忠犬と痴犬

いっき

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西口さん……2

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おばあちゃんへ

 お元気ですか。こっちは相変わらず暑いです。季節によって波があると言っても、暑い日と、めちゃくちゃ暑い日を交互に移り変わるだけなので、この国はやっぱり年がら年じゅう暑いです。こんにちは。孫のケイスケです。

 おばあちゃんが心配するほど、この国は犯罪に溢れてばかりいるわけではありません。比較的平和なニュースが新聞に載る日ってのもあります。その証拠にその日の新聞を同封しました。気が向いたら読んでみて下さい。ぼくらのような駐在員の家族が集まって暮している地域というのは、それはもう安全で、どちらかというと離れて暮らす日本の、おばあちゃんのような身内の人間に見せつけたくなるような安全っぷりなのです。市の中心部からは少し離れていますが、専用の区域が作られていて、そこに入るためにはいかついゲートを通らなければなりません。その上区域内の監視カメラの数もすごいものです。挙げ出すとキリがありませんが、とにかく犯罪者に割に合わないと感じさせる工夫が随所に巡らされています。だからおばあちゃんがそんなに心配する必要はないのです。

 ここで一つ、この国のことわざを紹介します。

「老人の顔は、経験豊かな脳の顔」というものです。

 脳のしわってありますよね。そのしわが顔に反映されるって事を言っているそうです。多く生きた分、その知恵が脳のしわとなっているってわけです。おばあちゃんのしわはどんな具合ですか。ちゃんとしわが多い顔ですか。こないだ見た写真ではおばあちゃんは結構ちゃんとした老化の一途をたどっているようで安心しました。父さんから時々おばあちゃんの話を聞く事があって、昔から寡黙な人だったと聞いていたので、笑い皺があるのを見て安心しました。お年寄りがぼく達のような若者のギャグについていけてない場面を見る事があるので、ぼくの一発ギャグを手紙で、文字だけでどう披露しようか考えていたのですが、もうその必要もなさそうです。実はぼく、学校では将来のコメディアンを有望視されている神童なのです。だから今度また考えておきますね。文字だけの一発ギャグ。

 ところでおばあちゃんは、ボケの方は大丈夫なのでしょうか。心配です。外国にも同じようにボケ老人という人たちがいます。本人は楽しそうですが、周りの人間にとっては必ずしもそうではないでしょう。ぼくが言える事ではありませんが、苦労は多いはずです。でもねおばあちゃん。こういった時にこの国の良さが光るのです。日本と違うのは治安だけではありません。
ボケの発症と悪化を止める、その為の対策はいくらでも考えられます。細かい指運動とかちょっとしたクイズなどもいいでしょうが、聡明で鋭い見解を常に持っているおばあちゃんには似合いません。

 ここはジョークでいきましょう。アメリカンジョークです。

 これこそがさっき書いたように、この国の美点なのです。こっちが心配になるような激烈なジョークは時折拍手を伴う笑いでもって迎えられるのです。会話こそが一番脳を働かせるそうですよ。だからおばあちゃんも安寧と暮らす近所の平和ボケ連中にかましてやりましょう。笑っていいのかいけないのか、ってぐらいのギリギリのラインを攻めていきましょう。では、お返事待ってます。

                                         サンパウロのケイスケ




 その日も西口さんはタロを連れていつもの散歩コースを辿っていた。

 財布を、それが入ったバッグごと盗まれて落ち込んでいた西口さんは、散歩に出かける直前、もう何度目かわからないぐらい繰り返し読んだ、今は遠い場所にいる孫からの手紙をまた読んで、息子に似て生意気な少年に育った孫に思いを馳せ、微笑みを浮かべていた。しばらくの間、関連して頭に浮かんでくる情緒を味わった後、西口さんは大事な手紙を入れている封筒に戻し、とっておきの隠し場所にしまった。

 ジョークも中々難しい。西口さんは思った。そういった皮肉を言い合う文化の薄い人には、自分の、主に老化や孤独を扱ったジョークを、ジョークとして笑ってはくれないのだ。あの宅配の木田村君ぐらいである。だから西口さんは、やっとアメリカ映画のようなやり取りを出来た事に満足していた。しかしその日バッグを盗まれた事に関してはまだ冗談で笑い飛ばすまでには立ち直れてはいなかった。

 朝の、まだ白さが残る空気の中を歩く西口さんは、道すがら、この家の玄関は鍵を掛けているだろうかという犯罪者寄りの思考で町を眺めていた。自転車が家の前に無防備に置かれていたり、ガレージの奥の方に置かれている日曜道具の数々。それらを盗ろうと思えば自分でも簡単にできるだろうと、彼女は少し蔑む気持ちでそれらの不用心さを眺めていた。もちろんそこには自分自身も含まれている。

 日はもうすっかり昇っているけれども、まだ夜の内に冷えた空気が残っている。
タロを連れた西口さんの歩く速度が少しばかり早い。首筋にうっすら汗を浮かべている様は、涼しげな風の吹く気持の良い季節とは似合わない。そのせいかタロの様子もどこか不機嫌である。幾分首輪が食い込むペースで常に引っ張られ、息も荒いように見受けられる。
家を空けている事にどことない不安を感じて、西口さんはどうしても早く家に帰りつこうと急いでしまっていた。

「ちょっと、西口さん」

 声を掛けられて振り向いた。ふっ、と条件発射的につい表情を緩めてしまう西口さんだった。ああ、夢野さんか、とお互いの体を気遣う何度重ねたかもわからない会話をその日も繰り返した。

 西口さんんが夢野さんと知り合ったのはずいぶん昔まで遡る。西口さんがかつてはまだ元気に生きていた夫とこの地に移り住んできた時には、もうすでに夢野さんは夢野さんとしてこの場所に生きていた。その遠慮の無い性格に親しみを感じていたのはほんの最初の頃だけで、すぐに煩わしさを覚えるようになった。以来西口さんはいつでも夢野さんとの間に存在する溝が、冗長な時間の流れの中でかき消えてしまわないように、努めてそれを意識し、その為に芯を食わない会話をもう何年も続けている。

 切り出したのは夢野さんの方だった。

「入られたんだって、あの空き巣魔に」
「やられた」と無理に笑いながら西口さんは言った。
 心苦しさを感じながらも、そこはいつもの癖となっているようで、言いながら表情を緩めていた。――まったく、困ったもんよね。
「最近だよね、この辺でも被害が出るようになったのって」夢野さんは言った「あっちでもこっちでも、ちょっと話題に上がらなくなった頃にまたどっかでやられてるんだから。ちょっと前までは隣町がよくやられてたんだって、きっとそいつがこっちに来たんだよ、最近」
「うちだけは大丈夫だなんて思ってたけど、そんなことなかったね。あんたも気をつけた方がいいよ。お互い一人暮らしの身なんだから」
「そうだねえ。空き巣なんてセコいことして生きる奴がいるんだねえ、やんなっちゃうよ、ねえタロ太郎」

 夢野さんはタロのことを自己流にそう呼んでいた。

 西口さんがやんわりと注意していたのは最初の頃、それも十年以上も前のことで、それ以後正しい呼び名に改めてもらうことを西口さんは諦めていた。自分でも時々間違ってタロ太郎と呼びそうになることもあるくらいである。なにしろここ最近、といってもここ数年のことになるのだが、日常的に関わり合いのある人間が極端に減り、西口さんとしても認めるのはしぶしぶといったところであるが、夢野さんが唯一の親友と周囲には思われているようであった。

 今日も、ずいぶん昔に西口さんが上機嫌に縫い上げた例の陽気な服を着せられて、平生より早いペースにお疲れの様子のタロが、頬笑みを湛えた夢野さんの伸ばした手に気付くと、穏やかでない唸り声を上げ始めた。いくら鈍感な夢野さんでも、タロが威嚇しているということは理解した。痩身のタロが体を震わせて牙をむける様子は、ちょっと恐ろしいくらいで、飼い主の西口さんも僅かに体を引くほどだった。

「あらら、タロ太郎は不機嫌なの。そんな気分じゃないのね」
 あらごめんなさい、と言って夢野さんは身を引いた。
「年寄りの犬って何かと大変って言いますからねえ」と夢野さんは幾分楽しげに話し始めた「犬にも痴呆があるんだってね、こないだテレビで初めて知ったのよ。タロ太郎は大丈夫なの? 問題行動って言うのかしら、言うこと聞かなかったり、挙動不審になったり、急に怒り出したり、ほら今のなんてまさにそうよ。こういうところは人間の場合と一緒ね。そう考えてみれば私たちはまだ大丈夫そうね。頭は冴えてるわ」

 真っ直ぐな眼差しで夢野さんはそう言い切った。

 タロが痴呆に……。西口さんはその事を深刻に受けて、タロの体を抱えるようにして撫でてやった。ええ、と曖昧に返事をしたまま、そういえばとそれらしい症状に当てはまるものを、最近のタロの様子からを思い返していた。

「ところで西口さん。何を盗られたのかまだ聞いてなかったわ。けっこうやられたの?」
 タロの事が心配になり、背中を撫でてやっていた西口さんはそのまましゃがんだ体勢で答えた。
「財布をね、盗られたよ。だから保険証とかそんなもの全部新しくしないといけないんだ。でも金額は大した事なかったからまあ……大した事ないよ」

 えっ、とおしゃべりな夢野さんは一瞬言葉を失くしたように驚いた顔を見せた。そりゃ財布が目に付いたら盗るだろうよ。空き巣だよ? 西口さんはもう一度丁寧に財布を盗られたと言って返答を待った。

「あたしじゃないよ……あたしは、盗ってないよ」
「何言ってるのさ、そんな事言ってないだろ。財布をね、盗られちまったんだよ。ま、金額にしたら大した事ないんだけどね」
「ああ、そう……それは気の毒ね」とようやく夢野さんは言った。

 この人のことは今もってわからない。西口さんはいちいち考える事はしなかった。当人が自分の言葉に責任を持たない人なのだ。以前にも言った言わないの押し問答で閉口した経験がある。だから発言のいちいちに気を取られていては無駄な時間を食うだけなのだ。西口さんは長年の経験で身に付けた、対夢野処世術とも言える思想体系に基づいて、会話の筋を繋げていった。

「でもまあ、それぐらいで済んでよかったよ」
「ほんと? その割には落ち込んでるように見えるけど」
西口さんは、「あらそう?」と努めて明るく言ったが、自分でも無理やりに笑顔を作ってる事はよくわかっていた。
「実はね、財布が入ってたバッグごと盗まれたの」
「あ……もしかしてあの、息子さんからプレゼントして貰ったっていう、ちょっと涼しげでかつ丈夫な作りで年がら年じゅう使えるくせに何にでも合わせられるあのバッグのこと?」

 これにはつい笑い声を上げた。

「ええ、それよそれ。それが悔しくて。お金のことよりも……ねえ」
「前々からいいバッグだなって思ってたのよ。少なくともその空き巣が見る目を持ってるのは確かなようね」
「またそんな事言って」

 こんな時西口さんは、少し憎らしくも愛すべき一面を持つ夢野さんをまた新たな眼差しで見るのであった。しばしの間、二人は楽しげに笑い合った。

 「わたしなんか」夢野さんは言った「もし仕事中の空き巣に鉢合わせしたら話し相手になってもらうわ。だってそうでしょ。お客さんなんてめったにこないんだから。西口さんぐらいよね。だからわたし達みたいな老婆の寂しさを紛らわせてくれるんだったら歓迎するわよ。西口さんもそう思わない? でも勝手に物を盗られるのは勘弁ね。事前に言っといてくれたらいいのに、あっそれじゃ泥棒にならないか」

「ええ……そうね。でもあたしは寂しくなんてないよ」西口さんは一瞬迷ったが、夢野さんの磊落さに応えるべきだと考えた。「むしろ一人になってからの方が気が楽だね、自由を感じるって言ったら大袈裟かしら。あ、これ夢野さんは知ってるかい? 旦那に先に逝かれた女ってのは、大概が長生きするそうなんだよ」
「へえ、何でだろうね。うん……」
「日常的な煩わしいストレスが無くなるからだそうだよ。逆に妻に先立たれた夫は早死にするんだってさ。結局は最終的に妻が勝つように出来てるってわけだ」
「なるほどねえ。じゃあわたし達まだまだ生きることになりそうね」


 西口さんの歩く速度が落ちたのは、涼しい気候に合わせたわけでもないし、自分の住む牧歌的な町並みを改めて感じようとしたわけでもなく、もちろんタロに気を使ったわけでもない。

 夢野さんと別れた後、西口さんは得体の知れない黒い物が胸に浮かんでいるのを知った。無理に笑った事が、過去を汚しはしないかと心配だった。大事な思い出をつまらない世間話のダシに使った自分が憐れに思えた。

 西口さんは緩やかに吹く風をこの時初めて感じて、さっきまで自分が意識しない所で急いでいたのだと気付いた。

 タロはようやく平生の機嫌を、つまり沈痛な面持ちを取り戻したようであった。結局夢野さんと別れる最後まで、痛ましい威嚇の唸りを上げていたのだった。西口さんは、やはり痴呆の症状かしらと思わずにはいれなかった。

 自宅が見えてきた。宅配のトラックも停まっている。例のウシとブタのイラストが遠くからよく見えた。今日は長話で遅れてしまったなと、少し申し訳なく思う西口さんだったが、すぐに、今日はどういったジョークを言おうかと考えを巡らし始めた。

 その時ふと、先程までの会話の断片が思い出されて、そのせいで体が凍りつくような寒気が襲った。


――なんか年寄りの家ばっかり狙われてるらしいんだよ。あの宅配の兄ちゃんが言ってた

  同じ食品宅配サービスを利用している夢野さんはそう言っていた。

――ああ、木田村君。彼がそう言ってたの。詳しいのね
――ほんと熱心だこと。最近だって言うのにねえ、彼がこの辺りの担当になったのは
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