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第三章 勘弁して!
アパタイト 早く僕に戻りたい
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1.チャリン
いつの間にか秋が来た。本当なら貴族学園に入学して、壇上で首席合格の特権・新入生代表挨拶をしていたはず。
せっかくの首席合格を辞退した悔しい気持ちはある。カーティスは天才ではない。知識を仕入れるのが好きな秀才だ。もっと学園で、未知の知識を取り入れたかった。
……もっとも違う意味で、後宮で未知なる体験をするを羽目になったわけだが。
「あー痒い」
ついにカーティスは、腕の一部だが蕁麻疹を発症するようになった。後宮内の診療所で診察を受けるわけにはいかないので、自らアレルギーとストレス緩和薬の調薬を試みることにした。
しかしヴァイゼ皇帝から止められた。そしてある夜、皇帝の先導で、後宮の抜け穴から皇城へ向かうことになった。
「まさか、こんなところに抜け道があるなんて」
後宮のはずれの池の畔の汚いトイレがある用具室のカラクリを手際よく皇帝が操作すると、壁が扉となって開いた。
「確かこの後宮は、エドヴァルド前皇帝陛下の時代より前から、存在してましたよね?」
カーティスは尋ねる。醜女仕様の格好も、秋の夜ともなるとようやく快適の手前まできていた。それでも汗は多少かくが。
「主要貴族から側妃を迎えるために大幅拡張したのと、後宮を取り巻く高い塀と外堀が新たに造られたがな。後宮そのものは、遷都した数代前からここにある」
ヴァイゼ皇帝は、カーティスを招き入れて、再びカラクリを抜け道の内側から操作して扉は壁に戻った。
(トイレに隠し通路の入り口を作るとは、数代前から皇帝は下半身に思うところがあるんだな。まあ子孫が確実に必要な皇帝が性欲旺盛なのは、帝国のためにも良いことなんだろうけど)
通路の途中、小部屋があって、カーティスはそこで醜女メイクを落とし、ドレスと肉襦袢とカツラを脱いで、小姓の衣装に着替えた。蕁麻疹は両方の二の腕に出ている。とりあえず今は、故郷から持参したかゆみ止めを塗って、包帯を巻いている。
「後宮でいつも気を張り詰めた生活をしているから、蕁麻疹が出たのだな。おまえには負担をかけて、申し訳なく思ってる」
皇帝はランプ片手に、もう片方の手でカーティスの手を握って先導する。
「まあ、バレたときのことを考えると、生きた心地はしませんね」
カーティスは応える。だが彼に言わせれば、ストレスの最大原因は他ならぬ皇帝陛下との夜の営みだ。あらぬ場所の苦痛は耐えられるようになってきたが、相変わらず快楽得るどころか、気持ち悪さしか感じない。嫌々ながらそれ関係の書物を読み、自分がおかしいのか、書物がおかしいのか、一般常識が変なのか訳がわからなくなってきたのも、ストレスに拍車をかけている。
抜け道の出口は、皇城の皇帝プライベートエリア内のトイレにつがっていた。つくづく、この抜け穴を作らせた皇帝は、下半身事情が好きだったに違いない。
まあ、そんなこんなで、皇帝お気に入りの小姓という形で、皇城の公共エリアにある診察室へ赴き、侍医に診察してもらった。これが皇帝の診察だったら、医師の方から皇帝もとへ出向くのだろうが、カーティスとしては診察室で良かったと思ってる。
もちろんヴァイゼ皇帝も同行して、カーティスの背後で診察を凝視していた。老医師はともかく、若い助手医師は鋭い眼光で診察をガン見している美貌の皇帝に恐れをなした。カーティスは、こんな夜更けにホラーじみた経験をさせて、医師たちに哀れみを感じた。
そしてアレルギー服薬用飲み薬と、ストレス緩和薬、蕁麻疹用の軟膏が処方された。服薬はその場で、軟膏も医師(老医師ではなく助手の医師)が患部を塗ることになった。ヴァイゼ皇帝の視線はますますキツくなり、腕に軟膏を塗るそれぞれの助手医師は生きた心地がしなかった。
皇帝とヴァイゼが診察室を出て、さぞ助手医師は安堵したに違いない。皇帝は口止めをしなかったが、守秘義務は必ず守るだろう。あれほど凶悪な顔で睨まれたならば。
皇帝のプライベートエリアへ戻り、抜け穴のあるトイレへ行こうとしたとき、ヴァイゼ皇帝にいきなり抱き上げられて、後宮の皇帝接待用寝室とは比べ物にならないほど豪華で大きな天蓋付きベッドの上に、皇帝はカーティスを横たわらせた。
(マジ?まさか、ここで……いやいや、さすがにここはマズイだろ。皇妃とするときでさえ、陛下が皇妃専用エリアまで出向いて致すと聴いてるぞ!)
皇帝はやる気満々なのか、カーティスの体に跨って服を脱ぎ始めてる。
(いやいや、せめて後宮に戻ってからにしてくれ!こんな場所で致すのは無理だって!)
皇帝がカーティスの服に手をかけようとしたとき、カーティスは咄嗟にヴァイゼ皇帝の手を掴んだ。
「あの……無心してもよろしいでしょうか?」
何を言っていいか思いつかず、ともかく時間を稼ごうとカーティスはおねだりをする。
「珍しいな。お前から何かをねだるとは。言ってみろ」
ヴァイゼ皇帝はカーティスの体から下りるとベッドヘッドに寄りかかり、カーティスを膝の上に乗せた。皇帝の下半身の主張がダイレクトに伝わってくる。
(どんだけお元気なのやら。だったら、妃と夜を明かせば良いものを。僕としたって、生産性は無いんだし)
もちろん、口が裂けてもそんな事は言えない。それにカーティスも一応、いまの立場は皇帝の側妃だ。考えるだけで虫酸が走るけど。
「……あの……銅貨で構わないので、20枚ほどいただけないでしょうか?」
換算すると約2千円程度。カーティスの頭の中で、硬貨が奏でるチャリンという音が響き、咄嗟にそんな事を口走った。
「銅貨20枚?」
皇帝は訝しげにカーティスの顔を覗き込む。
「後宮にはたまに行商がくるが、そんな端金では何も買えないだろう。逃亡資金にさえならないぞ?」
「まさか!逃亡なんていたしません。ただ何というか……ああ、もう白状します。僕、硬貨の鳴る音に飢えているんです!領地では収益の会計を任されていて、硬貨を数えるのが一番の趣味で、帳簿をつけるのが史上の幸せだったんです。こちらへ来てから硬貨の音を全く聞いてない。そりゃ、そうですよね、欲しい物は侍女頭を通して現物支給されるのだから。でもここ数日、硬貨のチャリンと鳴る音が頭を離れなくて、気がおかしくなりそうなんです!」
カーティスは早口で、思っていたことを暴露した。これで金に汚い妃だと疎まれたら、一石二鳥かもと、口走りながら考えた。
「妙な趣味だな。待ってろ」
皇帝は脱ぎ散らかした服を着て、カーティスを抱き上げると続き部屋の書斎へと連れて行く。そして書斎の座り心地のいい椅子にカーティスを抱いたまま腰かけると、上段の引き出しを空けた。
そこには金貨、銀貨、銅貨が無造作に放り込まれていた。
「わあ、夢にまで見た硬貨!」
カーティスはうっとりと引き出しの中をガン見する。だが手は出さない。これは自分の金でも領地の収益金でもなく、皇帝のものだからだ。
「遠慮することはない、好きなだけ数えろ。たまに俺が変装して街へ視察に行くときに使ってた、国からの小遣いみたいなものだ。隠密視察のたびに公費から出るから、余るとここに放り込んでいたんだ。数えるのも面倒だしな」
「なんて勿体ないことを!硬貨の奏でる素晴らしい音色に興味がないだなんて!」
「いや、お金に目の色を変える人間は多いが、硬貨の音に恍惚とする変人は少ないと思うぞ?」
「ともかく、お許しをいただけたので、遠慮なく!」
カーティスは引き出しから無造作につかみ取った硬貨を机の上に置くなり、金貨、銀貨、銅貨を分けて積み重ねた。夢にまで見た硬貨が奏でるチャリンとした音色に、カーティスは顔を輝かせる。
それを間近で見つめていたヴァイゼ皇帝は、初めて見るカーティスの表情に目を見張った。これまでも希少な専門書などをプレゼントしたときには満面の笑みを浮かべていたが、硬貨を夢中で数えるカーティスの恍惚とした顔には、これまでにない色気さえ浮かんでいた。
ヴァイゼ皇帝は、カーティスの服のボタンを外して前上半身を撫で回す。だがカーティスは硬貨に夢中で、皇帝の愛撫など全く感じていないらしい。次第にヴァイゼ皇帝は硬貨に嫉妬を覚え、おもむろにカーティスを抱いたまま立ち上がる。
何の予告もなく、いきなりカーティスを抱いて立ち上がったので、硬貨が数枚床に落ちた。
「あっ!」
カーティスは皇帝の腕から抜け出して硬貨を拾い上げようとするが、皇帝はそのまま寝所に戻る。
……その夜の行為が、いつになく乱暴だったのは言うまでもない。
散々な目に遭って、いつの間にか気絶したカーティスだったが、目覚めると後宮内に充てがわれたベルクバック侯爵令嬢館の寝室だった。
蕁麻疹の痒みは薬のおかげで収まったが、全身が気だるく、あり得ない場所が久々に無言の悲鳴を上げている。
「痛えー。なんなんだよ、これ」
起き上がることもできないまま、カーティスは悪態をつく。ふと、金属の匂いが鼻をついた。横を見ると、大きな革袋が置かれている。カーティスは必死になって起き上がり、力の入らない手で懸命に革袋の紐を解く。中を見るなり、カーティスの顔は輝いた。中身は金貨、銀貨、銅貨が無造作に詰め込まれていた。袋の中に手を入れて、掴んだお金を再度袋の中に落とすと、硬貨の雨音が響き渡る。カーティスは何度もそれを繰り返し、その音色に魅入られた。
「あらあら、若様。まだ寝てなくてはなりませんよ。今朝方、高熱を出した状態の若様を、皇帝陛下が運んできてくださったのですから」
乳母はワゴンの水差しからコップに水を注ぐ。氷入りの水が事更に美味しい。
「熱は下がったようですね。でも湯あみは夕方まで待ちましょうか。とりあえず、痒み止めのお薬を飲んでいただきたいのですが、その前に何か食べられそうですか?」
乳母は尋ねる。そう言われると、カーティスは空腹感を覚えた。
「うん。すごくお腹が空いているみたいだ」
「良い兆候ですこと。では胃に優しいものを持ってまいりますね。その様子なら、昼は通常の食事で大丈夫でしょう」
立ち去ろうとする乳母に、カーティスはもう1杯水を所望した。
食事と服薬を済ませると、汗を吸った寝間着を取り替えがてら、体を拭いて蕁麻疹に軟膏を塗ることになった。乳母や侍女頭達が、適温のお湯に浸したタオルで体を拭くが、皆が一様に複雑な顔をしていた。この哀れみを帯びた顔には見覚えがある。カーティスは自分の胸を見るなり「ギャー」と叫んだ。蕁麻疹より酷い跡が、まるで何かの病気にでもかかったかのように点在していたからだった。
(おのれ、久々に熱を出したのも、このせいか。その絶倫を皇妃でも側妃にでも向けろ!いや、1人でか弱い女性が相手するには無理があるな。少なくとも3人は一晩に必要かも)
カーティスの脳裏に、記憶が途切れる最後の一瞬まで執拗に貪られた記憶が蘇る。
それを打ち消すために、枕元の硬貨入り袋に手を入れる。ジャラジャラと奏でる音が、カーティスに昨晩の悪夢を忘れさせた。
2.本気か?
いま、元皇太子のシュタルク・イノセント伯爵は、皇帝の忠臣執事以外人払いされた皇帝プライベートエリアのリビングで、危うく口にしたコーヒーを真向かいの皇帝に向かって噴き出すところだった。
「あいつ、俺の愛撫には隠してるつもりだろうけど嫌悪感丸出しなのに、硬貨を数える時は色気を滲ませた恍惚感に満たされた顔をするんだ。それでつい、昨晩は久々に熱を出させてしまうほど、無理させてしまった」
ヴァイゼ皇帝は、しょんぼりした顔で、ボソボソとサンドウィッチを食べながら告白する。
「いやいや、それ以前にあの醜悪なベルクバック侯爵令嬢が……いや、失礼。だが初日に見たあの悪趣味な豊満体型の印象が強すぎて、悪口のつもりじゃなかったんだ。すまん。で、話を戻すと、実はウェスリー子爵の妾の子供ではなく、貴族学園入学試験首席合格者で、神童と名高いカーティス令息だったと。そして陛下は、カーティス令息に夢中になっている、それが真相だったのか」
シュタルク・イノセント伯爵は、どうしてあんなデブの醜女に異母弟が夢中になっているのか、ようやく腑に落ちた。
女装させた孫息子を後宮入りさせたベルクバック侯爵は、本来なら一族郎党取り潰しが妥当だ。しかしベルクバック侯爵は穏健中立派の筆頭であり、本物の孫娘が後宮入り適齢年齢になったら直ちに側妃として皇帝のもとへ差し出すと確約していた。にも関わらず、他の貴族に示しがつかないと、強引かつ早急に中継ぎとなる娘を後宮に入れろと圧力をかけたのは、他ならぬ皇帝に働きかけたシュタルク・イノセント伯爵だった。
「首席合格したのに入学辞退したいのは、さぞ令息もご家族も無念だったろうな」
シュタルク・イノセント伯爵は、ウェスリー子爵一家に同情する。そして皇帝を近づけまいと、あえて醜悪な変装し、病弱を理由に後宮ベルクバック侯爵令嬢館に引きこもろうとしていたにも関わらず、ヴァイゼ皇帝が男色に目覚めて夢中になってしまった。それで相手もヴァイゼ皇帝に夢中になったなら救いもあるが、カーティス少年は男色に未だ慣れるどころか、蕁麻疹を出すほど拒絶反応を示しているとは。
反体制皇帝派を炙り出すため、有力貴族は全員一族から娘、あるいは孫娘に準ずる者を後宮入りさせる政策を断行したシュタルク・イノセント伯爵は居たたまれない。
「だが実際問題、ベルクバック侯爵家の孫というのが問題だな」
「何故ですか。あいつは、地位も権力も望んでません。叶うことなら、直ちに領地へ飛んで帰りたいと望むほど、欲が無いのは明白です」
「そうじゃなくてだな。それにベルクバック侯爵を敵に回すと、要らぬ敵勢力を増すことになるから、見て見ぬふりが妥当だろう。問題は、カーティス令息の成長期が始まる時期だ。ベルクバック侯爵家の血を引く者は、少年期まではむしろ平均以下の体型をした、少女に化けるのも容易な体つきをしている。しかし16歳前後から急激に身長が伸びて、貴族の中でも高身長を誇るのは有名だろ。いつカーティス令息が成長期に入るのか、早ければ来年あたりから、成長痛が出るほど背が伸びるぞ。そうなると女装も困難になるな。まあ、引きこもっていればバレるリスクも少ないだろうが、馬鹿はちょっかい出すのが好きだからな。バイエル公爵令嬢のように」
シュタルク・イノセント伯爵の言う通り、ベルクバック侯爵家の者は直系に近いほど、一般の貴族より頭1つ分背が高い。体格は、騎士を志して鍛えない限りはスレンダーな者が大半だが、カーティスが成長期を迎える前に、本来のベルクバック侯爵の孫娘が後宮入り出来るのを願うしかない。
「そこまで早く成長するとは思えませんが」
ヴァイゼ皇帝は、コーヒーを飲む。普段は紅茶が多いが、先日、南の属国から良質なコーヒー豆が入荷されたので、本日のティータイムの飲み物はコーヒーとなった。皇帝は砂糖のみのブラックコーヒー、異母兄はミルクと洋酒を入れたカフェオレだ。
「頻繁に会ってれば、気づきにくいものだ。ベルクバック侯爵一族は人がよく、聞き上手で口も硬いから、ついお喋りが楽しくなってしまう。だが2メートル近い身長で見下されながら話すのは、どうにもな」
シュタルク・イノセント伯爵は苦笑する。そう、ベルクバック侯爵とて今は老いて背が縮んだかもしれないが、それでも190センチ以上あるのだ。後継者のスタンリー伯爵は、195センチと明言しているが、舞踏会広間の柱時計の横にたまたま立っているスタンリー伯爵を見かけてたとき、シュタルク・イノセント伯爵は「2メトールは確実にあるじゃないか」と苦笑したものだ。そう言えばエドヴァルド前皇帝の側妃だったアーデラも、身長を低くサバを読んでいたのは有名だった。
「エドヴァルド前皇帝陛下の側妃だった、ベルクバック侯爵令嬢アーデラ妃は、エドヴァルド前皇帝陛下が最後の皇妃の椅子、第4皇妃に格上げしたいと願うほど思慮深い女性だった。ただハイヒールを履くとエドヴァルド前皇帝陛下より身長が高くなってしまうため、悩みに悩んだ末、エドヴァルド前皇帝陛下は別の側妃を第4皇妃とした経緯がある。後宮内ならともかく、皇妃となると晩餐会や舞踏会などの他、教会慰問などの公務もあるからな。ハイヒールはドレスに隠れていようとも、淑女の正装絶対条件だったから、皇帝よりも背が高いのは体裁が悪かったのだ」
シュタルク・イノセント伯爵は、「せめてもう少しアーデラの身長が低かったら」と嘆いていた、エドヴァルド前皇帝の言葉が今も耳に残っている。
「そう言えば、アーデラ妃の生んだ皇子もカーティス令息と同じ歳だったな。随分と会っていないが」
シュタルク・イノセント伯爵は、滅多に会うことのなかった異母弟を久しぶりに思い出す。最後に会ったのは、まだ5歳前後だったと記憶する。
「いまはベルクバック侯爵領で育てられているんてしたね。名はゲオルク、母親同様、都市住まいよりも田舎を好み、今は羊牧場に弟子入りしているそうです。ゆくゆくは一代侯爵を賜るというのに、羊牧場経営者を夢見るとは、あの一族は優秀だが微妙に変わり者が多い」
「よく異母兄弟姉妹の動向を調べているようだな、感心感心。だがそうなると、スタンリー伯爵令嬢も妙な趣味があるかも?」
「さほど変わった娘でもないようです。ただ異様な猫好きで、愛猫の数が20匹を超える程度たと報告が上がってますね。後宮はペット可ですが、さすがに20匹全部を連れてこられるのは……せめて5匹が限度ですかね」
「……羊に猫に、ベルクバック侯爵の孫は動物好きなのだな。確かベルクバック侯爵夫人は、無類の犬好きだったようだが」
「ええ。ただ愛玩犬のようです。趣味でプードルを増やしすぎて、いまは有名なプードルブリーダーだそうですよ。貴族女性から、子犬の予約が数年先まで一杯なのだとか。異母弟のゲオルクは、牧羊犬としてボーダーコリーの育成に励んでいるようですが、度が過ぎて増やしすぎないようにしてほしいものです」
ヴァイゼ皇帝はため息をつく。報告では、ゲオルク皇子は3頭の牧羊犬をベッドで一緒に寝かせるほど可愛がっているらしい。だが諜報活動をしているシュタルク・イノセント伯爵の元への報告では、新たに2匹のボーダーコリーの子犬を入手したとか。
異母弟ゲオルクが一代限りとは言え、領地を得て侯爵となった暁には、きっとその地は羊とボーダーコリーの楽園と化していることだろう。
「話は変わるが、一度、秘密裏に皇城へカーティス令息を連れてきて会わせてもらえないだろうか?」
シュタルク・イノセント伯爵が言うと、途端にヴァイゼ皇帝の機嫌があからさまに悪くなる。
「いくら兄上でも、カーティスを渡すつもりはありません!」
「違う違う、誤解するな!ただ会計監査能力がどれほどのものか知りたいだけだ。前に聞いた報告では、実家の領地の会計監査はカーティス令息も加わっていたらしい。年齢に似合わぬ洞察力で、帳簿から領地の不正を次々と暴いていたそうだ。能力次第では、官僚として会計もしくは会計監査に引き立てたいと思ったのだよ。ただなぁ」
砂糖無しのカフェオレの代わりに、シュタルク・イノセント伯爵はブドウのタルトを口する。料理長の自信作だが、シュタルク・イノセント伯爵の表情は渋い。
「学園卒業の実績がないと、採用試験に合格して仮に官僚になれても、雑務が主となり、会計関連に取り立てるのは難しい。高位貴族の関係者だと尚更、領土税収に関わる仕事に就くのは、よほど成績優秀で学園を卒業しないと、まず無理だ」
「そのことでしたら、恐らく大丈夫かと。あいつ、独学で勉学に励んで、貴族学園はスキップして帝国総合大学進学を目指していますから。俺が先触れなしでたまに訪問すると、必ず図書室の山積みの本の影で必死にノートを取っていますよ。ですが俺としては会計ではなく、秘書に取り立てたいと思っているのですが」
「おいおい、そこまでカーティス令息に執着するのはどうなんだ。仕事中まで盛るのはやめろ」
「そうではなく。いや、目の前に置いておきたいのは本音に違いありませんが、あいつは数カ国語を喋れるし、読み書きもできます。外交で語学堪能な側近が間近に入れば、通訳としても使えて便利ですし、あいつの洞察力は数字だけではありません。ともかくあらゆる面で視野が広いんです。大学進学させる時間的ハンデを取らせるのは、まだるっこしいですが、側近に取り立てるには帝国総合大学卒業の肩書あった方が有利ですからね」
「その頃には、背も軽くおまえを越えて、可愛い少年の面影は消えてるだろうな」
「たとえ背の高い青年になっても、あいつを手放すつもりはありませんよ」
ヴァイゼ皇帝の決意の強さに、シュタルク・イノセント伯爵は天井を仰いだ。
(カーティス少年が、ヴァイゼが呆れるほど背が高くて男らしい、屈強な体つきになるのを願うしかないな。しかしここまで執着するとは意外だ。報告では、天才に近い秀才だが、容姿は平均的とのことだが。何がそこまで、ヴァイゼの心を捕らえたのだろうか?)
話し合いの末、近いうちシュタルク・イノセント伯爵に会わせることを、ヴァイゼ皇帝は不承不承に同意した。
3.試験
つるべ落としの秋の夜長、皇帝は例の秘密通路を使ってカーティスを皇城へ連れて行った。今回は元皇太子シュタルク・イノセント伯爵との顔合わせと、カーティスは事前に聞かされている。
隠し通路で以前と同じく醜女メイクと衣装から、すっぴんの小姓姿になる。
「本当は、兄上にお前を会わせたくないのだが、どうしてもと言われてな。兄上は男色に興味がないが、お前の虜になる可能性もないわけではない」
ヴァイゼ皇帝は、隠し通路で不平不満と心配を漏らす。
「男色趣味のある方なら、もっと綺麗な子を選びますよ。正直、陛下が僕を寵愛している理由も理解できないんです。こんな、どこにでもいる平凡な顔のどこがいいのか、考えても考えても答えが出ません」
「おまえは、自分の魅力に気づいていないだけだ。あー、兄上の望みでければな。このまま後宮へ戻るか、皇城の俺の寝室に連れて行きたい」
のしかかるようにして、背後からカーティスを抱きしめる。すっぽり腕に収まる少年が、ヴァイゼ皇帝には愛しくてならない。
物騒な皇帝の発言に、薬で蕁麻疹を抑えているカーティスは、腕以外の箇場所で発疹しそうな気がする。
皇城内の会計室の応接室に、カーティスは皇帝の案内で連れて行かれた。皇帝とカーティス以外に、いつもの護衛と執事を兼ねた皇帝の側近の他は、会計監査の役人の1人しかいない。
黒髪をした温和な顔の中年と呼ぶには早い気もするが、青年と言うには年を食った男性がソファに腰掛けていた。だが皇帝が入ってくるなり、席を立って深々と頭を下げる。彼が皇位継承権者を覆さなければ、ヴァイゼ皇帝と立場は逆転していたはずだった。
……シュタルク・イノセント伯爵。元皇太子にして、エドヴァルド前皇帝と現皇帝のために、普段は会計室に籠もって計算の間違いを目を皿のようにして確認しているが、裏の顔は皇帝を守るためなら躊躇なく手を汚す諜報活動長官兼暗殺部隊のリーダーだった。
「兄上、頭を上げてください。私たちの前では、兄弟として振る舞う約束でしょう」
ヴァイゼ皇帝は、シュタルク・イノセント伯爵に注意する。
「2人きりの時は、って条件だ。でもいまは、君のお気に入りの少年がいるじゃないないか。ねえ、ウェスリー子爵令息カーティス君」
シュタルク・イノセント伯爵は気さくに声をかける。
(あー、胃が痛い)
カーティスはそう思いながらも表情には出さず、優雅にお辞儀をした。最上級のお辞儀を避けたのは、元皇太子とはいえ、いまは伯爵であるためだ。最上級のお辞儀は、皇帝もしくは皇太子にのみするべきだ。皇妃にさえ、もしこの場に居たとしても上級のお辞儀で留めるのがマナーだ。
「では、時間もない事だし、本題に入ろうか」
皇帝とカーティスが座ったのを見届けて、シュタルク・イノセント伯爵はテーブルの上の帳簿数冊をカーティスに差し出す。
「学園入学試験首席の君の実力を測らせてもらいたい」
テーブルの上の新旧混じった帳簿を差し出す。シュタルク・イノセント伯爵は、温和な顔に微笑みを浮かべながらながらも、目が笑っていなかった。笑ってないどころか、間違いを犯せば即斬り捨てる殺気さえ帯びている。
だがカーティスにしてみれば、元皇太子の表情など、どうでも良かった。久々に触れることが出来る帳簿に、この部屋に入った瞬間から目を奪われていたからだ。
帳簿は現在から5年前までもの、5家の貴族の税収が記載されたものだった。カーティスは夢中になって数字を追う。カーティスは速読が得意だが、暗算は更に早く正確だった。
皇帝は上座に座り、忠臣執事の入れた紅茶を飲んでいた。本当はカーティスの隣に腰掛けたかったが、貴重な帳簿に誤って飲み物を零したらとんでもないことになるため、ここは堪えて愛しの少年とは離れて座った。
久々の帳簿を全て見終えたカーティスは、満足げな溜息をつく。
「へえ、ヴァイゼ陛下のおっしゃる通り、君はお金や帳簿を見ると、平凡な顔から色気ある妖艶な表情に変わるんだね。これでは陛下が君にハマるわけだ」
「兄上!」
ヴァイゼ皇帝から、鋭い声が飛ぶ。しかしシュタルク・イノセント伯爵は温和な顔を崩さない。先ほど向けたカーティスへの表情との違いは、皇帝には慈愛と慈しみを込めた目で微笑んだことだ。
「で、感想は?」
シュタルク・イノセント伯爵は、カーティスに向き直る。表情こそ柔らかいが、シュトゥルムフート帝国皇族特有のアクアマリンの瞳とは違う、濃い青の瞳は全てを見逃すまいという、獰猛な虎の視線をカーティスに向けた。
「大変失礼なことを、まずは先にお詫び申し上げます。イノセント伯爵閣下は、皇帝にならずに良かったですね」
カーティスは臆することなく、元皇太子の目を直視しながら言った。菫色の瞳は凪いでいたが、決して屈することのない強さを秘めていた。
「おい、兄上に対して、なんて無礼な!」
「恐れながら陛下、この結論に至らなければ、僕はイノセント伯爵閣下に葬られていましたよ。全く、僕の周りはどうして、こんな物騒な人ばかり集まるのだろう?」
「それは君が、秀才の皮を被った天才だからだよ。さて、考察を聞かせてもらおうか。『勘です』なんて稚拙な返答をしたら、即不合格だよ?」
「この帳簿、伯爵閣下がターゲットとしている貴族のものですね。閣下は物流の流れから、この5家を潰そうとしておられる。しかし、その白と黒しか答えを出せない閣下の意向そのものを、閣下自ら自戒しておられた。もしも、母君や今は無きエアファーレン伯爵一族を誅することなく帝位に就いていたら、帝国中の不正を働いた貴族を、完全粛清を断行する誘惑に勝てないとの結論に達した。グレイゾーンを持たないというのは、暗殺には向いているが、帝国の頂点に立つのは危険すぎる。こんなところですかね?」
「最初の関門は合格だ」
僅かだが、カーティスを見るシュタルク・イノセント伯爵の瞳が和らぐ。
「それでは、次の質問。君はこの5家の貴族をどうすればいいと思う?いずれも改竄した税収を申告した、罪深い連中だ」
「マークス伯爵家は、見逃すべきでしょう。あそこの土地はただでさえ土壌が悪く、辺鄙な北の辺境にあるため、隣国と紛争が起こったとしても、帝国の軍団に救援を要請して軍団到着を待つには遅すぎ、食料の備蓄は不可欠。自領を守るために、砦の修繕や自衛兵士団の育成に力を注ぐ必要性があり、これは帝国のためにも、余計な国家予算を割かなくて良いメリットがあります。しかし自衛兵士団が暴走しないよう、監視は怠るべきではないでしょう。暴走したその時には、即取り潰しの決断が必要です」
「合格。次」
「ベイクドバウム辺境伯家のランツェ銀山は既に枯渇しています。ですが新たに発見されたシュペーア山から、これまで以上の銀が産出されております。しかし国旗の沿いのシュペーア山の銀は、テュルキース王国のシャイネン銀鉱山と鉱脈が繋がっていたのが判明。銀の採掘権の取り合いが小競り合いとなり、いままさに戦争寸前まで追い込まれています。ベイクドバウム辺境伯私兵団は屈強な兵士が揃っていますが、テュルキース王国との戦争はいささかマズイ。シュペーア山の採掘権は放棄した方が賢明でしょう。越境しているのは我が国の方ですから」
「潤沢な銀鉱山を放棄しろというのか!」
シュタルク・イノセント伯爵は黙っていだが、ヴァイゼ皇帝は激昂する。
「戦争に発展させるデメリットの方が高いのですよ。それとシュペーア山の銀は、間もなく採掘不可となるでしょう。あの周辺の岩盤は脆く、遠からず鉱山は崩壊するでしょうから。多くの有能な鉱夫を犠牲にするのは勿体ない。ならば岩盤が硬くて採掘に手間がかかるものの、完全に自領にあるレッヒェルン山を採掘するべきです。恐らく銀鉱脈は、テュルキース王国のシャイネン銀山からシュペーア山が連なるアルクス山脈下まで繋がってます。予想が当たれば、シュペーア山から金も採掘出来るかもしれません。こちらはルーペ伯爵領のメルクーア山と繋がるアハート山脈で金鉱脈が繋がっているかと。既にルーペ伯爵領からテルナ金鉱山は枯渇したと放棄されていますが、アハート山を試掘をしてみてもよろしいかと」
「どうして、そんなことが分かるんだ?」
皇帝は、根拠のないことをスラスラ述べるカーティスを頭から疑っている。だが根拠はあった。
「水質ですよ。ベイクドバウム辺境伯領のシュペーア山のを水源とするスーライン川の水は、飲料には向いていません。メルクーア山を水源とするギフト川の水も飲料には向いていません。メルクーア山は獰猛な熊の生息エリアのため、これまで放置されていましたが、熊には申し訳ないが、トラット王国へ移住してもらえば良いかと。どうせあの辺りは世界の尾根が連なる山脈が複雑に入り混じって、トラット王国との壁の役割を果たしています。ついでに熊の番人を数十頭付け足しても、問題ないかと」
「さすが、稀代の天才ノートル・ナユタ博士の愛弟子だな。合格。それどころかメダル授与の価値がある情報を与えてくれた。さすがに私も鉱脈までは読めなかった。陛下、ベイクドバウム辺境伯に私兵を退かせ、新銀山採掘の放棄と鉱山閉鎖のための爆破を。そこからテュルキース王国の軍が奇襲する抜け穴を潰すために。そして新たにレッヒェルン山を試掘して鉱脈を探させるようご命令を願います。同時にルーペ伯爵にアハート山の金脈を探させましょう。恐らくごねるでしょうが、軍団を派遣して、周辺の熊をトラット王国へ追いやる確約をすれば、事は簡単に運ぶことと断言します」
シュタルク・イノセント伯爵は、皇帝に進言する。いや、これは進言というより命令だ。イノセント伯爵は、皇帝が自分に逆らわないことを熟知している。
「では、あと三家。これはどうすればいい?」
「降格。ガロン侯爵とレザード子爵は人は悪くないものの、領地を治める技量がない。領民になめられた領主など、価値はありません。首都に豪華な邸を与え、領地は別の貴族に変更させる。もしくは狭くて実入りの少ない領土に配置転換させるか。でも僕なら、この2家に領土を与える無駄はしませんがね」
「合格。さて、最後だ。アラクネ侯爵はどうする?」
シュタルク・イノセント伯爵は尋ねるが、これまでのようにカーティスは即答しない。迷いというより、哀しみを帯びた表情をしている。だが意を決して口を開いた。
「断絶。皇帝陛下への反逆が、帳簿の流れから見受けられます。中立派の仮面を被って、油断させたところで内乱を起こすつもりだったのでしょう。マークしていた反逆派よりも、たちが悪い。見せしめが必要でしょう」
カーティスは深い溜息を付きながら断言した。アラクネ侯爵は祖父とはそれなりに交流があって、カーティスも一度会ったことがある。その時に感じたかすかな違和感は、帳簿が語ってくれた。
(無駄なことを。エドヴァルド前皇帝陛下の第4皇妃の実家ということで、孫息子皇子を擁立させる目論見だったのだろう。だが既にヴァイゼ皇帝よ新体制が動き出し、暗殺集団リーダーのイノセント伯爵に目を付けられてしまった。こうなった以上、逃げ場はない)
「完璧だ。ヴァイゼ、君は意図せず良い拾い物をしたね。カーティス君、後宮任務が終わったら、私の配下に入らないか?」
「兄上!」
「どのみち、カーティス君は翌々年の春には、適齢期を迎えたスタンリー伯爵令嬢と交代して後宮を辞す。これだけ冷静な判断力と知性を併せ持つなら、学園に通う必要もない。それに将来的には子爵ですら継げるか危ういのでは、到底、昇進など見込めません。まあ、カーティス君の頭脳ならのし上がることは簡単でしょうが、貴族の中でも自らの実力で官僚になったわけではない高位貴族令息たちの嫌がらせは卑劣ですからね。国家への忠誠を胸に仕事を優先するより、自己のプライドを守るので忙しい愚かな連中だ」
シュタルク・イノセント伯爵は薄笑いを浮かべる。それを見たカーティスは、「役立たずの世襲貴族一掃にそれも有りか」と、イノセント伯爵が考えているのが読み取れて、背中に汗が流れた。
「ですから、俺の側近に取り立てます!以前にもそう言ったはずです!」
ヴァイゼ皇帝と暗殺実行部隊リーダーのシュタルク・イノセント伯爵の言い争いは、カーティスを充分震え上がらせた。シュタルク伯爵配下の暗殺部隊に入るのも嫌だし、皇帝の側近なんて、そもそも子爵令息風情がなれるものでない。それに週に一度の夜のお勤めさえ蕁麻疹が出るほど苦痛なのに、任務中も盛られては身が保たない。
だがカーティスには、皇帝が興味を失せる切り札がある。ベルクバック侯爵家直系によく出る、長身の特性だ。ヴァイゼ皇帝も185センチの長身だが、ベルクバック侯爵家の直系の平均身長は190センチを超える。体格はひょろ長だが、さすがに見下ろされるほどのウドの大木に欲情はするまい。
「あのー、僕はカメリアと交代したら、飛び級で帝国総合大学を受験して入学をするつもりです。そしていずれは、実家の子爵家や血縁のあるベルクバック侯爵家その他の収益会計を生業にしようかと」
祖父も、あと数年でベルクバック侯爵を長男スタンリー伯爵に譲り、スタンリー伯爵は父のウェスリー子爵が持ち上がる予定になっている。だがカーティスの代になれば、スタンリー伯爵位は現スタンリー伯爵の長子に返上して、ウェスリー子爵の地位さえカーティスが継げるか不明だ。
どちらにせよ、もう皇都とは永遠にオサラバしたいとカーティスは願う。
「君のその頭脳を、田舎に埋められさせるなんて、そんな勿体ないことさせるわけにはいかない!」
「おまえは俺のものだ。大学進学ぐらいは大目に見てやるが、領地に引っ込むのは無しだ!」
シュタルク伯爵とヴァイゼ皇帝は、異口同音に、カーティスの将来を否定する。2人を敵に回すわけにはいかないが、適材適所を考えて欲しい。
「僕には側近なんて大役は務まらないし、シュタルク伯爵の配下っていうのは、会計ではありませんよね。僕、武術はからっきしですから。従って、領地でのんびり過ごすのが一番かとーー」
「許さん!」
ヴァイゼ皇帝は、険しい顔で一蹴する。そこにイノセント伯爵も、追随する。
「別に暗殺要員にするつもりはないよ。むしろ数カ国語が操れる君には、諜報活動に回そうかと。出来れば、放浪の天才ノートル・ナユタ博士も引っ張ってきてくれると、なお有り難い」
シュタルク伯爵の要望に、カーティスに呆れ果てる。ヴァイゼ皇帝も、いつまで自分が少年のままだと信じて疑わないのか、カーティスには理解できない。
「あのですね、まず皇帝陛下の件ですが、子爵の息子ごときが側近になるのは無理があります。いずれ父は伯父が祖父のあとを継いでベルクバック侯爵となった暁には、父が繰り上がりでスタンリー伯爵となりますが、僕の代では子爵さえも継げる確率は低いわけで。何しろ伯父には3人の息子がいますからね」
高位貴族は爵位を幾つか持っているのが普通である。そして爵位は嫡子長男に優先権があるため、次男は親が手持ちの爵位があればそれを継ぐが、長男が一族の当主の代になった時、もし長男が命じれば次男が爵位を返上する義務がある。
ベルクバック侯爵家の兄弟は仲が良いため、世代交代で弟に爵位返上を求める可能性は低いが、なにが起こるか分からないのが未来というものだ。
そのためにも、仮の爵位を持つ次男や爵位のない三男以下は功績を挙げて、改めて皇帝から爵位と領土を授けられるのが一番手っ取り早い。
「それと、イノセント伯爵閣下の件ですが、僕は知識はあっても帝国中もしくは他国まで遠征するほど気力も体力も足りません。目的は師匠のナユタ博士でしょうけど、放浪の自由人である師匠のヘッドハンティングは無理ですよ。先の皇帝陛下の時代、役人に強要されそうになったことで、宮仕えはもちろん、皇都へ近づくことさえないでしょうね。暇さえあれば、延々と恨み言を僕に言い聞かせるのですから」
カーティスは、幼い頃から聞かされ続けたナユタ博士の怨嗟を、今ここで一言一句違わずに言えるほど聞かされ続けた。不敬極まりない罵詈雑言の数々を、ヴァイゼ皇帝やイノセント伯爵に聞かせるつもりはない。これは墓場まで持っていく秘密だ。でなければ師匠はもちろん、自分の首と胴がオサラバするリスクが極めて高い。
「そもそも、あのナユタ博士をどうやって引き止めて家庭教師に出来たのか、教えてくれないか。放浪の天才博士は、一箇所に留まらないことで有名で、この私でさえ、君がヴァイゼの愛人であることから、改めて徹底的にウェスリー子爵家を調べ上げて、ようやくナユタ博士の居所を掴んだぐらいだ」
カーティスは、「師匠、それほど高く才能を買われていたんだな。当然だけど」と腹の中で思う。先ほど、イノセント伯爵は、カーティスを秀才の皮を被った天才と指摘したが、それは真の天才を見たことがないからだろう。あらゆる方面の知識に長け、僅かな手がかりで全てを見抜く。そんな師匠に、カーティスは足元にも及ばない。まあ、追いつく気も全くない。世の中は上手く出来ていて、特出した何かを得た者は、平凡な幸せとは縁遠い生活を強要される。それは皇帝という地位にあるヴァイゼ陛下も同様だろう。帝国の頂点にあっても、その代償に自由はない。
「師匠と出会ったのは、たまたまです。出会ったというか、ウチの領地の牛牧場の近くで餓死寸前で倒れていたのを、たまたま通りかかった僕が発見して、保護しただけです。まさか放浪の天才ナユタ博士とは誰も思わず、元気になったらさっさと出ていってくれるだろうと思っていたのに、何故か一飯の恩だということで、僕の家庭教師に名乗りを上げました。その時に、これまで使っていた偽名を捨てて、自分はノートル・ナユタ博士だと告げましたが、両親はもちろん誰も信じませんでしたがね。しかし僕の家庭教師をするがてら、領地の改善点を指摘して、これが大当たりしたことで本物の博士だと皆が認識を改めました。その頃、師匠は父に頼み込んで診療所を子爵邸の隣に開設して医師の真似事を始めたところ、領民の間で瞬く間に名医爆誕の噂は広まって、近隣の貴族もわざわざ診察に訪れるようになりました。しかし師匠は気まぐれなので、いざ診療所を建てても、診察や調薬は気分次第。師匠に影響されて集まった若い医師達が、見様見真似で師匠の技術を盗み、診療所は成り立っていたわけです。結構有名だと思っていましたが、さすがに皇都にまでは伝わりませんでしたか」
カーティスは、さっさと師匠をイノセント伯爵が特定して皇都に連れ帰って拘束していたら、自分はもっと大らかな子供時代を過ごせただろうなと、遠い目にする。
助けた恩なのか、なぜか師匠に気に入られてしまい、一番弟子という不名誉な称号をもらったことで、徹底的に容赦なく、カーティスは子爵子息に必要な知識を超えた教育を叩き込まれたのだ。放浪の自由人の二つ名は捨てたのか、ノートル・ナユタ博士は子爵家の家族に溶け込んで居着いてしまった。
カーティス不在の今ごろは、退屈しのぎに弟2人が餌食になっていることだろう。まあ世襲が見込めない貴族子息に、生きるために不可欠な知識や処世術を授けてくれるのは助かる。しかし師匠は加減を知らない。
既にウェスリー子爵家の次男である弟は、カーティスが変装して後宮入りする直前には、「僕は医師になる!」と、まだ8歳なのに生きた子羊を解体して母を卒倒させた。母はあれ以来、ラム肉料理を克服できるようになっただろうか?
「ヴァイゼにお気に入りになったことといい、ナユタ博士の弟子になっことといい、君は運命の女神に愛されているんだね」
イノセント伯爵は、感嘆の声を上げる。
カーティスは心の中で、「いや運命の神に呪われてるんだけど」と呟いた。
……そこ夜はそこで会合はお開きになったが、カーティスの将来展望が皇帝の逆鱗に触れたらしい。翌朝、熱をまで激しい行為と、「俺の側近になると誓え!」などと脅したり宥めたりと忙しく命令した。無論、カーティスはそれに応えなかった。応えられる状況でもなかったが。
4.勘弁してくれ
皇帝経由で、イノセント伯爵から「ナユタ博士を呼び出す手紙を書いてくれないか」との文が届いた。
「悪手ですね。こんなのを書いたら最後、師匠はまた行方をくらましますよ」
ヴァイゼ皇帝が急に昼間に予告なく現れて、伝書鳩よろしくイノセント伯爵の手紙を持ってきた時、ちょうどカーティスは、ベルクバック侯爵令嬢館の立派な図書室で家族からの手紙を読んでいたところだった。
「何が書いてあるのだ?」
異母兄の頼みは、カーティスに否定されたので、それ以上は言及しなかった。そもそも放浪の自由人ナユタ博士が、西のド田舎ウェスリー子爵邸に住み着いていたのを発見できたのも奇跡だった。
「僕のすぐ下の弟、名前はオスカーというのですが、子羊から一歩進んで子牛を屠殺して解剖したそうですよ。まだ8歳なのに、牛まで解剖するとは、師匠はオスカーを外科医にするつもりですかね。そして三男のアロイスには薬草に興味を持ったので、種類や栽培方法を教えているそうです。まだ6歳なので、さすがに調薬まではやらせるつもりはなさそうですね。安心しました」
「おまえたち兄弟を、いったいナユタ博士は何処に到達させようとしているのやら。それより、両親はなんでスマラウト侯爵令嬢の生まれたばかりの娘のことばかり書いているんだ?」
皇帝は、家族からの手紙というのに興味津々で、カーティスから許可を得て手紙を読まさせてもらった。そこに書いてあることが家族からのごく普通の手紙なのかは、ヴァイゼ皇帝には判別できない。両親から手紙など貰ったことがないからだ。ヴァイゼ皇帝が手にする手紙は、報告書や嘆願書など、仕事に関するもののみで、私的な手紙は皇帝を誘う妃たちからの恋文ばかり。
「スマラウト侯爵家とは、ご令嬢の病気を師匠が完治させたことがキッカケで、家族ぐるみのお付き合いをさせていただいているのですよ。特に母は娘を欲しがっていたので、侯爵令嬢の姫君にメロメロみたいですね」
「スマラウト侯爵令嬢……婚約者に捨てられた腹いせに、どこの誰とも分からぬ馬の骨との間に、娘を作って生んだのか」
ヴァイゼ皇帝は、苦々しく口にする。スマラウト侯爵令嬢は、スマラウト侯爵家の一人娘なので、ゆくゆくは女侯爵となることが確定している。
スマラウト侯爵令嬢の婚約破棄騒動は、当時、社交界で話題になったものだ。元婚約者は、あのバイエル公爵令嬢の兄。しかしバイエル公爵家も男系の血筋で、この婚約者は4男だったか5男だったか定かではないが、継げる爵位は上の兄達に取られて、一代準男爵になるか騎士になって騎士爵を得る選択肢しかなかった。あとは跡継ぎ息子のいない貴族の婿養子になるのが最短ルート。
家格も釣り合うということで、スマラウト侯爵令嬢とバイエル公爵令息の婚約が、彼らがまだ幼いうちに当時の皇帝エドヴァルドによって許可された。
しかしスマラウト侯爵家は、先代が事業に失敗して、家格は高いが内情は火の車。
成長したバイエル公爵令息は、家格は下がるが金持ちのシュタイルリンク伯爵令嬢と婚姻し、シュタイルリンク伯爵の婿養子となった。
この醜聞は瞬く間に広まった。バイエル公爵令息は、皇族の血を引くだけあって、容姿端麗だった。そして本来なら同情されるべきスマラウト侯爵令嬢は、没落貴族であり、容姿も平凡だったため、捨てられて当然と社交界で同情の声は上がらなかった。
そのショックから、スマラウト侯爵令嬢は西部地域の領地の本邸に引きこもり過食に走って、カーティスの変装姿さながらの醜女令嬢になったと風の噂で耳にした。総領娘として次の婿養子候補を探さなくてはならないが、令嬢が負った心の傷は深く、そのまま婚期を逃して社交界から忘れ去られていた。
「スマラウト侯爵家はいま、特産のバラの開発と、バラをはじめとする様々な花の香りの良質な化粧品事業に成功して、順調に蓄財していますよ。笑っちゃうのが、シュタイルリンク伯爵家に婿養子に入ったバイエル公爵令息ですよね。財産目当ててま乗り換えた伯爵家の総領娘との間に、未だ子が成せないなんて。このままだと、分家から養子を貰うしかありませんね」
いつになく、カーティスは意地悪く笑う。それが皇帝の心に引っかかったが、両親がご近所よしみで交流があるなら、スマラウト侯爵令嬢寄りに傾くのも当然かと、違和感を散らして忘れた。
5.驚愕
年が明けて、早春の花が後宮内でも咲き始めた。ヴァイゼ皇帝のカーティス寵愛は相変わらずだが、妃たちとの務めも果たしているようだ。
今年、第一皇妃が皇女を出産。皇太子エアーリヒ皇子を含めて1男1女の母となった。
第二皇妃は現在妊娠中。昨年まで唯一の皇帝の娘だったマチルダ皇女がいる。
側妃との間にはそれぞれ皇子1人ずついたが、新たに2人の側妃のうち1人が今年、皇女を出産。もう1人の側妃も臨月を迎えている。
懐妊中の子をカウントしなければ、皇帝は現在三男三女の父ということになる。
昨年の秋にカーティスが元皇太子だったシュタルク・イノセント伯爵と会って以来、ベルクバック侯爵令嬢の替え玉を用意して、カーティスは皇帝の小姓を務めるようになった。
「後宮から出るために、食材を運んだ馬車の木箱に入って皇城へ出仕するわけだけど、最近は木箱がキツいんだよなぁ」
小姓用の服は、皇帝の私室に用意してある。木箱に入って運ばれるときも小姓の衣装を着ているが、シワになっていまうので、着替えねばならないのだ。
仕事は主に会計監査。既に部署で会計と監査も行われた資料だが、カーティスの役割は国庫に納める税金の数と、領地の特産品のチェックだ。その仕事は、皇帝の斜め向かいの専用机で行っている。
「問題はありません」
カーティスがチェックを終えた帳簿を抱えて、ヴァイゼ皇帝の前に出る。そのとき、皇帝は大きく目を見開いた。
「おまえ、背が伸びてないか?」
皇帝は書類に印章を押す手を休めて立ち上がり、カーティスの前に立つ。去年までは皇帝の胸のあたりまでしかなかったカーティスの身長が、皇帝の顎付近まで伸びている。
「お気づきではなかったのですか?」
カーティスは首を傾げる。小姓服はしょっちゅう採寸しなおし、侯爵令嬢の悪趣味ドレスや肉襦袢も修正が忙しい。
「全く気付かなかった。それにしたって、半年程度で20センチ以上も伸びるものなのか?」
皇帝は驚愕する。昨夜も夜を共にしたが、相変わらず細身の体と、女性とは違う質感の、それでいて触り心地の良いカーティスの肌を堪能するのに夢中だったので、身長までこれまで全く気づいていなかった。
「成長期に入ったようですね。父に言われていましたが、予想以上に成長痛って辛いですね。そうそう、館の者たちからは最近、声変わりもしたのではと言われてますよ」
言われてみれば、カーティスの中性的な声がかすれがちに低くなっているのに気づいた。日頃、身近に居過ぎるがため、声がかれているのも、夜の営みのせいかと、皇帝は思い込んでいたのだ。
呆然と立ち尽くす執務室をノックする音がする。カーティスが扉に駆け寄り、銀の盆に乗せた手紙を使者から受け取り戻って来る。
「シュタルク伯爵閣下からです。緊急の印が入ってます」
カーティスは危険なものが入っていないか、入念にチェックする。皇帝が小さく頷くと、カーティスはナイフで封を切り、中身に目を通す。困惑の色が成長期の少年の顔に浮かぶのを、皇帝は見逃さなかった。
「何か悪い報せか?」
普段のシュタルク伯爵なら、こうして公に緊急の手紙を出すことはない。緊急のときには、笛を吹いて報せるからだ。その合図に使う笛の種類によって、各所に設けられた所定の場所で皇帝は異母兄と会う手筈となっている。
「いえ、蘭の温室で、ただいま閣下は師匠……ノートル・ナユタ博士と会っているそうです。あれだけ嫌っていあ皇都の、しかも皇宮へ来るなんて、どういう風の吹き回しだろうか?」
「しつこく兄上が毎日、何通ものお茶会の誘いの手紙を出していたから、いい加減降参したのではないか?」
「師匠は、そんなことぐらいで重い腰は上げませんよ。そもそも追いかけられると、とことん逃げ躱すのが師匠のやり口てますから」
とりあえず、憶測を言い合っても埒が明かないため、皇帝は仕事の手を休め、カーティスと忠臣執事を連れて、蘭の温室へと向かった。
さり気なく皇帝に毛皮のコートを着せる忠臣執事の手際の良さに、カーティスは尊敬の念を向ける。皇帝も歩きながら袖を通しているのだから、まさに阿吽の呼吸だ。
蘭の温室内は、コートなどいらないほど湿気のある暑さだった。執事は当然のように皇帝からコートと上着を受け取る。カーティスも専用の白地に金糸の刺繍がされた上着を脱ぎたかったが、これを着ていないと皇帝付きの小姓だと周囲に認識されないため、暑さは我慢することにした。ちなみに上着には、皇帝の瞳の色である大粒のアクアマリンを嵌め込んだ皇帝の紋章入りブローチをつけている。
「やあ、久しぶり。しばらく見ない間に、背が伸びたね。愛弟子は成長期が来るのが早いと予測していたけど、実際見るとベルクバック侯爵一族の成長の早さには目を見張る。こんなことなら、毎日何センチ伸びたか計測したかったな」
ノートル・ナユタ博士は、皇帝への挨拶を無視して、カーティスに話しかける。
丸テーブルの上の洒落たティーセットのお茶は、イノセント伯爵自らが入れたもののようだ。同じ丸テーブルに、皇帝とカーティスも腰掛ける。すると隣に腰掛けたナユタ博士が、カーティスの匂いを嗅いで顔をしかめる。鼻が利く博士は、たとえ風呂で充分に洗っていても、鋭い観察眼で全て見抜かれてしまう。
「僕の愛弟子は、男の味を調教されたか。しかしカーティス、君は恐らく、何度抱かれても男からでは快楽を得られないだろう。可哀想に」
「師匠、どうして分かるんですか!僕は書物をありったけ読んでも解決できず、自分がおかしいのだと結論に達したのに」
カーティスは、師匠の言葉が大当たりなことに、目を大きく見開く。
「あのねぇ、書物に頼るなと何度も教え込んだの忘れたわけ?そういことは質問しなさい、と言っても悪趣味な後宮に閉じ込められていたら、何も出来ずに悩むしかないよな。家族からの届け物や手紙の検閲も厳しいだろうし」
「ええ、その通りです。万が一にも一族のため、バレるわけにはいきませんでしたから」
カーティスは素直にナユタ博士に心情を吐露する。1人で悩んで不安で凝り固まった胸のなかのでつかえていたものが、ゆっくり溶けていくような感覚に泣きそうになる。
面白くないのはヴァイゼ皇帝で、自分の前では緊張を解かないのに、カーティスがこれほどまでナユタ博士に心を開いているのが心底から面白くなかった。簡単に言えば、猛烈に嫉妬していたわけである。
「その弱みに付け込んで、僕の弟子を蹂躙してきたわけか。まあ、する側としては、女性からは得られぬ極上の快楽を堪能してるのだろうね。僕は男色趣味はないから知らないし、知りたくもないけど。陛下は他の男、もしくは少年とは試したことがあるのかい?」
相手が皇帝にも関わらず、ナユタ博士はため口で尋ねる。ついで言うと、ナユタ博士の皇帝に向ける目は軽蔑に満ちていた。
ヴァイゼ皇帝も、いくら優しくしようともカーティスから快感の気配が見られないことを懸念していた。しかしシュタルク・イノセント伯爵や忠臣執事の表情は険悪だ。
「いくら稀代の天才でも、この口の聞き方は、無礼極まりーー」
「いえ、兄上は黙っててください。私も、どうして彼が苦痛しか感じない理由を知りたい。それと私は、老若問わず、男性は彼としたことはありません」
ヴァイゼ皇帝は、真剣な顔で尋ねる。忠臣執事は皇帝の分のお茶は入れたが、カーティスの分は入れなかった。お客様でなく、皇帝付きの家臣なのだから当然と言えば当然だ。
「なるほど。だから気づけなかったんだろうな。あのね、ウチの弟子の骨格は、男を受け入れる造りになってないの。別の男と経験があったなら気づけたかもしれないけど、弟子の下半身骨格、更に下品なことを言えば、お楽しみのあの辺りの骨格が一般より狭いんだよ。だから極上の快楽を貴方は常に得られるだろうけど、弟子にしてみれば拷問でしかないわけ。お分かり?」
「なるほど、根本的に体が受け付けないようになってたのか」
カーティスは、ようやく納得のいく回答を得られて満足した。
「では、そこに至る前の愛撫の嫌悪感はどうなんだ。どれほど優しく扱っても、カーティスの鳥肌が止まらないし、薬なしでは蕁麻疹も出す。これはどう説明する!」
皇帝は激昂しながら尋ねているので気づいてないが、イノセント伯爵と忠臣執事は憐れみを込めた視線でカーティスを見ていた。カーティスもいたたまれなくて、小さくなっている。
「呆れた、そんな事も分からないんだ。苦痛がその先に待ってるのに、快楽なんて恐怖で相殺されるに決まってるじゃないか。そもそも弟子は、女性の柔肌を知ってるから、男の骨っぽい手つきや固い肌に反応するわけないだろ」
「え?」
これには、皇帝だけでなく、イノセント伯爵や忠臣執事も驚きを隠せなかった。カーティスは首まで真っ赤になっている。
「ああ、誤解しないでくれ。弟子は不可抗力で女性と関係を持った。これは僕の失態でもあるんだが、弟子は僕が調合した薬で暴走した患者に襲われたんだ。まだ大人になりきってない体で、あの時の姿は哀れだったなあ」
「そういう割に、治療の一環として、彼女と何度もさせましたよね。いつかは通る道だとはいえ、最初は恐怖でしかなかったですよ」
カーティスは反論する。
事情が全く分からない皇帝やイノセント伯爵らは、いまは黙って聞いて情報を整理するしかない。
「慣れると、むしろハマってたのは君だったよね。肌を重ねるごとに雄が目覚めて、同世代より早く大人になった。最初は薬物暴走による事故だったけど、彼女も君に夢中になって。お陰で患者も次第に落ち着いて、薬なしでも回復した。その頃には相思相愛になってたから、人生なにがキッカケか分からないものだ。先方の親も大喜びで、君を婿養子にすることに決めた。成人まであと2年、羨ましいったらありゃしない。僕は相愛の女性と結婚できるまで、まだ当分、待たなきゃならないからね」
「相変わらず、変態ですね」
カーティスは呆れ返ってナユタ博士を見る。
「師匠に対して、そんな無礼なこと言うと、これをあげないよ。わざわざ婚約者殿から預かってきたのに」
ナユタ博士は、傍らに置いていたカバンを掲げる。長方形のカバンには、一目でキャンバスが入っていると分かった。サイズは10号程度、50センチ超えの平均的な肖像画タイプだ。
カーティスは椅子を降りて、師匠の前で土下座する。
「僕が全て悪かったです!ですから、どうか彼女の贈り物をください!」
カーティスは、そこになにが描かれているか、おおよその見当がついていたので、何が何でも見たかった。
「渡さなかったら、僕が彼女とそのご両親に、生きたまま皮をひん剥かれてしまうよ。実は僕もまだ絵を見たことがないんだ。ここで梱包開いて見せてくれないか?」
「いや、でも……」
「むしろ現実を突きつけた方が、君も男娼紛いなことから解放されるかもしれないよ。確率は低そうだけどね」
嫉妬丸出しの皇帝を横目に、ナユタ博士は笑う。ますます冴えた美貌の皇帝から、真冬の吹雪に劣らない冷気が噴出さんばかりの勢いだ。真夏なら涼しくていいかもしれないが、早春のいまの季節はやめて欲しい。せっかくの温室の蘭も枯れてしまう……なんてね。
「次男、三男ならともかく、子爵を継ぐ長男を婿養子に出すとは、ウェスリー子爵は厳罰ものだな」
皇帝は唸るように言う。ずっと手元に置くため、皇帝はカーティスの成人と同時に伯爵の位を与えるつもりだった。幸い、一族取り潰しや領土を没収した貴族が何人もいて、いまなら簡単に叙爵と同時に与える領地も工面できる。
カーティスには恐ろしくてたまらない皇帝の怒りだが、稀代の天才ノートル・ナユタ博士は屁とも思っていないようで。
「必要ないよ、下位貴族の位なんて。皇宮に勤めるなら、糞の役にも立たないから。それにウェスリー子爵の爵位だって、今後次第でスタンリー伯爵家が取り上げる可能性も充分ある。次代のベルクバック侯爵だし、侯爵家跡取りであるスタンリー伯爵には息子が3人も居るからね」
そう言いながら、ナユタ博士は厳重梱包されたキャンバスをカーティスに渡す。そして目で開けるように促した。
カーティスは皮の鞄からはみ出たキャンバスを出し、ゆっくり丁寧に梱包を開く。出てきた絵は、カーティスが予想した通りだった。
「……ああ、娘の誕生に立ち会いたかったな」
カーティスの目から涙が溢れる。
肖像画を見た皇帝一同は、目玉が飛び出すほど驚いた。これが本当なら、確かにカーティスの爵位問題は一気に解決する。
「まさか。いや、だってこの絵の通りなら、カーティス君は13歲で女性を身ごもらせた事になるじゃないか!」
イノセント伯爵は未だ信じられない顔をする。
「13歳なら、親になる能力は充分備わってますよ。彼の初体験は10歲でしたけど」
「それよりもこの女性、だいぶ記憶と雰囲気が違うが、スマラウト侯爵令嬢じゃないか!」
皇帝の記憶の中のスマラウト侯爵令嬢は、地味で平凡な顔立ちだった。それに婚約者に捨てられたショックで、ブクブクに太って醜さに拍車がかかったと聞いている。だがこの肖像画の女性は、柔らかな微笑みを浮かべた幸せいっぱいの美しい女性で、白いレースの産着に包まれた小さな女児を大事そうに抱きしめている。
肖像画は当人よりも美しく描くのが常識だが、それにしたって美化の脚色度合いが過ぎる。まるで別人じゃないかと、皇帝達は思った。
「ええ。ご令嬢と弟子は8歲ほど離れていますが、その程度は許容範囲でしょう。互いが愛し合っていれば、問題なし。僕はこれを届けるために、はるばる大嫌いな皇都までやってきたんだ。弟子、礼はラリマーラ草でいいぞ」
「師匠、そんな高価な希少薬草を僕が買えるわけないでしょうが。いただきものですが、東の大陸の薬草図鑑と、医学本で手を打ってくれませんか?」
「仕方ないなぁ。じゃ、ラリマーラ草は出世払いで、宜しく」
ナユタ博士は言う。冗談とは分かっていても、なんてものをリクエストするのやら。ラリマーラ草は、希少価値も高いが薬効成分も抜群で様々な病に有効で、特に幼児の高熱によく効く。だが栽培ができないので、野生種を使うしかなく、その自生地さえも険しい高山にあるので、値段は一株金貨十数枚でも足りないほど。皇宮の侍医や、高位貴族専属医師ぐらいしか、常備できる医者はいないはず。
だが知識と体力のあるナユタ博士なら、登山の食糧計算さえ間違えなければ、難なく採取できるだろう。何なら既に診療所の薬品棚に、乾燥させたラリマーラ草を隠してあるかもしれない。
いや、きっとそうに違いない。何故なら師匠の思い人は……カーティスはこの日何度目かの遠い目をした。
「恋すれば、女性はいつだって美しくなりますよ。それにこの年頃は、男女とも一番美しく輝く時期ですから。何故この年頃がといえば、理由は簡単。ちょうど体が成熟して、一番子作りに向いているからです。男女とも子孫を残す本能で、美しさを最大限まで引き上げて、異性を誘うフェロモンをまき散らすんです。たまに同性まで引きつけてしまう難ありですけれど。ましてや出産を終えて赤子を得た母親は、幸せホルモンが巡ってるので、普段より魅力も上回ります。まあ、僕の想い人には到底敵いませんがね」
「師匠、それ以上は黙っておいだほうが」
カーティスは、帝国ばかりか西大陸全土に天才と名を轟かせるナユタ博士の名誉のために進言する。
「なんでだ。まさか人妻にでも横恋慕しているのか?」
不機嫌を増幅させたまま、いや、カーティスが師匠のナユタ博士を庇っているのが、ますます皇帝は面白くない。
「ぜひ、私もお聞かせ願いたいものです。何なら恋の橋渡しも喜んで引き受けますよ」
イノセント伯爵も、ナユタ博士を引き入れるためならなりふり構わないといった勢いだ。
「必要ない。既にご両親から、許可は得ている。僕も彼女に懐かれているからね。障害らしい障害は、彼女が成人するまでの待ち時間ぐらいだな」
「まだ未成年なのか?」
皇帝は怒りから一転、驚きを隠せない。ナユタ博士は30歲。蛇足だが、ノートル・ナユタ博士の出自は、本来ならプルネン伯爵家の跡取りだった。しかし天才と何とかは紙一重で、弟がいたのをいいことに後継者の座を蹴って、ファミリーネームも捨てて放浪の自由人となった。
「ええ。何とも悩ましいことです。少なくともあと10年は待たねばなりませんから」
「ちょ、ちょっと待て。まさか貴殿の婚約者は計算するとーー」
「5歲もしくは6歲ということになりますね」
さすがのイノセント伯爵も、皇帝同様ドン引きしている。親子ほど年齢の離れた令嬢と婚約とは。まだ年端のいかぬ少女は、どういう未来が待ち受けているか理解もしていないだろうに。
「分かってないね。彼女が成長してから求婚するのでは遅いんだよ。骨格、目鼻立ちの黄金比率、何事もなく成長を遂げれば、彼女は国さえ傾ける絶世の美女になること間違いなし。もちろん、病気なんて僕が片っ端から撃退するし、怪我もさせないよう義家族予定両親にも厳密に指示しているよ。あ、横取りしないでね。そんな事されたら、僕は何をしてしまうか自分でも分からないよ?」
素敵な笑みを浮かべて、ナユタ博士は皇帝を牽制する。
カーティスはテーブルに肘ついて頭を抱えたままだ。諦めているが、恐らく師匠の心を射止めため、幼女の素性を皇帝とイノセント伯爵は追求するだろう。
「貴殿がウェスリー子爵領に留まっているのも、それが原因か?」
皇帝は尋ねる。恐らく平民だと、高を括っているのだろう。出来ればそのまま誤解していて欲しい。彼女のためにも。
「ウェスリー子爵邸に住み込んでいるのは、弟子の教育が楽しいからだよ。弟子が結婚して、婿養子先へ移住したら、僕もついてくつもり」
「ええっ!そんなの初耳ですよ!」
カーティスはガバっと顔を上げるなり、恐怖を貼り付けて叫ぶ。婚家にまで師匠がついてくるなんて、冗談じゃない。
「だって、君ほど面白い弟子は居ないからね。僕の指示を、1言えば8まで解釈出来る子は、大人も子供も含めて君ぐらいしか居ないし。1人例外もいるけど、あいつは会話そのものを面倒がるからなぁ。ともかく僕の会話は難解過ぎると皆は敬遠するけど、君とは会話が成立するから、話すのが楽しくて。唯一の友である弟子と離れるのは御免だよ」
背後霊のように、何処までも付いてくると言う師匠に、カーティスは顔面蒼白だ。
「師匠が結婚したら、あちらの家に入るんですよね?」
半ば祈るように、カーティスはナユタ博士に詰め寄る。
「大丈夫、あの家は跡取りもスペアの息子も居るから。僕の元に嫁入りしてもらうことになってるよ。住居は、結婚したら愛の巣をスマラウト侯爵領に建てるから安心して」
ナユタ博士の言葉に、皇帝とイノセント伯爵は、「あれ?」と思う。カーティスは、「ああ」と埋めきながら席に座り、再び頭を抱えた。
「もしかして、博士の婚約者は貴族なのですか?」
肝の座ったイノセント伯爵も、さすがに恐る恐る尋ねる。
「うん。クライノート伯爵の後継者のグリューンフルス子爵の末子。弟子の母方の従妹にあたる子だよ。とっても可愛いんだ。ほんと、食べてしまいたいぐらい」
ナユタ博士の恍惚とした変態発言炸裂に、侯爵とイノセント伯爵も「げっー」と皇族らしからぬ声を張り上げ、何とも表現しがたい表情を浮かべる。カーティスは居たたまれなかった。
「……カーティスの従妹ということは、カーティスに似ているのか?」
そう尋ねる皇帝の顔色は悪いままだ。愛弟子に似た幼女に求婚なんて、変態に変態を塗り重ねた究極の変態になるじゃないか。皇帝は、もし幼い自分の娘がこんな変態に求愛されたらと、想像するだけで吐きそうになる。
「さっきも言ったでしょ、物覚え悪いなぁ。僕の最愛の彼女は、将来、絶世の美人が約束された容姿をしていて、平凡を絵に描いたような弟子とは似ても似つかないよ。彼女の両親もそれなりの顔立ちだけど美形と言うほどではないから、こういうのをトンビが鷹を産むと言うのだろうね」
ナユタ博士は、何とも失礼な発言をする。昔は伯爵家の後継者であっても、いまは不世出の天才とはいえ、立場は平民なのだ。
「なら、良かった」
皇帝は安堵する。
何がよかったというのか、カーティスの心中は複雑だ。でもカーティスの親戚贔屓の目から見ても、ナユタ博士の想い人のゾフィー・グリューンフルス子爵令嬢は、一般の令嬢とは一線を画す可愛らしさの中に、将来の美貌が垣間見える顔立ちをしていた。ゾフィーなら、ナユタ博士よりも、皇太子の皇妃候補筆頭になれるだろうに。そのためにはベルクバック侯爵家の養女にでもして、肩書の身分を底上げする必要もあるけど、師匠は何をおいても妨害するだろう。下手すると帝国丸ごと潰すことさえやりかねない。そこまでしなくても、皇族は殲滅危機に直面するだろうな。
再びカーティスは遠い目をする。もう思考全てを放棄したい。
……皇帝とイノセント伯爵は、ナユタ博士の側近勧誘の気力が失せた。
熱心に勧誘したところで、放浪の自由人が仕事に縛られるわけもない。ウェスリー子爵家に居座っていることすら奇跡なのだ。なにより、ヴァイゼ皇帝の娘皇女に毒牙が及ぶリスクのが、はるかに深刻だと皇帝と元皇太子が判断したのは言うまでもない。
「まさか、おまえが俺との前に女と出来ていたとはな。おまえの初めては、男女問わず俺だと信じて疑わなかったのに」
後宮ベルクバック侯爵令嬢館で、カーティスはベッドの上で愛撫されながら、ネチネチとヴァイゼ皇帝から嫌味を言われていた。
これは言い訳も口答えも、火に油を注ぐだけだと判断して、カーティスは申し訳ないという表情を繕って浮かべていた。それにしても、改めてナユタ博士から指摘された通り、婚約者の柔肌を知っているだけに、男の骨ばった大きな手で体中を撫でられるのは気色悪い。
「襲われたと言っていたな。どういう状況で、そんなことになったんだ。それに男なら……たとえ少年でも抵抗出来たはずだ」
ヴァイゼ皇帝は、鋭いところを指摘する。まあ女性と違って、男性は役に立たないときは使えないから、それも道理。
「ヴェル……というのは婚約者の愛称ですけど、
真面目すぎるほど真面目だった彼女は、社交界ては知らぬ者が居ないほど、手酷い婚約破棄をされました。それが原因で、心を病んでしまったのです。何しろ家を継ぐべき総領娘ですからね。相手が悪かっただけなのに、婿養子候補に逃げられたことへの自責の念が強すぎた。日に日に症状が悪化するヴェルの症状を深刻に受け止めたスマラウト侯爵夫妻は藁にも縋る思いで、ウチの領を訪ね、ヴェルを師匠に受診させたのです。師匠もはじめは適量の処方をしていたのですが、薬は一向に効かない。むしろ悪化の一途を辿って、少しでも目を離すと自死未遂を繰り返す。そこで師匠はヴェルを診療所併設の療養所に入院させて、効果の強い薬を投与したのです。そうしたら副作用で、これまで何に対しても無反応だったヴェルは狂ったように暴れだし、診療所を逃亡しました。で、たまたま散歩していた僕を見つけるなり、林の中に連れ込んで行為に及んだというわけです。あのときは怖かったなぁ。だけどーー」
「だけど、なんだ」
恐怖を感じたと言いながらも、急に表情が和らいだカーティスを、ヴァイゼ皇帝は訝しむ。
「豊満な身体は柔らかくていい匂いがして、心は恐怖で萎縮しているのに、体は反応してしまったんですよ。で、まあ彼女から跨ってきたのですが、深窓の侯爵令嬢だけに未経験だったので、泣き出してしまったのですよね。僕は怖いと思いながらも、痛みで泣き出した彼女が急に愛しくなって、まあ後は男の本能ってやつですね。まだ大人の兆しすらなかったのに、ヴェルとの行為中に急成長して目覚めてしまって、成立しちゃったわけで。あっち方面の教育は、貴族子息なら陛下も経験ある通り、年頃になれば誰でも通過儀礼として、親が充てがった手近な経験のある女性の手ほどきを受けつつ実践で習うことになりますが、僕は師匠から医療的観点から女性の身体について学んで興味があったので、その延長で書物から知識を得ていたんですよね」
「早熟すぎるだろ、おまえ!」
皇帝が叫ぶのも無理はないが、探究心旺盛な少年の好奇心を止めるのは難しい。ましてや女性問題となると、皇帝だって周囲の目を気にしながら、色事の書かれた小説や挿絵に興奮した記憶がある。
「そうでしょうかね。実践で学ぶには早すぎても、普通の少年ならぼちぼち、異性に興味を持つ年頃ですよ。僕はまだ、当時は女性の裸体を見たことなかったけど、本を読んで独学で学んでしまったからか、実物を見るより妄想が広がり過ぎたのだと思います。苦痛で正気に戻ったヴェルに泣きながら謝られたけど、まあその後はご想像におまかせします」
皇帝は手を止めて、呆気にとられた顔でカーティスの顔を見た。カーティスの告白は続く。
「師匠が行方不明のヴェルを見つけた時には、僕らは仲良く林の草地の上で眠っていたそうです。ヴェルのご両親には困惑されるは、うちの両親には激怒されるは、ヴェルは僕に謝り続けるはで、あのときはカオス状態でしたね。でも師匠は、ヴェルの様子の変化にいち早く気づいた。一時的にせよ正気に戻ったヴェルを、無理やり僕から引き剥がせば、より病状は悪化すると師匠は判断し、どんな経緯にせよ、僕がヴェルを傷物にした責任は取るべきだと皆を丸めこんで、婚約させたのです。国に婚約届けを提出するのは時期尚早だったので、両家間の取り交わしだけでしたが、実質的な夫婦も同然の生活が始まりました。ヴェルは我が家に留まり、僕としばらく一緒に暮らすことになったのです。もちろん夫婦同然として。この意味、説明するまでもないですよね?」
「おまえは嫌でなかったのか?たとえ体が反応しても、心は病んでしまわなかったのか?」
皇帝は困惑と心配が混じった顔でカーティスの顔を覗き込みながら、再び手が妖しくカーティスの肌の上で動き始める。
「不思議とならなかったですね。それより年上の彼女が可愛くて。ヴェルのズタズタになった自尊心を回復させるには骨が折れましたが、僕が愛をささやき続け、夜を共に過ごしていくうちに、ヴェルも順調に回復して、師匠が寛解の診断を下したときには、僕らは互いに深く愛情で結ばれてました。体面上、ヴェルを自邸に返さねばならなくなりましたが、週の半分は僕がヴェルの邸を訪ねて寝泊まりしていました。医学的経過観察のため師匠もついてきたので、それならついでにスマラウト侯爵領を回復させようと師匠と相談し、収入が見込める特産品を模索したのです。その結果が、人工香料臭いものではなく、生花と変わらぬ香りの化粧品でした。鼻が利く師匠が、人工香料臭い化粧品を嫌ってたのがヒントとなったのです。そして2人で、生花と変わらぬ香りのする良質な化粧品を開発しました。同時進行で、香料となる香りの良い花やハーブを領地の一部からまず量産させて、師匠の出資で化粧品製作工場を建設。最初はあえて宣伝せず、スマラウト侯爵夫人やウチの母に、社交界での仕事の際に使用してもらうと、瞬く間に詮索好きな貴族夫人が飛びつきましたよ。希少価値を高めるためと、当初は生産量の都合もあって、販売はスマラウト侯爵領内の限定店舗のみにしました。目論見は大当たりして、その後は様々な香りの化粧品を売り出し、量産化が確立するとスマラウト侯爵領内の店舗も増やして、我が子爵領でも1店のみ限定店舗を設け、販売ルートを確立させました。僕が貴族学園の入学試験を受ける頃には、侯爵家は師匠に多額の利息付きで工場出資を完済し、スマラウト侯爵領は赤字から黒字に税収が変わりました。国家に納めるスマラウト侯爵領の税金を帳簿でみれば、お分かりかと思いますが」
「確かにな。おまえとナユタ博士が絡んでたから、スマラウト侯爵領が急に豊かになったのか」
「ええ、ついでに副産物として、スマラウト侯爵領内が花の名所となって、生花の皇都への販売や、観光客増加もついてきたのは嬉しい誤算でした。師匠はそれも計算に入れていたのでしょうけど」
相変わらず、どれほどの美貌の持ち主でも、男に触られるのは気色悪いなと思いながら、カーティスは耐える。だが正直な体は鳥肌が立っていた。
不意に唇をヴァイゼ皇帝に塞がれる。そして艶かしい顔をした皇帝は「他のやつの話は、もう沢山だ」と言うなり、本格的な活動に入った。
……翌朝、カーティスが高熱を出したのは言うまでもない。
いつの間にか秋が来た。本当なら貴族学園に入学して、壇上で首席合格の特権・新入生代表挨拶をしていたはず。
せっかくの首席合格を辞退した悔しい気持ちはある。カーティスは天才ではない。知識を仕入れるのが好きな秀才だ。もっと学園で、未知の知識を取り入れたかった。
……もっとも違う意味で、後宮で未知なる体験をするを羽目になったわけだが。
「あー痒い」
ついにカーティスは、腕の一部だが蕁麻疹を発症するようになった。後宮内の診療所で診察を受けるわけにはいかないので、自らアレルギーとストレス緩和薬の調薬を試みることにした。
しかしヴァイゼ皇帝から止められた。そしてある夜、皇帝の先導で、後宮の抜け穴から皇城へ向かうことになった。
「まさか、こんなところに抜け道があるなんて」
後宮のはずれの池の畔の汚いトイレがある用具室のカラクリを手際よく皇帝が操作すると、壁が扉となって開いた。
「確かこの後宮は、エドヴァルド前皇帝陛下の時代より前から、存在してましたよね?」
カーティスは尋ねる。醜女仕様の格好も、秋の夜ともなるとようやく快適の手前まできていた。それでも汗は多少かくが。
「主要貴族から側妃を迎えるために大幅拡張したのと、後宮を取り巻く高い塀と外堀が新たに造られたがな。後宮そのものは、遷都した数代前からここにある」
ヴァイゼ皇帝は、カーティスを招き入れて、再びカラクリを抜け道の内側から操作して扉は壁に戻った。
(トイレに隠し通路の入り口を作るとは、数代前から皇帝は下半身に思うところがあるんだな。まあ子孫が確実に必要な皇帝が性欲旺盛なのは、帝国のためにも良いことなんだろうけど)
通路の途中、小部屋があって、カーティスはそこで醜女メイクを落とし、ドレスと肉襦袢とカツラを脱いで、小姓の衣装に着替えた。蕁麻疹は両方の二の腕に出ている。とりあえず今は、故郷から持参したかゆみ止めを塗って、包帯を巻いている。
「後宮でいつも気を張り詰めた生活をしているから、蕁麻疹が出たのだな。おまえには負担をかけて、申し訳なく思ってる」
皇帝はランプ片手に、もう片方の手でカーティスの手を握って先導する。
「まあ、バレたときのことを考えると、生きた心地はしませんね」
カーティスは応える。だが彼に言わせれば、ストレスの最大原因は他ならぬ皇帝陛下との夜の営みだ。あらぬ場所の苦痛は耐えられるようになってきたが、相変わらず快楽得るどころか、気持ち悪さしか感じない。嫌々ながらそれ関係の書物を読み、自分がおかしいのか、書物がおかしいのか、一般常識が変なのか訳がわからなくなってきたのも、ストレスに拍車をかけている。
抜け道の出口は、皇城の皇帝プライベートエリア内のトイレにつがっていた。つくづく、この抜け穴を作らせた皇帝は、下半身事情が好きだったに違いない。
まあ、そんなこんなで、皇帝お気に入りの小姓という形で、皇城の公共エリアにある診察室へ赴き、侍医に診察してもらった。これが皇帝の診察だったら、医師の方から皇帝もとへ出向くのだろうが、カーティスとしては診察室で良かったと思ってる。
もちろんヴァイゼ皇帝も同行して、カーティスの背後で診察を凝視していた。老医師はともかく、若い助手医師は鋭い眼光で診察をガン見している美貌の皇帝に恐れをなした。カーティスは、こんな夜更けにホラーじみた経験をさせて、医師たちに哀れみを感じた。
そしてアレルギー服薬用飲み薬と、ストレス緩和薬、蕁麻疹用の軟膏が処方された。服薬はその場で、軟膏も医師(老医師ではなく助手の医師)が患部を塗ることになった。ヴァイゼ皇帝の視線はますますキツくなり、腕に軟膏を塗るそれぞれの助手医師は生きた心地がしなかった。
皇帝とヴァイゼが診察室を出て、さぞ助手医師は安堵したに違いない。皇帝は口止めをしなかったが、守秘義務は必ず守るだろう。あれほど凶悪な顔で睨まれたならば。
皇帝のプライベートエリアへ戻り、抜け穴のあるトイレへ行こうとしたとき、ヴァイゼ皇帝にいきなり抱き上げられて、後宮の皇帝接待用寝室とは比べ物にならないほど豪華で大きな天蓋付きベッドの上に、皇帝はカーティスを横たわらせた。
(マジ?まさか、ここで……いやいや、さすがにここはマズイだろ。皇妃とするときでさえ、陛下が皇妃専用エリアまで出向いて致すと聴いてるぞ!)
皇帝はやる気満々なのか、カーティスの体に跨って服を脱ぎ始めてる。
(いやいや、せめて後宮に戻ってからにしてくれ!こんな場所で致すのは無理だって!)
皇帝がカーティスの服に手をかけようとしたとき、カーティスは咄嗟にヴァイゼ皇帝の手を掴んだ。
「あの……無心してもよろしいでしょうか?」
何を言っていいか思いつかず、ともかく時間を稼ごうとカーティスはおねだりをする。
「珍しいな。お前から何かをねだるとは。言ってみろ」
ヴァイゼ皇帝はカーティスの体から下りるとベッドヘッドに寄りかかり、カーティスを膝の上に乗せた。皇帝の下半身の主張がダイレクトに伝わってくる。
(どんだけお元気なのやら。だったら、妃と夜を明かせば良いものを。僕としたって、生産性は無いんだし)
もちろん、口が裂けてもそんな事は言えない。それにカーティスも一応、いまの立場は皇帝の側妃だ。考えるだけで虫酸が走るけど。
「……あの……銅貨で構わないので、20枚ほどいただけないでしょうか?」
換算すると約2千円程度。カーティスの頭の中で、硬貨が奏でるチャリンという音が響き、咄嗟にそんな事を口走った。
「銅貨20枚?」
皇帝は訝しげにカーティスの顔を覗き込む。
「後宮にはたまに行商がくるが、そんな端金では何も買えないだろう。逃亡資金にさえならないぞ?」
「まさか!逃亡なんていたしません。ただ何というか……ああ、もう白状します。僕、硬貨の鳴る音に飢えているんです!領地では収益の会計を任されていて、硬貨を数えるのが一番の趣味で、帳簿をつけるのが史上の幸せだったんです。こちらへ来てから硬貨の音を全く聞いてない。そりゃ、そうですよね、欲しい物は侍女頭を通して現物支給されるのだから。でもここ数日、硬貨のチャリンと鳴る音が頭を離れなくて、気がおかしくなりそうなんです!」
カーティスは早口で、思っていたことを暴露した。これで金に汚い妃だと疎まれたら、一石二鳥かもと、口走りながら考えた。
「妙な趣味だな。待ってろ」
皇帝は脱ぎ散らかした服を着て、カーティスを抱き上げると続き部屋の書斎へと連れて行く。そして書斎の座り心地のいい椅子にカーティスを抱いたまま腰かけると、上段の引き出しを空けた。
そこには金貨、銀貨、銅貨が無造作に放り込まれていた。
「わあ、夢にまで見た硬貨!」
カーティスはうっとりと引き出しの中をガン見する。だが手は出さない。これは自分の金でも領地の収益金でもなく、皇帝のものだからだ。
「遠慮することはない、好きなだけ数えろ。たまに俺が変装して街へ視察に行くときに使ってた、国からの小遣いみたいなものだ。隠密視察のたびに公費から出るから、余るとここに放り込んでいたんだ。数えるのも面倒だしな」
「なんて勿体ないことを!硬貨の奏でる素晴らしい音色に興味がないだなんて!」
「いや、お金に目の色を変える人間は多いが、硬貨の音に恍惚とする変人は少ないと思うぞ?」
「ともかく、お許しをいただけたので、遠慮なく!」
カーティスは引き出しから無造作につかみ取った硬貨を机の上に置くなり、金貨、銀貨、銅貨を分けて積み重ねた。夢にまで見た硬貨が奏でるチャリンとした音色に、カーティスは顔を輝かせる。
それを間近で見つめていたヴァイゼ皇帝は、初めて見るカーティスの表情に目を見張った。これまでも希少な専門書などをプレゼントしたときには満面の笑みを浮かべていたが、硬貨を夢中で数えるカーティスの恍惚とした顔には、これまでにない色気さえ浮かんでいた。
ヴァイゼ皇帝は、カーティスの服のボタンを外して前上半身を撫で回す。だがカーティスは硬貨に夢中で、皇帝の愛撫など全く感じていないらしい。次第にヴァイゼ皇帝は硬貨に嫉妬を覚え、おもむろにカーティスを抱いたまま立ち上がる。
何の予告もなく、いきなりカーティスを抱いて立ち上がったので、硬貨が数枚床に落ちた。
「あっ!」
カーティスは皇帝の腕から抜け出して硬貨を拾い上げようとするが、皇帝はそのまま寝所に戻る。
……その夜の行為が、いつになく乱暴だったのは言うまでもない。
散々な目に遭って、いつの間にか気絶したカーティスだったが、目覚めると後宮内に充てがわれたベルクバック侯爵令嬢館の寝室だった。
蕁麻疹の痒みは薬のおかげで収まったが、全身が気だるく、あり得ない場所が久々に無言の悲鳴を上げている。
「痛えー。なんなんだよ、これ」
起き上がることもできないまま、カーティスは悪態をつく。ふと、金属の匂いが鼻をついた。横を見ると、大きな革袋が置かれている。カーティスは必死になって起き上がり、力の入らない手で懸命に革袋の紐を解く。中を見るなり、カーティスの顔は輝いた。中身は金貨、銀貨、銅貨が無造作に詰め込まれていた。袋の中に手を入れて、掴んだお金を再度袋の中に落とすと、硬貨の雨音が響き渡る。カーティスは何度もそれを繰り返し、その音色に魅入られた。
「あらあら、若様。まだ寝てなくてはなりませんよ。今朝方、高熱を出した状態の若様を、皇帝陛下が運んできてくださったのですから」
乳母はワゴンの水差しからコップに水を注ぐ。氷入りの水が事更に美味しい。
「熱は下がったようですね。でも湯あみは夕方まで待ちましょうか。とりあえず、痒み止めのお薬を飲んでいただきたいのですが、その前に何か食べられそうですか?」
乳母は尋ねる。そう言われると、カーティスは空腹感を覚えた。
「うん。すごくお腹が空いているみたいだ」
「良い兆候ですこと。では胃に優しいものを持ってまいりますね。その様子なら、昼は通常の食事で大丈夫でしょう」
立ち去ろうとする乳母に、カーティスはもう1杯水を所望した。
食事と服薬を済ませると、汗を吸った寝間着を取り替えがてら、体を拭いて蕁麻疹に軟膏を塗ることになった。乳母や侍女頭達が、適温のお湯に浸したタオルで体を拭くが、皆が一様に複雑な顔をしていた。この哀れみを帯びた顔には見覚えがある。カーティスは自分の胸を見るなり「ギャー」と叫んだ。蕁麻疹より酷い跡が、まるで何かの病気にでもかかったかのように点在していたからだった。
(おのれ、久々に熱を出したのも、このせいか。その絶倫を皇妃でも側妃にでも向けろ!いや、1人でか弱い女性が相手するには無理があるな。少なくとも3人は一晩に必要かも)
カーティスの脳裏に、記憶が途切れる最後の一瞬まで執拗に貪られた記憶が蘇る。
それを打ち消すために、枕元の硬貨入り袋に手を入れる。ジャラジャラと奏でる音が、カーティスに昨晩の悪夢を忘れさせた。
2.本気か?
いま、元皇太子のシュタルク・イノセント伯爵は、皇帝の忠臣執事以外人払いされた皇帝プライベートエリアのリビングで、危うく口にしたコーヒーを真向かいの皇帝に向かって噴き出すところだった。
「あいつ、俺の愛撫には隠してるつもりだろうけど嫌悪感丸出しなのに、硬貨を数える時は色気を滲ませた恍惚感に満たされた顔をするんだ。それでつい、昨晩は久々に熱を出させてしまうほど、無理させてしまった」
ヴァイゼ皇帝は、しょんぼりした顔で、ボソボソとサンドウィッチを食べながら告白する。
「いやいや、それ以前にあの醜悪なベルクバック侯爵令嬢が……いや、失礼。だが初日に見たあの悪趣味な豊満体型の印象が強すぎて、悪口のつもりじゃなかったんだ。すまん。で、話を戻すと、実はウェスリー子爵の妾の子供ではなく、貴族学園入学試験首席合格者で、神童と名高いカーティス令息だったと。そして陛下は、カーティス令息に夢中になっている、それが真相だったのか」
シュタルク・イノセント伯爵は、どうしてあんなデブの醜女に異母弟が夢中になっているのか、ようやく腑に落ちた。
女装させた孫息子を後宮入りさせたベルクバック侯爵は、本来なら一族郎党取り潰しが妥当だ。しかしベルクバック侯爵は穏健中立派の筆頭であり、本物の孫娘が後宮入り適齢年齢になったら直ちに側妃として皇帝のもとへ差し出すと確約していた。にも関わらず、他の貴族に示しがつかないと、強引かつ早急に中継ぎとなる娘を後宮に入れろと圧力をかけたのは、他ならぬ皇帝に働きかけたシュタルク・イノセント伯爵だった。
「首席合格したのに入学辞退したいのは、さぞ令息もご家族も無念だったろうな」
シュタルク・イノセント伯爵は、ウェスリー子爵一家に同情する。そして皇帝を近づけまいと、あえて醜悪な変装し、病弱を理由に後宮ベルクバック侯爵令嬢館に引きこもろうとしていたにも関わらず、ヴァイゼ皇帝が男色に目覚めて夢中になってしまった。それで相手もヴァイゼ皇帝に夢中になったなら救いもあるが、カーティス少年は男色に未だ慣れるどころか、蕁麻疹を出すほど拒絶反応を示しているとは。
反体制皇帝派を炙り出すため、有力貴族は全員一族から娘、あるいは孫娘に準ずる者を後宮入りさせる政策を断行したシュタルク・イノセント伯爵は居たたまれない。
「だが実際問題、ベルクバック侯爵家の孫というのが問題だな」
「何故ですか。あいつは、地位も権力も望んでません。叶うことなら、直ちに領地へ飛んで帰りたいと望むほど、欲が無いのは明白です」
「そうじゃなくてだな。それにベルクバック侯爵を敵に回すと、要らぬ敵勢力を増すことになるから、見て見ぬふりが妥当だろう。問題は、カーティス令息の成長期が始まる時期だ。ベルクバック侯爵家の血を引く者は、少年期まではむしろ平均以下の体型をした、少女に化けるのも容易な体つきをしている。しかし16歳前後から急激に身長が伸びて、貴族の中でも高身長を誇るのは有名だろ。いつカーティス令息が成長期に入るのか、早ければ来年あたりから、成長痛が出るほど背が伸びるぞ。そうなると女装も困難になるな。まあ、引きこもっていればバレるリスクも少ないだろうが、馬鹿はちょっかい出すのが好きだからな。バイエル公爵令嬢のように」
シュタルク・イノセント伯爵の言う通り、ベルクバック侯爵家の者は直系に近いほど、一般の貴族より頭1つ分背が高い。体格は、騎士を志して鍛えない限りはスレンダーな者が大半だが、カーティスが成長期を迎える前に、本来のベルクバック侯爵の孫娘が後宮入り出来るのを願うしかない。
「そこまで早く成長するとは思えませんが」
ヴァイゼ皇帝は、コーヒーを飲む。普段は紅茶が多いが、先日、南の属国から良質なコーヒー豆が入荷されたので、本日のティータイムの飲み物はコーヒーとなった。皇帝は砂糖のみのブラックコーヒー、異母兄はミルクと洋酒を入れたカフェオレだ。
「頻繁に会ってれば、気づきにくいものだ。ベルクバック侯爵一族は人がよく、聞き上手で口も硬いから、ついお喋りが楽しくなってしまう。だが2メートル近い身長で見下されながら話すのは、どうにもな」
シュタルク・イノセント伯爵は苦笑する。そう、ベルクバック侯爵とて今は老いて背が縮んだかもしれないが、それでも190センチ以上あるのだ。後継者のスタンリー伯爵は、195センチと明言しているが、舞踏会広間の柱時計の横にたまたま立っているスタンリー伯爵を見かけてたとき、シュタルク・イノセント伯爵は「2メトールは確実にあるじゃないか」と苦笑したものだ。そう言えばエドヴァルド前皇帝の側妃だったアーデラも、身長を低くサバを読んでいたのは有名だった。
「エドヴァルド前皇帝陛下の側妃だった、ベルクバック侯爵令嬢アーデラ妃は、エドヴァルド前皇帝陛下が最後の皇妃の椅子、第4皇妃に格上げしたいと願うほど思慮深い女性だった。ただハイヒールを履くとエドヴァルド前皇帝陛下より身長が高くなってしまうため、悩みに悩んだ末、エドヴァルド前皇帝陛下は別の側妃を第4皇妃とした経緯がある。後宮内ならともかく、皇妃となると晩餐会や舞踏会などの他、教会慰問などの公務もあるからな。ハイヒールはドレスに隠れていようとも、淑女の正装絶対条件だったから、皇帝よりも背が高いのは体裁が悪かったのだ」
シュタルク・イノセント伯爵は、「せめてもう少しアーデラの身長が低かったら」と嘆いていた、エドヴァルド前皇帝の言葉が今も耳に残っている。
「そう言えば、アーデラ妃の生んだ皇子もカーティス令息と同じ歳だったな。随分と会っていないが」
シュタルク・イノセント伯爵は、滅多に会うことのなかった異母弟を久しぶりに思い出す。最後に会ったのは、まだ5歳前後だったと記憶する。
「いまはベルクバック侯爵領で育てられているんてしたね。名はゲオルク、母親同様、都市住まいよりも田舎を好み、今は羊牧場に弟子入りしているそうです。ゆくゆくは一代侯爵を賜るというのに、羊牧場経営者を夢見るとは、あの一族は優秀だが微妙に変わり者が多い」
「よく異母兄弟姉妹の動向を調べているようだな、感心感心。だがそうなると、スタンリー伯爵令嬢も妙な趣味があるかも?」
「さほど変わった娘でもないようです。ただ異様な猫好きで、愛猫の数が20匹を超える程度たと報告が上がってますね。後宮はペット可ですが、さすがに20匹全部を連れてこられるのは……せめて5匹が限度ですかね」
「……羊に猫に、ベルクバック侯爵の孫は動物好きなのだな。確かベルクバック侯爵夫人は、無類の犬好きだったようだが」
「ええ。ただ愛玩犬のようです。趣味でプードルを増やしすぎて、いまは有名なプードルブリーダーだそうですよ。貴族女性から、子犬の予約が数年先まで一杯なのだとか。異母弟のゲオルクは、牧羊犬としてボーダーコリーの育成に励んでいるようですが、度が過ぎて増やしすぎないようにしてほしいものです」
ヴァイゼ皇帝はため息をつく。報告では、ゲオルク皇子は3頭の牧羊犬をベッドで一緒に寝かせるほど可愛がっているらしい。だが諜報活動をしているシュタルク・イノセント伯爵の元への報告では、新たに2匹のボーダーコリーの子犬を入手したとか。
異母弟ゲオルクが一代限りとは言え、領地を得て侯爵となった暁には、きっとその地は羊とボーダーコリーの楽園と化していることだろう。
「話は変わるが、一度、秘密裏に皇城へカーティス令息を連れてきて会わせてもらえないだろうか?」
シュタルク・イノセント伯爵が言うと、途端にヴァイゼ皇帝の機嫌があからさまに悪くなる。
「いくら兄上でも、カーティスを渡すつもりはありません!」
「違う違う、誤解するな!ただ会計監査能力がどれほどのものか知りたいだけだ。前に聞いた報告では、実家の領地の会計監査はカーティス令息も加わっていたらしい。年齢に似合わぬ洞察力で、帳簿から領地の不正を次々と暴いていたそうだ。能力次第では、官僚として会計もしくは会計監査に引き立てたいと思ったのだよ。ただなぁ」
砂糖無しのカフェオレの代わりに、シュタルク・イノセント伯爵はブドウのタルトを口する。料理長の自信作だが、シュタルク・イノセント伯爵の表情は渋い。
「学園卒業の実績がないと、採用試験に合格して仮に官僚になれても、雑務が主となり、会計関連に取り立てるのは難しい。高位貴族の関係者だと尚更、領土税収に関わる仕事に就くのは、よほど成績優秀で学園を卒業しないと、まず無理だ」
「そのことでしたら、恐らく大丈夫かと。あいつ、独学で勉学に励んで、貴族学園はスキップして帝国総合大学進学を目指していますから。俺が先触れなしでたまに訪問すると、必ず図書室の山積みの本の影で必死にノートを取っていますよ。ですが俺としては会計ではなく、秘書に取り立てたいと思っているのですが」
「おいおい、そこまでカーティス令息に執着するのはどうなんだ。仕事中まで盛るのはやめろ」
「そうではなく。いや、目の前に置いておきたいのは本音に違いありませんが、あいつは数カ国語を喋れるし、読み書きもできます。外交で語学堪能な側近が間近に入れば、通訳としても使えて便利ですし、あいつの洞察力は数字だけではありません。ともかくあらゆる面で視野が広いんです。大学進学させる時間的ハンデを取らせるのは、まだるっこしいですが、側近に取り立てるには帝国総合大学卒業の肩書あった方が有利ですからね」
「その頃には、背も軽くおまえを越えて、可愛い少年の面影は消えてるだろうな」
「たとえ背の高い青年になっても、あいつを手放すつもりはありませんよ」
ヴァイゼ皇帝の決意の強さに、シュタルク・イノセント伯爵は天井を仰いだ。
(カーティス少年が、ヴァイゼが呆れるほど背が高くて男らしい、屈強な体つきになるのを願うしかないな。しかしここまで執着するとは意外だ。報告では、天才に近い秀才だが、容姿は平均的とのことだが。何がそこまで、ヴァイゼの心を捕らえたのだろうか?)
話し合いの末、近いうちシュタルク・イノセント伯爵に会わせることを、ヴァイゼ皇帝は不承不承に同意した。
3.試験
つるべ落としの秋の夜長、皇帝は例の秘密通路を使ってカーティスを皇城へ連れて行った。今回は元皇太子シュタルク・イノセント伯爵との顔合わせと、カーティスは事前に聞かされている。
隠し通路で以前と同じく醜女メイクと衣装から、すっぴんの小姓姿になる。
「本当は、兄上にお前を会わせたくないのだが、どうしてもと言われてな。兄上は男色に興味がないが、お前の虜になる可能性もないわけではない」
ヴァイゼ皇帝は、隠し通路で不平不満と心配を漏らす。
「男色趣味のある方なら、もっと綺麗な子を選びますよ。正直、陛下が僕を寵愛している理由も理解できないんです。こんな、どこにでもいる平凡な顔のどこがいいのか、考えても考えても答えが出ません」
「おまえは、自分の魅力に気づいていないだけだ。あー、兄上の望みでければな。このまま後宮へ戻るか、皇城の俺の寝室に連れて行きたい」
のしかかるようにして、背後からカーティスを抱きしめる。すっぽり腕に収まる少年が、ヴァイゼ皇帝には愛しくてならない。
物騒な皇帝の発言に、薬で蕁麻疹を抑えているカーティスは、腕以外の箇場所で発疹しそうな気がする。
皇城内の会計室の応接室に、カーティスは皇帝の案内で連れて行かれた。皇帝とカーティス以外に、いつもの護衛と執事を兼ねた皇帝の側近の他は、会計監査の役人の1人しかいない。
黒髪をした温和な顔の中年と呼ぶには早い気もするが、青年と言うには年を食った男性がソファに腰掛けていた。だが皇帝が入ってくるなり、席を立って深々と頭を下げる。彼が皇位継承権者を覆さなければ、ヴァイゼ皇帝と立場は逆転していたはずだった。
……シュタルク・イノセント伯爵。元皇太子にして、エドヴァルド前皇帝と現皇帝のために、普段は会計室に籠もって計算の間違いを目を皿のようにして確認しているが、裏の顔は皇帝を守るためなら躊躇なく手を汚す諜報活動長官兼暗殺部隊のリーダーだった。
「兄上、頭を上げてください。私たちの前では、兄弟として振る舞う約束でしょう」
ヴァイゼ皇帝は、シュタルク・イノセント伯爵に注意する。
「2人きりの時は、って条件だ。でもいまは、君のお気に入りの少年がいるじゃないないか。ねえ、ウェスリー子爵令息カーティス君」
シュタルク・イノセント伯爵は気さくに声をかける。
(あー、胃が痛い)
カーティスはそう思いながらも表情には出さず、優雅にお辞儀をした。最上級のお辞儀を避けたのは、元皇太子とはいえ、いまは伯爵であるためだ。最上級のお辞儀は、皇帝もしくは皇太子にのみするべきだ。皇妃にさえ、もしこの場に居たとしても上級のお辞儀で留めるのがマナーだ。
「では、時間もない事だし、本題に入ろうか」
皇帝とカーティスが座ったのを見届けて、シュタルク・イノセント伯爵はテーブルの上の帳簿数冊をカーティスに差し出す。
「学園入学試験首席の君の実力を測らせてもらいたい」
テーブルの上の新旧混じった帳簿を差し出す。シュタルク・イノセント伯爵は、温和な顔に微笑みを浮かべながらながらも、目が笑っていなかった。笑ってないどころか、間違いを犯せば即斬り捨てる殺気さえ帯びている。
だがカーティスにしてみれば、元皇太子の表情など、どうでも良かった。久々に触れることが出来る帳簿に、この部屋に入った瞬間から目を奪われていたからだ。
帳簿は現在から5年前までもの、5家の貴族の税収が記載されたものだった。カーティスは夢中になって数字を追う。カーティスは速読が得意だが、暗算は更に早く正確だった。
皇帝は上座に座り、忠臣執事の入れた紅茶を飲んでいた。本当はカーティスの隣に腰掛けたかったが、貴重な帳簿に誤って飲み物を零したらとんでもないことになるため、ここは堪えて愛しの少年とは離れて座った。
久々の帳簿を全て見終えたカーティスは、満足げな溜息をつく。
「へえ、ヴァイゼ陛下のおっしゃる通り、君はお金や帳簿を見ると、平凡な顔から色気ある妖艶な表情に変わるんだね。これでは陛下が君にハマるわけだ」
「兄上!」
ヴァイゼ皇帝から、鋭い声が飛ぶ。しかしシュタルク・イノセント伯爵は温和な顔を崩さない。先ほど向けたカーティスへの表情との違いは、皇帝には慈愛と慈しみを込めた目で微笑んだことだ。
「で、感想は?」
シュタルク・イノセント伯爵は、カーティスに向き直る。表情こそ柔らかいが、シュトゥルムフート帝国皇族特有のアクアマリンの瞳とは違う、濃い青の瞳は全てを見逃すまいという、獰猛な虎の視線をカーティスに向けた。
「大変失礼なことを、まずは先にお詫び申し上げます。イノセント伯爵閣下は、皇帝にならずに良かったですね」
カーティスは臆することなく、元皇太子の目を直視しながら言った。菫色の瞳は凪いでいたが、決して屈することのない強さを秘めていた。
「おい、兄上に対して、なんて無礼な!」
「恐れながら陛下、この結論に至らなければ、僕はイノセント伯爵閣下に葬られていましたよ。全く、僕の周りはどうして、こんな物騒な人ばかり集まるのだろう?」
「それは君が、秀才の皮を被った天才だからだよ。さて、考察を聞かせてもらおうか。『勘です』なんて稚拙な返答をしたら、即不合格だよ?」
「この帳簿、伯爵閣下がターゲットとしている貴族のものですね。閣下は物流の流れから、この5家を潰そうとしておられる。しかし、その白と黒しか答えを出せない閣下の意向そのものを、閣下自ら自戒しておられた。もしも、母君や今は無きエアファーレン伯爵一族を誅することなく帝位に就いていたら、帝国中の不正を働いた貴族を、完全粛清を断行する誘惑に勝てないとの結論に達した。グレイゾーンを持たないというのは、暗殺には向いているが、帝国の頂点に立つのは危険すぎる。こんなところですかね?」
「最初の関門は合格だ」
僅かだが、カーティスを見るシュタルク・イノセント伯爵の瞳が和らぐ。
「それでは、次の質問。君はこの5家の貴族をどうすればいいと思う?いずれも改竄した税収を申告した、罪深い連中だ」
「マークス伯爵家は、見逃すべきでしょう。あそこの土地はただでさえ土壌が悪く、辺鄙な北の辺境にあるため、隣国と紛争が起こったとしても、帝国の軍団に救援を要請して軍団到着を待つには遅すぎ、食料の備蓄は不可欠。自領を守るために、砦の修繕や自衛兵士団の育成に力を注ぐ必要性があり、これは帝国のためにも、余計な国家予算を割かなくて良いメリットがあります。しかし自衛兵士団が暴走しないよう、監視は怠るべきではないでしょう。暴走したその時には、即取り潰しの決断が必要です」
「合格。次」
「ベイクドバウム辺境伯家のランツェ銀山は既に枯渇しています。ですが新たに発見されたシュペーア山から、これまで以上の銀が産出されております。しかし国旗の沿いのシュペーア山の銀は、テュルキース王国のシャイネン銀鉱山と鉱脈が繋がっていたのが判明。銀の採掘権の取り合いが小競り合いとなり、いままさに戦争寸前まで追い込まれています。ベイクドバウム辺境伯私兵団は屈強な兵士が揃っていますが、テュルキース王国との戦争はいささかマズイ。シュペーア山の採掘権は放棄した方が賢明でしょう。越境しているのは我が国の方ですから」
「潤沢な銀鉱山を放棄しろというのか!」
シュタルク・イノセント伯爵は黙っていだが、ヴァイゼ皇帝は激昂する。
「戦争に発展させるデメリットの方が高いのですよ。それとシュペーア山の銀は、間もなく採掘不可となるでしょう。あの周辺の岩盤は脆く、遠からず鉱山は崩壊するでしょうから。多くの有能な鉱夫を犠牲にするのは勿体ない。ならば岩盤が硬くて採掘に手間がかかるものの、完全に自領にあるレッヒェルン山を採掘するべきです。恐らく銀鉱脈は、テュルキース王国のシャイネン銀山からシュペーア山が連なるアルクス山脈下まで繋がってます。予想が当たれば、シュペーア山から金も採掘出来るかもしれません。こちらはルーペ伯爵領のメルクーア山と繋がるアハート山脈で金鉱脈が繋がっているかと。既にルーペ伯爵領からテルナ金鉱山は枯渇したと放棄されていますが、アハート山を試掘をしてみてもよろしいかと」
「どうして、そんなことが分かるんだ?」
皇帝は、根拠のないことをスラスラ述べるカーティスを頭から疑っている。だが根拠はあった。
「水質ですよ。ベイクドバウム辺境伯領のシュペーア山のを水源とするスーライン川の水は、飲料には向いていません。メルクーア山を水源とするギフト川の水も飲料には向いていません。メルクーア山は獰猛な熊の生息エリアのため、これまで放置されていましたが、熊には申し訳ないが、トラット王国へ移住してもらえば良いかと。どうせあの辺りは世界の尾根が連なる山脈が複雑に入り混じって、トラット王国との壁の役割を果たしています。ついでに熊の番人を数十頭付け足しても、問題ないかと」
「さすが、稀代の天才ノートル・ナユタ博士の愛弟子だな。合格。それどころかメダル授与の価値がある情報を与えてくれた。さすがに私も鉱脈までは読めなかった。陛下、ベイクドバウム辺境伯に私兵を退かせ、新銀山採掘の放棄と鉱山閉鎖のための爆破を。そこからテュルキース王国の軍が奇襲する抜け穴を潰すために。そして新たにレッヒェルン山を試掘して鉱脈を探させるようご命令を願います。同時にルーペ伯爵にアハート山の金脈を探させましょう。恐らくごねるでしょうが、軍団を派遣して、周辺の熊をトラット王国へ追いやる確約をすれば、事は簡単に運ぶことと断言します」
シュタルク・イノセント伯爵は、皇帝に進言する。いや、これは進言というより命令だ。イノセント伯爵は、皇帝が自分に逆らわないことを熟知している。
「では、あと三家。これはどうすればいい?」
「降格。ガロン侯爵とレザード子爵は人は悪くないものの、領地を治める技量がない。領民になめられた領主など、価値はありません。首都に豪華な邸を与え、領地は別の貴族に変更させる。もしくは狭くて実入りの少ない領土に配置転換させるか。でも僕なら、この2家に領土を与える無駄はしませんがね」
「合格。さて、最後だ。アラクネ侯爵はどうする?」
シュタルク・イノセント伯爵は尋ねるが、これまでのようにカーティスは即答しない。迷いというより、哀しみを帯びた表情をしている。だが意を決して口を開いた。
「断絶。皇帝陛下への反逆が、帳簿の流れから見受けられます。中立派の仮面を被って、油断させたところで内乱を起こすつもりだったのでしょう。マークしていた反逆派よりも、たちが悪い。見せしめが必要でしょう」
カーティスは深い溜息を付きながら断言した。アラクネ侯爵は祖父とはそれなりに交流があって、カーティスも一度会ったことがある。その時に感じたかすかな違和感は、帳簿が語ってくれた。
(無駄なことを。エドヴァルド前皇帝陛下の第4皇妃の実家ということで、孫息子皇子を擁立させる目論見だったのだろう。だが既にヴァイゼ皇帝よ新体制が動き出し、暗殺集団リーダーのイノセント伯爵に目を付けられてしまった。こうなった以上、逃げ場はない)
「完璧だ。ヴァイゼ、君は意図せず良い拾い物をしたね。カーティス君、後宮任務が終わったら、私の配下に入らないか?」
「兄上!」
「どのみち、カーティス君は翌々年の春には、適齢期を迎えたスタンリー伯爵令嬢と交代して後宮を辞す。これだけ冷静な判断力と知性を併せ持つなら、学園に通う必要もない。それに将来的には子爵ですら継げるか危ういのでは、到底、昇進など見込めません。まあ、カーティス君の頭脳ならのし上がることは簡単でしょうが、貴族の中でも自らの実力で官僚になったわけではない高位貴族令息たちの嫌がらせは卑劣ですからね。国家への忠誠を胸に仕事を優先するより、自己のプライドを守るので忙しい愚かな連中だ」
シュタルク・イノセント伯爵は薄笑いを浮かべる。それを見たカーティスは、「役立たずの世襲貴族一掃にそれも有りか」と、イノセント伯爵が考えているのが読み取れて、背中に汗が流れた。
「ですから、俺の側近に取り立てます!以前にもそう言ったはずです!」
ヴァイゼ皇帝と暗殺実行部隊リーダーのシュタルク・イノセント伯爵の言い争いは、カーティスを充分震え上がらせた。シュタルク伯爵配下の暗殺部隊に入るのも嫌だし、皇帝の側近なんて、そもそも子爵令息風情がなれるものでない。それに週に一度の夜のお勤めさえ蕁麻疹が出るほど苦痛なのに、任務中も盛られては身が保たない。
だがカーティスには、皇帝が興味を失せる切り札がある。ベルクバック侯爵家直系によく出る、長身の特性だ。ヴァイゼ皇帝も185センチの長身だが、ベルクバック侯爵家の直系の平均身長は190センチを超える。体格はひょろ長だが、さすがに見下ろされるほどのウドの大木に欲情はするまい。
「あのー、僕はカメリアと交代したら、飛び級で帝国総合大学を受験して入学をするつもりです。そしていずれは、実家の子爵家や血縁のあるベルクバック侯爵家その他の収益会計を生業にしようかと」
祖父も、あと数年でベルクバック侯爵を長男スタンリー伯爵に譲り、スタンリー伯爵は父のウェスリー子爵が持ち上がる予定になっている。だがカーティスの代になれば、スタンリー伯爵位は現スタンリー伯爵の長子に返上して、ウェスリー子爵の地位さえカーティスが継げるか不明だ。
どちらにせよ、もう皇都とは永遠にオサラバしたいとカーティスは願う。
「君のその頭脳を、田舎に埋められさせるなんて、そんな勿体ないことさせるわけにはいかない!」
「おまえは俺のものだ。大学進学ぐらいは大目に見てやるが、領地に引っ込むのは無しだ!」
シュタルク伯爵とヴァイゼ皇帝は、異口同音に、カーティスの将来を否定する。2人を敵に回すわけにはいかないが、適材適所を考えて欲しい。
「僕には側近なんて大役は務まらないし、シュタルク伯爵の配下っていうのは、会計ではありませんよね。僕、武術はからっきしですから。従って、領地でのんびり過ごすのが一番かとーー」
「許さん!」
ヴァイゼ皇帝は、険しい顔で一蹴する。そこにイノセント伯爵も、追随する。
「別に暗殺要員にするつもりはないよ。むしろ数カ国語が操れる君には、諜報活動に回そうかと。出来れば、放浪の天才ノートル・ナユタ博士も引っ張ってきてくれると、なお有り難い」
シュタルク伯爵の要望に、カーティスに呆れ果てる。ヴァイゼ皇帝も、いつまで自分が少年のままだと信じて疑わないのか、カーティスには理解できない。
「あのですね、まず皇帝陛下の件ですが、子爵の息子ごときが側近になるのは無理があります。いずれ父は伯父が祖父のあとを継いでベルクバック侯爵となった暁には、父が繰り上がりでスタンリー伯爵となりますが、僕の代では子爵さえも継げる確率は低いわけで。何しろ伯父には3人の息子がいますからね」
高位貴族は爵位を幾つか持っているのが普通である。そして爵位は嫡子長男に優先権があるため、次男は親が手持ちの爵位があればそれを継ぐが、長男が一族の当主の代になった時、もし長男が命じれば次男が爵位を返上する義務がある。
ベルクバック侯爵家の兄弟は仲が良いため、世代交代で弟に爵位返上を求める可能性は低いが、なにが起こるか分からないのが未来というものだ。
そのためにも、仮の爵位を持つ次男や爵位のない三男以下は功績を挙げて、改めて皇帝から爵位と領土を授けられるのが一番手っ取り早い。
「それと、イノセント伯爵閣下の件ですが、僕は知識はあっても帝国中もしくは他国まで遠征するほど気力も体力も足りません。目的は師匠のナユタ博士でしょうけど、放浪の自由人である師匠のヘッドハンティングは無理ですよ。先の皇帝陛下の時代、役人に強要されそうになったことで、宮仕えはもちろん、皇都へ近づくことさえないでしょうね。暇さえあれば、延々と恨み言を僕に言い聞かせるのですから」
カーティスは、幼い頃から聞かされ続けたナユタ博士の怨嗟を、今ここで一言一句違わずに言えるほど聞かされ続けた。不敬極まりない罵詈雑言の数々を、ヴァイゼ皇帝やイノセント伯爵に聞かせるつもりはない。これは墓場まで持っていく秘密だ。でなければ師匠はもちろん、自分の首と胴がオサラバするリスクが極めて高い。
「そもそも、あのナユタ博士をどうやって引き止めて家庭教師に出来たのか、教えてくれないか。放浪の天才博士は、一箇所に留まらないことで有名で、この私でさえ、君がヴァイゼの愛人であることから、改めて徹底的にウェスリー子爵家を調べ上げて、ようやくナユタ博士の居所を掴んだぐらいだ」
カーティスは、「師匠、それほど高く才能を買われていたんだな。当然だけど」と腹の中で思う。先ほど、イノセント伯爵は、カーティスを秀才の皮を被った天才と指摘したが、それは真の天才を見たことがないからだろう。あらゆる方面の知識に長け、僅かな手がかりで全てを見抜く。そんな師匠に、カーティスは足元にも及ばない。まあ、追いつく気も全くない。世の中は上手く出来ていて、特出した何かを得た者は、平凡な幸せとは縁遠い生活を強要される。それは皇帝という地位にあるヴァイゼ陛下も同様だろう。帝国の頂点にあっても、その代償に自由はない。
「師匠と出会ったのは、たまたまです。出会ったというか、ウチの領地の牛牧場の近くで餓死寸前で倒れていたのを、たまたま通りかかった僕が発見して、保護しただけです。まさか放浪の天才ナユタ博士とは誰も思わず、元気になったらさっさと出ていってくれるだろうと思っていたのに、何故か一飯の恩だということで、僕の家庭教師に名乗りを上げました。その時に、これまで使っていた偽名を捨てて、自分はノートル・ナユタ博士だと告げましたが、両親はもちろん誰も信じませんでしたがね。しかし僕の家庭教師をするがてら、領地の改善点を指摘して、これが大当たりしたことで本物の博士だと皆が認識を改めました。その頃、師匠は父に頼み込んで診療所を子爵邸の隣に開設して医師の真似事を始めたところ、領民の間で瞬く間に名医爆誕の噂は広まって、近隣の貴族もわざわざ診察に訪れるようになりました。しかし師匠は気まぐれなので、いざ診療所を建てても、診察や調薬は気分次第。師匠に影響されて集まった若い医師達が、見様見真似で師匠の技術を盗み、診療所は成り立っていたわけです。結構有名だと思っていましたが、さすがに皇都にまでは伝わりませんでしたか」
カーティスは、さっさと師匠をイノセント伯爵が特定して皇都に連れ帰って拘束していたら、自分はもっと大らかな子供時代を過ごせただろうなと、遠い目にする。
助けた恩なのか、なぜか師匠に気に入られてしまい、一番弟子という不名誉な称号をもらったことで、徹底的に容赦なく、カーティスは子爵子息に必要な知識を超えた教育を叩き込まれたのだ。放浪の自由人の二つ名は捨てたのか、ノートル・ナユタ博士は子爵家の家族に溶け込んで居着いてしまった。
カーティス不在の今ごろは、退屈しのぎに弟2人が餌食になっていることだろう。まあ世襲が見込めない貴族子息に、生きるために不可欠な知識や処世術を授けてくれるのは助かる。しかし師匠は加減を知らない。
既にウェスリー子爵家の次男である弟は、カーティスが変装して後宮入りする直前には、「僕は医師になる!」と、まだ8歳なのに生きた子羊を解体して母を卒倒させた。母はあれ以来、ラム肉料理を克服できるようになっただろうか?
「ヴァイゼにお気に入りになったことといい、ナユタ博士の弟子になっことといい、君は運命の女神に愛されているんだね」
イノセント伯爵は、感嘆の声を上げる。
カーティスは心の中で、「いや運命の神に呪われてるんだけど」と呟いた。
……そこ夜はそこで会合はお開きになったが、カーティスの将来展望が皇帝の逆鱗に触れたらしい。翌朝、熱をまで激しい行為と、「俺の側近になると誓え!」などと脅したり宥めたりと忙しく命令した。無論、カーティスはそれに応えなかった。応えられる状況でもなかったが。
4.勘弁してくれ
皇帝経由で、イノセント伯爵から「ナユタ博士を呼び出す手紙を書いてくれないか」との文が届いた。
「悪手ですね。こんなのを書いたら最後、師匠はまた行方をくらましますよ」
ヴァイゼ皇帝が急に昼間に予告なく現れて、伝書鳩よろしくイノセント伯爵の手紙を持ってきた時、ちょうどカーティスは、ベルクバック侯爵令嬢館の立派な図書室で家族からの手紙を読んでいたところだった。
「何が書いてあるのだ?」
異母兄の頼みは、カーティスに否定されたので、それ以上は言及しなかった。そもそも放浪の自由人ナユタ博士が、西のド田舎ウェスリー子爵邸に住み着いていたのを発見できたのも奇跡だった。
「僕のすぐ下の弟、名前はオスカーというのですが、子羊から一歩進んで子牛を屠殺して解剖したそうですよ。まだ8歳なのに、牛まで解剖するとは、師匠はオスカーを外科医にするつもりですかね。そして三男のアロイスには薬草に興味を持ったので、種類や栽培方法を教えているそうです。まだ6歳なので、さすがに調薬まではやらせるつもりはなさそうですね。安心しました」
「おまえたち兄弟を、いったいナユタ博士は何処に到達させようとしているのやら。それより、両親はなんでスマラウト侯爵令嬢の生まれたばかりの娘のことばかり書いているんだ?」
皇帝は、家族からの手紙というのに興味津々で、カーティスから許可を得て手紙を読まさせてもらった。そこに書いてあることが家族からのごく普通の手紙なのかは、ヴァイゼ皇帝には判別できない。両親から手紙など貰ったことがないからだ。ヴァイゼ皇帝が手にする手紙は、報告書や嘆願書など、仕事に関するもののみで、私的な手紙は皇帝を誘う妃たちからの恋文ばかり。
「スマラウト侯爵家とは、ご令嬢の病気を師匠が完治させたことがキッカケで、家族ぐるみのお付き合いをさせていただいているのですよ。特に母は娘を欲しがっていたので、侯爵令嬢の姫君にメロメロみたいですね」
「スマラウト侯爵令嬢……婚約者に捨てられた腹いせに、どこの誰とも分からぬ馬の骨との間に、娘を作って生んだのか」
ヴァイゼ皇帝は、苦々しく口にする。スマラウト侯爵令嬢は、スマラウト侯爵家の一人娘なので、ゆくゆくは女侯爵となることが確定している。
スマラウト侯爵令嬢の婚約破棄騒動は、当時、社交界で話題になったものだ。元婚約者は、あのバイエル公爵令嬢の兄。しかしバイエル公爵家も男系の血筋で、この婚約者は4男だったか5男だったか定かではないが、継げる爵位は上の兄達に取られて、一代準男爵になるか騎士になって騎士爵を得る選択肢しかなかった。あとは跡継ぎ息子のいない貴族の婿養子になるのが最短ルート。
家格も釣り合うということで、スマラウト侯爵令嬢とバイエル公爵令息の婚約が、彼らがまだ幼いうちに当時の皇帝エドヴァルドによって許可された。
しかしスマラウト侯爵家は、先代が事業に失敗して、家格は高いが内情は火の車。
成長したバイエル公爵令息は、家格は下がるが金持ちのシュタイルリンク伯爵令嬢と婚姻し、シュタイルリンク伯爵の婿養子となった。
この醜聞は瞬く間に広まった。バイエル公爵令息は、皇族の血を引くだけあって、容姿端麗だった。そして本来なら同情されるべきスマラウト侯爵令嬢は、没落貴族であり、容姿も平凡だったため、捨てられて当然と社交界で同情の声は上がらなかった。
そのショックから、スマラウト侯爵令嬢は西部地域の領地の本邸に引きこもり過食に走って、カーティスの変装姿さながらの醜女令嬢になったと風の噂で耳にした。総領娘として次の婿養子候補を探さなくてはならないが、令嬢が負った心の傷は深く、そのまま婚期を逃して社交界から忘れ去られていた。
「スマラウト侯爵家はいま、特産のバラの開発と、バラをはじめとする様々な花の香りの良質な化粧品事業に成功して、順調に蓄財していますよ。笑っちゃうのが、シュタイルリンク伯爵家に婿養子に入ったバイエル公爵令息ですよね。財産目当ててま乗り換えた伯爵家の総領娘との間に、未だ子が成せないなんて。このままだと、分家から養子を貰うしかありませんね」
いつになく、カーティスは意地悪く笑う。それが皇帝の心に引っかかったが、両親がご近所よしみで交流があるなら、スマラウト侯爵令嬢寄りに傾くのも当然かと、違和感を散らして忘れた。
5.驚愕
年が明けて、早春の花が後宮内でも咲き始めた。ヴァイゼ皇帝のカーティス寵愛は相変わらずだが、妃たちとの務めも果たしているようだ。
今年、第一皇妃が皇女を出産。皇太子エアーリヒ皇子を含めて1男1女の母となった。
第二皇妃は現在妊娠中。昨年まで唯一の皇帝の娘だったマチルダ皇女がいる。
側妃との間にはそれぞれ皇子1人ずついたが、新たに2人の側妃のうち1人が今年、皇女を出産。もう1人の側妃も臨月を迎えている。
懐妊中の子をカウントしなければ、皇帝は現在三男三女の父ということになる。
昨年の秋にカーティスが元皇太子だったシュタルク・イノセント伯爵と会って以来、ベルクバック侯爵令嬢の替え玉を用意して、カーティスは皇帝の小姓を務めるようになった。
「後宮から出るために、食材を運んだ馬車の木箱に入って皇城へ出仕するわけだけど、最近は木箱がキツいんだよなぁ」
小姓用の服は、皇帝の私室に用意してある。木箱に入って運ばれるときも小姓の衣装を着ているが、シワになっていまうので、着替えねばならないのだ。
仕事は主に会計監査。既に部署で会計と監査も行われた資料だが、カーティスの役割は国庫に納める税金の数と、領地の特産品のチェックだ。その仕事は、皇帝の斜め向かいの専用机で行っている。
「問題はありません」
カーティスがチェックを終えた帳簿を抱えて、ヴァイゼ皇帝の前に出る。そのとき、皇帝は大きく目を見開いた。
「おまえ、背が伸びてないか?」
皇帝は書類に印章を押す手を休めて立ち上がり、カーティスの前に立つ。去年までは皇帝の胸のあたりまでしかなかったカーティスの身長が、皇帝の顎付近まで伸びている。
「お気づきではなかったのですか?」
カーティスは首を傾げる。小姓服はしょっちゅう採寸しなおし、侯爵令嬢の悪趣味ドレスや肉襦袢も修正が忙しい。
「全く気付かなかった。それにしたって、半年程度で20センチ以上も伸びるものなのか?」
皇帝は驚愕する。昨夜も夜を共にしたが、相変わらず細身の体と、女性とは違う質感の、それでいて触り心地の良いカーティスの肌を堪能するのに夢中だったので、身長までこれまで全く気づいていなかった。
「成長期に入ったようですね。父に言われていましたが、予想以上に成長痛って辛いですね。そうそう、館の者たちからは最近、声変わりもしたのではと言われてますよ」
言われてみれば、カーティスの中性的な声がかすれがちに低くなっているのに気づいた。日頃、身近に居過ぎるがため、声がかれているのも、夜の営みのせいかと、皇帝は思い込んでいたのだ。
呆然と立ち尽くす執務室をノックする音がする。カーティスが扉に駆け寄り、銀の盆に乗せた手紙を使者から受け取り戻って来る。
「シュタルク伯爵閣下からです。緊急の印が入ってます」
カーティスは危険なものが入っていないか、入念にチェックする。皇帝が小さく頷くと、カーティスはナイフで封を切り、中身に目を通す。困惑の色が成長期の少年の顔に浮かぶのを、皇帝は見逃さなかった。
「何か悪い報せか?」
普段のシュタルク伯爵なら、こうして公に緊急の手紙を出すことはない。緊急のときには、笛を吹いて報せるからだ。その合図に使う笛の種類によって、各所に設けられた所定の場所で皇帝は異母兄と会う手筈となっている。
「いえ、蘭の温室で、ただいま閣下は師匠……ノートル・ナユタ博士と会っているそうです。あれだけ嫌っていあ皇都の、しかも皇宮へ来るなんて、どういう風の吹き回しだろうか?」
「しつこく兄上が毎日、何通ものお茶会の誘いの手紙を出していたから、いい加減降参したのではないか?」
「師匠は、そんなことぐらいで重い腰は上げませんよ。そもそも追いかけられると、とことん逃げ躱すのが師匠のやり口てますから」
とりあえず、憶測を言い合っても埒が明かないため、皇帝は仕事の手を休め、カーティスと忠臣執事を連れて、蘭の温室へと向かった。
さり気なく皇帝に毛皮のコートを着せる忠臣執事の手際の良さに、カーティスは尊敬の念を向ける。皇帝も歩きながら袖を通しているのだから、まさに阿吽の呼吸だ。
蘭の温室内は、コートなどいらないほど湿気のある暑さだった。執事は当然のように皇帝からコートと上着を受け取る。カーティスも専用の白地に金糸の刺繍がされた上着を脱ぎたかったが、これを着ていないと皇帝付きの小姓だと周囲に認識されないため、暑さは我慢することにした。ちなみに上着には、皇帝の瞳の色である大粒のアクアマリンを嵌め込んだ皇帝の紋章入りブローチをつけている。
「やあ、久しぶり。しばらく見ない間に、背が伸びたね。愛弟子は成長期が来るのが早いと予測していたけど、実際見るとベルクバック侯爵一族の成長の早さには目を見張る。こんなことなら、毎日何センチ伸びたか計測したかったな」
ノートル・ナユタ博士は、皇帝への挨拶を無視して、カーティスに話しかける。
丸テーブルの上の洒落たティーセットのお茶は、イノセント伯爵自らが入れたもののようだ。同じ丸テーブルに、皇帝とカーティスも腰掛ける。すると隣に腰掛けたナユタ博士が、カーティスの匂いを嗅いで顔をしかめる。鼻が利く博士は、たとえ風呂で充分に洗っていても、鋭い観察眼で全て見抜かれてしまう。
「僕の愛弟子は、男の味を調教されたか。しかしカーティス、君は恐らく、何度抱かれても男からでは快楽を得られないだろう。可哀想に」
「師匠、どうして分かるんですか!僕は書物をありったけ読んでも解決できず、自分がおかしいのだと結論に達したのに」
カーティスは、師匠の言葉が大当たりなことに、目を大きく見開く。
「あのねぇ、書物に頼るなと何度も教え込んだの忘れたわけ?そういことは質問しなさい、と言っても悪趣味な後宮に閉じ込められていたら、何も出来ずに悩むしかないよな。家族からの届け物や手紙の検閲も厳しいだろうし」
「ええ、その通りです。万が一にも一族のため、バレるわけにはいきませんでしたから」
カーティスは素直にナユタ博士に心情を吐露する。1人で悩んで不安で凝り固まった胸のなかのでつかえていたものが、ゆっくり溶けていくような感覚に泣きそうになる。
面白くないのはヴァイゼ皇帝で、自分の前では緊張を解かないのに、カーティスがこれほどまでナユタ博士に心を開いているのが心底から面白くなかった。簡単に言えば、猛烈に嫉妬していたわけである。
「その弱みに付け込んで、僕の弟子を蹂躙してきたわけか。まあ、する側としては、女性からは得られぬ極上の快楽を堪能してるのだろうね。僕は男色趣味はないから知らないし、知りたくもないけど。陛下は他の男、もしくは少年とは試したことがあるのかい?」
相手が皇帝にも関わらず、ナユタ博士はため口で尋ねる。ついで言うと、ナユタ博士の皇帝に向ける目は軽蔑に満ちていた。
ヴァイゼ皇帝も、いくら優しくしようともカーティスから快感の気配が見られないことを懸念していた。しかしシュタルク・イノセント伯爵や忠臣執事の表情は険悪だ。
「いくら稀代の天才でも、この口の聞き方は、無礼極まりーー」
「いえ、兄上は黙っててください。私も、どうして彼が苦痛しか感じない理由を知りたい。それと私は、老若問わず、男性は彼としたことはありません」
ヴァイゼ皇帝は、真剣な顔で尋ねる。忠臣執事は皇帝の分のお茶は入れたが、カーティスの分は入れなかった。お客様でなく、皇帝付きの家臣なのだから当然と言えば当然だ。
「なるほど。だから気づけなかったんだろうな。あのね、ウチの弟子の骨格は、男を受け入れる造りになってないの。別の男と経験があったなら気づけたかもしれないけど、弟子の下半身骨格、更に下品なことを言えば、お楽しみのあの辺りの骨格が一般より狭いんだよ。だから極上の快楽を貴方は常に得られるだろうけど、弟子にしてみれば拷問でしかないわけ。お分かり?」
「なるほど、根本的に体が受け付けないようになってたのか」
カーティスは、ようやく納得のいく回答を得られて満足した。
「では、そこに至る前の愛撫の嫌悪感はどうなんだ。どれほど優しく扱っても、カーティスの鳥肌が止まらないし、薬なしでは蕁麻疹も出す。これはどう説明する!」
皇帝は激昂しながら尋ねているので気づいてないが、イノセント伯爵と忠臣執事は憐れみを込めた視線でカーティスを見ていた。カーティスもいたたまれなくて、小さくなっている。
「呆れた、そんな事も分からないんだ。苦痛がその先に待ってるのに、快楽なんて恐怖で相殺されるに決まってるじゃないか。そもそも弟子は、女性の柔肌を知ってるから、男の骨っぽい手つきや固い肌に反応するわけないだろ」
「え?」
これには、皇帝だけでなく、イノセント伯爵や忠臣執事も驚きを隠せなかった。カーティスは首まで真っ赤になっている。
「ああ、誤解しないでくれ。弟子は不可抗力で女性と関係を持った。これは僕の失態でもあるんだが、弟子は僕が調合した薬で暴走した患者に襲われたんだ。まだ大人になりきってない体で、あの時の姿は哀れだったなあ」
「そういう割に、治療の一環として、彼女と何度もさせましたよね。いつかは通る道だとはいえ、最初は恐怖でしかなかったですよ」
カーティスは反論する。
事情が全く分からない皇帝やイノセント伯爵らは、いまは黙って聞いて情報を整理するしかない。
「慣れると、むしろハマってたのは君だったよね。肌を重ねるごとに雄が目覚めて、同世代より早く大人になった。最初は薬物暴走による事故だったけど、彼女も君に夢中になって。お陰で患者も次第に落ち着いて、薬なしでも回復した。その頃には相思相愛になってたから、人生なにがキッカケか分からないものだ。先方の親も大喜びで、君を婿養子にすることに決めた。成人まであと2年、羨ましいったらありゃしない。僕は相愛の女性と結婚できるまで、まだ当分、待たなきゃならないからね」
「相変わらず、変態ですね」
カーティスは呆れ返ってナユタ博士を見る。
「師匠に対して、そんな無礼なこと言うと、これをあげないよ。わざわざ婚約者殿から預かってきたのに」
ナユタ博士は、傍らに置いていたカバンを掲げる。長方形のカバンには、一目でキャンバスが入っていると分かった。サイズは10号程度、50センチ超えの平均的な肖像画タイプだ。
カーティスは椅子を降りて、師匠の前で土下座する。
「僕が全て悪かったです!ですから、どうか彼女の贈り物をください!」
カーティスは、そこになにが描かれているか、おおよその見当がついていたので、何が何でも見たかった。
「渡さなかったら、僕が彼女とそのご両親に、生きたまま皮をひん剥かれてしまうよ。実は僕もまだ絵を見たことがないんだ。ここで梱包開いて見せてくれないか?」
「いや、でも……」
「むしろ現実を突きつけた方が、君も男娼紛いなことから解放されるかもしれないよ。確率は低そうだけどね」
嫉妬丸出しの皇帝を横目に、ナユタ博士は笑う。ますます冴えた美貌の皇帝から、真冬の吹雪に劣らない冷気が噴出さんばかりの勢いだ。真夏なら涼しくていいかもしれないが、早春のいまの季節はやめて欲しい。せっかくの温室の蘭も枯れてしまう……なんてね。
「次男、三男ならともかく、子爵を継ぐ長男を婿養子に出すとは、ウェスリー子爵は厳罰ものだな」
皇帝は唸るように言う。ずっと手元に置くため、皇帝はカーティスの成人と同時に伯爵の位を与えるつもりだった。幸い、一族取り潰しや領土を没収した貴族が何人もいて、いまなら簡単に叙爵と同時に与える領地も工面できる。
カーティスには恐ろしくてたまらない皇帝の怒りだが、稀代の天才ノートル・ナユタ博士は屁とも思っていないようで。
「必要ないよ、下位貴族の位なんて。皇宮に勤めるなら、糞の役にも立たないから。それにウェスリー子爵の爵位だって、今後次第でスタンリー伯爵家が取り上げる可能性も充分ある。次代のベルクバック侯爵だし、侯爵家跡取りであるスタンリー伯爵には息子が3人も居るからね」
そう言いながら、ナユタ博士は厳重梱包されたキャンバスをカーティスに渡す。そして目で開けるように促した。
カーティスは皮の鞄からはみ出たキャンバスを出し、ゆっくり丁寧に梱包を開く。出てきた絵は、カーティスが予想した通りだった。
「……ああ、娘の誕生に立ち会いたかったな」
カーティスの目から涙が溢れる。
肖像画を見た皇帝一同は、目玉が飛び出すほど驚いた。これが本当なら、確かにカーティスの爵位問題は一気に解決する。
「まさか。いや、だってこの絵の通りなら、カーティス君は13歲で女性を身ごもらせた事になるじゃないか!」
イノセント伯爵は未だ信じられない顔をする。
「13歳なら、親になる能力は充分備わってますよ。彼の初体験は10歲でしたけど」
「それよりもこの女性、だいぶ記憶と雰囲気が違うが、スマラウト侯爵令嬢じゃないか!」
皇帝の記憶の中のスマラウト侯爵令嬢は、地味で平凡な顔立ちだった。それに婚約者に捨てられたショックで、ブクブクに太って醜さに拍車がかかったと聞いている。だがこの肖像画の女性は、柔らかな微笑みを浮かべた幸せいっぱいの美しい女性で、白いレースの産着に包まれた小さな女児を大事そうに抱きしめている。
肖像画は当人よりも美しく描くのが常識だが、それにしたって美化の脚色度合いが過ぎる。まるで別人じゃないかと、皇帝達は思った。
「ええ。ご令嬢と弟子は8歲ほど離れていますが、その程度は許容範囲でしょう。互いが愛し合っていれば、問題なし。僕はこれを届けるために、はるばる大嫌いな皇都までやってきたんだ。弟子、礼はラリマーラ草でいいぞ」
「師匠、そんな高価な希少薬草を僕が買えるわけないでしょうが。いただきものですが、東の大陸の薬草図鑑と、医学本で手を打ってくれませんか?」
「仕方ないなぁ。じゃ、ラリマーラ草は出世払いで、宜しく」
ナユタ博士は言う。冗談とは分かっていても、なんてものをリクエストするのやら。ラリマーラ草は、希少価値も高いが薬効成分も抜群で様々な病に有効で、特に幼児の高熱によく効く。だが栽培ができないので、野生種を使うしかなく、その自生地さえも険しい高山にあるので、値段は一株金貨十数枚でも足りないほど。皇宮の侍医や、高位貴族専属医師ぐらいしか、常備できる医者はいないはず。
だが知識と体力のあるナユタ博士なら、登山の食糧計算さえ間違えなければ、難なく採取できるだろう。何なら既に診療所の薬品棚に、乾燥させたラリマーラ草を隠してあるかもしれない。
いや、きっとそうに違いない。何故なら師匠の思い人は……カーティスはこの日何度目かの遠い目をした。
「恋すれば、女性はいつだって美しくなりますよ。それにこの年頃は、男女とも一番美しく輝く時期ですから。何故この年頃がといえば、理由は簡単。ちょうど体が成熟して、一番子作りに向いているからです。男女とも子孫を残す本能で、美しさを最大限まで引き上げて、異性を誘うフェロモンをまき散らすんです。たまに同性まで引きつけてしまう難ありですけれど。ましてや出産を終えて赤子を得た母親は、幸せホルモンが巡ってるので、普段より魅力も上回ります。まあ、僕の想い人には到底敵いませんがね」
「師匠、それ以上は黙っておいだほうが」
カーティスは、帝国ばかりか西大陸全土に天才と名を轟かせるナユタ博士の名誉のために進言する。
「なんでだ。まさか人妻にでも横恋慕しているのか?」
不機嫌を増幅させたまま、いや、カーティスが師匠のナユタ博士を庇っているのが、ますます皇帝は面白くない。
「ぜひ、私もお聞かせ願いたいものです。何なら恋の橋渡しも喜んで引き受けますよ」
イノセント伯爵も、ナユタ博士を引き入れるためならなりふり構わないといった勢いだ。
「必要ない。既にご両親から、許可は得ている。僕も彼女に懐かれているからね。障害らしい障害は、彼女が成人するまでの待ち時間ぐらいだな」
「まだ未成年なのか?」
皇帝は怒りから一転、驚きを隠せない。ナユタ博士は30歲。蛇足だが、ノートル・ナユタ博士の出自は、本来ならプルネン伯爵家の跡取りだった。しかし天才と何とかは紙一重で、弟がいたのをいいことに後継者の座を蹴って、ファミリーネームも捨てて放浪の自由人となった。
「ええ。何とも悩ましいことです。少なくともあと10年は待たねばなりませんから」
「ちょ、ちょっと待て。まさか貴殿の婚約者は計算するとーー」
「5歲もしくは6歲ということになりますね」
さすがのイノセント伯爵も、皇帝同様ドン引きしている。親子ほど年齢の離れた令嬢と婚約とは。まだ年端のいかぬ少女は、どういう未来が待ち受けているか理解もしていないだろうに。
「分かってないね。彼女が成長してから求婚するのでは遅いんだよ。骨格、目鼻立ちの黄金比率、何事もなく成長を遂げれば、彼女は国さえ傾ける絶世の美女になること間違いなし。もちろん、病気なんて僕が片っ端から撃退するし、怪我もさせないよう義家族予定両親にも厳密に指示しているよ。あ、横取りしないでね。そんな事されたら、僕は何をしてしまうか自分でも分からないよ?」
素敵な笑みを浮かべて、ナユタ博士は皇帝を牽制する。
カーティスはテーブルに肘ついて頭を抱えたままだ。諦めているが、恐らく師匠の心を射止めため、幼女の素性を皇帝とイノセント伯爵は追求するだろう。
「貴殿がウェスリー子爵領に留まっているのも、それが原因か?」
皇帝は尋ねる。恐らく平民だと、高を括っているのだろう。出来ればそのまま誤解していて欲しい。彼女のためにも。
「ウェスリー子爵邸に住み込んでいるのは、弟子の教育が楽しいからだよ。弟子が結婚して、婿養子先へ移住したら、僕もついてくつもり」
「ええっ!そんなの初耳ですよ!」
カーティスはガバっと顔を上げるなり、恐怖を貼り付けて叫ぶ。婚家にまで師匠がついてくるなんて、冗談じゃない。
「だって、君ほど面白い弟子は居ないからね。僕の指示を、1言えば8まで解釈出来る子は、大人も子供も含めて君ぐらいしか居ないし。1人例外もいるけど、あいつは会話そのものを面倒がるからなぁ。ともかく僕の会話は難解過ぎると皆は敬遠するけど、君とは会話が成立するから、話すのが楽しくて。唯一の友である弟子と離れるのは御免だよ」
背後霊のように、何処までも付いてくると言う師匠に、カーティスは顔面蒼白だ。
「師匠が結婚したら、あちらの家に入るんですよね?」
半ば祈るように、カーティスはナユタ博士に詰め寄る。
「大丈夫、あの家は跡取りもスペアの息子も居るから。僕の元に嫁入りしてもらうことになってるよ。住居は、結婚したら愛の巣をスマラウト侯爵領に建てるから安心して」
ナユタ博士の言葉に、皇帝とイノセント伯爵は、「あれ?」と思う。カーティスは、「ああ」と埋めきながら席に座り、再び頭を抱えた。
「もしかして、博士の婚約者は貴族なのですか?」
肝の座ったイノセント伯爵も、さすがに恐る恐る尋ねる。
「うん。クライノート伯爵の後継者のグリューンフルス子爵の末子。弟子の母方の従妹にあたる子だよ。とっても可愛いんだ。ほんと、食べてしまいたいぐらい」
ナユタ博士の恍惚とした変態発言炸裂に、侯爵とイノセント伯爵も「げっー」と皇族らしからぬ声を張り上げ、何とも表現しがたい表情を浮かべる。カーティスは居たたまれなかった。
「……カーティスの従妹ということは、カーティスに似ているのか?」
そう尋ねる皇帝の顔色は悪いままだ。愛弟子に似た幼女に求婚なんて、変態に変態を塗り重ねた究極の変態になるじゃないか。皇帝は、もし幼い自分の娘がこんな変態に求愛されたらと、想像するだけで吐きそうになる。
「さっきも言ったでしょ、物覚え悪いなぁ。僕の最愛の彼女は、将来、絶世の美人が約束された容姿をしていて、平凡を絵に描いたような弟子とは似ても似つかないよ。彼女の両親もそれなりの顔立ちだけど美形と言うほどではないから、こういうのをトンビが鷹を産むと言うのだろうね」
ナユタ博士は、何とも失礼な発言をする。昔は伯爵家の後継者であっても、いまは不世出の天才とはいえ、立場は平民なのだ。
「なら、良かった」
皇帝は安堵する。
何がよかったというのか、カーティスの心中は複雑だ。でもカーティスの親戚贔屓の目から見ても、ナユタ博士の想い人のゾフィー・グリューンフルス子爵令嬢は、一般の令嬢とは一線を画す可愛らしさの中に、将来の美貌が垣間見える顔立ちをしていた。ゾフィーなら、ナユタ博士よりも、皇太子の皇妃候補筆頭になれるだろうに。そのためにはベルクバック侯爵家の養女にでもして、肩書の身分を底上げする必要もあるけど、師匠は何をおいても妨害するだろう。下手すると帝国丸ごと潰すことさえやりかねない。そこまでしなくても、皇族は殲滅危機に直面するだろうな。
再びカーティスは遠い目をする。もう思考全てを放棄したい。
……皇帝とイノセント伯爵は、ナユタ博士の側近勧誘の気力が失せた。
熱心に勧誘したところで、放浪の自由人が仕事に縛られるわけもない。ウェスリー子爵家に居座っていることすら奇跡なのだ。なにより、ヴァイゼ皇帝の娘皇女に毒牙が及ぶリスクのが、はるかに深刻だと皇帝と元皇太子が判断したのは言うまでもない。
「まさか、おまえが俺との前に女と出来ていたとはな。おまえの初めては、男女問わず俺だと信じて疑わなかったのに」
後宮ベルクバック侯爵令嬢館で、カーティスはベッドの上で愛撫されながら、ネチネチとヴァイゼ皇帝から嫌味を言われていた。
これは言い訳も口答えも、火に油を注ぐだけだと判断して、カーティスは申し訳ないという表情を繕って浮かべていた。それにしても、改めてナユタ博士から指摘された通り、婚約者の柔肌を知っているだけに、男の骨ばった大きな手で体中を撫でられるのは気色悪い。
「襲われたと言っていたな。どういう状況で、そんなことになったんだ。それに男なら……たとえ少年でも抵抗出来たはずだ」
ヴァイゼ皇帝は、鋭いところを指摘する。まあ女性と違って、男性は役に立たないときは使えないから、それも道理。
「ヴェル……というのは婚約者の愛称ですけど、
真面目すぎるほど真面目だった彼女は、社交界ては知らぬ者が居ないほど、手酷い婚約破棄をされました。それが原因で、心を病んでしまったのです。何しろ家を継ぐべき総領娘ですからね。相手が悪かっただけなのに、婿養子候補に逃げられたことへの自責の念が強すぎた。日に日に症状が悪化するヴェルの症状を深刻に受け止めたスマラウト侯爵夫妻は藁にも縋る思いで、ウチの領を訪ね、ヴェルを師匠に受診させたのです。師匠もはじめは適量の処方をしていたのですが、薬は一向に効かない。むしろ悪化の一途を辿って、少しでも目を離すと自死未遂を繰り返す。そこで師匠はヴェルを診療所併設の療養所に入院させて、効果の強い薬を投与したのです。そうしたら副作用で、これまで何に対しても無反応だったヴェルは狂ったように暴れだし、診療所を逃亡しました。で、たまたま散歩していた僕を見つけるなり、林の中に連れ込んで行為に及んだというわけです。あのときは怖かったなぁ。だけどーー」
「だけど、なんだ」
恐怖を感じたと言いながらも、急に表情が和らいだカーティスを、ヴァイゼ皇帝は訝しむ。
「豊満な身体は柔らかくていい匂いがして、心は恐怖で萎縮しているのに、体は反応してしまったんですよ。で、まあ彼女から跨ってきたのですが、深窓の侯爵令嬢だけに未経験だったので、泣き出してしまったのですよね。僕は怖いと思いながらも、痛みで泣き出した彼女が急に愛しくなって、まあ後は男の本能ってやつですね。まだ大人の兆しすらなかったのに、ヴェルとの行為中に急成長して目覚めてしまって、成立しちゃったわけで。あっち方面の教育は、貴族子息なら陛下も経験ある通り、年頃になれば誰でも通過儀礼として、親が充てがった手近な経験のある女性の手ほどきを受けつつ実践で習うことになりますが、僕は師匠から医療的観点から女性の身体について学んで興味があったので、その延長で書物から知識を得ていたんですよね」
「早熟すぎるだろ、おまえ!」
皇帝が叫ぶのも無理はないが、探究心旺盛な少年の好奇心を止めるのは難しい。ましてや女性問題となると、皇帝だって周囲の目を気にしながら、色事の書かれた小説や挿絵に興奮した記憶がある。
「そうでしょうかね。実践で学ぶには早すぎても、普通の少年ならぼちぼち、異性に興味を持つ年頃ですよ。僕はまだ、当時は女性の裸体を見たことなかったけど、本を読んで独学で学んでしまったからか、実物を見るより妄想が広がり過ぎたのだと思います。苦痛で正気に戻ったヴェルに泣きながら謝られたけど、まあその後はご想像におまかせします」
皇帝は手を止めて、呆気にとられた顔でカーティスの顔を見た。カーティスの告白は続く。
「師匠が行方不明のヴェルを見つけた時には、僕らは仲良く林の草地の上で眠っていたそうです。ヴェルのご両親には困惑されるは、うちの両親には激怒されるは、ヴェルは僕に謝り続けるはで、あのときはカオス状態でしたね。でも師匠は、ヴェルの様子の変化にいち早く気づいた。一時的にせよ正気に戻ったヴェルを、無理やり僕から引き剥がせば、より病状は悪化すると師匠は判断し、どんな経緯にせよ、僕がヴェルを傷物にした責任は取るべきだと皆を丸めこんで、婚約させたのです。国に婚約届けを提出するのは時期尚早だったので、両家間の取り交わしだけでしたが、実質的な夫婦も同然の生活が始まりました。ヴェルは我が家に留まり、僕としばらく一緒に暮らすことになったのです。もちろん夫婦同然として。この意味、説明するまでもないですよね?」
「おまえは嫌でなかったのか?たとえ体が反応しても、心は病んでしまわなかったのか?」
皇帝は困惑と心配が混じった顔でカーティスの顔を覗き込みながら、再び手が妖しくカーティスの肌の上で動き始める。
「不思議とならなかったですね。それより年上の彼女が可愛くて。ヴェルのズタズタになった自尊心を回復させるには骨が折れましたが、僕が愛をささやき続け、夜を共に過ごしていくうちに、ヴェルも順調に回復して、師匠が寛解の診断を下したときには、僕らは互いに深く愛情で結ばれてました。体面上、ヴェルを自邸に返さねばならなくなりましたが、週の半分は僕がヴェルの邸を訪ねて寝泊まりしていました。医学的経過観察のため師匠もついてきたので、それならついでにスマラウト侯爵領を回復させようと師匠と相談し、収入が見込める特産品を模索したのです。その結果が、人工香料臭いものではなく、生花と変わらぬ香りの化粧品でした。鼻が利く師匠が、人工香料臭い化粧品を嫌ってたのがヒントとなったのです。そして2人で、生花と変わらぬ香りのする良質な化粧品を開発しました。同時進行で、香料となる香りの良い花やハーブを領地の一部からまず量産させて、師匠の出資で化粧品製作工場を建設。最初はあえて宣伝せず、スマラウト侯爵夫人やウチの母に、社交界での仕事の際に使用してもらうと、瞬く間に詮索好きな貴族夫人が飛びつきましたよ。希少価値を高めるためと、当初は生産量の都合もあって、販売はスマラウト侯爵領内の限定店舗のみにしました。目論見は大当たりして、その後は様々な香りの化粧品を売り出し、量産化が確立するとスマラウト侯爵領内の店舗も増やして、我が子爵領でも1店のみ限定店舗を設け、販売ルートを確立させました。僕が貴族学園の入学試験を受ける頃には、侯爵家は師匠に多額の利息付きで工場出資を完済し、スマラウト侯爵領は赤字から黒字に税収が変わりました。国家に納めるスマラウト侯爵領の税金を帳簿でみれば、お分かりかと思いますが」
「確かにな。おまえとナユタ博士が絡んでたから、スマラウト侯爵領が急に豊かになったのか」
「ええ、ついでに副産物として、スマラウト侯爵領内が花の名所となって、生花の皇都への販売や、観光客増加もついてきたのは嬉しい誤算でした。師匠はそれも計算に入れていたのでしょうけど」
相変わらず、どれほどの美貌の持ち主でも、男に触られるのは気色悪いなと思いながら、カーティスは耐える。だが正直な体は鳥肌が立っていた。
不意に唇をヴァイゼ皇帝に塞がれる。そして艶かしい顔をした皇帝は「他のやつの話は、もう沢山だ」と言うなり、本格的な活動に入った。
……翌朝、カーティスが高熱を出したのは言うまでもない。
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