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第十七話 狙われた葉月

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 病院の階段を一気に駆け上り、目的の階についた聖夜は、ちょうど病室から出てきた葉月の母親とでくわした。母親は申し訳なさそうな、それでいでほっとした顔を見せた。

「月島くん、来てくれたのね」
「はい。葉月の容態は? いったいなにがあったんですか?」
「夕べね、身体がだるいって言って、葉月、ろくに食事もとらないでベッドに入ったの。朝になっても起きてこないからようすを見にいったら、呼吸が浅くて……」
 そう言ってベッドに視線を送る。

「いくら揺すっても目を覚まさないのよ」
 母親は異変を感じ取り、救急車を呼んだと話してくれた。

 病室に入った聖夜は、ベッドに横たわる葉月を観察した。特に首のまわりを念入りにチェックすると、左の首のつけ根あたりに、虫に刺されたような小さな傷を見つけた。

 まちがいなく吸血鬼の牙の痕だ。

 葉月の顔色は蝋のように白く、唇は紫色になっていた。素人目でも極度の貧血状態だと解る。左腕には、点滴の痕なのだろう、絆創膏が貼られていた。
 美奈子、孝則、そして葉月。どうして聖夜の大切な友だちが集中して狙われるのだろう。自分が目的なら、なぜ直接来ない?

 それともこれは吸血鬼ドルーにとってただのゲームで、聖夜が苦しむのを見て、楽しんでいるのか。
 たったそれだけの理由で三人を狙ったのか?

 いや、大切な仲間だけではない。見知らぬ人たちも何人も犠牲になっている。目的がなんであれ、ドルーのしたことへの怒りに、聖夜は我知らず拳をにぎりしめた。爪が手のひらを刺し、痛みがさらなる怒りへと変わる。

「月島くん、そろそろ学校へ行かないと」
「いいんです。それよりお願いがあります。今日一日、ぼくに葉月のつきそいをさせてもらえませんか?」

「でも月島くんも忙しいでしょう。受験を目の前に控えているし。それにつきそいが必要なほど悪いわけじゃないのよ」
「お願いします。今日だけでも」

 理由を聞かれたらなんと答えようかと、聖夜は内心ひやひやしていた。が葉月の母親は説明を求めず、聖夜の申し出を受け入れた。命に関わる病状ではないと思っているからだろう。
 聖夜は、快く許してくれた葉月の母親に感謝した。


   *   *   *


 窓にあしらわれたステンドグラスが、射し込む冬の陽射しを受け入れる。そこを通った光は鮮やかな色に装飾され、教会の床や椅子に、さまざまな色となって落ちる。
 柔らかな冬の陽射しは、暖かな模様となり、ホールを美しく飾っていた。

 正面におかれたキリスト像は、月島を見下ろし、聖母マリア像は慈悲深い笑みを浮かべている。それらを見ているだけで、胸を支配する苦悩からほんのひととき解放される。
 神々しいものたちに囲まれ、月島は束の間の安らぎを感じていた。

 自分が勤め、子供が通う学校の校庭で、無惨な姿となった生徒が発見された。以来、月島の心は休まることがなかった。幸いにして犯人は聖夜ではなかったものの、事態は良い方向に進んでいるとはいえない。
 誕生日まであと三日、それまではなんとしても持ちこたえなくてはならない。そのことだけを考えて、今日まで生きてきた。

 扉が開き、初老の神父が入ってきた。懐かしい顔に、月島の緊張がほぐれる。神父は手のひらほどの十字架と小瓶に入った聖水を渡してくれた。
「お望みの品です。お持ちになってください」
 礼を言って受け取る月島に、神父は静かな口調で尋ねた。

「どうしても行かれるのですか」
「ええ。十七年前の決着をつけるために」
 月島は正面のキリスト像を見上げた。

 今の聖夜も、この像と同じように十字架を背負っている。そこから解放される日を、あの日以来ずっと待ち続けた。そしてその日は、目前に迫っている。
 解放されるも、背負い続けるも、あと三日にかかっていた。
 月島は神父に視線をもどし、口元に寂しげな笑みを浮かべた。

「父親として、あの子にしてやれる最後のことになるかもしれません。それだけにわたしは、できるだけのことをやっておきたいのです」
「そうですか。いや、行くな、などと言うつもりはありません。わたしに月島さんが選んだ道をどうこう言う権利などありませんよ。それより——」

 神父は一度言葉を切り、月島の目を見て、また口を開いた。
「無事のご帰還を祈っています」
「ありがとうございます」
 深々と頭を下げたあとで、月島は決意に満ちた顔を上げた。

 もう迷いも苦悩もない。大切な者を守るために、自分の信じる道を力強く進む。これこそが最良の方法だ。
 教会を出る月島の背後で、神父の声が響いた。
「聖なる夜に生まれた少年に、神のご加護があらんことを」

 教会は三日後のクリスマス・イヴに向けて、きれいに飾りつけが施されていた。隣接する幼稚園の園児が作ったのだろう、画用紙でできた素朴な味わいのオーナメントが、庭におかれた樅の木にも飾りつけられている。
 イルミネーションは消えていたが、日が沈むころには明りが灯され、ステンドグラスとはちがう華やかさを演出するだろう。

 十八年前のクリスマス・イヴの夜、これと同じような光景を、すぐそばにある産院の一室から見下ろしていた。
 その日聖夜はこの世に生をうけた。雪の降り積もる夜に生まれた子供は、母親の死という悲しみを乗り越えて、すくすくと育っていった。月島の危惧するようなことは、なにひとつ起きなかった。
「あと三日なんだ。せめてその日がすぎるまで、なにも起こらないでくれ」

 十八年の歳月を経て、ようやく訪れようとしているその日。聖夜にかけられた呪縛の解ける日が、ここにきて、遠い未来のように思えてならない。そのことを考えるたびに、月島の胸には不安のみが広がっていく。

 鐘がおごそかに鳴り響く。教会の庭に立ち、月島は軽く目を閉じた。神々しい鐘の音が、心をむしばむ暗雲をかき消す。
 胸に広がる温もりを抱き、月島はしばらく幸せだった日々の思い出に浸っていた。


   *   *   *
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