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第1章
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しおりを挟む泊まっている宿の裏には井戸があり、宿泊者なら誰でも使って良いことになっている。
大量の薬草を乗せた籠を抱えた私は、その横にある洗い場へと向かっていた。
この薬草は昨日、私がポイズンビーの採集に行っている間にエルザが市場で仕入れてくれていたものだ。
その場所は薬草を洗ったり乾燥させたりするのにちょうど良さそうな場所だったので、保存のための処理をしようと思ったのだ。
宿から出たとき、門の外にジェラールがいるのが見えた。
そういえば、ウィルがジェラールは何か用があって昨日は宿に帰ってこないのだと言っていた。
今、帰ってきたばかりのようだ。
お帰りなさいという意味を込めて私はジェラールに手を振った。
「こんにちは、リュカさん。薬作りですか?大変そうですね」
私に気づいたジェラールは笑顔で近づき、籠の中を見ながらそう言った。
多少量が多いだけで薬草を洗って乾燥させるだけなのでそれほど大変なことではないのだが、私は曖昧に頷いた。
手がふさがっている今、筆談ができないことを忘れていた。
今まで話ができるような相手や挨拶するような仲の相手もいなかったから、いまいち勝手がつかめていない。
エルザは長年のつきあいで言わなくても分かってしまうので、伝えられないもどかしさを感じるのは久しぶりだ。
だけど、そんなもどかしさを感じられることはそれだけ深く関われる人が増えたということになるんだと思い、少し嬉しい。
昨日は帰ってこなかったということは遠出だったのだろう。
疲れているジェラールを引き留めてはいけないと思い、軽く会釈して洗い場に向かおうとした。
しかし、予想と反してジェラールが私についてきた。
「不躾にすみません。実は私、リュカさんに折り入ってお願いがあるんです」
笑顔でそう告げるジェラールに私は向き直る。
私に頼み事なんて、どんなことだろう。
ジェラールとは、今までそれほど話したことがない。
ウィルとエルザを混ぜてなら何度かあるが、それこそ二人きりで話すことなど初めてだ。
予想ができない頼み事に少しどきどきしながら待っていると、相好を崩さない彼の口から次の言葉が出てきた。
「エルザさんから手を引いてください」
………。
私は彼が言っていることが、すぐには理解できなかった。
私の脳はその表情とその言葉が同じ人物から出ているということが信じられなかったようで機能停止してしまっている。
「言っていることが分かりませんか?エルザさんと別れてくださいと言っているんです」
どう見ても人の良い笑顔にしか見えないジェラールの表情がとても恐ろしいものに感じる。
戸惑う私は何もできずにじっとしていると、ちっ、と舌打ちが聞こえた。
そして苛立ったように乱暴に頭をかいたジェラールからは笑顔が消えていた。
ドンッ!
次の瞬間、背中に衝撃が走った。
私はジェラールに胸ぐらを掴まれて壁に押しつけられたのだ。
その衝撃で持っていた籠を取り落とし、辺りに薬草が散らばる。
「あの子は絶対に必要だ!!お前がいるせいで破滅するかもしれない......お前なんかでは救うことなんて出来ないんだよ!!」
いつもとは違う口調に威圧的な態度。
それほど余裕がない怒りなのだろう。
そんな怒りを前にして、私はすうっと冷静になった。
ああ。
やっぱりあの場所に私なんかがいて良いはずがなかったんだ。
幸せなときなんて経験したことがなかった私だけど、こんなにも長い間それを経験できたんだからもう満足だ。
彼女の幸せを奪うようなことはしてはいけない。
大丈夫、引き際は分かっている。
私も考えていた。
エルザはいつか結婚して家族を持つだろう。
その時が私がエルザの元を去るときだと。
その相手がウィルだったらエルザはきっと幸せになれる。
ウィルの出身や経歴を調べて危険がないと分かったらエルザから離れようと思っていたのに。
毎日が楽しすぎ何かと理由をつけてそれをしないでいた。
私は懐からペンと紙を取り出すとそこに弱々しく書き綴った。
“大丈夫。本当は僕とエルザは付き合っていないから。ウィルのこと応援してるよ”
そうとだけ書いた紙をジェラールに押しつけると私は門から飛び出した。
私はきっと酷い顔をしている。
いつだって表情をコントロールできるようになったはずだったのに、昔のように自分の顔と意識が別のものになってしまったようだ。
水の膜が張った視界で私は行く当てもなく走り出したのであった。
宿の裏でトレーニングをしていたウィルはジェラールの怒鳴り声を聞き、何事かと様子を見に来た。
するとそこではジェラールがリュカにつかみかかっており、リュカがどこかへと走り出して行ったところだった。
「おい!!お前、あいつに何言ったんだ!あいつには関係ないだろう!!」
「あなたがぐずぐずしてるからいけないんですよ!王はもう……!」
ジェラールのその言葉にウィルは驚き、苦しそうな顔をする。
「……それでも俺は、誰かを傷つけるまでして手に入れた幸せなんて欲しくない!!」
怒りとそして悲しみも混じったような声で言い放つと、ウィルはリュカを追いかけて走り出した。
そんなウィルをジェラールは止めることも出来ずにただその後ろ姿を見つめていた。
そしてその場には彼と共に喪失感と罪悪感のみが残されたのであった。
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