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四章「人獣死すべし」
激突ヴァラヴォルフ
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アルトたちが窪地におりたった段差のあたりから、影が飛び出してきた。それは窪地におりてくると、倒れ伏して動かなくなる。
「兄弟!」
グエフが駆けだしたのを見てあとをついていく。その倒れた兄弟のかたわらにグエフが膝をついた。しきりに呼びかけているところを覗きこむと、アルトは絶句した。苦痛にあえぐその兄弟の右腕は、鋭利な刃物で切りつけられたように、二の腕のあたりでほとんど千切れかけていた。止まらない出血が草を真っ赤に染めあげていく。
アルトは考えるよりもさきにナイフを取り出して、神官服のスカートの縁を切った。また短くなるが、このさいそれはどうでもよかった。
「ちょっとどいてくれ」
アルトは細長い切れ端で右腕の無事な部分をきつく縛る。そうとうな重症だ。止血などは気休めくらいにしかならないだろうが、生存率はあがる。
「神官が魔属を救うのか?」
「今はそんなこだわり捨てちまえよ。それよりも医者はいないのか」
「俺たちの村には医術に長けた兄弟がいる」
「よし。それならこいつを運んで……」
ガサガサと、近場の枝葉が激しく揺れた。いや――樹木そのものが怯えたようだった。
「……そういうわけにはいかねえか」
アルトは祈誓し、法術の光球を浮かびあがらせた。グエフもただならぬ気配を感じたのか眼光を鋭くする。
――バギャアッ!
ぶちまけるように樹木をへし折られ、ぶっ飛んでいく――同時にそれは姿を現した。
アルトたちを飛び越えて窪地におりたったのは、アルトの持つ人狼のイメージと大差ない怪物だった。狼の顔、体毛、鋭利な爪とそれをおさめた犬のような大きな前足(両手?)。房のような尾を持ち、人間の胴の二倍はありそうな太股のわりに、そのしたの後ろ脚は細い。ぴったりとした狼の着ぐるみを、三メートル近い身長の人間が身につければこんな見た目になるかもしれない。
人狼はグルル……と喉を鳴らしながら、ゆっくりと振り向いた。アルトは舞い散る木の葉を手で払いながら囁いた。
「これが人狼か……」
本能が逃げろと警鐘を鳴らす。アルトの額には脂汗が浮かんでいた。勝てるか否かの緊張感が、アルトの血流を早めた。それを証明するかのように、アルトは自然に笑みをつくっていた……いちかばちかは嫌いじゃない。
「おまえの言っていたガクガク野郎か?」
「多分な。かなり安定したみたいだ。まだ左目はないし肉が剥きだしの箇所がいくつかあるみたいだけど」
アルトは人狼を観察しながら立ちあがると身構えた。人狼はとりあえずこちらに興味がないのか、ヒクヒクと鼻を動かしている。
と、人狼は唐突になにかに気づき、涎を垂らしながら犬歯を見せた。
「おまえの仲間が標的か!」
「ちっ……! ラーゼン・フランメ!」
グエフが炎の魔術を放つと、アルトはその炎の奔流を追うように人狼に向かって駆けだす。人狼は目を覚ましていない魔属たちに凶悪な顎を開く。
アルトは光球に触れ、炎が人狼を燃えあがらせると力天詞の祝詞を叫んだ。
「此の弱き手に戴く其の――」
(嘘だろ!)
人狼は魔術の炎をいともあっさりと、腕を振っただけで消し去った。アルトは集中力を失い、光球は崩れるように霧散する。安心していいのか悪いのか、人狼はこちらに標的を変えたようだった。身をかがめ――
――次の瞬間、アルトは人狼の体当たりを正面から受けていた。腹部が潰され、肋骨が軋み、肺が呼吸を忘れる。そして痛みが走った。吹き飛ばされて草を撒き散らしながら地面を転がると、止まったところでグエフが唖然としているのが見えた。
「ぐ……ごふっ、がはっ!」
アルトは内臓を搾りあげられたような激痛に咳こみ、口内にあがってきた胃酸を吐き出す。
(寝てたら殺られる……!)
立ちあがろうと草を掴む。だが激痛がそれを許さず、アルトは身体を地面に押しつけた。
(なんつー威力だよ……痛いぞバカヤロー!)
「立てアルト!」
グエフが無理やり身体を抱き起こしてきた。アルトはグエフの肩に手をまわし、気力だけで立ちあがる。
「ハァ……ハァ……あの野郎……おちょくってんのか?」
人狼はアルトを吹き飛ばした位置で、ふたたび高鼻を始めていた。周囲の匂いを嗅ぎまわっている。グエフがかすかに頭を振って、
「まるで見えていないようだ。耳も聞こえてないんじゃないか?」
「……なんだって?」
それが意味するのはひとつ、人狼はまだ完全じゃないということだ。エサを漁って四肢を得たのだろうが、目や耳の器官はまだ不完全なのだろう。唯一完成した鼻を使い、獲物を探しているのだ。
「それでこれかよ。完成したら手がつけられねぇぞ」
「ならば今、ここで葬るしかないだろうな」
「いや……選択肢はそれだけじゃない」
「なんだと? 奴が不完全な今が、殺す機会ではないというのか」
アルトは突き放すようにグエフから離れた。痛みで顔をしかめながら、地面に手を伸ばすと草を千切る。
「あんたの仲間だよグエフ。戦闘に巻きこまずに救うチャンスでもあるってことだ。四人は――蹴っ飛ばしたのいれて五人……だっけ? なんにしろあいつらは寝てるけど、はたけば目を覚ます。そのていどのダメージしか与えてないからな。五人いれば人狼にやられたあいつも助けられるだろ?」
アルトは千切った草をうえに放った。風は凪いでいる。だから人狼は兄弟の流す血の匂いすら嗅ぎつけられないでいる。それはつまり攻撃には絶好のタイミングだ。
「バカか……」
「できないことじゃない。それにあたしは誰も死なせたくない。でもそれは神官だからじゃない。あたしのためだ」
(こうでも言わなきゃうるせーだろう?)
アルトはナイフを取り出した。手のひらにおさまるほどの小さなものだが、ひとりでやるには手数が必要だった。折り畳み式のナイフに威力などは期待してもいない。
アルトはダメージの大きかった腹部を押さえながら、グエフの返答を待たずに人狼に向かう。
なぜさっきアルトの接近に人狼が気づけたのかを考えると、炎の魔術が風を生みだし、アルトの匂いを運んだのだろうと推測できる。だが問題は炎の魔術を食らいながらも、人狼が無傷のままだということだ。
「本当にひとりでやるのか」
「誰も倒せるなんて言ってないぜ? あたしが分かりやすい勝利条件を提示してやったんだ。あんたら逃がしたら人間の勝ち……それでいいじゃねえか 」
人狼は匂いを求めてふらふらと歩いている。アルトたちからも五人からもだいぶ離れていた。それを見てか、グエフは舌打ちしてしぶしぶ従う。
「感謝はしない……神官は魔属の敵だ」
「なんでもいいから早く行けよ。気まぐれな風で全滅もあり得るんだ」
(メルティがいたらな……)
人狼がすこしずつ近くなってくると、アルトはふと相棒を思った。
――いや、正確には友人か? それとも幼なじみ……同郷の……ああ――
――姉妹だ。そう……双子の姉妹だと思うことにしたんだ。と言うか、そうなろうとふたりで誓ったんだ。
どっかのお伽噺にあった、魂の双子のように――
物思いの間隙に、男の声が耳に入る。グエフがひとりを起こしたようだ。
人狼がその違和感に反応してか、空を仰いだ。風はまだ吹いていないが獣特有の敏感さで、空気の微妙な流れや変化を感じているのかもしれない。人狼までは目測で、あと七メートルほどか。
(魔属が六人いたところで勝ち目があるわけじゃない。頼むから気づくなよ?)
魔属が魔属たるゆえんは、魔力の内包者であるということだ。元来、魔力は呪術や魔力を持つ道具などで間接的に得ることが可能になるもので、ソフィアの民が先天的に持ちうるものではなかった。
しかし変異によるものかなんなのか、古代に突如として魔力を持つ者たちが登場する。ソフィアが信教国となる遥か以前は友好的だったらしいが、興国の折りには悪しき者たちとして追放されることになる。
なんにせよ、魔力は人間を狂わせる。魔属たちのほとんどは内在する魔力の強力さに魅せられて、暴力行為に走るのが常だ。さらにタチが悪いのは、魔力が人間を強化してしまうことにある。腕力、脚力、体力などなど……およそ通常人とは比べものにならないほどに、肉体が強化されてしまうのだ。例えばそう、三階の高さからの自由落下の着地を、平然とこなせてしまうくらいに。
だがそれでも、その強力な魔力の影響があっても、この人狼を倒せるとは思えない。その魔力による強化を、人狼は超えているようだ。ならば数がいたところでどうにもならない。
「祈誓に応えろ」
魔属たちはふたり、三人と目を覚ましていく。四人目が起きるころには、人狼が手の届く距離になった。さきほど腹部に受けた痛みは治まる気配がないものの、人狼を抑えなくてはならないという義務感がアルトに構えをとらせる。
「此の弱き手に戴く……」
ずいぶんと皮肉な祝詞だと、アルトは口元を歪めた。横を向いている人狼に、なあ? と視線だけで問いかける。
そのとき――柔かな風が吹き、アルトの髪を揺らしていった。人狼が牙を剥くのと、アルトが動くのはほとんど同時だった。折り畳み式のナイフを人狼の左腕に突き立てたとき、人狼は右手を振りかぶった。すかさず光球に触れ、ナイフを狙う。
「其の威武は破邪となりて!」
衝撃がナイフを食いこませ、左腕を貫通する。人狼は法術で一瞬だけ動きを止めたが、なにごともなかったように爪を振りおろした。痛覚もないようだと理解する。アルトはすかさずしゃがみ、後方へ跳ぶ。爪が眼前をかすめ、髪が数本宙を舞った。
(法術のダメージはねえのか……いや、単純に威力が弱いんだ。つーかそういうことにしといてくれ!)
アルトは着地するとすぐに横へ跳んだ。人狼が突進してくるのをすんででかわす。左腕の骨をナイフで破壊してやったのが功を奏し、人狼の動きがすくなからず鈍っている。しかし隙はない。突進が終わると体勢を立て直す。アルトは第一節よりも高威力の第三節を呟く。
「此の愚かにも差し出されし――」
(だめだ遅い!)
人狼はアルトの予測した数倍の速さで接近してきた。こちらを完璧に捕捉したときの動きは尋常ではなく、獰猛な爪が高速で横に振られたときには、左腕をあげるのが精一杯だった。
(メルティ……)
死を覚悟して――衝撃が貫く。
アルトはなす術なく殴り飛ばされ、気づけば草原をズザザザザザッ! と滑走していた。
ドガッ! と窪地と森の段差に身体を打ちつけて、ようやく止まる。痛みが全身を突き抜けるが、それは生きている証拠だった。
(出血はないし折れちゃいない……生来の頑丈さに救われたな)
アルトは自分を他人のように評して手をついた。
人狼はまたこちらを見失ったのか、あちこちに鼻を向けて動かしている。匂いを追えばいいものをとも思うが、鼻もまだ不完全な可能性もある。
「ずいぶん軽傷みたいだけど……」
自分を見おろす。そして人狼を見ると、爪で切りつけられたのに負傷しなかった理由はすぐに分かった。人狼の右手の爪は反り返っており、アルトを切りつけたときに折れたのだ。そのお陰で切断までに至らなかったのだろう。
「だけどなんでなんだ? 頑健と脆弱って矛盾だよな……」
アルトが神官服の左袖を見ると、最初に爪が触れた肩のあたりにほころびがあった。
アルトはふと、グエフの兄弟の傷口を思い出して魔属たちを見る。グエフと仲間たちは深手を負った兄弟のもとでなにやら話しているが、もめているようにも見えた。仲間をやられ、このまま黙って帰るわけにもいかないのだろう。
それはそれとして、あの兄弟の傷はどう見ても、鋭利な刃物で切りつけられたような傷口だった。しかしこれほど脆い爪でそれが可能なのかという疑問がある。
そもそも今なぜ爪が折れたのか。人狼が不完全で、最初に見た状態――グールと呼んでも差し支えないほどの状態ならば分かるが、今や肉体としては完成していて苦戦を強いられているのだ。
アルトが熟考していると、人狼はまたふらふらと歩き始めた。そして、グエフが炎の魔術を放とうと身構えるのが見えた。
「グエフてめえ! こっちがボロボロになってまで逃がしてやろうとしてんのに!」
「我々の総意だ! 神官の指図は受けん! グルート・ツ・グルンデッ!」
グエフがかざした両手から、彗星のような業火が放たれた。おそらく後先を考慮しない、全魔力をこめた魔術だった。五人があわせて疾駆するが、武器は手にしていない。そのかわりに五人からはゆらゆらと発される黒い魔力が見えた。
「自爆でもする気かよバカ野郎! そんなことは許さねえぞ……!」
アルトも人狼へと走り出して光球を喚ぶ。今までとは違う高威力の魔術から、熱風がほとばしっている。人狼は攻撃に気づいたようだが顔を向けるだけで立ち尽くしたままだ。炎は草原を焦土に変えながら疾り、人狼に直撃する!
(……そういうことか!)
アルトは祝詞を詠うまえに奥歯を噛みしめた。
魔術の炎は人狼に届いていなかった。それは見えない壁が魔術を阻んでいるかのようだった。人狼は自身を蒸発しかねない魔術をまえにして、熱風に体毛を遊ばせながら耳鼻をピクピクと動かしている。
人狼はその猛威と涼やかに対峙していたが、思い出したかのように右腕を、折れた爪を横薙ぎにした。爪を模したような風が刃となって業火を裂きながら飛翔し、業火を掻き消してしまう。風の魔術はそのまま、魔属たちを薙ぎ払った。さまざまな悲鳴をあげながら、魔属たちは切りつけられて吹き飛ばされる。
だがかまっている暇はなかった。アルトが舌打ちとともに光球に触れると、粒子が螺旋を描きながら腕にまとわりつく。
「此の愚かにも差し出されし両掌を、其の震怒は讃えた!」
人狼に接近して両掌を強くまえに出す。攻撃の隙をついた法術は輝く波紋を空間に造り、それが生みだした破壊振動は、人狼に無数の傷を与えながら弾き飛ばす!
ドギャゴッ! ――耳障りな効果音を残しながら、人狼は全身から出血し、宙を舞った。ふわりという緩慢さで浮きあがり、そのままドサッ……と地面に叩きつけられる。
……そしてそのまま沈黙する。人狼はごふっ……と血を吐きだすと、仰向けのままピクリとも動かなくなった。
……草原は静寂に包まれる。
「殺ったか?」
アルトは激しい疲労を覚えつつ、ふらつきながら魔属たちを探す。高位の術を使った法術疲労だが、頭痛がないのはまだいいほうだった。
魔属たちは人狼の放った魔術で負傷したようだが、たいした怪我でもないようだ。人狼が倒れた様子を見ながら、勝鬨のように沸きあがっている。
アルトは魔属たちに特別な心配もいらないことが分かると、人狼へとすこしずつ進んでいった。今さら響く鈍痛と、セットになった法術疲労に苦戦しながらも、ゆっくりとだが前進していく。
「兄弟!」
グエフが駆けだしたのを見てあとをついていく。その倒れた兄弟のかたわらにグエフが膝をついた。しきりに呼びかけているところを覗きこむと、アルトは絶句した。苦痛にあえぐその兄弟の右腕は、鋭利な刃物で切りつけられたように、二の腕のあたりでほとんど千切れかけていた。止まらない出血が草を真っ赤に染めあげていく。
アルトは考えるよりもさきにナイフを取り出して、神官服のスカートの縁を切った。また短くなるが、このさいそれはどうでもよかった。
「ちょっとどいてくれ」
アルトは細長い切れ端で右腕の無事な部分をきつく縛る。そうとうな重症だ。止血などは気休めくらいにしかならないだろうが、生存率はあがる。
「神官が魔属を救うのか?」
「今はそんなこだわり捨てちまえよ。それよりも医者はいないのか」
「俺たちの村には医術に長けた兄弟がいる」
「よし。それならこいつを運んで……」
ガサガサと、近場の枝葉が激しく揺れた。いや――樹木そのものが怯えたようだった。
「……そういうわけにはいかねえか」
アルトは祈誓し、法術の光球を浮かびあがらせた。グエフもただならぬ気配を感じたのか眼光を鋭くする。
――バギャアッ!
ぶちまけるように樹木をへし折られ、ぶっ飛んでいく――同時にそれは姿を現した。
アルトたちを飛び越えて窪地におりたったのは、アルトの持つ人狼のイメージと大差ない怪物だった。狼の顔、体毛、鋭利な爪とそれをおさめた犬のような大きな前足(両手?)。房のような尾を持ち、人間の胴の二倍はありそうな太股のわりに、そのしたの後ろ脚は細い。ぴったりとした狼の着ぐるみを、三メートル近い身長の人間が身につければこんな見た目になるかもしれない。
人狼はグルル……と喉を鳴らしながら、ゆっくりと振り向いた。アルトは舞い散る木の葉を手で払いながら囁いた。
「これが人狼か……」
本能が逃げろと警鐘を鳴らす。アルトの額には脂汗が浮かんでいた。勝てるか否かの緊張感が、アルトの血流を早めた。それを証明するかのように、アルトは自然に笑みをつくっていた……いちかばちかは嫌いじゃない。
「おまえの言っていたガクガク野郎か?」
「多分な。かなり安定したみたいだ。まだ左目はないし肉が剥きだしの箇所がいくつかあるみたいだけど」
アルトは人狼を観察しながら立ちあがると身構えた。人狼はとりあえずこちらに興味がないのか、ヒクヒクと鼻を動かしている。
と、人狼は唐突になにかに気づき、涎を垂らしながら犬歯を見せた。
「おまえの仲間が標的か!」
「ちっ……! ラーゼン・フランメ!」
グエフが炎の魔術を放つと、アルトはその炎の奔流を追うように人狼に向かって駆けだす。人狼は目を覚ましていない魔属たちに凶悪な顎を開く。
アルトは光球に触れ、炎が人狼を燃えあがらせると力天詞の祝詞を叫んだ。
「此の弱き手に戴く其の――」
(嘘だろ!)
人狼は魔術の炎をいともあっさりと、腕を振っただけで消し去った。アルトは集中力を失い、光球は崩れるように霧散する。安心していいのか悪いのか、人狼はこちらに標的を変えたようだった。身をかがめ――
――次の瞬間、アルトは人狼の体当たりを正面から受けていた。腹部が潰され、肋骨が軋み、肺が呼吸を忘れる。そして痛みが走った。吹き飛ばされて草を撒き散らしながら地面を転がると、止まったところでグエフが唖然としているのが見えた。
「ぐ……ごふっ、がはっ!」
アルトは内臓を搾りあげられたような激痛に咳こみ、口内にあがってきた胃酸を吐き出す。
(寝てたら殺られる……!)
立ちあがろうと草を掴む。だが激痛がそれを許さず、アルトは身体を地面に押しつけた。
(なんつー威力だよ……痛いぞバカヤロー!)
「立てアルト!」
グエフが無理やり身体を抱き起こしてきた。アルトはグエフの肩に手をまわし、気力だけで立ちあがる。
「ハァ……ハァ……あの野郎……おちょくってんのか?」
人狼はアルトを吹き飛ばした位置で、ふたたび高鼻を始めていた。周囲の匂いを嗅ぎまわっている。グエフがかすかに頭を振って、
「まるで見えていないようだ。耳も聞こえてないんじゃないか?」
「……なんだって?」
それが意味するのはひとつ、人狼はまだ完全じゃないということだ。エサを漁って四肢を得たのだろうが、目や耳の器官はまだ不完全なのだろう。唯一完成した鼻を使い、獲物を探しているのだ。
「それでこれかよ。完成したら手がつけられねぇぞ」
「ならば今、ここで葬るしかないだろうな」
「いや……選択肢はそれだけじゃない」
「なんだと? 奴が不完全な今が、殺す機会ではないというのか」
アルトは突き放すようにグエフから離れた。痛みで顔をしかめながら、地面に手を伸ばすと草を千切る。
「あんたの仲間だよグエフ。戦闘に巻きこまずに救うチャンスでもあるってことだ。四人は――蹴っ飛ばしたのいれて五人……だっけ? なんにしろあいつらは寝てるけど、はたけば目を覚ます。そのていどのダメージしか与えてないからな。五人いれば人狼にやられたあいつも助けられるだろ?」
アルトは千切った草をうえに放った。風は凪いでいる。だから人狼は兄弟の流す血の匂いすら嗅ぎつけられないでいる。それはつまり攻撃には絶好のタイミングだ。
「バカか……」
「できないことじゃない。それにあたしは誰も死なせたくない。でもそれは神官だからじゃない。あたしのためだ」
(こうでも言わなきゃうるせーだろう?)
アルトはナイフを取り出した。手のひらにおさまるほどの小さなものだが、ひとりでやるには手数が必要だった。折り畳み式のナイフに威力などは期待してもいない。
アルトはダメージの大きかった腹部を押さえながら、グエフの返答を待たずに人狼に向かう。
なぜさっきアルトの接近に人狼が気づけたのかを考えると、炎の魔術が風を生みだし、アルトの匂いを運んだのだろうと推測できる。だが問題は炎の魔術を食らいながらも、人狼が無傷のままだということだ。
「本当にひとりでやるのか」
「誰も倒せるなんて言ってないぜ? あたしが分かりやすい勝利条件を提示してやったんだ。あんたら逃がしたら人間の勝ち……それでいいじゃねえか 」
人狼は匂いを求めてふらふらと歩いている。アルトたちからも五人からもだいぶ離れていた。それを見てか、グエフは舌打ちしてしぶしぶ従う。
「感謝はしない……神官は魔属の敵だ」
「なんでもいいから早く行けよ。気まぐれな風で全滅もあり得るんだ」
(メルティがいたらな……)
人狼がすこしずつ近くなってくると、アルトはふと相棒を思った。
――いや、正確には友人か? それとも幼なじみ……同郷の……ああ――
――姉妹だ。そう……双子の姉妹だと思うことにしたんだ。と言うか、そうなろうとふたりで誓ったんだ。
どっかのお伽噺にあった、魂の双子のように――
物思いの間隙に、男の声が耳に入る。グエフがひとりを起こしたようだ。
人狼がその違和感に反応してか、空を仰いだ。風はまだ吹いていないが獣特有の敏感さで、空気の微妙な流れや変化を感じているのかもしれない。人狼までは目測で、あと七メートルほどか。
(魔属が六人いたところで勝ち目があるわけじゃない。頼むから気づくなよ?)
魔属が魔属たるゆえんは、魔力の内包者であるということだ。元来、魔力は呪術や魔力を持つ道具などで間接的に得ることが可能になるもので、ソフィアの民が先天的に持ちうるものではなかった。
しかし変異によるものかなんなのか、古代に突如として魔力を持つ者たちが登場する。ソフィアが信教国となる遥か以前は友好的だったらしいが、興国の折りには悪しき者たちとして追放されることになる。
なんにせよ、魔力は人間を狂わせる。魔属たちのほとんどは内在する魔力の強力さに魅せられて、暴力行為に走るのが常だ。さらにタチが悪いのは、魔力が人間を強化してしまうことにある。腕力、脚力、体力などなど……およそ通常人とは比べものにならないほどに、肉体が強化されてしまうのだ。例えばそう、三階の高さからの自由落下の着地を、平然とこなせてしまうくらいに。
だがそれでも、その強力な魔力の影響があっても、この人狼を倒せるとは思えない。その魔力による強化を、人狼は超えているようだ。ならば数がいたところでどうにもならない。
「祈誓に応えろ」
魔属たちはふたり、三人と目を覚ましていく。四人目が起きるころには、人狼が手の届く距離になった。さきほど腹部に受けた痛みは治まる気配がないものの、人狼を抑えなくてはならないという義務感がアルトに構えをとらせる。
「此の弱き手に戴く……」
ずいぶんと皮肉な祝詞だと、アルトは口元を歪めた。横を向いている人狼に、なあ? と視線だけで問いかける。
そのとき――柔かな風が吹き、アルトの髪を揺らしていった。人狼が牙を剥くのと、アルトが動くのはほとんど同時だった。折り畳み式のナイフを人狼の左腕に突き立てたとき、人狼は右手を振りかぶった。すかさず光球に触れ、ナイフを狙う。
「其の威武は破邪となりて!」
衝撃がナイフを食いこませ、左腕を貫通する。人狼は法術で一瞬だけ動きを止めたが、なにごともなかったように爪を振りおろした。痛覚もないようだと理解する。アルトはすかさずしゃがみ、後方へ跳ぶ。爪が眼前をかすめ、髪が数本宙を舞った。
(法術のダメージはねえのか……いや、単純に威力が弱いんだ。つーかそういうことにしといてくれ!)
アルトは着地するとすぐに横へ跳んだ。人狼が突進してくるのをすんででかわす。左腕の骨をナイフで破壊してやったのが功を奏し、人狼の動きがすくなからず鈍っている。しかし隙はない。突進が終わると体勢を立て直す。アルトは第一節よりも高威力の第三節を呟く。
「此の愚かにも差し出されし――」
(だめだ遅い!)
人狼はアルトの予測した数倍の速さで接近してきた。こちらを完璧に捕捉したときの動きは尋常ではなく、獰猛な爪が高速で横に振られたときには、左腕をあげるのが精一杯だった。
(メルティ……)
死を覚悟して――衝撃が貫く。
アルトはなす術なく殴り飛ばされ、気づけば草原をズザザザザザッ! と滑走していた。
ドガッ! と窪地と森の段差に身体を打ちつけて、ようやく止まる。痛みが全身を突き抜けるが、それは生きている証拠だった。
(出血はないし折れちゃいない……生来の頑丈さに救われたな)
アルトは自分を他人のように評して手をついた。
人狼はまたこちらを見失ったのか、あちこちに鼻を向けて動かしている。匂いを追えばいいものをとも思うが、鼻もまだ不完全な可能性もある。
「ずいぶん軽傷みたいだけど……」
自分を見おろす。そして人狼を見ると、爪で切りつけられたのに負傷しなかった理由はすぐに分かった。人狼の右手の爪は反り返っており、アルトを切りつけたときに折れたのだ。そのお陰で切断までに至らなかったのだろう。
「だけどなんでなんだ? 頑健と脆弱って矛盾だよな……」
アルトが神官服の左袖を見ると、最初に爪が触れた肩のあたりにほころびがあった。
アルトはふと、グエフの兄弟の傷口を思い出して魔属たちを見る。グエフと仲間たちは深手を負った兄弟のもとでなにやら話しているが、もめているようにも見えた。仲間をやられ、このまま黙って帰るわけにもいかないのだろう。
それはそれとして、あの兄弟の傷はどう見ても、鋭利な刃物で切りつけられたような傷口だった。しかしこれほど脆い爪でそれが可能なのかという疑問がある。
そもそも今なぜ爪が折れたのか。人狼が不完全で、最初に見た状態――グールと呼んでも差し支えないほどの状態ならば分かるが、今や肉体としては完成していて苦戦を強いられているのだ。
アルトが熟考していると、人狼はまたふらふらと歩き始めた。そして、グエフが炎の魔術を放とうと身構えるのが見えた。
「グエフてめえ! こっちがボロボロになってまで逃がしてやろうとしてんのに!」
「我々の総意だ! 神官の指図は受けん! グルート・ツ・グルンデッ!」
グエフがかざした両手から、彗星のような業火が放たれた。おそらく後先を考慮しない、全魔力をこめた魔術だった。五人があわせて疾駆するが、武器は手にしていない。そのかわりに五人からはゆらゆらと発される黒い魔力が見えた。
「自爆でもする気かよバカ野郎! そんなことは許さねえぞ……!」
アルトも人狼へと走り出して光球を喚ぶ。今までとは違う高威力の魔術から、熱風がほとばしっている。人狼は攻撃に気づいたようだが顔を向けるだけで立ち尽くしたままだ。炎は草原を焦土に変えながら疾り、人狼に直撃する!
(……そういうことか!)
アルトは祝詞を詠うまえに奥歯を噛みしめた。
魔術の炎は人狼に届いていなかった。それは見えない壁が魔術を阻んでいるかのようだった。人狼は自身を蒸発しかねない魔術をまえにして、熱風に体毛を遊ばせながら耳鼻をピクピクと動かしている。
人狼はその猛威と涼やかに対峙していたが、思い出したかのように右腕を、折れた爪を横薙ぎにした。爪を模したような風が刃となって業火を裂きながら飛翔し、業火を掻き消してしまう。風の魔術はそのまま、魔属たちを薙ぎ払った。さまざまな悲鳴をあげながら、魔属たちは切りつけられて吹き飛ばされる。
だがかまっている暇はなかった。アルトが舌打ちとともに光球に触れると、粒子が螺旋を描きながら腕にまとわりつく。
「此の愚かにも差し出されし両掌を、其の震怒は讃えた!」
人狼に接近して両掌を強くまえに出す。攻撃の隙をついた法術は輝く波紋を空間に造り、それが生みだした破壊振動は、人狼に無数の傷を与えながら弾き飛ばす!
ドギャゴッ! ――耳障りな効果音を残しながら、人狼は全身から出血し、宙を舞った。ふわりという緩慢さで浮きあがり、そのままドサッ……と地面に叩きつけられる。
……そしてそのまま沈黙する。人狼はごふっ……と血を吐きだすと、仰向けのままピクリとも動かなくなった。
……草原は静寂に包まれる。
「殺ったか?」
アルトは激しい疲労を覚えつつ、ふらつきながら魔属たちを探す。高位の術を使った法術疲労だが、頭痛がないのはまだいいほうだった。
魔属たちは人狼の放った魔術で負傷したようだが、たいした怪我でもないようだ。人狼が倒れた様子を見ながら、勝鬨のように沸きあがっている。
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