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第三十話 ヴァンパイアと人間たち

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 外に浮かんでいた人影が手を伸ばして、窓ガラスにふれた。窓が音もなく開くと、子猫が毛を逆立てて身構える。
 月光に照らされ幻想的な輝きを放っているのは流香だ。月島はそれを無言で見つめた。
 流香は漂うように部屋に入った。

 遠い昔に別れたときと同じ顔をした少女。だが瞳から放たれる視線は、邪眼そのものだ。かつての流香が持っていた優しい光はそこになく、どこまでも邪悪で攻撃的なまなざしだった。
「聖夜を殺させはしない。あの子はわたしたちのもの」
 流香の瞳が獣のように光る。口元には月光を照り返すぬれた牙があった。目の前にいる少女は、血に飢えた吸血鬼だ。

「あなたがいる限り、聖夜はこちらにこない。あの子を呼び寄せるためにも、あなたにも夜の世界にきてもらう」
「おれに、吸血鬼になれと?」
 ドルーは納得づくで聖夜を夜の世界に引き込もうとしている。まわりの人間からひきいれ、最後に罪を償うように、意志に関係なく選択させようとしている。

「どうしてそこまでして聖夜をほしがる? なぜ自由にさせないんだ」
「説明する必要はない」
 流香は月島の首筋をめがけて飛びかかってきた。素早く後退し、相手の爪をかわす。
 十七年前に別れたときと同じ姿の流香は、一度は愛し、ともに暮らした相手を牙にかけようとする。

「流香、おれがわからないのか?」
 声は耳に届かない。
 流香を傷つけたくない月島は、爪を避けることしかできない。何度も何度も繰り返される攻撃を、紙一重でかわす。だがいつまでも逃げまわってばかりはいられない。体力がつきてしまうのは、時間の問題だ。

 子猫が流香の顔をめがけて飛びかかった。動物の機敏な動きも、吸血鬼の俊敏さにはかなわない。
 子猫は壁にたたきつけられ、悲鳴を上げた。床に転がったまま流香を恨めしそうに睨むが、それ以上動けないでいる。

 血も涙もない悪魔だ。優しかった流香が小さな動物に対して冷酷な態度をとる。聖夜も覚醒し吸血鬼となったら、同じように人間の心をなくしてしまうのか。
 どうしたら、昔の優しい流香に戻るのだろう。悪魔を鎮め、もとの優しさをと思い出させる方法はないのか。
 たったひとつを除いて。

 月島は机の上におかれていたサバイバルナイフをつかんだ。刃が月光を反射し、流香の瞳をくらませる。一瞬の隙が生じた。
「流香っ」
 月島は満身の力をこめて、ナイフを刺した。


   *   *   *


 ここにきて二回目の夜を迎えた。
 昨日は霧のような雨が降っていたが、今日は綺麗な月がでていて、キャンドルが唯一の明かりである部屋に、青白い光を射し込んでくる。
 葉月は用意されたベッドに横たわり、窓越しに空をながめていた。

 どんな経緯があって自分がこの場所にいるのか、まったく記憶にない。入院していたことはたしかだが、実は理由も覚えていない。
 聖夜が見舞いにきてくれたような気がするが、それすらはっきりしない。

 今の記憶は、レンと名乗る人物が運転する車に乗っていたことからはじまる。見知らぬ男性と一緒にいるにもかかわらず、それを当然のように受け入れた。
 自分の中の警戒心はどこに消えてしまったのだろう。

「気がついたようですね。瞳に力が戻っている」
 助手席に座る葉月に、レンは穏やかな物腰で自己紹介をした。
「あたしどこに向かって……いえ、いいです。なんでもありません」

 なぜだろう。
 葉月は、自分の行こうとしている場所や車に乗せられている理由には一切興味が持てなかった。それらのことに考えがおよんだとたん、頭の中に霞がかかり思考が止まる。

 疑問を感じる心は麻痺し、あるがままを受け入れれば安全だということは理解できた。
 だれかに考えを指示されているような、奇妙な感じがする。にもかかわらず不快感はない。支配ではなく、庇護ひごされているという安心感があった。

 ふと左の首筋にむず痒いものを感じ、手でふれてみた。なにか小さな傷があるようだ。鏡を探していると、
「ダッシュボード横の小物入れにありますよ」
 とレンが教えてくれた。手に取り、痒いところを確認したら、虫に刺されたような小さな傷があった。いつできたものか、心当たりがない。

 車はほどなくして街はずれの洋館に着き、レンは葉月をこの部屋につれてきた。
 彼の所有する大きな洋館のゲストルームだ。テレビで見たことのあるホテルのスイートルームよりも広そうで、家具や調度品も豪華なものがおかれている。テレビやゲームのような娯楽品はなかったが、代わりに葉月が好んで読みそうな本がテーブルの上にたくさん積まれていた。

「時間になったらお食事はこちらからお持ちします。ほかに必要なものがあれば、そこの内線電話をお使いください」
 レンが指さした先に目を向けると、ベッドサイドのテーブルにシンプルな電話があった。

「ありがとうございます」
 これで外部と連絡がとれる。なにも告げずにでてきたから、両親は心配しているにちがいない。
 すぐに電話しなくては、と一瞬考えた。だが事情もろくに説明できない状態で、なにを話せばいいのだろう。あとの騒動を考えると、急に面倒になる。

 それよりも読書好きの葉月は、テーブルにあった本が気になってそわそわしていた。
 葉月がリラックスしているのを確認し、レンは出ていった。

 扉に鍵がかけられているわけでもなく、家の中を自由にまわろうと思えば可能だ。だがどうしてもそんな気になれず、一日ここで本を読みながらすごしていた。帰りたいという気持ちは一度もわいてこなかった。
 ふとした瞬間に思い出すのは、聖夜のことだ。今ごろは受験勉強の追いこみ中だろうか。明日は誕生日だが、一緒にすごす時間は取れそうにない。
 今年はプレゼントを渡すだけで我慢しよう。進学先が決まるまであと少しの辛抱だ。

 ひとたび聖夜を思い浮かべると、気持ちが彼に集中する。
 会いたい。会いたい。会いたい。今すぐに会いたい。たまらなく会いたい。
 聖夜の笑った顔、怒った顔、こまった顔、つらそうな顔。柔らかい唇、甘い声、熱い吐息、しなやかな指、逞しい腕。

 聖夜にふれたい。肌の温もりを感じていたい。自分のすべてを与え、彼のすべてがほしい。
 今まで体験したことのない過激な感情だった。自分の中のどこにそんなものが潜んでいたのか。わき上がる思いにとまどいながら二回めの夜を迎えた。

「葉月さん、今よろしいですか?」
 外からレンの声がした。どうぞ、と返事をし、ベッドから起き上がる。扉が開きレンが入ってきた。
「葉月さんにお客さまですよ」
「お客さま?」
「ええ。あなたがずっと会いたいと思っていた方ですよ」

 葉月はレンのうしろに立つ人物に目を向けた。
「聖夜。いつ来たの?」
 恋人の出現に葉月の胸が大きく脈打つ。激しい感情がわき上がり、葉月を支配する。それを気取られないように、なるべく平静な態度でレンに対応した。

「聖夜さんは具合がよくないようです。あちらで少し休ませていただけますか?」
 レンは葉月が先ほどまで横になっていたダブルベッドに視線を送った。
「ええ、もちろん」
 快諾すると、レンは聖夜をささえるようにして部屋に入った。足元がふらついて、歩くのもつらそうな聖夜は、ベッドに座ったとたん倒れるように横になった。

「大丈夫?」
 葉月は枕元に腰掛け、聖夜の額に手をあてる。たしかに少し熱い。風邪をひいたのかもしれない。

「レンさん、風邪薬かなにか——」
 と言いかけてふりかえったが、レンは部屋を出たあとだった。
 病人を押しつけて姿を消すような冷たい態度に少し失望する。もっと気のつく人だと思っていたが、そうではなかったようだ。

「しかたないか。ハンカチをぬらしてくるから、ちょっと待っててね」
 葉月は立ち上がろうとした。その瞬間、 聖夜に手首をつかまれた。
「どうしたの?」
 病人のわりには痛いくらいの力が込められている。

「行かなくていい。ここにいて……」
 聞き取れるかどうかの、かすれた小さな声だった。
「どこにも行かないよ。そこのバスルームでぬらしてくるだけ。すぐに戻るよ。だから放して」

 説得しながらも葉月は、聖夜の態度に違和感を覚えていた。
 いつもとどこかちがう。優しすぎてそれに傷つくような繊細な人。なのに今の聖夜からはそれが感じられない。目の前にいる人物は本当に、自分の知っている人なのか。不安が胸に広がる。

「だめだ」
 つかんだ腕を引っ張られ、葉月はあっというまにベッドの上に投げ出された。逃げるまもなく、聖夜に組み伏せられる。
「っと、やめてよ。なにするの?」
 冗談にしても質が悪い。なんとか抜け出そうとして身体をよじるが、両腕を押さえつけられ覆い被られては、逃げることもできない。

 聖夜のことを愛している。いつかこういう日がくることはわかっていたし、待ち望んでいた。ここにきてからずっと、聖夜のことを思うたびに、密かな期待と欲望が生まれていたのも事実だ。
 だがそれは今なのか。こんな形で実現してもいいのか。
「放してっ。でないと大声だ……」

 言葉はとぎれ、聖夜の唇に吸いこまれた。
 突然のキスは、甘く優しい。葉月の頭が痺れてくる。
 互いの唇をひとしきり味わったところで、聖夜の方から離れた。いつもと変わらない口づけに安心して、葉月の抵抗する気持ちは消滅した。

「どこにも行かないから、手を放して」
 聖夜は葉月の両腕を解放した。自由になった手で、聖夜の頬をなぞる。
「ずっとそばにいる。大好きだよ、聖夜」
 風もないのにキャンドルの炎が消え、部屋に残ったのは、窓から射し込む月光だけになった。

 聖夜の肩越しに青白い光を放つ月が見える。今夜のそれは、異様に大きい。見えない力に引き寄せられたようだ。
 今から始まることを思い、葉月はそっと目を閉じた。すべてを任せるときの訪れを感じ、素直な気持ちのままで受けいれる道を選ぶ。

 瞳を閉じた葉月は気づかなかった。
 ここにいる人物は聖夜であって、まったく別の存在であることに。自分の直感が正しかったことに。
 そして、聖夜の目が獣のように光ったことに。


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