忠犬と痴犬

いっき

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私……1

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 侵入は、やはり容易だった。この家の居住者は私のような侵入者の存在に考えを及ぼした事がないようで、私の、まだ拙い技術でも簡単に窓を開ける事ができた。

 今日の獲物をこの一軒家から得る事を決めてから、得意の身のこなしで軽々と塀を乗り越え実際に屋内に侵入するまでの一連の行動を振り返ってみて、その手際の良さに自分の事ながら感心した。やはり向いているのだろう。

 あの場所をみずからの意思で抜けだした時は、いくら長年考えていたといっても、やはり最初の内は恐かった。明日の保障もない毎日は、自由と引き換えに手にしていた日常とはまったく比べ物にならず、正直に白状すれば、後悔する思いがあったのだ。

 室内の所々には、当人の意思とは関係なしに、人に倦怠を連想させてしまうあの老人臭が溜まっているのがわかる。それと呼応するかのように、用途の判明しない無意味なチラシの束が雑然とした印象で、それでいて見事な秩序を持って廊下の隅に積み上げられている。その横を通り抜ける時、私の丁寧な抜き足によってでもわずかに起こってしまった微風が表面の数枚を舞わせた。もしこの廊下のド真ん中に舞い落とされたものに居住者が気付くことなく、運命的な入射角と摩擦係数によって盛大に足を滑らしたなら、ということにふと考えが及んだ。もんどり打って怪我でもしたら危険だ。こういった種類の良心はいまだに身についている。しかしだからといって、それをわざわざ元の場所に戻そうなどとはしない。悪い未来を優先して不安視してしまうのもおそらく長年の癖であろうということが私にはよくわかっていたので、かつての自分に唾をかける意味もあり、それはそのままにしておくことにした。が、その偶然舞い落ちた中の一枚の紙面が気になった。

 文字は、よく理解できない。

 何が書いてあるのかは私でもさっぱりだ。

 もしここに書かれている内容を、実際に人の声で聞かされたなら、その声の調子や強弱、抑揚の付け方である程度理解を示す事は可能である。しかしこの無味無臭の文面ではそういった事もできそうにない。唯一の手掛かりは、一枚のカラー写真である。周りを文字に囲ませて身動きの取れない写真の中には、素晴らしい発色の青と、その青を透かして見える海底のサンゴ類。大変美しい一枚なのは見ればわかる。囲んでいる文字の列も、この写真が表している状況について言及しているのだろうこともわかる。ただし、それが必ずしもこの美しさを称えているとは限らない。おそらくはこの美しく見える海によくない出来事が起こっているに違いない。謎の疫病か、宅地開発の波か……例えばこのサンゴ。サンゴというものはとにかく生長の遅さが有名で、一度破壊さ……

――私の悪い癖である。

 わざわざ大きく頭を振って、美しい海を強引に頭の中から追い出した。思索は美徳であるが、それは事を終えてからゆっくり取り組めばいい。いまはそんなことよりも大事なことがある。それが上手くいかなければ、帰ってゆっくり長考するどころではなくなるのだ。
私は雑念を頭の外へと追いやり、目の前の仕事に集中した。

 この一軒家は二階建てのようだが、私が物色するのは一階のみでじゅうぶんだろう。二階に獲物があることは少ない。

 物音がした。

 はっと私は反射的に身を固まらせる。その音が気のせいでないことがわかると、強い防衛反応を続ける体の緊張を、少ない間ながらもこの生活の中で身に付けた知恵と、それに伴う判断力によって解きほぐし、身を隠すため全身を翻らせた。

 姿は見えないが、私が侵入した経路から誰かが入って来たようだ。玄関から入って来たわけではないので、家主ではないだろう。半目だけを物陰から出して窺う。
その人物の振る舞いは、常識的な振舞いとはかけ離れていた。侵入者にとっての常識とは、忍びやかに事を素早く済ます事に尽きる。

 先に窓が開いていたことなど気にもならないようで、むしろ溢れてくる興奮を抑えようとしているのか、その爛々とした目はおもちゃ屋に連れてきてもらった子供の姿を思わせる。その警戒心の無さは私を道連れにしかねないが、だからといってどうすることもできない。私はただ、その様子を陰から見ているしかなかった。

 困惑する私の心中の動揺など経験したことがないのではないだろうか。盲目的な侵入者は、それが贅沢な悩み事だということを誰に言われるより先に自覚して、さらに悩ましげにあれもこれもと物色を繰り返している。洗練さはこれっぽっちもない。不様ぶざまと言うのはまさにこのことだろう。

 その姿を見て、私があの場所に縛られていた頃を思い出すのは、やはり苛立たしい感情と結びついているからなのか。記憶を辿る中で何度も侮蔑の烙印を押してきたが、まだ足りないようで、息を殺して身を隠している間、今回もまた飽きもせず、私は同じ事を繰り返していた。
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