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第一章

第11話 口移しでフグ毒を投与

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 この話の主な登場人物

 カトリーヌ 主人公(わたし)
 フランツ 護衛
 ヒルダ 家庭教師

  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆


 と、そのときである。

「ぁ……ぁぁ」

 わたしは意識を回復し、か細い息が出た。

「お嬢さまの意識が、意識が戻られた!」

「カトリーヌさまっ!」

 フランツが叫ぶ。
 ヒルダが呼びかける。
 その声がする。
 だけどわたしの目は二人を捉えることができない。

「目が、目がみえない。声がするのに、二人が見えない。どこなの……こふっ、けふっ……どこに」

 耳にはかろうじて声が届きはするものの、視界に何も入ってこないのだ。
 わたしはそれに恐怖した。
 そして言葉が続かず、はぁはぁと荒い息をする。

「カトリーヌお嬢さま、わたしです、フランツです。わたしはここにいます!」

 そう言ってわたしの手を握ってくれた。

「ああっ、フランツ、居るのね。けふっ」

「お嬢さま、わたしも居ます。ヒルダです!」

 彼女もわたしの手を握ってくれる。
 わたしはを二人の手を握り返そうとするが、それも力が入らない。
 だから覚悟した。

「もう目が見えない。……力も入ら、ない。息も、く、くるしい。いよ、いよ、おわかれ、こふっ」

「カトリーヌお嬢さま、お気をたしかに。そんなことを言ってはダメだ。でも、もし逝かれてもご安心ください、わたしか黄泉路までご一緒します。決して一人にはさせません。どこへ行かれても、わたしが側に居続けます!」

「ああっ、フランツ、う、嬉しい。でも、それは、だ、だめ、こふっ、こふっ」

「ヒルダもお供します。わたしを友人と呼んでくれたお嬢さま、決して、決してお一人にはさせませんっ」

「だ、だめよ、ヒルダも。そ、んなことを、言っては」

 瞳孔が開ききったわたしの目がどんよりと光を失っているのを、フランツとヒルダは見る。
 それはもう、どんどんと生きている人でなくなっている証拠。

「ヒルダ殿、例の物を」

 フランツに促されたヒルダがこくんとうなずく。
 そして言った。

「今からお嬢さまにフグの肝を飲んでいただきます」

「フ、グ」

 もう私は考えることもほぼできなくなっている。
 ただ、それが恐ろしい毒なことが分かっている。
 だから、この苦しみから解放するために安楽死させるのだと早とちりした。

「も、もう、助からないから……ふけっ……おだやかな、死を……はぁはぁ……そういうこと、なのね」

「お嬢さま、違います、違います!」ヒルダが叫ぶ。そしてこう続けた。「お嬢さまは神経毒に犯されています。だからそれの吸収を阻害するためにフグ毒を投与するのです!」

 わたしは思考が定まらない。
 言われた意味も理解できていなかった。
 でも、必死に手段を講じてくれようとしていることだけは伝わった。

「お、お、ねが、い」

 ヒルダはフグの卵巣、その一部をペティナイフで細かく砕き、水で溶いた。
 それをスプーンですくって、わたしの口の中に流し込もうとする。
 だけど苦しさから飲み込めない。
 無意識に顔を背けてしまう。

「ああっ」

「お嬢さま、これを、これを飲むのです」

「むり、で、す。く、くるしくて……けふっ」

「ああ、どうか、これを」

 ヒルダが泣いている。
 飲まそうとするが、身体が受け付けないのだ。
 意を決したフランツが、「わたしが何とかする」と言った。
 そして意識を失いかけたわたしに語りかける。

「カトリーヌお嬢さま、お聞きください。いまからわたしが口移して飲ませます。お叱りはあとで、どんな罰でも構いません。でもいまは、まず、そのお命を救うことを第一に、よろしいですね」

「フ、フランツ殿、お、おねがい、します」

 わたしは次第に意識が遠のき、もう目だけではなく、精神も暗闇に沈もうとしている。
 暗闇がこの世界のすべてになっていこうとしている。
 死が、わたしの世界になろうとしている。
 それがわかる。

 フランツは小皿を受け取ると、フグの卵巣を溶いた水を口に含む。
 そしてわたしの額に手をやり、顔にかかっている髪をより分ける。
 その顔に自分の顔を重ねた。
 唇が触れる。

 この冷たい、そして苦しいだけの暗闇の世界で、その感触は暖かく、そして光った。
 まるで暗黒を切り裂くように暖かい陽光が差し込んでいるかのようだった。

 微かに開かれた口に液が流れ込んでくる。
 でも、わたしはそれを飲み込めない。

 と、そのとき、わたしの口の中に柔らかい物が入ってきた。
 それはフランツの舌だった。
 彼の舌がわたしの舌をそっと押し、食道を空ける。
 するっと液がのどを通過する。
 わたしは苦もなく、こくこくと液体を飲んだ。

 全て飲み終えたことを確認したフランツの唇が離れる。
 彼の唇。
 それは、暗闇の牢獄に捕らわれたわたしの、陽光のような明るい希望。
 それが無くなり、また暗黒に引き戻されるかのような寂しさ、いいえ、恐怖を覚えた。
 心細さを覚えたわたしは、「ぁぁ」と小さく声を息を吐く。そして、「いっちゃやだ」と言葉を漏らした。
 さらに彼を探し続けた。

「フランツ、フランツ、どこなの。いっちゃやだ、わたしを一人にしないで」

 迷子の子供のようにうろたえた。

「わたしは、ここに。ずっと側に居ります、ご安心を」

 彼はそう優しく語りかけながら、額を撫でてくれた。

「お嬢さま、ヒルダもここに居ります。ずっと離れません」と彼女もぎゅっと手を握ってくれた。

「ヒルダ、ヒルダもそこに居るのね。うれしいわ」

 そのときである。
 御殿医のベルモンが白衣に袖を通しながら部屋に入ってきた。
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