婚約者から愛妾になりました

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捨てられる恐怖

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 たった一言で室内の温度を氷点下へ堕とすフィロンの声で時間が止まってしまったような錯覚に陥った。ネーヴェが掛けてくれた上着がなければ、氷漬けになってしまっていたメリルは名前を呼びたくても、恐怖が勝って出来なかった。フィロンは、未だネーヴェによって壁に押し付けられている男を一瞥すると左手を向けた。人差し指を男の頭の天辺から爪先まで線を描くように動かすと……男の絶叫が室内を充満した。顔を青ざめ震えるメリルは、フィロンの予想外の登場に腰を抜かしてしまったイレーネを見た。
 彼女もまた、自分と同じ、否、それ以上に青くしてフィロンを見上げていた。
 男からメリルへ視線を変えたフィロンが来る。何も浮かんでいない紺碧の瞳に見下ろされ、メリルはぎゅっと上着を握った。イレーネが来てからも抱き締めていたタオルは、男に床に投げられた時に放してしまっており、隅の方まで飛んで行っている。


「……フィ……フィロン……様……」


 自分でも情けなくなる声。フィロンの名前すら、まともに発せない。


「……」


 フィロンは無言のまま。何を言われるのかと待っても、何も言ってくれない。
 最後までされてないとは言え、他の男に身体を触られた。フィロンがメリルを捨てるのも時間の問題。そもそも、婚約破棄をされる時点でもうフィロンの側にはいられなかった。それを愛妾という形で側にいられた。初めてをフィロンに捧げられた。これだけで十分。……なのに……。


「……ネーヴェ」


 漸く声を発したフィロンが呼んだのは実弟だった。


「今すぐにそこの蛆共を追い払え。お前も出て行け」
「よろしいのですか? イレーネ様は」
「アールズ公爵家には、もう1人娘がいるだろう。イレーネそれがどうなろうが身代わりはいる」
「ああ……そうですね」
「ま……待ってくださいっ!」


 2人の会話から、不穏な気配を読み取ったイレーネが会話に入ろうとするも、そっくりな顔立ちながらも甘い美貌のネーヴェが微笑を向けた。


「そう怯えなくて大丈夫ですよ。行きましょう。今回イレーネ様達の侵入を許した兄上も、少しは警戒するべきでしたね」
「うるさい……」


 ネーヴェに図星を突かれ、睨んでもネーヴェはひらりと避けて立てないイレーネの腕を掴み引き摺って行った。絶叫を上げる気力もなくなった男は、ネーヴェがいなくなると同時に姿が消えた。

 ……残ったのは、メリルとフィロンだけ。
 この後、自分がどうなるか分からないメリルは未だ震えている。
 フィロンに捨てられる。事実と言っても過言ではない予想だけが頭に張り付く。冷たい紺碧が更に冷気を増した。震えを強くしたメリルは伸ばされた手を目にし、反射的に瞑ってしまった。
 背中と膝裏に手が回った。浮遊感に襲われると目を開け、眼前にあるフィロンの顔に短く悲鳴を上げた。


「うるさい」
「も、申し訳ありま、んんっ」


 謝罪を最後まで言い切る前に口付けられ、終わると頭にフィロンの頬が乗った。それ以上は何も言わず、フィロンに抱かれて連れて行かれたのは浴室だった。大きな浴槽に下ろされ、ネーヴェの上着や破かれたドレスは勿論、下着も奪われ裸にされた。
 何度も見られていても、明るい浴室で見られると羞恥心が何倍にも増して襲う。恥ずかしくて身体を隠そうと丸くなった。


「きゃあ!?」


 上から冷たい水が大量に、勢いよくメリルに襲い掛かった。
 両肩を強い力で掴まれ、無理矢理起こされた。フィロン様、と呼び掛けた唇はフィロンの唇に塞がれた。視線だけ上に向けると、シャワーが壁の一番上に固定されていた。
 メリルにキスをしているフィロンにも、冷水は降りかかる。温もりを、安堵を求めてフィロンに抱き付くと応えるように抱き締め返された。


「ん、んん……」
「ん……ふ……。……メリル……」


 口付けを受ける唇は、抱き締められる身体は、冷水を浴びているのに異様に熱い。
 背中に回した手で服を掴んで思い出す。フィロンは服を着たまま冷水を浴びていると。今日は夜会に出席する為に普段とは違う、王子としての正装。夜会に行く前に、滅多に見られないフィロンの正装姿を目にしたメリルは赤面して目を合わせられなかった。招待状が届かない細工をされてしまうほど、自分とは夜会に参加したくないフィロンの正装姿があまりにも綺麗で、色っぽくて。次期魔王としての風格と威厳を持ち合わせたフィロンの隣に堂々と立てるイレーネが羨ましくなった。


(あ……)


 他人嫌いと名高いフィロンが唯一触れるのを許している公爵令嬢。それがイレーネ。会う度にキスをされながらも、冷たい態度で接せられ続け、嫌われていると自覚しているメリルは例外といってもいい。
 イレーネの行動は許されたものじゃない。婚約者と言えど、無断で王子の部屋に入った挙げ句、私怨の為にメリルに危害を加えようとした。間一髪ネーヴェが助けに来てくれなければ、今頃あの男に犯され身も心も壊されていただろう。


「んん……んあ……、フィロン、様……あの」
「……なんだ」


 口付けに夢中になりながら、聞いておかないといけないと、理性を総動員して合間に言葉を紡いだメリルは、不満げな表情で見下ろされながら問うた。


「イレーネ様は、その、どうなるのですか?」
「お前が知ってどうする」


 知ったところでメリルにはどうこうする力はない。
 だが――


「……フィロン様とイレーネ様は……相愛の仲だから、今回のことで婚約が……」


 屋敷に引きこもってばかりのメリルの耳にも何度も入っていたし、実際に目撃だってしている。
 冷たい相貌のフィロンの隣、凛とした佇まいでフィロンに微笑みかけるイレーネの姿を。
 初めての時は誰かに心臓を握られたと錯覚する程の苦痛を味わった。2度目は同じ痛みと絶望。3度目からは諦め。
 どんなに頑張っても、魔力を失い、取り戻せないメリルにフィロンの隣にいる資格はない。

 お似合いだと、現実を突きつけられた。成人を迎えるまで、婚約破棄をされるまではフィロンの――仮初めの――婚約者でありたいと願った。

 メリルは間違ったことは言っていない。魔界の者なら、誰もがフィロンとイレーネの仲は順調だと思っている。
 なのに……上を向いたメリルは、氷を纏った紺碧の瞳に見下ろされ、さっきまでとは違う意味で青くなった。


「……誰が、誰と?」
「……フィロ……さ、ま……と、……イレ……ネ、様……」
「おれとイレーネが? お前にはそう見えるのか?」
「……は……はい……っ」


 瞳も顔も笑っていない。
 声だけは少し愉しそうで。余計、恐怖を煽られ、声が震え小さくなっていく。


「……こんなことなら、もっと前から婚約を破棄しておくべきだったな」
「っ!」


 吐き捨てるように紡がれた言葉が容赦なくメリルの心を抉った。
 同時に、肩が跳ねた。


「来い」
「あ……!」


 腹に腕を回されると横抱きにされた。濡れたまま浴室を出て寝室に入り、寝台に寝かされフィロンに覆い被された。

 凄絶な美貌に冷たく見下ろされ、心臓がうるさい程高鳴ってしまう。フィロンが指を鳴らした瞬間、肌に付着していた水分はあっという間に無くなり、シーツが吸い込んだ水分もなくなった。
 また、フィロン自身の濡れもなくなっている。魔法1つで乾燥させるのは誰でも出来る。魔力のないメリルだけが何も出来ない。

 フィロンが左手の人差し指に魔力を溜め始めた。淡い青がメリルの目にも分かるように集まっていく。小さな球の形になるとメリルの口元に持って来られた。


「口を開けろ」


 言われた通り開けた。指を口内に入れられた。
 キスの時、舌で口内を弄られるように指で掻き回される。どうすれば良いか全然分からないメリルはされるがまま。軈て、フィロンの指が抜かれた。あの淡い青は消えている。ごくりと溜まった唾液を飲み込んだメリルを……フィロンは妖しく嗤った。


「……お前、今のが何か分かっているのか?」
「え……」
「まあ、分かっていても魔力のないお前ではどうすることも出来ない」


 一体何を飲まされたのか訊ねようとした――時だった。身体が異様な熱を持ち始めた。
 冷たい水を浴びながらフィロンに口付けられていた時以上の熱。下腹部からは言い様のない疼きが生じ始めた。困惑とした表情でフィロンを見上げた。


「や……あ……フィロン……様っ」
「……お前が、全部お前が悪い。メリル、お前が……」
「あ……ああ……」


 触れられてもいないのにそこからは蜜が溢れ、メリルの口からは艶やかな声が漏れる。何が悪いのか思考が働かないせいでフィロンに問うことも出来ない。
 前に魔法で犯された時がある。何度絶頂しても魔法の使用者であるフィロンが止めてくれない限り解放されなかった。あの時は、無性にフィロンに会いたくて部屋を出ては駄目だと言われていたのに出てしまった。すぐにフィロンに会えても……メリルを待っていたのがそれだった。


「お前はおれの愛妾なんだろう? なら、愛妾としての役割を果たせ」
「ああ……っ!」


 震えるメリルの耳にフィロンの舌が入れられた。耳が弱いのはもう知られている。直に聞こえる、犯される水音が羞恥心以上のものを刺激する。
 耳を舐められながら、頬を撫でられる。


「あ……やあっ、……フィロン、様……」
「んう……ちゅう……、……メリル……」


 しゅるり、と片手で器用にネクタイを外したフィロンに両手を縛られ、胸元に置かれた。耳を舐めるのを止めたフィロンがメリルの唇に自身のを重ねた。


「ん……ん……あぁ……」
「……こうやって……ずっと…………にいろ」


 態度と言動からは程遠い蕩けるような甘い口付け。フィロンとの口付けはメリルにとって至福の時間。……今は、抱かれることもメリルの至福となってしまった。
 フィロンにいつか飽きられ、捨てられたら、自分はどうなってしまうのか。

 そんな恐怖を抱きながらも、彼を拒むことも、求めないことも出来ない。

 長い口付けを終えるとフィロンは……


「お前が2度とあのような馬鹿なことを言えないようにしてやる」


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