君が魔王でも愛したい

KDawn

文字の大きさ
3 / 8

3

しおりを挟む
 冷たい。

 最初に戻ってきたのは、その感覚だった。
 どれほど時間が経ったのか分からない。瞼を開ける前に、湿った土の匂いと、頬を撫でる微かな風だけが意識の表面を揺らしていた。

 アウルティスは、ゆっくりと目を開く。

 頭上には、塔の白い天井も、魔力灯もない。
 見知らぬ濃い緑と、枝の隙間から落ちる白い光。

「……外……」

 声に自覚が追いつくのに、数秒かかった。
 塔の外。二百年、願っても許されなかった場所。
 そのはずなのに、胸に湧いたのは歓喜ではなく、鈍い痛みだった。

 ——身体が、重い。

 崩落に巻き込まれた衝撃が、ゆっくりと蘇ってくる。
 片方の肩から脇腹にかけて、呼吸をするたびに内側から刺されるような痛みが広がる。
 防御膜が破れた時の魔力の逆流も尾を引いていて、片脚は痺れたまま地面をうまく掴めない。

 それでも、アウルティスは腕を突いて身を起こした。

 「……歩かないと」

 思考より先に、声がそう告げた。
 理由は分からない。だが、ここに留まることだけは本能的に危険だと理解していた。

 木々の間を一歩踏み出す。
 右脚が沈み、膝が折れかけたが、片腕で木の幹を掴んで姿勢を保つ。
 痺れは残っているが、骨が折れているほどではない。動かすたびに鈍い痛みが走るが、動けなくはなかった。


 それからの時間は、彼自身の記憶の中でも朧げだ。

 森はどこまで歩いても同じ景色だった。
 高い木々の影が陽を遮り、足元は落ち葉と湿った土で埋もれている。

 塔の整えられた空気とは違う。生き物の匂い、土の匂い、木々の水分の気配が濃すぎて、喉がひりついた。

 最初の半日は、ただひたすら歩いた。
 身体の痛みは、動けば動くほど鈍痛へと変わり、やがてその鈍痛すら遠のいていった。
 限界を超えた身体が、痛みの信号を切り捨て始めているのだとぼんやり理解した。

 「……ここは、外なのに」

 外界は美しいものだと、本の中では読んだ。
 光に満ち、自由があり、神々の干渉のない広い世界。
 だが今見える外界は、ただ広く、ただ静かで、ただ冷たい。

 気づけば夜になっていた。
 森の夜気は冷たく、衣服の上からでも容赦なく体温を奪う。
 呼吸をするたびに胸が軋み、視界の端が揺らぐ。

 休めばいいはずなのに、身体が地面に触れることを拒んでいた。
 眠ってしまえば、もう立ち上がれない気がした。

 だから歩き続けた。

 

 二日目。

 足取りは明らかに乱れていた。
 脚の痺れは広がり、膝に力が入らない。
 木に手を伸ばして体を支えても、指先に力が入らず滑り落ちる。

 喉は乾いていた。
 森の奥を流れる水の気配は読めるのに、辿り着く前に脚が止まる。
 天から降る光も、木々を透かして落ちる風も、アウルティスにはただ遠いものだった。

 ——神々は、彼らは、いま何をしているのだろう。

 考えてはいけない、とどこかで感じたが、意識が弱るほどにその思考だけが残った。


 自分は見捨てられたのか。
 自分のような存在ひとりのために、彼らはもう声を向ける余裕がないのか。

 答えはどこにもなかった。

 夜、倒木の影に身を寄せたとき、初めて脚が震えすぎて動かなくなった。
 寝てはいけないと思いながらも、瞼が落ちそうになるたび、全身が揺れて意識を引き戻した。

 

 三日目。

 朝の光に照らされた世界は、本来なら美しいはずだった。
 だがアウルティスには、色合いすら霞んで見えた。
 歩くというより、前に倒れ続けることでしか進むことができない。
 片脚の痺れはもう感覚が消えつつあり、反対側の足だけで支えているため、体の軸が傾く。

 息を吸うたびに胸が刺されるように痛む。
 それが崩落の影響か、防御膜の破裂のせいかは判断がつかなかった。

 どれだけ歩いたのだろうか、ふと、足元の草が途切れ、視界が開けた。
 
 思わずわずかに目を見開く。

 「……でられる……のか……?」

 自分の声とは思えないほど掠れていた。
 それでも、希望に似た何かが胸に灯る。

 一歩、前へ。
 もう一歩。

 しかし体はもう限界に近かった。

 脚が前に出るたび、視界が明るくなる。
 熱を持っていた脇腹と肩が、じんじんと脈打つ。
 そして三歩目を踏んだ瞬間、膝から完全に力が抜けた。

 前のめりに地面へ倒れ込む。
 手をつこうとしたが、指先が土を掴めない。

 世界が横に傾き、光が滲む。

 遠くで、誰かの気配がした気がした。
 幻かもしれない。
 けれど、アウルティスはほんの少しだけ微笑みに似た息を吐いた。

 ——ようやく、外に出られた。

 その思いを最後に、意識は完全に落ちていった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

俺の居場所を探して

夜野
BL
 小林響也は炎天下の中辿り着き、自宅のドアを開けた瞬間眩しい光に包まれお約束的に異世界にたどり着いてしまう。 そこには怪しい人達と自分と犬猿の仲の弟の姿があった。 そこで弟は聖女、自分は弟の付き人と決められ、、、 このお話しは響也と弟が対立し、こじれて決別してそれぞれお互い的に幸せを探す話しです。 シリアスで暗めなので読み手を選ぶかもしれません。 遅筆なので不定期に投稿します。 初投稿です。

果たして君はこの手紙を読んで何を思うだろう?

エスミ
BL
ある時、心優しい領主が近隣の子供たちを募って十日間に及ぶバケーションの集いを催した。 貴族に限らず裕福な平民の子らも選ばれ、身分関係なく友情を深めるようにと領主は子供たちに告げた。 滞りなく期間が過ぎ、領主の願い通りさまざまな階級の子らが友人となり手を振って別れる中、フレッドとティムは生涯の友情を誓い合った。 たった十日の友人だった二人の十年を超える手紙。 ------ ・ゆるっとした設定です。何気なくお読みください。 ・手紙形式の短い文だけが続きます。 ・ところどころ文章が途切れた部分がありますが演出です。 ・外国語の手紙を翻訳したような読み心地を心がけています。 ・番号を振っていますが便宜上の連番であり内容は数年飛んでいる場合があります。 ・友情過多でBLは読後の余韻で感じられる程度かもしれません。 ・戦争の表現がありますが、手紙の中で語られる程度です。 ・魔術がある世界ですが、前面に出てくることはありません。 ・1日3回、1回に付きティムとフレッドの手紙を1通ずつ、定期的に更新します。全51通。

春を拒む【完結】

璃々丸
BL
 日本有数の財閥三男でΩの北條院環(ほうじょういん たまき)の目の前には見るからに可憐で儚げなΩの女子大生、桜雛子(さくら ひなこ)が座っていた。 「ケイト君を解放してあげてください!」  大きなおめめをうるうるさせながらそう訴えかけてきた。  ケイト君────諏訪恵都(すわ けいと)は環の婚約者であるαだった。  環とはひとまわり歳の差がある。この女はそんな環の負い目を突いてきたつもりだろうが、『こちとらお前等より人生経験それなりに積んどんねん────!』  そう簡単に譲って堪るか、と大人げない反撃を開始するのであった。  オメガバな設定ですが設定は緩めで独自設定があります、ご注意。 不定期更新になります。   

婚約破棄を望みます

みけねこ
BL
幼い頃出会った彼の『婚約者』には姉上がなるはずだったのに。もう諸々と隠せません。

もう殺されるのはゴメンなので婚約破棄します!

めがねあざらし
BL
婚約者に見向きもされないまま誘拐され、殺されたΩ・イライアス。 目覚めた彼は、侯爵家と婚約する“あの”直前に戻っていた。 二度と同じ運命はたどりたくない。 家族のために婚約は受け入れるが、なんとか相手に嫌われて破談を狙うことに決める。 だが目の前に現れた侯爵・アルバートは、前世とはまるで別人のように優しく、異様に距離が近くて――。

王様の恋

うりぼう
BL
「惚れ薬は手に入るか?」 突然王に言われた一言。 王は惚れ薬を使ってでも手に入れたい人間がいるらしい。 ずっと王を見つめてきた幼馴染の側近と王の話。 ※エセ王国 ※エセファンタジー ※惚れ薬 ※異世界トリップ表現が少しあります

つぎはぎのよる

伊達きよ
BL
同窓会の次の日、俺が目覚めたのはラブホテルだった。なんで、まさか、誰と、どうして。焦って部屋から脱出しようと試みた俺の目の前に現れたのは、思いがけない人物だった……。 同窓会の夜と次の日の朝に起こった、アレやソレやコレなお話。

偽物の僕は本物にはなれない。

15
BL
「僕は君を好きだけど、君は僕じゃない人が好きなんだね」 ネガティブ主人公。最後は分岐ルート有りのハピエン。

処理中です...