) 流香

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 凍てつく夜空から雪が静かに舞いおり、小さな街に優しく降りつもる。
 ネオンに彩られた繁華街。恋人たちの集う公園。ひっそりとしたグランド。
 冬枯れの木立は枝に白い花を咲かせ、寒さに耐えて咲いている花たちにも雪化粧がほどこされる。

 そんな街のはずれに、小さな教会が建っていた。
 普段は人の目にとまらない建物も、クリスマス・イヴの今夜は多くの人々でにぎわっている。聖歌隊の歌や子供たちの演じるキリスト生誕の劇は、聴く者、見る者の心に優しい明りを灯す。

 教会のそばには小さな産院があり、その病室で月島つきしま流香るかはベッドに身体を横たえていた。死ぬような痛みの中で幾度となく逃げ出したいと願いながら、ようやく大きな仕事をなしとげた。気怠いながらも心地よい疲れが全身に広がっている。

 先ほどから何度かまどろんでいるうちに、すっかり日が暮れてしまった。
 いつからだろう。窓のむこうにある教会がなにやらにぎわっている。疲れが取れ始めたころからずっと気になっていた。

 流香はベッドから起き上がり、病室の窓を少し開けた。
 冷たい大気とともに、賛美歌が病室に流れ込む。高まった気持ちを鎮めるのにちょうどいい。
 流香はベッドに戻り、遠く聞こえる歌声に耳を傾けた。

 十二月二十四日、年に一度の聖なる夜。朝から降りはじめた雪が街の動きを緩慢にした。
 雪になれない人たちの動作はぎこちなく、時間までもが不器用に流れる。

 ホワイト・クリスマスの夜に、街を歩く人々は今宵限りの慈悲深い表情を浮かべる。冷たい雪によって、人の距離はいつもより近くなる。
 優しい笑顔、満ちたりた表情にあふれる。日常の喧噪けんそうを忘れたかのように、静かにときが流れていく。

 街をおおう雪はすべての罪を隠すようだ。その白さを見ていると、過ぎた日々が流香の脳裏を横切る。
 忘れたい、でも忘れてはならないいくつもの出来事が影を落とす。

 だが今このときだけは目を閉じても許されるだろう。賛美歌が届ける重厚な響きに流香は心をあずけていた。

 突然静寂を破るように、廊下を慌ただしく走る足音が響いた。徐々に近づくそれは流香のいる病室を通り過ぎたあとすぐに引き返し、同時に勢いよくドアが開いた。
 流香が驚いてふりむくと、扉のそばに夫の秀貴ひでたかが立っている。
 グレーのコートも足元においた鞄もとけた雪でぬれ、髪の毛からはしずくがしたたっている。

「流香。もう終ったんだって?」
 肩で息をしながら秀貴は恐る恐る問いかけた。縁なし眼鏡の向こうにある優しい瞳が、申しわけなさそうにじっと見つめている。
 傘もささずに走ってきたらしく、頭や肩には雪が残っている。
 流香はゆっくりと上半身を起こし、口元に笑みを浮かべる。
「一時間ほど前にね。お父さん」
「えっ?」

 秀貴は戸惑いの表情を浮かべ、次の言葉を探すように口をぱくぱくさせた。そして深呼吸して気持ちをおちつけてから、ようやく問いかける。
「で、男? 女?」
「男の子よ。秀貴さんの願い通りに」
 秀貴の表情が明るく輝き、やった、と叫びながらガッツポーズをとる。かと思うと次の瞬間、流香は優しい腕に包まれた。

「そうか、お疲れさま。ありがとう流香」
 耳元で秀貴の声が聞こえた。しばらくして腕がゆるめられたかと思うと、今度はキスをされた。教会から響く歌声がふたりを神々しくとりまく。秀貴の動きに流香は身も心もゆだねた。
 やがてシルエットがふたつに別れた。流香は改めて目の前に座る夫を見る。

「秀貴さんったら雪まみれよ。それじゃスノーマンみたい」
「え? 開口一番そのセリフはないだろ」
 秀貴は立ち上がると苦笑しながらコートを脱ぎ、ハンガーにかけた。
 そして流香の荷物からタオルを取り出し、髪に残った粉雪をふきとる。

「タクシーつかまらなかったの?」
「いや、なんとか拾えたんだけどね。雪で渋滞して全然進まないんだ。しかたないから途中で降りて、あとは走ってきたのさ」
「大変だったのね。ごめんなさい、今日みたいな日にお産だなんて」
 本当になにからなにまで迷惑のかけ通しだ。流香は申し訳なさに、うつむいて謝ることしかできない。

「またそうやって頭を下げる。そんなことするのはやめろって言っただろ」
「ごめんなさい……あっ」
 条件反射になっていることに気づき、流香は手の平を口元にあてた。

「今日が雪になったのもお産が始まったのも、流香のせいじゃないさ。おれこそ大変なときに立ち会えなくて悪かったよ。ひとりで心細くなかったかい?」
「ううん、ひとりじゃない。子供も一緒だったもの。それに……」
 流香は胸元の十字架にふれる。
「秀貴さんにもらったお守りもあったのよ」

 純銀製のクルスは、昔秀貴にプレゼントされたものだ。
「まだ持っていたのか」
「ええ。いつもそばにいるって思えるの。これのおかげで」
 胸元を飾る小さな十字架が、決してひとりではないという安心感を与えてくれる。

 流香は窓の外に視線を移した。雪が静かに降りつもる。
 教会のイルミネーションがまばたきを繰りかえし、訪れる人を快く迎えている。来年の今日は親子であの場所に行きたいと流香は切に願った。
「これから、三人の生活が始まるのか」
 秀貴の、自分に言い聞かせるような声が耳に届く。

「そうよ。がんばってね、お父さん」
 秀貴に視線を戻して流香が答えた。
「おれよりも流香のほうが大変だよ。まだ十八歳なのに、母親になったんだから」
 秀貴は一度言葉を区切り、流香を見てまぶしそうに目を細める。

「でもないか。すっかり母親になったみたいだね。それに引き替えおれときたら。高校教師二年目の新米には、正直なところ、喜びよりも戸惑いの方が大きいよ」
「秀貴さんだってすぐに父親になれるわ。実感がわかないのは、子供を見てないからよ」
「そうかな」

 秀貴はやや不安そうに頭をかいた。と、突然思いついたように、パンと手を叩く。
「名前、どうする?」
 流香はテーブルの上においてあったメモを、遠慮がちに渡した。受け取った秀貴は難しい顔をしたまま無言で眺めている。

 気に入ってもらえなかったかと、流香が心配し始めたころ、
「——せいや、と読むんだよね」
 秀貴が不意に口を開いた。
「そうよ。『聖』なる『夜』と書いて『せいや』。だって今日はクリスマス・イヴですもの」
「聖夜。月島聖夜か」
「どう?」
 右手を口元にあてて考えこんでいる秀貴を、流香は不安げに見つめる。

「聖夜か。月島聖夜。聖なる夜に生まれたから、聖夜」
「気に入らない?」
 秀貴は腕を組んでベッドから立ち上がり、独り言を繰りかえしながら病室を歩きまわっている。
「秀貴さん?」

 わずかに響いてくる歌声に耳を傾けるように、秀貴は窓際に立った。
 キリスト生誕をたたえる曲が遠く響く。流香は答えが返るまで、辛抱強く夫の背中を見つめる。
「そう……だな。とてもいい。いい名前だ」
「本当に?」
「決めた。あの子はこれから、月島聖夜だ」

 ふりかえる秀貴は、複雑な表情をしていた。喜びの中に、わずかだが不満が見え隠れしている。
「どうしたの?」
「いや、流香がいい名前を思いついたから。おれの意見が入るすきもなかったってね」

 人差し指で頬をかきながら秀貴は答えた。
「これでも五~六個は考えてたんだよ。秀行とか貴志とか。でもどれも『聖夜』にはかなわないな」
「ごめんなさい」
「ほら、また謝る。責めてるわけじゃないんだから」
 秀貴は慌てて取りつくろった。その姿が滑稽で、流香の唇には自然と笑みが浮かぶ。

「じゃあ、さっそくその……あいつに会って教えてくるよ」
「あいつ?」
「聖夜だよ。おまえは今日から『月島聖夜』だぞってね」
「無理よ。新生児室でガラス越しの対面だもの。きっと今ごろは熟睡してる。それに言葉だって解らないのよ」

「いいんだって、気持ちの問題なんだから。じゃあ、ちょっとだけわが子の顔を見てくるか」
 と流香にウインクをしたあとで、
「感動の父子の対面かあ。考えただけでも緊張するよ」
 肩に力が入ったのか、秀貴は右手と右足を同時に出して歩き始める。そしてドアをぎこちなく開け、病室を出ていった。

 ひとり残った流香は、名前の書かれたメモに視線を落とす。
 賛美歌がとだえ、部屋に静けさが戻る。不意に流香の目に映る世界がぼやけた。まばたきをした拍子に涙の粒が頬を伝ってメモに落ち、聖夜、と書かれた文字をにじませる。

 今の幸せはいつまで続くのだろう。いつの日か忌わしい過去が現われて、ささやかな生活を粉々に砕いてしまわないか。
 ガラス細工の幸福は、ほんの少しの力を加えるだけで、無惨にも壊れるだろう。
 胸の奥深く秘めた過去は、こんなときでさえ安らぎを感じさせてくれない。いつまでも忘れることのできないそれは、自身の影のようにまとわりつき、決して離れない。

 満ち足りたひとときを感じることすら許されないのか。罪深きこの身は。
 それならば、と流香は思う。わたしはどうなってもいい。でも聖夜は——せめてあの子だけは、平凡でもいいから幸せな人生を歩んでほしい。
 雪がすべてをおおい隠す中、聖夜はこの世に生をうけた。聖なる夜に生まれたのは、神の思し召しだろうか。

 いつまであのふたりと一緒にいたい。

 しのびよる影を漠然と予感しつつ、流香は祈りにも似た感情を聖夜に抱いた。
 わずかに開かれた窓から、粉雪が勢いよく舞いこむ。
 刺すような冷たさは、罪に染められた身体を責める刃にも似て、流香の心を容赦なく切り裂く。

 流香はベッドから出て窓を閉める。
 すべての罪を隠す白さにすら拒否された。寒さにふるえて自分の肩を抱く。流香は、我が身に許された幸せの時間が残り少ないことを予感した。

 静かに降る雪。聖なる領域の教会。
 あちら側に安らげる場所はあるのだろうか。ガラス一枚で隔てられた先が、決して手の届かない遥か彼方の異国のごとく感じられる。

 自分は、いつか排除される存在に違いない。
 未来のことを考えると、また涙がにじむ。
 教会から賛美歌が響き、静かな病室をわずかに彩る。慈悲深い歌声も、流香の深い哀しみを消すことはできない。
 優しく神々しい声を聞きながら、流香は声もたてずに涙を流していた。
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