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冷たい。
最初に戻ってきたのは、その感覚だった。
どれほど時間が経ったのか分からない。瞼を開ける前に、湿った土の匂いと、頬を撫でる微かな風だけが意識の表面を揺らしていた。
アウルティスは、ゆっくりと目を開く。
頭上には、塔の白い天井も、魔力灯もない。
見知らぬ濃い緑と、枝の隙間から落ちる白い光。
「……外……」
声に自覚が追いつくのに、数秒かかった。
塔の外。二百年、願っても許されなかった場所。
そのはずなのに、胸に湧いたのは歓喜ではなく、鈍い痛みだった。
——身体が、重い。
崩落に巻き込まれた衝撃が、ゆっくりと蘇ってくる。
片方の肩から脇腹にかけて、呼吸をするたびに内側から刺されるような痛みが広がる。
防御膜が破れた時の魔力の逆流も尾を引いていて、片脚は痺れたまま地面をうまく掴めない。
それでも、アウルティスは腕を突いて身を起こした。
「……歩かないと」
思考より先に、声がそう告げた。
理由は分からない。だが、ここに留まることだけは本能的に危険だと理解していた。
木々の間を一歩踏み出す。
右脚が沈み、膝が折れかけたが、片腕で木の幹を掴んで姿勢を保つ。
痺れは残っているが、骨が折れているほどではない。動かすたびに鈍い痛みが走るが、動けなくはなかった。
それからの時間は、彼自身の記憶の中でも朧げだ。
森はどこまで歩いても同じ景色だった。
高い木々の影が陽を遮り、足元は落ち葉と湿った土で埋もれている。
塔の整えられた空気とは違う。生き物の匂い、土の匂い、木々の水分の気配が濃すぎて、喉がひりついた。
最初の半日は、ただひたすら歩いた。
身体の痛みは、動けば動くほど鈍痛へと変わり、やがてその鈍痛すら遠のいていった。
限界を超えた身体が、痛みの信号を切り捨て始めているのだとぼんやり理解した。
「……ここは、外なのに」
外界は美しいものだと、本の中では読んだ。
光に満ち、自由があり、神々の干渉のない広い世界。
だが今見える外界は、ただ広く、ただ静かで、ただ冷たい。
気づけば夜になっていた。
森の夜気は冷たく、衣服の上からでも容赦なく体温を奪う。
呼吸をするたびに胸が軋み、視界の端が揺らぐ。
休めばいいはずなのに、身体が地面に触れることを拒んでいた。
眠ってしまえば、もう立ち上がれない気がした。
だから歩き続けた。
二日目。
足取りは明らかに乱れていた。
脚の痺れは広がり、膝に力が入らない。
木に手を伸ばして体を支えても、指先に力が入らず滑り落ちる。
喉は乾いていた。
森の奥を流れる水の気配は読めるのに、辿り着く前に脚が止まる。
天から降る光も、木々を透かして落ちる風も、アウルティスにはただ遠いものだった。
——神々は、彼らは、いま何をしているのだろう。
考えてはいけない、とどこかで感じたが、意識が弱るほどにその思考だけが残った。
自分は見捨てられたのか。
自分のような存在ひとりのために、彼らはもう声を向ける余裕がないのか。
答えはどこにもなかった。
夜、倒木の影に身を寄せたとき、初めて脚が震えすぎて動かなくなった。
寝てはいけないと思いながらも、瞼が落ちそうになるたび、全身が揺れて意識を引き戻した。
三日目。
朝の光に照らされた世界は、本来なら美しいはずだった。
だがアウルティスには、色合いすら霞んで見えた。
歩くというより、前に倒れ続けることでしか進むことができない。
片脚の痺れはもう感覚が消えつつあり、反対側の足だけで支えているため、体の軸が傾く。
息を吸うたびに胸が刺されるように痛む。
それが崩落の影響か、防御膜の破裂のせいかは判断がつかなかった。
どれだけ歩いたのだろうか、ふと、足元の草が途切れ、視界が開けた。
思わずわずかに目を見開く。
「……でられる……のか……?」
自分の声とは思えないほど掠れていた。
それでも、希望に似た何かが胸に灯る。
一歩、前へ。
もう一歩。
しかし体はもう限界に近かった。
脚が前に出るたび、視界が明るくなる。
熱を持っていた脇腹と肩が、じんじんと脈打つ。
そして三歩目を踏んだ瞬間、膝から完全に力が抜けた。
前のめりに地面へ倒れ込む。
手をつこうとしたが、指先が土を掴めない。
世界が横に傾き、光が滲む。
遠くで、誰かの気配がした気がした。
幻かもしれない。
けれど、アウルティスはほんの少しだけ微笑みに似た息を吐いた。
——ようやく、外に出られた。
その思いを最後に、意識は完全に落ちていった。
最初に戻ってきたのは、その感覚だった。
どれほど時間が経ったのか分からない。瞼を開ける前に、湿った土の匂いと、頬を撫でる微かな風だけが意識の表面を揺らしていた。
アウルティスは、ゆっくりと目を開く。
頭上には、塔の白い天井も、魔力灯もない。
見知らぬ濃い緑と、枝の隙間から落ちる白い光。
「……外……」
声に自覚が追いつくのに、数秒かかった。
塔の外。二百年、願っても許されなかった場所。
そのはずなのに、胸に湧いたのは歓喜ではなく、鈍い痛みだった。
——身体が、重い。
崩落に巻き込まれた衝撃が、ゆっくりと蘇ってくる。
片方の肩から脇腹にかけて、呼吸をするたびに内側から刺されるような痛みが広がる。
防御膜が破れた時の魔力の逆流も尾を引いていて、片脚は痺れたまま地面をうまく掴めない。
それでも、アウルティスは腕を突いて身を起こした。
「……歩かないと」
思考より先に、声がそう告げた。
理由は分からない。だが、ここに留まることだけは本能的に危険だと理解していた。
木々の間を一歩踏み出す。
右脚が沈み、膝が折れかけたが、片腕で木の幹を掴んで姿勢を保つ。
痺れは残っているが、骨が折れているほどではない。動かすたびに鈍い痛みが走るが、動けなくはなかった。
それからの時間は、彼自身の記憶の中でも朧げだ。
森はどこまで歩いても同じ景色だった。
高い木々の影が陽を遮り、足元は落ち葉と湿った土で埋もれている。
塔の整えられた空気とは違う。生き物の匂い、土の匂い、木々の水分の気配が濃すぎて、喉がひりついた。
最初の半日は、ただひたすら歩いた。
身体の痛みは、動けば動くほど鈍痛へと変わり、やがてその鈍痛すら遠のいていった。
限界を超えた身体が、痛みの信号を切り捨て始めているのだとぼんやり理解した。
「……ここは、外なのに」
外界は美しいものだと、本の中では読んだ。
光に満ち、自由があり、神々の干渉のない広い世界。
だが今見える外界は、ただ広く、ただ静かで、ただ冷たい。
気づけば夜になっていた。
森の夜気は冷たく、衣服の上からでも容赦なく体温を奪う。
呼吸をするたびに胸が軋み、視界の端が揺らぐ。
休めばいいはずなのに、身体が地面に触れることを拒んでいた。
眠ってしまえば、もう立ち上がれない気がした。
だから歩き続けた。
二日目。
足取りは明らかに乱れていた。
脚の痺れは広がり、膝に力が入らない。
木に手を伸ばして体を支えても、指先に力が入らず滑り落ちる。
喉は乾いていた。
森の奥を流れる水の気配は読めるのに、辿り着く前に脚が止まる。
天から降る光も、木々を透かして落ちる風も、アウルティスにはただ遠いものだった。
——神々は、彼らは、いま何をしているのだろう。
考えてはいけない、とどこかで感じたが、意識が弱るほどにその思考だけが残った。
自分は見捨てられたのか。
自分のような存在ひとりのために、彼らはもう声を向ける余裕がないのか。
答えはどこにもなかった。
夜、倒木の影に身を寄せたとき、初めて脚が震えすぎて動かなくなった。
寝てはいけないと思いながらも、瞼が落ちそうになるたび、全身が揺れて意識を引き戻した。
三日目。
朝の光に照らされた世界は、本来なら美しいはずだった。
だがアウルティスには、色合いすら霞んで見えた。
歩くというより、前に倒れ続けることでしか進むことができない。
片脚の痺れはもう感覚が消えつつあり、反対側の足だけで支えているため、体の軸が傾く。
息を吸うたびに胸が刺されるように痛む。
それが崩落の影響か、防御膜の破裂のせいかは判断がつかなかった。
どれだけ歩いたのだろうか、ふと、足元の草が途切れ、視界が開けた。
思わずわずかに目を見開く。
「……でられる……のか……?」
自分の声とは思えないほど掠れていた。
それでも、希望に似た何かが胸に灯る。
一歩、前へ。
もう一歩。
しかし体はもう限界に近かった。
脚が前に出るたび、視界が明るくなる。
熱を持っていた脇腹と肩が、じんじんと脈打つ。
そして三歩目を踏んだ瞬間、膝から完全に力が抜けた。
前のめりに地面へ倒れ込む。
手をつこうとしたが、指先が土を掴めない。
世界が横に傾き、光が滲む。
遠くで、誰かの気配がした気がした。
幻かもしれない。
けれど、アウルティスはほんの少しだけ微笑みに似た息を吐いた。
——ようやく、外に出られた。
その思いを最後に、意識は完全に落ちていった。
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