呑却

憂月柘榴

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 溢れかえる、血の海。そこに形はない。「呑却するもの」は元より形を持たない。
 存在し、包括し、渇望し、併合し、呑却する。…

 溶け出す自我の青色が、血の海と混ざる。ぶくぶくとあぶくを立てながら血の海はそれを呑み込んでいく。赤黒い、空間中を埋め尽くす血が、全てを喰らい尽くす。蒼炎の焔を、焼け爛れた皮膚を、燃え残った灰を、あらゆる景色も記憶も…沈殿する。呑み込まれ、回帰する。それは世界へ接続される。入り、戻る。永劫回帰の業の中で、存在が混淆し、分解される。再構築された、言葉という形を纏って、器にそれは投げ渡される。
 視神経の発火に、蜘蛛の糸。三叉神経が擦り切れる。脳細胞が焼ける。ニューロンの落雷に血液が沸騰する。動きを止めた筋肉たちは死体のようにだらりと垂れ下がり、ただ脳だけが空間に浮いている。器質が呑み込まれる。溶けていく、血の中に。沸騰する、そのささくれだった血管の内側を流れる、紅い欲動に融解する。身体中の皮膚を内側から掻きむしるようなむず痒さに、鳥肌が応える。

 怪物を檻から放てば、そう。
 器すら呑み込もうとする。

 背筋を登る、骨髄の中を血が逆流し、脳を鬱血させる。体は熱になる。物体を知覚する術が薄くなり、感性だけが研ぎ澄まされていく。全てを呑み込もうとするソレの運動は、脈動に似る。蠢くように、波打つように、自我を超え、肉体を超え、五感を超える。そしてソレの至る先は、世界しかない。
 空間、空間という、無にある有。塗り変わっていく、ベージュ色の壁が赤黒い血の壁に。ソレの体内に変わっていく。鼻腔を支配する血の匂い、生々しい粘膜の匂い、何もかもを溶解させる酸の刺激。
 焦点の定まらない瞳孔をなんとか繋ぎ止め、言葉を綴る。背筋は今も異様な熱に支配されている。視界の、色彩と言われるものが変わる。一様にソレに呑まれていく。あらゆらものが等価に、静かに溶ける。音は螺旋になり、神経を遡り、物体にしがみつく。だがそれも、じわじわと分解されていく。時が崩壊する。頭痛だけが微かに地上の香りを残している。指先と、脳…だけが有機的に生きている。

 ソレの支配を免れて、餌を連れてくるために。

 瞼が勝手に意識を暗闇に連れ込もうとする。定まらない焦点、眠気のない睡魔、それは自我の、意識の混濁に他ならない。繋ぎ止めているのは、ただ言葉を紡ぐという薄氷の上の一歩だけ。まだ間に合う、と理性の残る脳が警告を発する。それに笑いを返し、言葉を紡ぐ。頭痛が加速する。
 体に血が纏わりついている。いや、違う。血ではない。ソレが纏わりついている。粘りのある、生ぬるい、経血のようなソレが、首から下の全身を覆っている。喘ぐように息をする。止まっていたことを忘れていた。指輪の冷たさに我に返り、呼吸する。血管と神経は拡張され、もはや皮膚を越境した。感性はソレに抗いながら、鋭敏に、鈍麻に、なっていく。味わうことは、ソレの目的ではない。ソレは喰らうことのみを目的とする。感性は味わい、言葉に綴ることを目的とする。その差異は、私という器を二分する。
 熱と冷、動と静、対立するあらゆる二極が共存し、溶け合わずに鬩ぎ合う。感性の結界が破られることはない。だが、ソレは結界そのものを覆い尽くすように纏わりついていく。全てを呑み込むものは、自らさえ呑み込む。その当たり前さに、右目の奥が加熱する。両目が痙攣し、意識が痛みに惹きつけられる。それは理性の悲鳴に違いない。自我は言っている、檻を解いたのは私だ、すまない、と。
 脊椎の内部が蠢いている。ずるずると流れる、体液の全てが、叛逆を始める。

 ソレを、戻す時だ。

 深い呼吸と共に、筋肉が緊張し、焦点が定まる。色彩が、色彩に戻り始める。体に纏わりついていたソレが、内側に吸収されていく。部屋中に広がったソレが、戻っていく。骨髄が痙攣する、広げられた翼を無理やり収縮させるかのように。
 努めて意識を明瞭にしながら、ソレに形を与える。檻を作る。血に塗れた、決して壊れない檻を。
 脳の痛みが引き始める。焦点が乱れない。息だけを意識的に深くする。

 ソレは「呑却するもの」に戻った。

 呼吸を繰り返しながら、じわりと残る頭痛の中で、私は笑う。

 「おかえり、怪物」

…………
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