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第二部 キミに会えないクリスマス・イヴ
第五話 そうじゃないのに
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沙樹をもらうだって? 彼女は人形ではない。意志を持つひとりの人間だ。本人の気持ちを無視してやり取りできるものではない。
「――どうするつもりですか?」
トミーの考えを推測でないワタルは、これだけ問いかけるので精一杯だった。
『明日の特番が終わったら、おれは沙樹を連れて実家に帰るってことさ』
すかさず「断ったでしょ」と否定する沙樹の声が、背後から辛うじて聞こえた。ではこれは、トミーが勝手に企てたことか。それとも断ったというのは、自分との約束のことか? うたた寝している間に沙樹から「今日のデート、行けなくなったの」という内容の連絡が入ったのかもしれない。
「それについては……沙樹は同意しているんですか?」
『答える義務はないね。ただおれは、沙樹があんたのような不倫相手に遊ばれてるのが見てられないんだよ』
不倫だって?
おうむ返ししそうになったワタルは、辛うじてその言葉を飲み込む。
思いもしない単語が出てきて、ワタルは思考が停止した。いくらまわりに打ち明けられないとはいえ、不倫はないだろう。第一沙樹がそんな嘘をつくはずがない。
となるとすべてはトミーの思い込みか?
いずれにしても解らないことが多すぎる。トミーにあわせつつ、ワタルは自分の正体を知られないように受け答えするので必死だ。少ない情報から状況を正確に把握しようとしている間も、トミーは沙樹を連れて行くと繰り返す。そして話の流れで突然ワタルに条件を出してきた。
『明日の夜九時半に局のロビーまで来い。不倫じゃなくて本気だっていうなら、仕事くらいなんとか調整できるだろう』
ラジオのクリスマス特番が終わり、沙樹たちが局を出るころの時刻だ。その時刻はアンコールの真っ最中なので、ワタルがかけつけるのは無理だ。いくらなんでもライブをすっぽかして行けるはずがない。
不可能な要求をされたワタルは、この危機をどうやって回避すればいいのだろう。沙樹がなんとかできればいいのだが、自信たっぷりのトミーの言葉を聞いているとそれも期待できない。
そのあとどのような会話を交わしたのか、自分でもよく覚えていない。最後に「解りました」とトミーの挑戦を受けたことだけは覚えている。沙樹とは直接話をしないまま、電話を切った。
ワタルは混乱した状態で、スマートフォンのメールやメッセージアプリをすべて確認した。沙樹からの連絡は一切届いていない。
少なくとも「断ったでしょ」と叫んだ声は、自分に向けたものでないことは確認できた。
安堵のため息をつきながらスマートフォンをテーブルに置いたとき、同じタイミングでアラームが鳴りピザの焼き上がりを知らせてくれた。オーブンから取り出し、ダイエットコーラと一緒にテーブルに置く。ワタルは体を投げ出すようにソファーに座った。
あまり食欲はなかったが、それでも無理に食べ物を口にする。血糖値が上がったことで、落ちついて考えるだけの余裕が生まれた。
トミーが沙樹を連れて実家に帰る――つまり、彼の両親に紹介するということか。
「じゃあトミーさんは沙樹にプロポーズしたのか? もしかしてル・ボン・マリアージュに行ったときに……」
ワタルが会話の内容を聞き出そうとしたとき、沙樹にはぐらかされたことを思い出した。
沙樹の中でトミーの占める部分が大きくなっているのは、幾度となく目の当たりにしている。一方でワタルは、事務所の方針に従って、恋人の存在をひたすら隠してきた。自分の意図するものではなかったものの、沙樹をないがしろにしてきたことは事実だ。
それがこんな結果を招いた。いつまでも待ってくれると信じていたのは、ワタルの勝手な思い込みであり願望にすぎなかった。
「とにかく沙樹に連絡して、何がどうなっているのかを確認しなくては」
真相に迫るのは勇気のいることだ。が、何事もなかったように無視を続けるのもよくない。一刻も早く電話をかけて真意を知りたい。でも今電話したらまたトミーが出て、沙樹と話せない可能性がある。
ふたりが一緒に部屋で過ごしているシーンがワタルの脳裏に浮かんだ。一方で沙樹からも連絡が入る様子がない。もしかして、トミーと水入らずの時間を過ごしているのか?
人目を避けてつきあうことに疲れた沙樹が、そばにある穏やかな愛を選んだとしても、ワタルにそれを責める資格はない。
ふたりの仲睦まじい姿がまぶたの裏に浮かぶ。ワタルはそれをふり切りながらスマートフォンに沙樹の番号を表示させ、発信させては途中で止めることを繰り返した。これが最後の会話になるかもしれないと思うと、どうしても電話をかけられない。
それでも何度か繰り返すうちに、度胸が据わったのか、感覚が鈍ったのか、どうにでもなれという気持ちに変化した。
番号を最後まで発信し、呼吸を整えながら沙樹が出ることを祈る。
一度のコールで電話が繋がった。沙樹の声だ。たったそれだけのことに、ワタルはひどく安堵した。それなのに素直になれなくて、焦る気持ちを悟られないように平常を装って話を始める。
まさかこんなときに、バンドリーダーの自分が顔を出すとは思いもしなかった。
「すごい話になってるね。全然知らなかったよ」
自分でも驚くくらい落ち着いた口調になる。
『友也が勝手に言ってるだけだから、気にしないで』
沙樹が本心から言っているのか、混乱しているワタルには判断がつかない。焦りや戸惑いを悟られないように、淡々と会話を続ける。
『友也の言うことなんて気にしないで、アンコールまできっちりこなしてね』
本当にいいのか? ワタルをコンサート会場に釘付けにして、その隙に沙樹はトミーについて行くつもりではないか?
そうでなくてもワタルには、彼らの距離感を表すあることに引っかかっていた。
「ずっと気になっていたんだ。沙樹はトミーさんのことをいつも『友也』って呼び捨てにしてるね。おれはいつまでたっても『ワタルさん』なのに」
恋人を「さん」づけで呼ぶのに、トミーのことは親しげに呼び捨てにする。バンド仲間に話したら、まるで子供の嫉妬心だと一笑にされた。
だがそれは自分との間よりも親密な距離の現れかもしれない。自分の彼女が他の男性にそこまで気を許しているのに、冷静でいられようか。
『友也もあたしのこと沙樹って呼び捨てにしてるよ』
「おれもずっとそうだよ」
『え? あ、ほんとだ』
予想通り、沙樹はそのことに気づいていなかった。
「それに最近の沙樹はいつもトミーさんのことばかり話しているよ。気づいてなかった?」
『だって今、一緒の仕事が多いし。それだけだって』
「週に一度三時間番組を担当してるだけだろ。一緒にいる時間なら、和泉さんのたちの方が遥かに長い。でも彼らのことは滅多に話さない。つまり沙樹の中で、トミーさんの占める部分が増えてきてるってことじゃないか?」
『まさか。そんなわけないでしょ』
「いや、無意識のうちにトミーさんのことを考えてるよ。沙樹が気づいてないだけで」
(おれは何を言っているんだ? こんなことでは沙樹がますます離れていくのに)
――明日、ライブが終わったら迎えに行くよ。
トミーの指定する時刻には間に合わなくとも、必ず行く。たったそれだけの言葉がのどの奥に引っかかったまま出てこない。
『友也のことなんてどうでもいいじゃない。そんなことより明日は会えるよね? ライブが終わったあと』
震える声が耳に届く。
沙樹を信じているはずなのに、素直になれない。
解ったよ、と答えるだけでいいのに、本心とは違う冷たい言葉を吐いてしまう。
「いや……無理して待たなくてもいいよ」
違う。そうじゃない。そんなことは爪の先ほども思っていない。
「トミーさんについて行きたければ行くといい」
違う、違う。行くんじゃない。おれのもとに残ってくれ。
だが――これ以上、沙樹に影の存在でいさせていいのか? 不倫と疑われるような無理をさせていいのか?
そんな立場に疲れているのなら、無理して引き止められない。自分以外の人と一緒になる方が、沙樹が幸せになれるのなら――。
だから大切な一言がどうしても言えない。
――行かないでくれ。
このまま会話を続けていたら、勢いに任せて決定的な破局の言葉を口にしそうだ。そうなる前にワタルは電話を切った。そしてスマートフォンの電源をオフにした。
――早くから予約してても、当日までに別れるカップルが必ずいるんだとさ。
いつかの哲哉の言葉が耳の奥に甦る。あのとき自分たちもその一組になりはしないかと、漠然と感じていた。それが現実味を帯びてきた。
嫉妬しているのを認めたくない自分。気持ちに素直になれない自分。大切な一言が言えない自分。
解らない。どうすれば沙樹のためになるのか、何が自分の本心なのか。
長すぎる春に打つはずの終止符は、こんな形ではなかったはずだ。どこで何を間違えたのだろう?
すべてが闇に覆われ、何も見えない。情けないほどに何もできない。
――おれはこんなにもふがいない男だったのか。今夜ほど自分が嫌になったことはない。
ワタルはこぶしを握り、壁に打ち付けた。
「――どうするつもりですか?」
トミーの考えを推測でないワタルは、これだけ問いかけるので精一杯だった。
『明日の特番が終わったら、おれは沙樹を連れて実家に帰るってことさ』
すかさず「断ったでしょ」と否定する沙樹の声が、背後から辛うじて聞こえた。ではこれは、トミーが勝手に企てたことか。それとも断ったというのは、自分との約束のことか? うたた寝している間に沙樹から「今日のデート、行けなくなったの」という内容の連絡が入ったのかもしれない。
「それについては……沙樹は同意しているんですか?」
『答える義務はないね。ただおれは、沙樹があんたのような不倫相手に遊ばれてるのが見てられないんだよ』
不倫だって?
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思いもしない単語が出てきて、ワタルは思考が停止した。いくらまわりに打ち明けられないとはいえ、不倫はないだろう。第一沙樹がそんな嘘をつくはずがない。
となるとすべてはトミーの思い込みか?
いずれにしても解らないことが多すぎる。トミーにあわせつつ、ワタルは自分の正体を知られないように受け答えするので必死だ。少ない情報から状況を正確に把握しようとしている間も、トミーは沙樹を連れて行くと繰り返す。そして話の流れで突然ワタルに条件を出してきた。
『明日の夜九時半に局のロビーまで来い。不倫じゃなくて本気だっていうなら、仕事くらいなんとか調整できるだろう』
ラジオのクリスマス特番が終わり、沙樹たちが局を出るころの時刻だ。その時刻はアンコールの真っ最中なので、ワタルがかけつけるのは無理だ。いくらなんでもライブをすっぽかして行けるはずがない。
不可能な要求をされたワタルは、この危機をどうやって回避すればいいのだろう。沙樹がなんとかできればいいのだが、自信たっぷりのトミーの言葉を聞いているとそれも期待できない。
そのあとどのような会話を交わしたのか、自分でもよく覚えていない。最後に「解りました」とトミーの挑戦を受けたことだけは覚えている。沙樹とは直接話をしないまま、電話を切った。
ワタルは混乱した状態で、スマートフォンのメールやメッセージアプリをすべて確認した。沙樹からの連絡は一切届いていない。
少なくとも「断ったでしょ」と叫んだ声は、自分に向けたものでないことは確認できた。
安堵のため息をつきながらスマートフォンをテーブルに置いたとき、同じタイミングでアラームが鳴りピザの焼き上がりを知らせてくれた。オーブンから取り出し、ダイエットコーラと一緒にテーブルに置く。ワタルは体を投げ出すようにソファーに座った。
あまり食欲はなかったが、それでも無理に食べ物を口にする。血糖値が上がったことで、落ちついて考えるだけの余裕が生まれた。
トミーが沙樹を連れて実家に帰る――つまり、彼の両親に紹介するということか。
「じゃあトミーさんは沙樹にプロポーズしたのか? もしかしてル・ボン・マリアージュに行ったときに……」
ワタルが会話の内容を聞き出そうとしたとき、沙樹にはぐらかされたことを思い出した。
沙樹の中でトミーの占める部分が大きくなっているのは、幾度となく目の当たりにしている。一方でワタルは、事務所の方針に従って、恋人の存在をひたすら隠してきた。自分の意図するものではなかったものの、沙樹をないがしろにしてきたことは事実だ。
それがこんな結果を招いた。いつまでも待ってくれると信じていたのは、ワタルの勝手な思い込みであり願望にすぎなかった。
「とにかく沙樹に連絡して、何がどうなっているのかを確認しなくては」
真相に迫るのは勇気のいることだ。が、何事もなかったように無視を続けるのもよくない。一刻も早く電話をかけて真意を知りたい。でも今電話したらまたトミーが出て、沙樹と話せない可能性がある。
ふたりが一緒に部屋で過ごしているシーンがワタルの脳裏に浮かんだ。一方で沙樹からも連絡が入る様子がない。もしかして、トミーと水入らずの時間を過ごしているのか?
人目を避けてつきあうことに疲れた沙樹が、そばにある穏やかな愛を選んだとしても、ワタルにそれを責める資格はない。
ふたりの仲睦まじい姿がまぶたの裏に浮かぶ。ワタルはそれをふり切りながらスマートフォンに沙樹の番号を表示させ、発信させては途中で止めることを繰り返した。これが最後の会話になるかもしれないと思うと、どうしても電話をかけられない。
それでも何度か繰り返すうちに、度胸が据わったのか、感覚が鈍ったのか、どうにでもなれという気持ちに変化した。
番号を最後まで発信し、呼吸を整えながら沙樹が出ることを祈る。
一度のコールで電話が繋がった。沙樹の声だ。たったそれだけのことに、ワタルはひどく安堵した。それなのに素直になれなくて、焦る気持ちを悟られないように平常を装って話を始める。
まさかこんなときに、バンドリーダーの自分が顔を出すとは思いもしなかった。
「すごい話になってるね。全然知らなかったよ」
自分でも驚くくらい落ち着いた口調になる。
『友也が勝手に言ってるだけだから、気にしないで』
沙樹が本心から言っているのか、混乱しているワタルには判断がつかない。焦りや戸惑いを悟られないように、淡々と会話を続ける。
『友也の言うことなんて気にしないで、アンコールまできっちりこなしてね』
本当にいいのか? ワタルをコンサート会場に釘付けにして、その隙に沙樹はトミーについて行くつもりではないか?
そうでなくてもワタルには、彼らの距離感を表すあることに引っかかっていた。
「ずっと気になっていたんだ。沙樹はトミーさんのことをいつも『友也』って呼び捨てにしてるね。おれはいつまでたっても『ワタルさん』なのに」
恋人を「さん」づけで呼ぶのに、トミーのことは親しげに呼び捨てにする。バンド仲間に話したら、まるで子供の嫉妬心だと一笑にされた。
だがそれは自分との間よりも親密な距離の現れかもしれない。自分の彼女が他の男性にそこまで気を許しているのに、冷静でいられようか。
『友也もあたしのこと沙樹って呼び捨てにしてるよ』
「おれもずっとそうだよ」
『え? あ、ほんとだ』
予想通り、沙樹はそのことに気づいていなかった。
「それに最近の沙樹はいつもトミーさんのことばかり話しているよ。気づいてなかった?」
『だって今、一緒の仕事が多いし。それだけだって』
「週に一度三時間番組を担当してるだけだろ。一緒にいる時間なら、和泉さんのたちの方が遥かに長い。でも彼らのことは滅多に話さない。つまり沙樹の中で、トミーさんの占める部分が増えてきてるってことじゃないか?」
『まさか。そんなわけないでしょ』
「いや、無意識のうちにトミーさんのことを考えてるよ。沙樹が気づいてないだけで」
(おれは何を言っているんだ? こんなことでは沙樹がますます離れていくのに)
――明日、ライブが終わったら迎えに行くよ。
トミーの指定する時刻には間に合わなくとも、必ず行く。たったそれだけの言葉がのどの奥に引っかかったまま出てこない。
『友也のことなんてどうでもいいじゃない。そんなことより明日は会えるよね? ライブが終わったあと』
震える声が耳に届く。
沙樹を信じているはずなのに、素直になれない。
解ったよ、と答えるだけでいいのに、本心とは違う冷たい言葉を吐いてしまう。
「いや……無理して待たなくてもいいよ」
違う。そうじゃない。そんなことは爪の先ほども思っていない。
「トミーさんについて行きたければ行くといい」
違う、違う。行くんじゃない。おれのもとに残ってくれ。
だが――これ以上、沙樹に影の存在でいさせていいのか? 不倫と疑われるような無理をさせていいのか?
そんな立場に疲れているのなら、無理して引き止められない。自分以外の人と一緒になる方が、沙樹が幸せになれるのなら――。
だから大切な一言がどうしても言えない。
――行かないでくれ。
このまま会話を続けていたら、勢いに任せて決定的な破局の言葉を口にしそうだ。そうなる前にワタルは電話を切った。そしてスマートフォンの電源をオフにした。
――早くから予約してても、当日までに別れるカップルが必ずいるんだとさ。
いつかの哲哉の言葉が耳の奥に甦る。あのとき自分たちもその一組になりはしないかと、漠然と感じていた。それが現実味を帯びてきた。
嫉妬しているのを認めたくない自分。気持ちに素直になれない自分。大切な一言が言えない自分。
解らない。どうすれば沙樹のためになるのか、何が自分の本心なのか。
長すぎる春に打つはずの終止符は、こんな形ではなかったはずだ。どこで何を間違えたのだろう?
すべてが闇に覆われ、何も見えない。情けないほどに何もできない。
――おれはこんなにもふがいない男だったのか。今夜ほど自分が嫌になったことはない。
ワタルはこぶしを握り、壁に打ち付けた。
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