【完結】黄昏の少年

須賀マサキ(まー)

文字の大きさ
33 / 47

第三十一話 時間の流れが止まるとき

しおりを挟む
 左の肩が熱い。痛みが全身の感覚を麻痺させる。肩から腕に、生暖かい液体が流れる。右手につかんだナイフは、刃が赤く染められていた。
「流香、血がほしいのだろう? なら、好きなだけ飲むといい。飢えを満たして正気を取り戻してくれ」
 月島は自分の肩にナイフを刺し、引き抜いていた。流れる血を見て、流香の動きが止まる。

「おいで」
 月島は右手のナイフを床に落とし、愛しい人に向けて優しく手を差し伸べる。ルビーの瞳をした吸血鬼の少女は、血の匂いに誘われるままにゆっくりと歩み寄った。そして月島の左肩から流れる生命のかてに口づけた。

 子猫はよろよろと立ち上がり、机の上に飛び乗った。壁に打ちつけられたが、打撲だけですんだようだ。安心しながら見守っていると、いかにも不安げな目でこちらを見上げる。心配するなという意味をこめて、月島は優しく笑ってみせた。

 肩に口づける少女の髪を軽くなで、そっと抱きしめる。流香の身体は冷たかった。冷え切った身体を温めようと、月島は流香を抱く両腕に力を込める。
 流香はむさぼるように飲み続けた。月島の流す血を一滴も逃さまいとするようだ。
 傷口を強く吸われ、痛みが走る。流れる血の多さに軽いめまいがしてきた。流香の飢えが満たされるのと、自分の身体がまいるのと、どちらが先だろう。
 ちょうどそのときだった。不意に流香の動きが止まった。

「え、あれ?」
 月島から身体を離し、流香は顔を上げた。
「もしかして、秀貴さん、なの?」
 自分のおかれている状況が解らないのか、とまどいながらあたりを見まわし、最後にもう一度月島を見上げた。
 赤く染まった口元に牙はなく、瞳には優しい光が戻っている。

「おれが、わかるのか」
 流香はゆっくりとうなずいた。困惑は消え、強い喜びの感情が浮かんだ。
「本当に、あなたなのね」

 流香は月島の胸に顔をうずめようとする。だが次の瞬間、その顔は恐怖に支配された。
「そんな、わたしは——」
 瞳が大きく見開かれ、口元をふるわせながらじっと月島を見つめる。
「どうしたんだい?」
「あなたの、秀貴さんの血で、わたしは飢えを満たしたの?」
「落ち着いて、流香」
「あなたを傷つけてしまった」
「ちがう。おれが勝手にしたことだ」
「あなたを闇に引き込んでしまう」
「流香」
「あなたを……」

 血で染まった月島の肩と床の血だまりが、流香に冷たい現実をつきつけた。
 自分の起こした罪とそれが呼びよせる次の悲劇に、流香は力なく泣き崩れる。傷口を押さえて止血しながら、月島は流香のそばにしゃがみ、視線をあわせた。

「心配しなくてもいいよ。流香はおれを傷つけていないから」
「でもわたしは、秀貴さんの血を飲んだの。あなたの命を削って飢えを満たしたのよ」
「だが、牙を立てたわけじゃない。流香はおれを傷つけてないから、きみたちに暗示をかけられる心配もない。なにも恐れなくていいんだよ」

 泣きじゃくる流香を包み込むようにふわりと抱き寄せて、月島は額にかかる髪を優しくかき上げた。
「どうしてそんな無茶をしたの?」
「おれは昔の流香に会いたかった。スレーブではない、本当のきみに」
 月島は思いを伝えるように、流香を強く抱きしめた。

「秀貴さんの手は温かいのね。わたし、ずっと覚えてた。あなたの温かい手も、肌も、そして優しい笑顔も。そして自分を犠牲にしてわたしを守ってくれる所まで。少しも変わってないのね」
「いや、おれはもうずいぶん変わってしまったよ。きみたちとちがって、ときの流れには逆らえない」

 別れたときと同じ姿の流香。だが月島は、あれから十七年のときを重ねている。
「外見なんて関係ない。あなたはいつだって温かく包んでくれる。あのころも、そして今も」
 流香は顔を上げて月島の目を覗き込んだ。黒い瞳に映った自分は、もう二十代の青年ではなかった。

 流香は目を閉じ、ゆっくりと顔を近づけ、優しく口づけてきた。
 冷たい唇だった。冷たい身体だった。月島はそれが悲しかった。温めてやりたかった。人の温もりを思い出させたかった。

 思いを込めて口づけを返す。激しいキスで流香の頬が紅潮し始める。やがて唇を離し、月島は流香のうなじをそっとなでた。ほんのりと赤みをさしてきた白い肌も、記憶の中にあるものと同じだ。
 あのころのように流香を愛したい。あのころのように愛されたい。二度と戻ることのない、幸せな時間だと思っていた。

 だが流香は今、自分の腕の中にいる。月の光が見せる幻ではない。
「愛してる。一日たりとも忘れたことはなかった」
「わたしもよ。あなたのことをいつも考えていた」

 流香の言葉が月島の思いに火を灯す。
「愛してる。今でもあなただけを」
 十七年の隔たりを埋めたい。長い孤独に疲れた心をいやしたい。背徳と罵られてもいい。今だけは忘れよう。夜がすべての罪を隠してくれる。
 子猫が机から飛び降り、椅子の下で身体を丸め、寝息を立て始めた。

   *   *   *

 ——聖夜があたしを必要なら、ずっとそばにいる。聖夜になにがあってもついていく。世界中が聖夜の敵になったとしても、あたしは信じるからね。

 いつか話してくれた葉月の言葉が、聖夜の耳の奥で響き、胸を強く揺さぶった。慈悲深い瞳と優しい囁きはいつしか媚薬に変わり、封印されていた魔性の心を呼び覚ます。
 それは聖夜の心を少しずつ支配し、理性という名の人間性をねじ伏せる。そこにいるのはずっと眠ったままのもうひとりの聖夜。人間の姿をした魔性の者。十八年のときをへて、今まさに目覚めようとしていた。

「葉月、愛してる。やっとこのときがきたね。きみはもう、ぼくのものだ」
 聖夜の口づけは激しく、葉月の快楽を確実に呼び起こす。ぬれた柔らかい唇を、あごから首筋に、ゆっくりとはわせる。丁寧に、そのくせじらすようにときどき離れながら、腕の中の少女の反応を冷静に見つめる。
「あ……いや。やめないで……お願い、せい、や……」
 葉月の言葉とともにもれる吐息は熱く、聖夜の魔性は解き放たれる。

 喉が渇く。焼けつくようだ。
 欲望を鎮めるため、渇きをいやすため。必要なものはひとつ。
 命の源、葉月の全身を流れる赤い血だ。
 奇妙な感触が聖夜の全身を走り抜けた。血が熱くたぎり、身体が別のなにかに変化する。瞳は月明かりを受けて輝き、犬歯が伸びて、鋭い牙となる。

 いやだ。逃げだしたい。こんなことしたくない。血なんかほしくない。堕ちていくのはいやだ。

 わずかに残った理性が最後の砦となり、魔性の目覚めをはばむ。聖夜の変化が止まり、元に戻りかけたとき。
「だめだよ、聖夜」
 葉月が目を開けた。聖夜を見て、口元に妖しい笑みを浮かべる。
 それはドルーと同じものだった。暗示にかけられた葉月が、聖夜を後戻りさせない。

 葉月は自分の唇を噛み切った。にじみ出る血を、紅を引くように指で唇に塗る。そのまま聖夜にキスをしてきた。
 愛する人の血の味が口の中に広がった。わずかな量の血が、聖夜の抵抗する気持を萎えさせる。

 頭の中でなにかが壊れる音がした。
 赤い血が、最後に残った理性を打ち砕いた。封印がとけ、もうひとりの聖夜が目を覚ます。
 喉の渇きが抑えられない。砂漠で水を求める旅人のように、聖夜は血を渇望した。
 目覚めたばかりの魔性は、渇きと空腹を覚えた。それを満たすものがなんであるかも知っていた。 

 聖夜は魔性に支配された。避けがたい誘惑に導かれる。もうだれにも抑えられない。魔性を鎮める方法がほかにないことを、聖夜は本能で知っていた。
 葉月の身体を流れる血の道が透けて見えた。迷うことはない。魔性にはすべてが解っている。それに身を任せればいい。
 聖夜の犬歯が伸びて鋭い牙に変わった。命の源を求め葉月の細い首筋にかぶりつく。

 葉月の歓喜の声が、耳元で響いた。


   *   *   *


 暖かい陽射しが聖夜をはねつける。柔らかい日の光が遠ざかる。身体を流れる血は、少しずつ温もりを失っていく。
 ヴァンパイアの血が聖夜を支配した。愛する者に牙を立てる魔性の者。愛するがゆえに、傷つけずにはいられない。魔物たちの支配する夜の世界が手招きをする。

 おまえはこちら側の住人だ。
 昼の世界にいてはならない。
 住むべき世界は、暗い闇の中。

 声に導かれて扉を開ける。足を踏み入れた瞬間から、昼の世界には戻れない。
 流れる季節に残される。ときの流れに乗ることのできない、忌むべき存在。それは死者と同じもの。

 世界が少しずつ変わる。指の隙間からさらさらとこぼれていく、昨日までの日常。ささやかな幸せ。
 そして輝ける未来。

 昨日までのぼくの世界。すべてがぼくを残していく。ときの流れがこの身をすり抜ける。そしてぼくは……血を求めて闇の中を彷徨い歩く、夜の住人。

 ときがとまる。
 永遠に。
 永遠に——。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

罰ゲームから始まった、五人のヒロインと僕の隣の物語

ノン・タロー
恋愛
高校2年の夏……友達同士で行った小テストの点を競う勝負に負けた僕、御堂 彼方(みどう かなた)は、罰ゲームとしてクラスで人気のある女子・風原 亜希(かざはら あき)に告白する。 だが亜希は、彼方が特に好みでもなく、それをあっさりと振る。 それで終わるはずだった――なのに。 ひょんな事情で、彼方は亜希と共に"同居”することに。 さらに新しく出来た、甘えん坊な義妹・由奈(ゆな)。 そして教室では静かに恋を仕掛けてくる寡黙なクラス委員長の柊 澪(ひいらぎ みお)、特に接点の無かった早乙女 瀬玲奈(さおとめ せれな)、おまけに生徒会長の如月(きさらぎ)先輩まで現れて、彼方の周囲は急速に騒がしくなっていく。 由奈は「お兄ちゃん!」と懐き、澪は「一緒に帰らない……?」と静かに距離を詰める。 一方の瀬玲奈は友達感覚で、如月先輩は不器用ながらも接してくる。 そんな中、亜希は「別に好きじゃないし」と言いながら、彼方が誰かと仲良くするたびに心がざわついていく。 罰ゲームから始まった関係は、日常の中で少しずつ形を変えていく。 ツンデレな同居人、甘えたがりな義妹、寡黙な同クラ女子、恋愛に不器用な生徒会長、ギャル気質な同クラ女子……。 そして、無自覚に優しい彼方が、彼女たちの心を少しずつほどいていく。 これは、恋と居場所と感情の距離をめぐる、ちょっと不器用で、でも確かな青春の物語。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

皆さんは呪われました

禰津エソラ
ホラー
あなたは呪いたい相手はいますか? お勧めの呪いがありますよ。 効果は絶大です。 ぜひ、試してみてください…… その呪いの因果は果てしなく絡みつく。呪いは誰のものになるのか。 最後に残るのは誰だ……

番に見つからない街で、子供を育てている

はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。 異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。 現世の記憶は失われているが、 この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。 街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、 ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。 だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。 再会は望まない。 今はただ、この子との生活を守りたい。 これは、番から逃げたオメガが、 選び直すまでの物語。 *本編完結しました

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

処理中です...