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5 死と生を望む心

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『私のかわいいノツィーリア。人生なにが起こるか分からないんだから最期まであきらめちゃダメよ』――。

 遠くから、温かな母の声が微かに聞こえてくる。しかしぼろぼろになった心には、その言葉の響く余地はなくなっていた。

(私が誰かに犯されている姿を大勢の人が見るなんて、そんなの絶対にいや……!)

 こらえていた涙が今にもあふれそうになり、口元を押さえて自室へと急ぐ。
 頭の中に悪夢のような光景が描き出されていく。壁一面を埋めつくすガラス板の一枚一枚に自分の裸が映しだされ、大勢の男がまるで絵画を鑑賞するかのように顎に手を当てて、ガラス板に描かれるノツィーリアの醜態を眺めては歯を見せて笑い、目を細めたり舌なめずりしたりする。

 歩を一歩進める毎に視界は暗くなっていき、自分が今どこへ向かっているのか、なんのために歩き続けているのかすらわからなくなっていく。

(申し訳ございませんお母様、私はもう未来に希望など持てません。私も早く、お母様の元へ行きたい……!)

 どうすればこの命をただちに絶てるのか。
 なにも思いつかないまま、城仕えの者たちの怪訝なまなざしを浴びる中、何度もくずおれそうになりながらもどうにか廊下を駆けぬけ急いで階段を駆けあがり、自室のある廊下へと差しかかる。
 涙でゆがんだ視界の端、手すりの向こう側にふと階下に立つ石像の頭の部分が見えた。鋭い槍を手に持ち凛と佇む巨大な戦士の像。手すりを乗りこえて思いきり跳躍すれば、その槍の先端に自身の身を届かせられる気がした。

 槍が胸をつらぬき、血しぶきの上がる光景が鮮やかに脳裏に描きだされる。

(そうだ、そうすれば私はこの苦しみから解放される)

 玄関ホールに面した手すりにすがるようにつかまり、舞の練習で身につけた身軽さで木製の柵を乗り越えて後ろ手に手すりをつかむ。
 槍の先端を一心に見据える。床を蹴って宙を舞い、槍の真上からこの身を落とせば、非情なる現実に別れを告げることができる。

 救いが今まさに目の前に広がっている――。

 幸福感すら覚えながら、手すりから手を離そうとしたその瞬間。


「なにをなさっているのです姉姫様! 早まってはいけません!」


 突如として二の腕をつかまれて強引に引きもどされた。床に尻餅を突く直前、背中に手を添えられて衝撃を和らげられる。ノツィーリアを引き留めたのは妹の婚約者ユフィリアンだった。走ってきたのだろうか、息を弾ませている。

「なぜ貴方が私を……?」

 ユフィリアンは、座りこんだノツィーリアを無視してその場に立ち上がった。直後、ヒールの音が近づいてきた。
 もったいぶった足取りで歩みよってきたのはディロフルアだった。ユフィリアンに寄りかかるようにぴったりと隣に立ち、顔の下半分を扇子で隠す。

「ユフィリアン様はお優しくていらっしゃるのですねえ。お姉さまを助けてくださったこと、ありがたく存じますわ」

 目を細めてノツィーリアを眺めつつ、ありがたいなどと微塵も思っていない不気味な笑顔で感謝を口にする。
 婚約者は妹に顔を振りむかせると、笑顔を輝かせた。

「僕らの婚儀の前に不幸があっては縁起が悪いからね」
「ええ、ええ! 本当に、ユフィリアン様のおっしゃる通りですわ!」

 ディロフルアが婚約者に視線を返して何度もうなずく。
 見つめあったふたりは改めて笑みを浮かべたあと、床に座りこんだままのノツィーリアを見下ろしてきた。

「お姉さまはこれから大事な大事なお務めがあるのですから自害なんていけませんわ。お父さまが教えてくださいましたけれども、向こう一年の予約がすでに埋まっているんですって。魔道具を用いての観覧希望者も、一晩で五百人を優に越えているそうですわ。意外と人気者ですわねえ、お姉さまのくせに」

 最後の一言を吐きすてる風な口調で投げつけてきて、大仰な口ぶりで言葉を継ぐ。

「おかげさまで、わたくしたちの婚儀を一段と華々しくすることができますわ。ああ、お姉さまってば、なんて妹思いの尊きお方ですこと!」

 ディロフルアはノツィーリアに背を向けると、高笑いを廊下に響かせながら歩き去っていった。


 静寂が訪れれば、ほんのわずかだけ冷静さを取り戻す。
 死に損ねてしまった、否、自ら命を絶とうとするなんてお母様に申しわけが立たない――。
 ノツィーリアはよろよろとその場に立ちあがると、重い足取りで自室に戻っていった。


    ◇◇◇◇


 その日の晩のこと。
 自害しそこねたノツィーリアがベッドに倒れこんだままぼんやりとしていると、扉を叩く音が聞こえてきた。
 普段メイドたちがしてくるような、悪意に満ちた乱暴な叩きかたではない。不審に思いつつ起きあがり、とぼとぼと扉の前まで歩いていき応答する。
 現れたのは老執事だった。幼い頃、母と暮らしていた離宮で執事長をしていたその執事は白髪頭になっていて、記憶の中の姿よりずっと年老いていた。
 母を知る召使いとの十七年ぶりの再会。懐かしさに涙が込みあげてくる。しかし感激しているのはノツィーリアの方だけで、相手はなんの感慨も抱いていないようだった。

 まばたきを繰り返しつつ訪問者を部屋の中へと通す。老執事はひとりでやってきたわけではなく、続けて中年の料理人がワゴンを押しながら入ってきた。その上には丸い銀の蓋の被せられた料理が置かれている。コック帽の長さからして料理長であろう人が、ノツィーリアひとりのためにわざわざ食事を運んできたらしい。
 その手厚さに、父王が今回の【事業】にどれだけ執念を燃やしているかがうかがい知れる。ノツィーリアの心にたちまち黒煙めいた暗雲が垂れこめはじめた。


 ひんやりとした空気のただよう部屋の中を老執事が足早に歩き回り、いくつかある燭台に次々と火を灯していく。明るくなった部屋の壁際にノツィーリアが佇んでいると、ちらと視線を向けてきた執事は円卓に歩みよって椅子を引いた。促されるままにその前に立ち、おそるおそる腰を下ろす。こういった丁寧な扱いは久しぶりで気後れしてしまう。
 昼のうちにこの部屋へと戻ってきてからずっと火の消えっぱなしだった暖炉に老執事が火を入れる一方で、料理長がノツィーリアの目の前に料理を置き、うやうやしい手付きで銀の蓋を開く。用意されていた料理は美しく透きとおった琥珀色のスープだった。
 芳醇な香りが立ちのぼる。その香りをかいだ瞬間、空っぽの腹が久しぶりに空腹感を思いだした。

 老執事と料理長は円卓から数歩離れた位置で並びたち胸に手を置くと、ふたり揃って頭を下げた。

「今後、ノツィーリア様がお務めをされる間は私どもが食事を運んでまいります」

 メイドのせいで料理を食べられないことを彼らは知っているのだろうか。とはいえ知ったところでノツィーリアをかばいだてしようものなら悪目立ちしてしまい、今度は彼らが妹の標的になる恐れがある。

 なによりたった今聞かされた『お務めをされている間』という言葉が胸に刺さり、心臓が脈打つたびに痛みを走らせる。毎晩課されたお務めというものは、一体いくら稼げば御役御免となるのか。
 彼らが淫売をやめさせる理由など、どこにもない――。それに気付けば、目の前の料理から立ちのぼる芳しい香りすら吐き気を催させる。

 しかしこの料理に一切手を付けなければ、罰せられるのは彼らである。
 虐げられるのは自分だけにとどめなければ――。ノツィーリアは気力を振りしぼって膝の上から手を持ちあげてスプーンを拾いあげると、いただきます、と小声で告げ、湯気の立ちのぼる透明な液体をこわごわとすくった。

 虫もほこりも浮かんでいない、汚れた水も垂らされていないスープを口に流しこむ。
 途端に様々な野菜と肉の旨味が口いっぱいに広がった。

「おいしい……!」

 心の底からの感想が思わずこぼれてしまった瞬間、固唾を呑んで見つめてきていた料理長がびくりと肩を震わせて、続けて静かに息を吐きだした。『不味い』あるいは『食べたくない』などとわがままを言われると不安に思っていたのだろうか。

(こんなにおいしいスープ、初めて飲んだ……!)

 もしかしたら母が存命中はこういった良質な料理を当たり前のように食べていたかもしれない。長らく虐げられてきたせいで、幼い頃の食事の思い出はすっかり掻き消されてしまっていた。
 急いで平らげたくなる気持ちを抑えて、温かなスープをひとくちひとくちじっくりと味わう。
 ノツィーリアが食事を進めていると、様子をじっと見守ってきていた料理長が説明を始めた。

「国王陛下からはとにかく量を与えよと申しつかっていたのですが……。ノツィーリア様は食が細くていらっしゃるので少ない量から始めさせていただきました。これから徐々に増やして参りますので、まずは一般的な女性の食事量に戻すことを目指して参りましょう」
「……わかりました」

 スープを飲む手が止まらず、気付けば最後のひとくちとなっていた。身体中に栄養が行き渡るような、癒される感覚が全身に広がっていく。

 食後に出された茶もまた香り豊かで心が洗われるかのようなおいしさで、ノツィーリアは老執事と料理長とに見守られる中、その茶をじっくりと味わった。


「……ごちそうさまでした」

 ナプキンで口を拭い、ほっと息を吐きだす。
 老執事は音も立てずに手早く食器をワゴンに戻し、再び料理長とふたり揃って頭を下げると、静々と部屋を出ていった。

 静寂が戻ってくる。

 ノツィーリアは椅子に腰かけたまま全身から力を抜くと、円卓の上に突っ伏した。
 久しぶりのまともな食事で満たされた体が今度は自己嫌悪にさいなまれ始める。

(ここまでされておいて、私はまだ生きたいと願ってしまっているのね)

 食事を残さなかったのは老執事と料理長のため以外の何物でもなかったが、出された料理を夢中で食べたのは、体がそれを欲したから。

 お母様のところへ行きたいと願い、飛び降りようとまでしたのに――。

(私はなんて意思が弱いんだろう)

 傷付きひしゃげた心を自らの言葉でさらに押しつぶせば、たちまち涙が浮かんでくる。
 燭台のろうそくが燃えつきて煙をたなびかせるまで、ノツィーリアは円卓から一歩も動くことができなかった。
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