隠世の門

海谷ノ

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第3話 日常の縁(えにし)

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――いつも通りの朝は、もう戻らない。



夏の終わりの空気は、まだ少し湿っていた。

晴翔はるとはいつもの道を歩きながら、胸の奥の“ざわめき”に気づいていた。



痛みではない。

熱でもない。

ただ昨日の森で触れた、あの裂け目の余韻が、身体のどこかに残っている。



肩がひやりとする。

風が足元をそわそわと撫でていく。



(……変な朝だ)



理由はわからない。

晴翔はただ、そう思っただけだった。



教室はいつもと同じ、はずだった。



学校に着いて靴を履き替えても、

誰かに話しかけられることはない。



避けられているわけでも、嫌われているわけでもない。

ただ、晴翔という存在は“そこにいるのに気づかれにくい”。



彼自身も、それで困ったことはほとんどなかった。



教室の空気はざわざわと熱を帯びている。

隣の席でため息をついた生徒の小さな苛立ちが、

晴翔の胸に薄く触れた。



(……疲れてるのかな)



そんなふうに、誰かの“揺れ”を拾ってしまう。

昔からの体質だった。



影が遅れた。



二限目の途中。

物静かな男子──影山かげやまが席を立った。

教科書を持って別の席へ移るためだ。



その瞬間だった。



床に落ちた影が、

影山の動きより“少し遅れて”揺らいだ。



一瞬、濃く沈む。

その後で、影山の足元へと吸い込まれるように形を戻す。



誰も気づかない。



ただ、晴翔だけが息を止めた。



肩の上で、空気がひやりと張りつめた。

妖狐が耳を立てる気配。



足元の風がざわつく。

カマイタチがそわそわと動く。



(また……昨日の)



影山本人は気づかず、

ふらついた様子で自席に戻っていく。



晴翔の胸にざわりが落ちた。







休み時間。

影山は机に突っ伏したままだった。



友達と話す気配もなく、

呼びかけられても返事が遅い。



瞳はどこか“ここにいない色”をしている。



(具合……悪いのかな)



晴翔が視線を向けた瞬間、

妖狐が肩で冷気を帯び、

カマイタチの風が小さく逆巻いた。



(……見ない方がいいって、言ってる?)



自分が何に反応しているのかも分からないまま、

晴翔は目を逸らした。







校庭の端のベンチ。

晴翔は弁当を広げ、ぼんやり空を見ていた。



日差しは柔らかい。

子どもたちの声も遠くで聞こえる。



けれど。



パキ、と空気が細く裂けた。



晴翔の肩が冷える。

妖狐が警戒の気配。



次の瞬間、足元で風が逆巻いた。

カマイタチが“動くな”と言うように。



晴翔は辺りを見回す。



(……何も、いない?)



異常は、ただそこに“在るだけ”だった。

形にならず、音にならず、

けれど確かに世界の裾を引いている。







放課後。

帰り支度をしてしゃがんだ瞬間、

下駄箱の鏡がふっと揺れた。



晴翔の肩の上、

何かが覗くようにひずむ。



振り返っても誰もいない。



ただ、胸の奥で風がざわめき、

肩の冷気がひとつ瞬いた。



(……また、あの夜みたいだ)



斗泉の影が近くを通ったことなど、

晴翔は知る由もない。



だが、世界は確かに“つながりはじめていた”。







夕暮れの風が街を撫でていた。



晴翔はいつもの分かれ道で足を向けようとした。

その瞬間、足首に風が絡んだ。



そっと、しかし確かに“止められた”。



(行くな……?)



問いに答えはない。

ただ妖狐の冷気と、カマイタチのざわつきが体の左右で揺れている。



次の瞬間、

遠い森の方向で黒い線がひとつ揺れ、すぐに消えた。



晴翔は息を呑んだ。







家の前。

ポケットのスマホが突然震えた。



通知はない。

画面が揺れ、ノイズが走る。



一瞬だけ、九曜の紋に似た形が浮かび──

すぐ消えた。



晴翔は立ち尽くす。



(……また、おかしい)



けれど、誰にも言わない。

言えるはずもない。



日常はまだ“崩れていない”。

だが、確実に“どこかが軋んでいる”。



晴翔だけが、その音を拾っていた。
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