忠犬と痴犬

いっき

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西口さん……1

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 西口さん、通称タロのおばちゃんの住む家は、通る車といえばせいぜい宅配便のトラックぐらいの静かな住宅街にあった。同じような景観の、つまり地中深くまで根を伸ばしていそうなどっしりとした構えの一軒家が並んでいる内の一つだった。華やかとは言えない植木が雑然と並べられていても特に不潔さを感じないのは、西口さんがこの年代に広く共通して見られる、日常の雑事を丁寧にこなすある種の諦観にも似た性格のおかげであろう。西口さんはもうお婆さんと称される年齢だった。

 彼女が自分の家の前に、人によっては不安感を催すほどの笑顔を見せるウシとブタのイラストが描かれたトラックが停まっているのに気付いたのは、結局十数年変わることのなかった定番のルートを通るタロの散歩から帰って来た時だった。いつもなら、あの毎日食品を届けてくれるトラックが来る前に散歩から帰っているはずなのだが、今日は特にタロの歩みが遅く、そのおかげで時間が多くかかってしまったのであろう、と最近この付近の担当となったドライバーの青年はそのように考えていた。

 青年は西口さんの姿を通りの向こうに認めてから、除々に近付いてくる彼女にいつ声をだして挨拶したものかとタイミングを窺っていた。早過ぎても押しつけがましくなる。遅いと、不快感を表しているようにも見えかねない。

 西口さんの隣か少し後ろ辺りをひょこひょこと歩くタロはそんな青年の焦燥など気にもしないで、相変わらず懸命に地面の一点のみをひたすら見つめて歩を進めている。

 くたびれた印象を受けるのは、雑種だからではない。大人になってもそれほど大きくは成長せず、白い体毛はそれだけで一つの固定種と言われるほど時には羨まれることもあった。その艶が無くなって見えるのは、ただ単に老いの影響である。

 タロも今では西口さんの年齢に追いついていた。かつて子犬だった頃は、やはり世の例に漏れず頗る愛らしく、界隈の子供たちの人気者で、登校前に一旦集合するための目印の役割を果たし、みずからを中心とした嬌声をこの近所に響かせていた。その頃の西口さんの呼び名がタロのおばちゃんである。だから今でも彼女の事をそのように言うのは当時の子供達ぐらいである。ただし、最近では西口さんが直接その呼び名を聞く事はなくなっていた。同年配の数少ない顔見知りが単に「西口さん」と呼ぶだけである。

「どうしたんだいずっと見てさ。はやく来いってか」
 青年がさあ言おうと口を開きかけたが、西口さんの意外に良く通る声の方が先だった。
「いえ、とんでもないです」
 ここ数カ月で、西口さんを相手としたやり取りに慣れてきていたつもりで、上手くかわしてれば問題ないですよ、なんて上司に軽んじて見せていた彼であったが、早速上手くいっていないようだった。
「今着いたばかりですし……いえ、ぼくが少し早くに着いてしまったんです」
 相手の冗談に対して真面目に答えていてはいけない。正解は「こんにちは」というシンプルな一言を一際元気に言う事だったと、彼は後になって思った。
「いいよ、ただの冗談だから。えーっと……」
「木田村です」
「そう、木田村なにがしさん。若いんだから頭の回転は早いはずだよ。まったく、」

 ふんっ、と鼻を鳴らしたのはタロだった。
 タロはうろたえる木田村君をちらと見ただけで、あとはまた地面の一点を見つめる作業に戻った。西口さんの手作りらしい犬用の服が、チューリップと蝶々の柄という明るい印象のせいで、正反対の印象を見せるタロの沈痛な様子がさらに際立って感じられる。

「まあ、いいよ。今開けるからもう準備しといてくれて構わないよ。それより今度から門の中に放り投げといてもらおうかね、アメリカンの新聞配達みたいにさ。それだったらあんたも……木田村某さんも待たなくて済む。妙案じゃないかね」

 答えに窮した木田村君は、冷蔵車の固く分厚い扉を開ける動作を派手にすることによって、それには聞こえないふりをした。中にはまだ半分以上の荷物が残っている。

 時間的な余裕は無かった。
 本来ならもう五件先を周っているはずなのだ。

 五件の遅れというのは、こういった狭いエリアを周る短距離ドライバーにとって簡単に構えていられるものではない。そもそも順序良く周っても、なぜなのか時間が余る事が無いのだ。だから今日の木田村君はこの後、トラックを飛ばして必死に間に合わせるか、もしくは諦めて、世間的には許させるだろうが、上司は決して許してくれない二十分程の遅れを甘んじて受けるかを、西口さんが家の中から戻ってくる間に考えていた。

「なあタロ、どうしたらいい?」
 声を掛けられたタロはふらと顔を向けた。
「お前にもこの責任はあるんだぜ?」
しかし木田村君が抱えている食料品の入った袋に少しの間だけ鼻を近づけただけで反応を示し、いつもの場所に戻った。そこだけ雑草が生えていないひんやりとした土を感じられる場所。
「もうちょっとだけ待っておいてくんな」

 開けっぱなしの玄関の奥、昼間の明るさのせいでほとんど真っ暗闇に見える空間から西口さんの声が響いた。

「財布はどこ置いたっけか、あんた知らないかい?」
「ぼくが知ってたらおかしいじゃないですか」
 木田村君は少しドキドキしながら言った。
「もし知ってたら、あなたが帰ってくる前にきっちり取りっぱぐれなくそこから抜き取ってますよ」
「……そうさね、あんたが良心的な明朗会計をしてくれていることを願うよ」
「それなら心配には及びません、大丈夫ですよ。ぼくはたった百五十%のチップしか余分に取らない主義ですからね」

 満足そうな西口さんの笑い声が聞こえて、木田村君も安心した。木田村君はその時点で、あとで上司に怒られる事を決めたようで、タロを撫でなでしゃがみこんだ。

 木田村君にはその時のタロの様子が何か思いつめているように見えた。
 何度も立ち上がっては座り、寝転んだかと思えばまた歩きまわる。何が気に食わないのか、結局その雑草の生えていない心地良い場所の事は後で考える事にしたらしい。また木田村君の抱える袋に近付いて興味深そうに鼻をくんくん鳴らしている。

「よーしよし。あとでいっぱい食べさせてもらえよ。あ、ダメか。タロは何才だっけ、いっぱいは良くないのかな……じゃあ適量だ、あとで適量食べさせてもらえよ」

 木田村君にはタロの正確な年齢はわからなかったが、タロの様子を見れば誰でも、溌剌と駆けまわる時期をとうに過ぎてしまっている事は簡単にわかる。今度西口さんに老犬用のドッグフードを勧めてみてもいいかもしれない、とこの頃にはいっぱしの社会人風の幼い思考回路を身に付け始めていた。

 その時西口さんが玄関口に戻って来た。いつもの様子ではない。じっと木田村君を見つめ、なかば懇願するように言った。

「ないよ……財布がないんだよ……あんた知らないよね、わたしがどこに置いたのか……」

 今度のは冗談ではないということを、彼女のただならぬ様子から理解した。そしてこの場面にふさわしい言葉を言った。「もう一度よく探して見ましょう、西口さん」
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